施工管理部のオフィスに、新社長が姿を現したのは、就任早々のことだった。そして、全員の前で、いきなりとんでもない宣言をしたのだ。
「施工管理部ね。こんな部署、そもそも必要あるのか?現場は猿でもできるから、今後はボーナスなしな。これまでの無駄を一切排除するから、そのつもりで。二代目社長であるこの俺が、経営方針を変える」
俺はその言葉に、ただ呆然とするしかなかった。驚きのあまり、じっと銀事の顔を見つめてしまう。すると、銀事はその視線に気づいたらしく、こちらへと歩いてきた。
「おい、お前、さっきからジロジロ見やがって。どういうつもりだ?」
慌てて「いえ、そんなつもりじゃありません。気に障ったなら謝ります」と弁明したが、銀事は俺の前から動こうとしない。どうやらこいつは、攻撃のターゲットを俺に決めたらしい。昔から俺は、こういう理不尽な目に遭いがちだ。今ではそんな星の下に生まれたのだと、半ば諦めている。
銀事は俺を舐め回すようにじろじろと見ると、鼻で笑いながら言い放った。
「貧乏そうな面しやがって。自分の立場を分きまえろ、この平社員が」
さすがにむっときたが、感情に振り回されてはならない。相手がどんな人間だろうと、冷静さを保つべきだ。それが社会人としての基本だ。俺はゆっくりと深呼吸をした。だが、言われっぱなしというのも癪に触る。
「私の面は関係ないじゃないですか。それより、ボーナスが出なくなることについて、もっと詳しい説明を求めます」
そう言うと、銀事は顔をしかめた。
「はあ?さっき俺が言ったこと、聞いてなかったのか?お前らみたいな現場の人間なんて必要ないの。これまでの古臭い経営方針は一新するから。ついていけない奴は、とっとと辞めればいい」
こんなとんでもない人間が社長になってしまったという事実に、俺は深い失望を覚えた。上に立つ人間にとって、社員を大事にする心は必要不可欠だ。だが、銀事にはそんな心など微塵もないらしい。あの物言いからは、社員を徹底的に見下していることが感じられる。
平一さんは、どうしてこんなバカ息子を二代目に任命してしまったのだろう。銀事がこれほどまでに駄目な人間になってしまった責任の一端は、親である平一さんにもあるだろう。今の銀事の傲岸不遜な態度を見れば、幼い頃からわがまま放題に育てられてきたことは明らかだ。いくら我が子が可愛いからといって、何ひとつ実績のない人間を社長にするなんて、馬鹿げている。
俺は、いつまでも親の権威に頼っている銀事が、なんだか哀れに思えてきた。あいつが威張れば威張るほど、まるで弱い犬がキャンキャン吠えているようにしか聞こえない。
「お前さ、俺に首にされる前に、さっさと退職届でも出した方がいいんじゃない?こっちもこれ以上給料出さなくて済むから助かるし。そうしろよ」
ここまで言われては、もうどうしようもない。多分、俺はこいつとは一生かかっても分かり合うことなどできないだろう。
「ほら、早く決めろよ。辞めるの?辞めないの?ったく、煮え切らない奴だな。こんなに判断力が鈍いとか、お前って典型的な仕事できない奴じゃん」
仕事ができないのは、そちらの方ではないか。銀事は入社してからまともに仕事をしていないと、俺は何人もの人間から聞いたことがある。それでも許されていたのは、社長の実の息子だからだ。こいつは自分の恵まれた境遇を悪用しているようなものである。本当に呆れた男だ。
こんな人間を野放しにしておくこと自体、会社にとって良いわけがない。みんなには悪いが、俺はこれ以上銀事と関わるのはごめんだ。そう思い、俺は満面の笑みを浮かべながら言った。
「わかりました。社長のおっしゃる通り、今日限りで退職させてもらいます。では、お世話になりました」
これが今の俺にできる精一杯の強がりだった。まあ、こんなクズの下で働くよりは、仕事を失った方がよっぽど幸せというものだ。俺の堂々とした態度に、銀事は少し面食らっているようだった。
俺はデスク周りの荷物をまとめ、足早にオフィスを出た。まさかこんな形で長年お世話になった会社を辞めることになるとは、夢にも思わなかった。だが、これ以上ここにいても状況は悪化するだけだ。この判断は間違っていない。そう思いながら、俺は自宅へと帰っていった。
翌日のことだ。俺は自宅のマンションのベッドの中にいた。平日の午前中に自宅にいること自体、かなり久しぶりだ。今日一日はゆっくりしよう。そう思っていた矢先、インターホンのチャイムが鳴った。来客の予定はない。誰だろうか。
パジャマ姿のままインターホンに出ると、カメラの前に立っていたのは、バディの前社長・平一さんだった。突然の訪問に驚く俺をよそに、平一さんは「話したいことがある」と言ってきた。体調不良と聞いていた通り、モニター越しでも顔色はあまり良くない。そんな体調の悪い中、わざわざ俺の元にやってくるなんて、一体何の用だろう。
不思議に思いつつも、断る理由もないので、そのまま平一さんを部屋に上げることにした。着替えて玄関のドアを開けると、そこで俺は平一さん以外にもう一人、来客がいたことに気づいた。銀事だ。インターホンのカメラでは映らない場所にでもいたのだろう。あんなことがあった以上、正直こいつとはもう二度と顔を合わせたくないと思っていた。だが、こうなった以上は仕方がない。俺は銀事も部屋に上げた。
部屋に入ってくるや否や、銀事は俺に詰め寄ってきた。
「おい、お前、一体どういうことだ?説明しろ」
突然そんなことを言われても、わけがわからない。説明してほしいのはこちらの方だ。興奮している銀事を止めたのは、平一さんだった。
「おい、やめないか。今日は雪君と喧嘩をしに来たわけじゃないんだから」
父親の言葉に、銀事は仕方なく俺のそばから離れた。平一さんは続ける。
「昨日のことは、銀事から全て聞いた。息子が勝手なことを言ったみたいだね。ところで君は、あの清水さんの住まいの施工管理を担当していたそうじゃないか。毎日現場に顔を出していた君が突然来なくなったことを知って、清水さんは相当怒っている。さっき苦情の電話までかかってきたんだ」
清水さんは施工当初から、俺の実直な仕事ぶりを買ってくれていた。だからこそ、俺が現場にいないことを不審に思ったのだろう。
「君も分かっていると思うが、あの豪邸が完成するかどうかに、うちの会社の評判はかかっている。どうか今から現場に戻ってはくれないか」
平一さんの提案に、俺は即座に首を横に振った。
「私にそんなことを言う前に、まずやるべきことがあるんじゃないですか?」
だが、平一さんも銀事も、俺が何を言っているのか分からないらしい。
「お前、何言ってんだ?つうか、お前みたいな平社員に、うちの親父の提案を断る権利なんてないからな。少しは身の程を弁えろ」
俺は銀事に平然と言い返した。
「私はもうバディの社員ではありません。昨日、社長に退職すると目の前で伝えたはずですよ。もうお忘れですか?」
俺の落ち着いた態度に、銀事はかなり苛ついているようだ。貧乏ゆすりが激しくなり、眉間の皺も心なしか深くなっている。俺は仕方なく、二人に俺が求めているものを教えてやることにした。
「悪いことをしたら、頭を下げる。これは常識でしょう。あなた方は、そんなことも分からないんですか?呆れたな」
そう言った瞬間、銀事が俺の胸倉を掴んできた。
「なんだと?この野郎、調子に乗りやがって。いいか?俺は社長だぞ。目上の人間に言っていいことと悪いことの区別もつかねえのか、お前は!」
声を荒げる銀事を、平一さんが慌てて止めようとする。
「やめないか!」
だが、銀事は俺からなかなか手を離そうとしない。
「いいから、とっとと現場に戻りやがれ。これは社長命令だ。逆らったら、ただじゃおかねえからな」
「あなたがきちんと謝罪しない限りは、絶対に現場には戻りません」
俺がきっぱりと断ると、銀事は握り拳を作り、次の瞬間、殴りかかってきた。俺は間一髪でその攻撃を避けた。しかし、銀事の拳は壁に激突し、ぽっかりと丸い穴が開いてしまった。
他人の自宅を破壊するなんて、人として完全にアウトな行為だ。
「なんてことするんですか?この穴の修理費用は、もちろん全額そちらが負担してくれるんですよね」
俺の問いかけに、銀事はまだ頭に血が上っているらしい。狂気を失った獣のように「うるせえ!黙れ!」と叫んだ。これでは近所迷惑だ。とっととこいつを家から追い出さねば。
ふと平一さんの方を見ると、息子がやらかしたことに驚いて、まるで銅像のように固まってしまっている。なんとも情けない姿だ。少し前まで俺は、一から会社を成長させた平一さんを尊敬していた。だが、こんなことになっては、もはやその敬意の念も消え失せてしまった。
俺は平一さんに何度か声をかける。平一さんはしばらくの間、俺の声すら聞こえていないようだった。ようやく返事をした平一さんに対して、俺は容赦なく告げる。
「謝罪するどころか、うちの壁に穴を開けるなんて信じられません。二人とも、今すぐここから出ていってください」
俺が玄関の方を指さすと、平一さんは慌てふためきながらすがりついてきた。
「ま、待ってくれ!雪君がいないと、清水さんに叱られるのはこっちなんだから。頼む。早く現場に戻ってくれ!」
こんな状況で、一体どの口がそんなことを言っているのだろう。厚かましいにも程がある。
「冗談じゃありません。もしこれ以上ここに留まるというのであれば、警察を呼びますよ。いいですね?」
俺が冷たく言い放つと、警察という言葉を聞いた平一さんの表情は、一気に青ざめた。平一さんはギャーギャー騒いでいる銀事の腕を引っ張る。
「何しやがる!やめろよ、親父!」
銀事が抵抗するが、平一さんは構わずに息子を引っ張って玄関の方へと向かっていく。ドアから出ていく際、銀事は「畜生、覚えてやがれ!」と捨て台詞を吐いた。どこまでも反省のない奴だ。
俺は壁の穴を撫でるように触りながら、これからのことを思案した。
その後、俺が理不尽に解雇されたという情報を掴んだ清水さんは、バディに注文していた住宅のキャンセルを要求したそうだ。銀事と平一さんはなんとか清水さんの怒りを鎮めようと必死に奔走したが、全ては無駄に終わったらしい。そして、バディの悪い評判は瞬く間に広まってしまい、住宅の注文数もぐっと減ってしまった。
そのことを気に病んだ平一さんの持病は悪化していき、今や介助なしではまともに生活もできないという噂だ。銀事といえば、他の役員たちから今回の騒動の責任を追求され、責任逃ればかり口にしていたが、事態を重く見た役員たちにより解雇が決定したらしい。全ては自業自得である。
一方、俺の生活には大きな変化があった。今回の騒動を聞きつけた清水さんの計らいにより、なんと俺は自分の建築会社を立ち上げることができたのだ。もちろん、清水さんの金銭的なバックアップがあったからこその独立だ。銀事に呆れ果てたバディ建設時代の同僚たちも、こちらに転職してきてくれた。
そして今は、清水さんの新築物件の施工にあたっている。現場の責任者は、もちろんこの俺だ。こんな幸運を掴むことができたのも、これまで手を抜かずに一生懸命頑張ってきたからだと俺は思っている。清水さんが見ていてくれたからこそ、今もこうして大好きな仕事ができているのだ。俺はこれからも、感謝の気持ちを忘れずに生きていきたい。
