その日、俺ははるかと三度目の食事に来ていた。落ち着いた雰囲気のイタリアンレストラン。前回よりずっと自然に会話ができている。少しずつ俺たちの距離が縮まっているのを感じていた。
はるかがふいに言葉を切って、まっすぐこちらを見た。目が合う。その瞳の奥に、観察する者の色がある。
「山下さんって、不思議ですよね。掴みどころがないというか、本音が見えない」
「そんなに怪しく見えますか? 」
「怪しいというより、壁がある感じ。踏み込ませない感じがするんです」
俺は自分の掌を見た。この会話は乗り越えたと思ったのに。年齢の分だけ慎重になったとはいえ、彼女の視線は鋭い。矢継ぎ早の言葉ではなく、真っ直ぐに観察してくるタイプだ。胸の奥がわずかに痛む。
「年のせいで、慎重になってるだけですよ」
「それ、便利な言い訳ですよね」
そう言って、はるかは小さく笑った。少し毒があって、でも嫌らしくない。なかなか面白い人だと思う。
その時だった。
背後で、椅子が大きく倒れる音が響いた。反射的に振り返ると、近くの席の男の子が立ち尽くしていた。小さな体を震わせ、両手で自分の喉を押さえている。顔色が一瞬で紫がかっていく。
「え、ま、どうしたの!? ねえ、息してる? 」
「ちょっと、誰か!

」
店のざわめきが別の色に変わる。咳が出ない。声も出ない。顔を歪め、呼吸を求めて肩が上下する。完全閉塞だ。異物が喉に詰まって、空気の通り道がふさがっている。
頭で判断するより先に、体が動いていた。
俺は自分の椅子を押しのけ、数歩で男の子の背後へ回る。片足を子供の足の間に運び、体の中心を支えるように抱え込んだ。そして握り拳を作り、鳩尾のあたりを力強く何度も突き上げる。
「だ、大丈夫か!? 」
周りの悲鳴が遠く聞こえる。一発、二発。体重をかけて、内側の空気を外へ押し出す感覚。三発目の突き上げの瞬間、子供の体がビクッと強張ったと思うと、せき込んだ拍子に異物が口から飛び出した。
小さなフォークのピック、プラスチックの欠片。
「はぁ……はぁ……」
子供の息が戻る。ぜえぜえと喉を鳴らしながら、ヒックヒックと泣き出した。まだ息ができる実感がないのか、わんわんと声を上げて泣き始める。それでようやく大丈夫だと分かる。
「もう大丈夫だよ。よく頑張ったな。怖かったな。でももう息できてる。深呼吸してみよう」
子供の背中をさすりながら、落ち着かせるように声をかける。もっと泣いていいんだぞ、と。しばらくして子供の呼吸が落ち着いてきた頃、ようやく店内の緊張がほどけたのか、周りから拍手が起こった。
「すげえ、あっという間だったよ」「ああいう時の処置、知らないとできないよな」
その言葉で、やっと自分のしたことを自覚する。隣で店員が何度も礼を言ってくる。去っていく子供の背中を見送りながら、ハッとして周りを見渡した。その先で、はるかが立ち尽くしていた。こちらをじっと見つめている。何かを探るような視線だ。
俺は誤魔化すように立ち上がり、テーブルに戻った。
「大丈夫でしたか? あの処置、すごく迷いなかったですけど、介護関係とかですか? 」
「いや、たまたま知識があっただけです。ニュースで見たので」
何気なく答えた。けれど、はるかの瞳はさっきより深い色をしていた。口元には、半信半疑の微笑みを浮かべている。
「たまたまで、あんな落ち着いた動きできますか?
あなた、何者なんですか? 」
はるかは喰い下がる。俺はカップを持つ手をやめた。
「押し殺した声で、誤魔化すように答えた。何も事情があって、今は医療関係の仕事はしていないんです。それだけは本当です」
「……わかりました。その言葉を信じます。でも、明日また会ってください。普通の人を装わなくていいですから。私が説明できない色々を、ちゃんと教えてください」
俺は黙った。長い沈黙が流れた。
「……店、出ましょう。ここじゃ話せないこともあります。場所を変えて、俺の過去を話します」
はるかは短く頷いた。スマホを手に取り、会計を済ませる。夜風が冷たかった。吐く息が白い。
駅のロータリーに出て、立ち止まる。電灯の下で、はるかが柔らかく微笑んだ。
「ずっと気になってたんです。なんであなたが、ああいう風に人と距離を置くのか。さっき、あなたの姿を見て分かった気がしました。きっと、優しすぎる人なんですね」
「……それで誤魔化しが通じると思ってるなら、残念だけどもう一杯、飲ませてもらいますよ」
場の空気を変えようと、からかうように言うと、はるかはふわりと笑った。
「じゃあ、一杯だけ安くて美味しいお店に誘ってください。ここより知らない土地でお願いします。お礼も兼ねて、私のこと、もっと知ってもらいたいので」