「あ、ごめん。」
反射的に、俺は先にボールペンを掴んでいた。桜田さんも同時に手を伸ばしてきたらしく、俺の手の甲が何かに触れた。やけに柔らかくて、弾力のあるもの。ピンクのぴったりとしたニットを着た桜田さんは、慌てて胸元に手を置いて体を起こした。その顔はほんのりと赤く染まっている。触れてはいけない場所に触れてしまった。それは、どう考えても間違いなかった。
俺の名前は岡本正弘。来月で三十路を迎えるが、未だ独身。ここ数年、恋人もいない。正直寂しいと思うことも多いが、まあ今は自由な生活を謳歌しているってことにしておこう。大学卒業後、金融会社に就職し、今はマーケティングの仕事をしている。新しい金融商品の市場調査を行い、ターゲットとなる顧客層を分析する。そして、その顧客層に向けた効果的なプロモーションキャンペーンを企画し実施するのが俺の役割だ。
忙しい毎日の中で、最近の癒やしはランチに食べるパン。会社の近くに最近オープンしたパン屋に通い詰めている。定番の黒わっさんやバゲットはもちろん、季節ごとの限定パンや創作パンまで豊富に取り揃えられている。カレー風味のパンやチーズたっぷりのパン、地元の特産品を使ったオリジナルパンなど、総菜パンのバリエーションがすごい。しかもどれを選んでも外れがない。スイーツ系のパンも充実していて、甘いもの好きの俺としてはたまらないラインナップだ。季節ごとの果物を楽しめるフルーツサンドは早々に売り切れることも多く、なかなか買えないのが悔しい。
「カレーの匂いがすると思ったら、お前か。うまそうだなあ。」
昼休み、自分のデスクで買ってきたばかりのカレーパンを頬張っていると、同僚の木村が鼻をくんくんさせながら近づいてきた。木村は苦笑いしながら俺の向かいの席に座り、弁当の蓋を開けた。ちなみに木村の席はここではない。俺の向かいの席のやつは外回りが多く、ランチの時間も大体不在。それをいいことに、木村はいつもここに座って食べているのだ。
「お前には愛妻弁当があるからいいよな。羨ましいよ。」
「まあな。」
美味しそうな卵焼きを口に放り込んだ木村は、きょろきょろと辺りを見回している。
「桜田さん、今日はいないよ。さっき他の女子社員と一緒にランチに行くって出て行ったから。」
「ちっ、残念。」
木村は悔しそうに舌打ちした。結婚したばかりのくせに、他の女性に鼻の下を伸ばしてんじゃねえよ。
「それとこれとは別だ。桜田さんみたいな綺麗で魅力的な女性は、目の保養になるってもんだ。お前はいいよな。桜田さんの隣の席だもんな。いつでも見られるじゃん。」
「いつでも見られるってなんだよ。仕事中にそんな余計なこと考えるわけないだろう。」
「そうなの?」
「いや、そう言われたら否定できないけど。」
桜田さんの美貌、そして彼女から発せられるフェロモンは、全性社員の仕事の効率を低下させると言っても過言ではない。情けないことに、俺も例外ではなかった。桜田さんと席が隣になったのは一ヶ月前の部署替えがきっかけだ。それまでほとんど話したこともなかった。あまりの綺麗さに気後れしてしまい、まともに目も見られないのだ。なのに仕事中はちらちらと彼女の方を見てしまう。この矛盾。いい年して、思春期の中学生かって感じだった。
だが、ふとしたことをきっかけに、桜田さんと話せるようになった。それは、ある日の昼休みのことだ。
「お財布忘れちゃった。」
そんなつぶやきと共に、ぐうう、というお腹の音が響いた。え、と思って音がした方を見ると、桜田さんが恥ずかしそうに顔を伏せている。いつものパン屋で買ったパンを抱えて戻ってきたばかりの俺は、反射的に「食べますか?」と言って、袋の中から温かい黒わっさんを取り出した。桜田さんは遠慮して首を横に振りつつも「バターのいい香り」と言って、うっとりと目を閉じた。大きな瞳を縁取るまつ毛が、まるで絵画のように綺麗だ。思わず見とれてしまう俺。
「あの、お言葉に甘えていただいてもいいですか? ランチに行こうと思ってたんですけど、お財布を忘れてしまって、電子マネーもチャージできてなくて。」
ぼんやりと口を開ける俺に、桜田さんは上目遣いで訪ねた。
「ああ、ええ、もちろんです。どうぞ。」
どもりながら黒わっさんを手渡すと、桜田さんは「ありがとうございます。うわあ、すごく美味しいですね、この黒わっさん」と満面の笑みを浮かべてくれた。そんなことがあってから、俺たちは少しずつ会話を交わすようになった。と言っても、事務的な会話がほとんどだけど。まともに目も見られなかったことを考えると、かなりの進歩だ。
そのタイミングで、俺は新しい投資信託商品のマーケティングプランを立てるため、チームで仕事をすることになった。チームメンバーの中に桜田さんが入っているって知った時は、これからさらに仲良くなれるかもと胸が高鳴ったのだが――。
「最近桜田さんとちょっと仲良くなって喜んでいるであろうお前に、悪い知らせだ。」
「え、どういうこと?」
木村が何か企んでいるような顔で近づいてきた。
「桜田さん、営業部のエース斎藤と付き合ってるそうだ。残念でした。お前にチャンスはなし。」
ことさら嬉しそうな木村にイラっとしたが、桜田さんに彼氏がいたって、なんら不思議なことではない。
「そうなんだ。ま、そりゃ彼氏くらいいるよ。さあ、仕事。」
俺はショックを受けた自分をごまかすように、目の前のパソコンに向かった。桜田さんの彼氏だという営業部の斎藤といえば、イケメンで高身長。優しくて紳士的。しかも仕事もできるってことで、社員から大人気だって噂だ。それは、俺なんか1ミリも可能性はないってことを意味する。
その後、桜田さんのことは完全に諦めて、ある意味開き直ったことで、俺は以前より緊張せず桜田さんと話せるようになった。チームでの仕事にも集中でき、順調に進んだ。プレゼン資料を完璧に仕上げ、翌日のプレゼンに向けて最後の確認をしていた時――。
「すみません。」
桜田さんが手を滑らせたのか、ボールペンを床に落とした。ころころと俺の足元に転がってきたそのボールペンを拾おうと手を伸ばしたのだが、その瞬間、桜田さんも手を伸ばし、思いっきりぶつかってきた。
「あ、ごめん。」
先にボールペンを掴んだ俺の手が、不意に柔らかく弾力のある何かに触れた。ぴったりとしたピンクのニットを着ていた桜田さんは、慌てて胸元に手を置き、体を起こした。その顔はほんのりと赤く染まっている。触ってはいけない部分に触れてしまったのは明らかだった。
「ごめん。わざとじゃなくて、その、事故っていうか、なんて言うか……」
意味もなく手のひらを擦り合わせながら必死で謝る俺に、桜田さんは「いえ、気にしないでください」と言ったまま、恥ずかしそうに俯いてしまった。
でも、このことが次の日、思いもかけない事態を引き起こした。
「岡本さんっていうのはあなたですか? ちょっとお時間いただけますでしょうか?」
営業部の斎藤が俺のところにやってきて、丁寧に頭を下げた。桜田さんの彼氏だという斎藤とは面識がなかったが、仕事で何かあったのだろうか。不思議に思いながらついていくと、階段の前で彼は豹変した。
「人の女に手出してんじゃねえよ。」
斎藤の目は怒りに燃えており、その視線はまるで鋭い刃のようだった。いきなり怒りをぶつけられ、呆然と立ち尽くす俺に、斎藤はさらに続けた。
「たまたまマーケティング部に用があって行った時、見えちゃったんだよな。デスクの下で何やってんだか。俺の彼女だって知ってて触ったのか。いい加減にしろよな。二度とあいつに近づくんじゃねえぞ。」
ドスの利いた低い声に、俺は震え上がった。紳士的なイケメンって聞いてたけど、その本質はもしかしてひどいモラハラ野郎なんじゃないだろうか。直感的にそう感じた俺は、怖さよりも桜田さんのことが心配になった。
この予感は当たっていたようで、後日、桜田さんが深刻な顔でこんなことを話してくれた。
「もしかして、私の彼、岡本さんに何か言ったりしましたか?」
不安そうに俺の顔を覗き込む。
「あ、ああ、そういえば言われたな。二度と近づくなって。愛されてるね、桜田さん。」
深刻な雰囲気を察した俺は、あえて冗談っぽく笑って答えたのだが、桜田さんは困った顔をした後、暗い顔で頭を下げた。
「ごめんなさい。ご迷惑おかけして。」
「や、迷惑なんてことはないんだけど。桜田さんは大丈夫? 仲良くしてるのならいいんだけど、なんとなく心配になっちゃったよ。」
「心配?」
「ああ、なんていうか、ひどく高圧的だったからさ、斎藤さん。もしかして彼女にもあんな態度なのかなって。あ、ごめんね。何も知らないのに失礼なこと言って。う、仲いいなら別にいいんだけど。」
カップルのことは本人たちにしか分からないものだ。外野から口出しするのは野暮の極み。分かってるんだけど、言わずにはいられなかった。
すると桜田さんは、目に涙をいっぱい溜めながら話してくれた。嫉妬深く束縛が激しい彼氏のこと。男性の連絡先は全て消去され、女友達でさえ連絡を制限されていること。拒否したり反発したりしたら、何をされるか分からないと怯えていたこと。
「そうなんだ……」
でも、俺はそれ以上の言葉をかけてあげられなかった。俺なんかに何ができるだろう。助けてあげたいけど、その術が見つからなかった。
会社では普通に過ごし、仕事をこなしていた桜田さん。その話を聞いて以来、俺はずっと考えていた。どうやったら桜田さんを救ってあげられるのだろうと。何の考えも浮かばなかった俺だったが、チャンスは予想もしなかったところに転がっていた。
「あれ? あいつ、もしかして斎藤?」
休日の夕方、靴を買おうと出かけたショッピングモールで、斎藤の姿を見つけた。斎藤は茶髪のショートカットの女性と仲良さげに腕を組み、顔を見合わせながら楽しそうに歩いている。
「え、なんで? 桜田さんと付き合ってるんじゃないのか?」
俺は思わず彼らの後をつけた。桜田さんが悲しむ顔が不意に頭に浮かんでくる。いや、もしかしたら妹ってこともあるしな。うん、きっとそうだ。そんなことを考えながらついていくと、気がつけばそこは怪しげな光が灯るホテル街。斎藤と女性は当たり前のようにホテルの中に消えていった。とっさにスマホを構えた俺は、彼らがホテルに入る瞬間をばっちり撮影した。
この時は考えるより先に体が動いてしまったのだが、撮ってしまった証拠写真を俺はどうしたらいいのか。後から頭を抱えた。桜田さんに見せて斎藤の本性を伝えるのか。それとも斎藤に突きつけて浮気を認めさせるのか。それとも、見なかったことにしてスルーすべきなのか。一体どうするのが正解なのか、分かりかねていた。
そして数日後、会社のトイレでばったり遭遇した斎藤に、俺はまた嫌味を言われる。
「隣の席だからって調子乗って、また話しかけてんじゃないだろうな。百々華みたいないい女が、お前みたいなやつ相手にしないだろうけどな。」
馬鹿にするように笑うその顔に腹が立った俺は、つい「でも、あなた二股かけてますよね」と言って、スマホを取り出し、霊の画像を突きつけた。
「はあ? なんだこれ? お前、何撮ってんだよ。」
斎藤の顔色が変わった。慌てて俺のスマホを取り上げようと手を伸ばした斎藤は、次の瞬間、バランスを崩してよろめく。
「これ、桜田さんに見せたらどうなりますかね?」
「は? お前、俺を脅す気か? 調子に乗ってんじゃねえよ。」
斎藤は悔しそうに歯を食いしばったが、すぐに「まあ、別にいいぜ」と言って笑った。
「百々華ちょっといい加減あるしな。顔がいいだけでもう飽きてきたんだよな。俺、別れたいと思ってたとこだし、逆に都合がいいわ。もう一人の彼女は大企業の社長令嬢でな。百々華と違って育ちもいいし。本命にするなら断然こっちだな。」
あまりの暴言に、俺は思わず拳を握りしめた。
「それ、百々華に見せていいぜ。ついでに別れてくれって言っておいてよ。よろしく。」
さっきまで二度と話しかけるなと言っておきながら、浮気の動かぬ証拠を握られたら手のひらを返すように態度を変えた斎藤。どちらにしても、ろくな男じゃない。俺は桜田さんのためにも、このことを全て伝えることにした。
仕事の後、帰ろうとする桜田さんを引き止めた。
「桜田さん、ちょっといい話がある。」
緊張しながら誘った俺に、桜田さんは不思議そうな顔でついてきた。駅前のカフェでコーヒーを頼み合い、向かい合って座る。
「あの、驚かないで欲しいんだけどさ、これ。」
俺はスマホの画面を桜田さんの方に向けた。斎藤と女性がホテルに入っていく、浮気の決定的瞬間。大きな瞳を見開いて、桜田さんは画面を見つめた。
「斎藤の本命だって言ってた。桜田さん、こんなやつ、やめた方がいい。ろくなやつじゃないよ。俺が言うのもなんだけど、あんなやつといたら桜田さん絶対幸せになれない。」
つい声を張り上げてしまった俺を、周りの人は軽蔑したように見た。そして目の前の桜田さんは、大粒の涙をぽろぽろと流し始める。
「ありがとうございます。そうですよね。もう、別れます。ひどい束縛は愛されてる証拠なんだって思おうとしたけど、やっぱり普通じゃないですよね。浮気までしてるってことが分かった今、これ以上彼と一緒にいる理由はありません。」
そう言って、桜田さんは両方の涙を拭った。
それに、――桜田さんはそう言うと、俺をまっすぐに見つめた。
「私、岡本さんのこと好きかもしれません。」
「え?」
俺は思わず聞き返した。
「チームで仕事をしてる時の頼りがいのある岡本さん。私の話を優しく聞いてくれた岡本さん。気がつけば、だんだん岡本さんのことを考える時間が増えてきて。それって、好きってことですよね。」
「え、えっと、それはこういう時はなんて答えればいいのか……」
長らく恋愛していない俺は、全く言葉が出てこない。
「岡本さん、好きです。私と付き合ってもらえませんか?」
もごもごと口ごもるばかりの情けない俺に、桜田さんははっきりと言ってくれた。断る理由なんてない。会社中の男が惚れるような綺麗で魅力的な桜田さんと付き合えるなんて、夢のようだ。
「信じられない。俺なんかでいいの?」
「それ、私も聞きたいです。私でいいですか?」
「もちろん。」
こうして俺たちは心を通じ合わせることができた。桜田さんはすぐに斎藤に別れを告げ、斎藤もすんなり受け入れた。「お前のこと最初からそんなに好きじゃなかったわ。顔とスタイルで選んだけだからな」と、負け惜しみなのか最後にこんな捨て台詞を吐いたらしい。あんなやつ、きっとこれからもろくな恋愛できないだろうな。桜田さんと縁が切れて、本当に良かった。
「はあ? お前が桜田さんと? マジかよ。嘘だろ? 嘘だと言ってくれ。」
木村に俺たちのことを報告した時は、驚いてかなり取り乱してたっけ。男性社員をみんな敵に回したな、と言われたけど「でも俺は味方だ。幸せになれよ」と言って応援してくれた。付き合って半年で結婚を決めた時には、涙を流して喜んでくれた。結婚式の友人スピーチでは、俺よりも号泣してた。いい友達を持って、俺は幸せだ。
「じゃあ、行ってきます。」
パンプス姿の百々華とキスを交わし、百々華特製のフルーツサンドを持って、俺は今日も出勤する。結婚してからパン作りにハマった百々華。あのパン屋にも、めっきり足が遠のいた。
「行ってらっしゃい。」
百々華も大きなお腹を撫でながら、笑顔で手を振った。そう、もうすぐ俺たちは親になる。百々華に似た飛び切り可愛い娘に会えるのが、今から楽しみで仕方ない。
