「パートのおばさんに、大事な取引先なんて任せられるわけないだろう。」風部長は朝礼の場で、そう言い放った。十二年勤めた法城商事で、私はその日も変わらず伝票の山と向き合っていた。三年前、母が倒れてから契約社員になった。給料は下がったが、後悔はしていない。父の形見の手帳を、彼は無造作に取り上げた。「こんな落書き、必要ないよな。」その瞬間、体が冷たくなった。隣で専務の顔色が変わったのを、私は見逃さな…

「パートのおばさんに、大事な取引先なんて任せられるわけないだろう。」風部長は朝礼の場で、そう言い放った。十二年勤めた法城商事で、私はその日も変わらず伝票の山と向き合っていた。三年前、母が倒れてから契約社員になった。給料は下がったが、後悔はしていない。父の形見の手帳を、彼は無造作に取り上げた。「こんな落書き、必要ないよな。」その瞬間、体が冷たくなった。隣で専務の顔色が変わったのを、私は見逃さな...

「パートのおばさんに、大事な取引先なんて任せられるわけないだろう。」

風部長は、大勢の前でそう言い放った。私はただ「わかりました」とだけ答えた。もう期待するだけ無駄だと分かっていたからだ。隣にいた専務の顔だけが、なぜか真っ青になっていた。部長はまだ知らない。明日の朝、二十八億円の取引が、この手帳と共に消えることを。

父の形見のこの手帳には、まだ誰も知らない真実が眠っていた。二十四時間後、取引先の日山会長が法城商事に現れる。その時、部長は自分が誰を見下したのかを思い知る。そして、静かな逆転劇が始まろうとしていた。

法城商事に、宮下さやという契約社員がいる。席を置いてもう十二年が経つ。かつては誰よりも早く数字を残す営業だった。だが三年前、母の容態が急変し、正社員を続けることは難しくなった。私は自分から契約社員への転換を申し出た。給料は下がったが、後悔はしていない。

半年前、風が新部長として着任した。中途採用のエリートで、数字しか見ない人だった。着任早々、担当の割り振りを次々と変えていく。私が長年守ってきた日山物産との取引も、その対象になった。

「パートに大事な取引先なんて任せられるわけないだろう。」

朝礼の場で、風部長はそう言い放った。周りの視線が一斉に私へ集まる。机の上に置いていた手帳を、彼は無造作に取り上げた。

「こんな落書き、必要ないよな。」

父の形見のこの手帳を、彼はそう呼んだ。私は何も言い返さず、ただ頭を下げた。「わかりました」と。声は震えなかった。だが机に戻ってから、指先の震えは止まらなかった。同期だった同僚は誰も目を合わせようとしない。唯一、後輩の田中舞だけが、悔しそうに私を見ていた。

母は脳梗塞で倒れ、麻痺が残った。介護と仕事を両立できるのは契約社員しかない。それでも会社をやめようとは思わなかった。父がこの会社で長く営業していたからだ。手帳には父の代からの取引先の記録が残っている。風部長がそれを取り上げた瞬間、体が冷たくなった。それでも表情は変えない。

「大丈夫ですか?」

昼休み、田中舞がそっと声をかけてきた。

「平気だよ。」

そう答えたが、本当は平気ではなかった。この日から、静かな逆転の歯車が回り始める。

数日後、日山物産の担当は高橋竜太という若手社員に引き継がれた。入社四年目、口が達者で風部長のお気に入りだった。

「パートのやり方より、僕の方が効率的にやりますよ。」

高橋は周りに聞こえるよう、わざと大きな声で言った。その言葉に誰も異を唱えなかった。引き継ぎの資料は、手帳の写しすら渡されていない。私が持っていた情報は頭の中にしかなかったからだ。それでも、聞かれなければ答えないと決めていた。

専務の藤田だけが、ふと表情を曇らせる。

「日山さんは担当者を軽く扱うことを嫌う方だぞ。」

藤田がそう口にしかけると、風は笑って遮った。

「今時、そんな時代錯誤な話ないでしょう。」

藤田はそれ以上何も言わなかった。私はいつも通り資料整理の仕事に戻る。

「本当に大丈夫なんですか?」

舞が心配そうに聞いてきた。

「大丈夫。心配しないで。」

そう答える私の顔は、驚くほど穏やかだった。

「宮下さん、何か知ってるんじゃないですか?」

私は答えず、ただ微笑んだ。

高橋の意気込みとは裏腹に、車内の空気はどこか重い。風部長は上機嫌で高橋の肩を叩いた。

「これで数字はもっと伸びるぞ。」

その夜、私は帰り道に母の見舞いへ寄った。

「今日はどうだった?」

母がベッドの上からいつものように聞いてくる。

「変わりないよ。」

私は嘘をついた。母を心配させたくなかったからだ。帰り道、鞄の中を探ったが、そこに手帳はなかった。手放したことを今更ながら実感する。それでも不安はなかった。日山物産がどんな会社か、私が一番よく知っていたからだ。

翌朝、高橋は自信満々な顔でオフィスを出ていった。名刺を片手に、日山物産本社のロビーへ足を踏み入れる。迎えたのは、日山会長の秘書を長く務める楠木だった。

「本日は宮下様はいらっしゃらないのですか?」

楠木は開口一番そう尋ねた。

「担当が変わりまして、これからは私が」

高橋は胸を張って名乗った。

「そうですか。」

それだけ言うと、楠木は会議室へ案内した。資料の説明中、楠木はほとんど相槌を打たなかった。

「日山は担当者との積み重ねを大切にする会社です。帰り際に楠木がぽつりと漏らしたのは、その一言だった。」

高橋は意味を深く考えず、笑顔で会社を後にした。オフィスに戻ると、風に開口一番こう報告する。

「特に問題ありませんでした。」

風は満足に頷いた。だが藤田だけは、報告の一部に引っかかりを覚えていた。

「宮下がいないことを、向こうは何か言っていたか?」

藤田がそう尋ねると、高橋は言葉を濁す。

「少し驚かれていたぐらいで」

その返答に、藤田の眉間の皺が深くなった。藤田は昔日山会長と何度も酒を酌み交わした仲だ。あの会社が担当者の変更をどう受け止めるか、知りすぎるほど知っている。

一方、私は自分の席でいつも通り伝票の束と向き合っていた。それでも表情を一つ変えず、手を動かし続けた。心の中では静かに一つの数字を数えていた。日山物産との契約更新まで、あと二十四時間しかない。

「気にしすぎだよ、藤田さん。」

風は書類から目も上げずに言った。

「日山物産ほどの取引先だ。担当が誰でも変わらんだろう。」

その言葉に、藤田は何も言い返せなかった。かつて自分が日山を推薦したことを、風は知らない。藤田は自席に戻り、拳を握ったまましばらく動けずにいた。

翌朝、日山物産から法城商事に一本の電話が入った。応対したのは他でもない藤田だった。

「担当の変更について、正式にお伝えしたいことがあります。」

電話の向こうの声は静かだが、否を言わせない響きだった。

「今後、本社との二十八億の取引継続は、一旦保留とさせていただきます。」

藤田の顔からみるみる血の気が引いていく。

「少々お待ちください。」

藤田は電話を保留にし、風の元へ駆け寄った。

「日山物産が、契約を止めると言っている。」

風の顔から、余裕の笑みが消えた。

「そんな、担当者一人の話でしょう。」

「バカを言え。二十八億だぞ。」

藤田の声がフロア中に響き渡る。風は震える手で電話を代わる。

「あの、私部長の風と申しますが」

電話越しの相手は、名乗った風には興味を示さなかった。

「宮下さんはいらっしゃいますか?」

風は一瞬私を睨みつける。

「彼女は今、別の件でして」

「三日以内にご返答をいただければと。」

用件を告げて、電話は静かに切れた。風の額にはうっすらと汗が滲んでいた。藤田は私の方にちらりと目をやる。何かを言いかけて、結局何も言わなかった。私はただ、伝票を整理する手を止めなかった。三日というタイムリミットだけが、静かに動き出す。

会議室を出た風が、私の元へ歩み寄ってきた。

「宮下さん、日山物産のことで力を貸してもらえないか?」

数日前まで私を「パートのおばさん」と呼んだ口だった。私は手を止め、風の顔をまっすぐ見た。

「私にできることがあるでしょうか?」

静かにそう返すと、風は言葉に詰まる。田中舞が少し離れた席から様子を見ていた。その日から、フロアの空気は変わっていく。

業務後、誰もいなくなったフロアに藤田専務が現れた。

「宮下さん、少し話せないか?」

その声はいつもの穏やかさとは違っていた。私は手を止め、椅子を勧めた。藤田は座るなり、深く頭を下げる。

「今回の件、全て私の監督不足だ。日山物産さんに戻ってきてもらえないだろうか。」

頭を下げたまま、藤田はそう続けた。

「必要な時だけ都合よく呼ばれるんですね。」

私の声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。

「パートのおばさんと呼ばれても、黙って耐えてきました。それなのに、困った時だけ頭を下げられても」

藤田は顔を上げず、ただ黙って聞いていた。

「すまない。その通りだ。言い訳の仕様もない。」

沈黙がしばらく二人の間に落ちる。

「少し考えさせてください。」

私はそれだけ言って席を立った。帰り支度をする私の背中に、藤田は何も言わなかった。

エレベーターホールで、田中舞が私を待っていた。

「専務、宮下さんに頭を下げたんですよね。なのに断ったんですか?」

舞は納得がいかない様子で聞いてきた。

「今更、都合よく頼られたくないだけ。」

私はそう答えて、小さく笑った。手放したはずの手帳の重みを、まだ手のひらが覚えている。

その夜、私は一睡もできなかった。

「宮下さんのお父さんなら、きっと違う答えを出しただろうな。」

帰り際、藤田がぽつりと漏らした言葉が耳に残った。父の名前を藤田の口から聞いたのは久しぶりだった。家に着くと、母がリビングでテレビを見ていた。

「おかえり。今日は少し顔色が悪いね。」

「大丈夫。ちょっと疲れただけ。」

そう答えながら鞄を置く。手が止まる。鞄の中にはもう手帳は入っていない。その事実が、今になって重くのしかかる。

母が眠ったのを確かめてから、私は仏壇の前に座った。父の写真はいつも通り穏やかに笑っている。

「今日、専務に頭を下げられたよ。」

誰もいない部屋で、私はそっと声に出した。

父が法城商事の営業として働いていたのは、もう十年以上前の話だ。病に倒れる直前まで、父は日山物産を一人で担当していた。あの手帳は元々父が使っていたものだった。取引先の家族構成や趣味、些細な会話まで、克明に書き込まれている。

「取引はな、数字だけじゃないんだよ。人と人との積み重ねなんだ。」

父は生前、よくそう言って笑っていた。八年前、病室のベッドで父は私に手帳を託した。

「お前になら任せられる。」

その言葉だけを残して、父は静かに息を引き取った。以来、私は父の代わりにこの手帳を書き足し続けてきた。日山誠一郎という名前も、ページの中に何度も出てくる。父の大学時代からの友人で、義理にも厚かったと聞いている。だが手帳の記述からは、深い信頼が伝わってきたのを覚えている。

仏壇の写真の奥に、色褪せた一枚の写真が挟んである。若い父と、隣で笑う男性が映っていた。

「あの人も、あなたが仕事を続けていることを喜んでるわよ。」

母は薄く笑いながら、私の隣に座る。

「あの人の意志を継いでいるんだもの。大丈夫。あなたはちゃんとやれている。」

母の手が、私の背中をそっとさすった。涙がこぼれ落ちる。その夜、私は久しぶりに深く眠った。

手帳の最後のページに、父が書き残した一文を思い出した。

「困った人には、まず名前を呼べ。」

意味を聞けないまま、父は亡くなってしまった。だが今なら、少しだけ分かる気がする。風にも高橋にも、まだそれができていない。手帳は今、風の手の中にある。それでも中身は全部頭に入っていた。私はそっと目を閉じ、静かに手を合わせた。

翌日の午後、日山物産から突然の連絡が入った。

「本日、会長が直接そちらに伺います。」

その一言に、フロアは騒然となった。数十分後、日山誠一郎会長が本当に法城商事を訪れた。受付で対応した風は、慌てて駆けつける。

「会長、本日はどのようなご要件で」

「さやさんに会いに来た。」

会長の一言に、フロア中が静まり返った。

「宮下は、その、パートの事務でして」

風の声がみるみる小さくなっていく。

「知っている。彼女の父親のこともな。」

会議室に案内された会長の前に、私は座った。

「大きくなったな。目元がお父さんによく似ている。」

会長は懐かしそうに目を細めた。

「父をご存知だったんですか?」

私の問いに、会長はゆっくりと頷く。

「大学時代からの腐れ縁でな。うちが潰れかけた時、金を貸してくれたのがお父さんだった。」

その話は、手帳のどこにも書かれていなかった。

「あの人は、恩を着せるような人じゃなかった。」

会長の声がわずかに震える。

「担当が変わったと聞いて、様子を見に来た。これは人情でも義理でもない。信頼できる相手としか、大きな仕事はしない。それだけの話だ。」

隣に立つ風の顔から、完全に血の気が引いていた。

「宮下さん、もう一度うちの担当として戻ってくれる気はあるか?」

会長は静かに私の目を見て尋ねた。誰かに指示されるのではなく、初めて「聞かれた」気がした。

「少し考える時間をいただけますか?」

私はそう答えるだけで精一杯だった。

「いいだろう。返事は君の好きな時でいい。」

会長はそう言って、静かに席を立った。部屋を出ていく背中を、風は呆然と見送っていた。藤田だけが、小さく頷いている。

三日目の朝、私は風と藤田を会議室に呼び出した。呼び出された側の風は、居心地悪そうに席についた。

「日山物産の件、お受けします。」

私はまずそう切り出した。

「ただし、いくつか条件があります。」

「条件?」

風の声がわずかに強張る。

「取引先とのやり取りは、私が直接行います。決定事項の途中変更は、事前に必ず私へ相談してください。そして、手帳を返してください。」

淡々と条件を並べる私に、風は言葉を失っていた。

「そんな、パートの立場で口を出しすぎじゃないか。」

反射的に出た言葉に、風自身が青ざめる。

「風部長。」

藤田の声が低く響いた。

「彼女の言う通りにしなさい。これは業務命令だ。」

その一言で、風は黙り込んだ。しばらくして、風は引き出しから手帳を取り出す。

「悪かった。」

短い一言と共に、手帳が私の手元に戻ってきた。中身を確かめると、一枚も破られていない。それだけで、少しだけ安心する。

「いつから動くつもりだ?」

藤田が静かに尋ねてきた。

「明日、日山物産へご挨拶に伺います。それともう一つ、お願いがあります。田中さんに私のサポートをお願いしたいんです。」

舞の名前を出すと、藤田は少し驚いた顔をした。

「彼女には、彼女にしかできないことがありますから。」

藤田はただ静かに頷いた。

その日の午後、私は田中舞に声をかけた。

「これから、私のやり取りを近くで見ていてほしい。」

理由は話さなかったが、舞は迷わず頷いた。

「宮下さんについていけば、間違いないので。」

一方、風は自席で一人、苦い顔をしていた。だが、誰にも気づかれないようにした。

翌朝、私は田中舞と共に日山物産本社を訪れた。ロビーで待っていたのは、あの日と同じ楠木だった。

「宮下さん。」

私を見た瞬間、楠木の表情が緩む。

「お待ちしておりました。」

会議室には、日山会長も同席していた。

「これからもよろしく頼むよ。」

会長は握手を求め、私はそれに応じた。商談は驚くほど滑らかに進んだ。二十八億の取引は、正式に継続が決まる。帰り際、楠木が小さく耳打ちしてきた。

「あなたが戻って、会長も安心されていました。」

オフィスに戻ると、拍手で迎えられた。

「さすが宮下さんだ。」

風が満面の笑みで駆け寄ってくる。

「最初からあなたの実力は分かっていたよ。」

数日前とはまるで別人のような態度だった。周りの同僚たちも、次々と声をかけてくる。

「宮下さん、すごいですね。」

「やっぱり頼りになります。」

手のひらを返したような声の数々に、少しだけ違和感を覚える。それでも私は静かに頭を下げた。

田中舞だけが、複雑そうな顔で風を見ていた。

「調子良すぎませんか? あの人。」

舞が小声で耳打ちしてくる。

「そうだね。」

私はそれだけ答えて、小さく笑った。フロアには久しぶりに穏やかな空気が流れていた。契約は守られ、部長の態度も柔らいでいる。私は久しぶりに定時で会社を出た。

その夜、母に契約が守られたことを伝えた。

「よかったね。お父さんも喜んでるよ。」

母は嬉しそうに何度も頷いた。

「うん。」

父の写真は、いつもと変わらず穏やかだった。

その週末、私は正社員に戻された。辞令を受け取る手は少しだけ震えている。だが心の奥で、違和感が消えずにいた。風の変わりようがあまりにも急すぎたからだ。机の奥にしまった手帳を、私はもう一度確かめた。

平穏な日々が一週間ほど続いた。その静けさを破ったのは、経理部の噂話だった。

「風部長、社長にめちゃくちゃ褒められたらしいですよ。」

給湯室で若手社員たちがそう話しているのが聞こえた。

「日山物産の契約、部長が自ら口説き落としたんだって。」

その言葉に、思わず手が止まる。

「宮下さんはただの窓口だったって聞きました。」

悪気のない声が、耳の奥に突き刺さった。廊下の角で、田中舞が険しい顔で立っていた。

「今の聞きました。本社の月報報告書にも、そう書かれてるみたいです。部長の独断で契約を守ったって。」

私は何も言葉が出てこなかった。頭の中であの日の会議室の光景が蘇る。あれは、演技だったのだろうか。

「宮下さん、黙ってていいんですか?」

舞が我慢できないというように詰め寄ってきた。

「大丈夫。今はまだ。」

私はそれだけ言って、自分の席に戻る。だが心の中では、静かに一つの記憶を辿っていた。数年前、同じ部署にいた先輩が突然辞めていったこと。その人も、風に手柄を奪われたと噂されていた。

舞はその夜、こっそりと一本の電話をかけていた。相手はかつてその先輩と親しかった同期らしい。電話越しに、懐かしい声が答えた。

「あの人、私の時にも同じことしたよ。数年前にやめた先輩の名前は、さやかって言った。企画を丸ごと自分の手柄にされて、抗議したら移動させられた。」

電話の向こうで、声は静かにそう語った。

「証拠、残ってる。メールならまだ削除してない。」

その一言で、舞の手が止まった。

翌朝、舞は青い顔で私の机の前に立った。

「宮下さん、話したいことがあります。」

私は資料整理の手を止め、舞の顔を見た。その表情に、只事ではないと悟る。

「見てください。これ。」

舞は震える手でスマートフォンの画面を差し出した。さやかという人物からのメールが、そこに表示されている。企画を横取りされた経緯を全部書いてくれた。文面には日付、当時のやり取り、上司への相談記録まで残っていた。私は画面をスクロールしながら、静かに読み進めた。手口は今回とほとんど変わらない。手柄だけを奪い、都合が悪くなれば責任を押し付ける。

「宮下さんも、同じ目に合わされるところでした。」

舞の声には、抑えきれない怒りが滲んでいる。私は手帳を取り出し、机の上に広げた。ページには、日山物産とのやり取りの全記録が残っている。訪問日、会話の内容、契約更新の経緯。どれも私が直接手を動かした証拠だった。

「これと月報報告書を突き合わせれば分かる。風の書いた報告書とは、日付が食い違っている箇所がある。」

「舞ちゃん、力を貸してくれる?」

私が尋ねると、舞は迷わず頷いた。

「もちろんです。専務に、正式な報告の場を作ってもらいましょう。」

その夜、私は藤田に一本のメールを送った。

「大事なお話があります。社長にも同席いただけますか?」

返信は翌朝一番に届いた。

「わかった。明日、時間を作ろう。」

短い一文に、これまでにない緊張感が滲んでいた。私は手帳を鞄にしまい、深く息を吸う。父から受け継いだこの手帳が、初めて牙を向く瞬間が来る。

一方その頃、風は行きつけの店で酒杯を上げていた。

「これで来期の昇進は確実だな。」

風は隣に座る部下と上機嫌で酒を酌み交わした。その表情には、一片の迷いもなかった。明後日の報告会に、社長も同席することが決まっていた。その予定を、風はまだ知らされていない。

翌日の午後、会議室に社長と専務、そして風が集まった。私は舞と共に資料を抱えて入室する。

「宮下君も同席か。まあいいだろう。」

社長は鷹揚に頷き、席を勧めた。風は余裕の表情で、私の向かいに腰を下ろす。

「本日は、日山物産の件でご報告があります。」

私はそう切り出し、資料を配り始めた。

「先月の報告書には、こう書かれています。『契約継続は、風部長の独断交渉によるもの』。」

社長が手元の書類に目を落とす。

「これが、私の手帳の記録です。訪問日、会話の内容、全て日付入りで並んでいます。報告書の日付とは、一週間もずれています。」

風の表情から、余裕の笑みが消えていく。

「そんな、細かい日付の記憶違いだろう。」

苦し紛れの反論が会議室に響いた。

「では、こちらはどうでしょうか?」

舞がスマートフォンの画面を差し出す。さやかという元社員からのメールが、社長の前に映し出された。

「数年前にも、同じ手口で手柄を奪われた社員がいます。」

社長の顔色がみるみる変わっていく。

「こ、これは本当か?」

「そ、それは」

風の声がみるみる小さくなっていく。

「大体、パートの分際で口を挟むな。」

追い詰められた風が、最後にそう吐き捨てた。その一言に、会議室の空気が凍りつく。

「彼女はもう、正社員だ。」

藤田が静かだが強い声で訂正した。

「それに、この契約を守ったのは、他の誰でもない彼女だ。」

社長は資料を閉じ、深いため息をついた。

「君、少し外してくれ。」

風は何か言いかけたが、言葉にならなかった。力なく席を立ち、会議室を後にする。その背中に、もう誰も声をかけなかった。

三日後、風の解雇が正式に発表された。虚偽の報告、手柄の横取り、そしてハラスメント行為。社内メールには、簡潔な一文だけが記されていた。

「風部長は、本日付で諭旨退職となりました。」

田中舞はそれを見て、小さく息を吐いた。

「やっと終わりましたね。」

「うん。」

私は短く答えるだけで、後は何も言わなかった。

数日後、さやかからも一通のメールが届く。

「あなたのおかげで、やっと報われた気がします。」

会社はさやかにも正式に謝罪し、当時の評価を訂正したという。

一方、風の噂は静かに業界へ広まっていった。日山会長が、取引先各社にそれとなく事情を伝えたらしい。

「信頼を裏切る人間とは、うちは組まない。」

会長のその一言が、風の再就職の道を閉ざした。半年後、風を見かけたという同期の話を、何かの噂で聞いた。かつて「パートのおばさん」と人を見下していた男は、今では周囲に頭を下げながら仕事をしているらしい。

オフィスでは、私の机の場所が変わった。日山物産担当として正式にチームが組まれ、リーダーは私だった。

「宮下さん、これからもよろしくお願いします。」

舞が明るい声で頭を下げてくる。

「こちらこそ、頼りにしてる。」

私はそう答え、久しぶりに心から笑った。さやかにも当時の評価を遡って修正することが決まった。

「まさか今更、こんな形で報われるとは思えませんでした。」

藤田専務が私の席まで来て、頭を下げた。

「本当にすまなかった。そして、ありがとう。」

「もう謝らないでください。これからは、対等な同僚としてお願いします。」

その言葉に、藤田は照れ臭そうに笑った。

桜が咲く頃、私は父の墓前に立っていた。母は隣で静かに手を合わせている。

「お父さん、遅くなったけど報告するね。あの手帳、引き継いでる。日山さんとの取引も、ちゃんと守ったよ。」

風が墓石の周りをそっと通り抜けていく。まるで返事をもらったような気がした。母が隣でそっと呟く。

「あの人、きっと喜んでるよ。」

「うん。」

短く頷き、私は空を見上げた。

会社では、田中舞が正式に私の後継候補として育っている。

「いつか私も、宮下さんみたいになりたいです。」

日山物産との取引は、あれから一度も滞っていない。楠木からは季節ごとに近況を伝える連絡が届く。

「あなたと組めて、よかった。」

その言葉を、私は何度も噛み締めている。手帳のページは、また少しずつ増えていった。父の字と私の字が、同じページに並んでいる。いつかこの手帳を誰かに託す日が来るのだろう。その時はきっと、この続きを書いてくれるはずだ。

「パートのおばさんには、任せられない。」

あの日の言葉をもう思い出しても、痛みはない。私はあの日と同じ場所で、いつも通り仕事を続けている。ただ、隣に立つ人たちの顔触れが少しだけ変わった。午後を過ぎる人影が、夕日に長く伸びていく。

数ヶ月前、日山会長からも一本の電話があった。

「お父さんには、恥じない仕事をしているな。」

その一言だけで、涙腺が緩みそうになった。

「これからも、よろしくお願いします。」

私はそれだけ返すのが精一杯だった。だが、もう心が揺らぐことはない。静かに始まったあの逆転劇は、こうして幕を閉じた。

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