「そんなゴミ、いらないだろう。なんでお前らはそんなに驚いてるんだ」
会議室の空気が一瞬で凍りついた。テーブルの上には、さっきまで俺が必死にアピールして、ようやく成立させた四十億の契約書があった。それが今、山下と名乗る男の手で、ばりばりと無残に引き裂かれている。
「契約書をゴミだなんて、何を言ってるんですか!」
香川さんが声を上げる。さっきまで俺たちの製品を「素晴らしい」と褒めてくれていた担当者だ。しかし、彼の上司らしい山下課長は、鼻で笑いながら香川さんの襟元を掴み上げた。
「お前の目は節穴か? こんな底辺企業のゴミみたいな製品が、うちの会社にふさわしいわけないだろう。それともお前もゴミみたいな目と頭してるってのか? 父さんに言って首にしてもらうぞ」
俺は、地面に散らばった契約書の切れ端を拾い集めながら、ただ黙ってその光景を見ていた。俺は木村秀、三十七歳。木村工業という父の会社で働いている。
中学を卒業してすぐに、この会社に入った。まだ学生だった頃、父の会社の経営はうまくいっていなくて、学費を払うお金すら惜しかった。俺は家のために働きたいと思って、社員になることを選んだ。両親は「高校にすら行かせてやれなくてごめん」と言ったけれど、俺はずっと父の後を継ぎたいと思っていたから、後悔はなかった。
そして、みんなで必死に働いたおかげで、経営は右肩上がりになった。昔と比べて会社は大きくなり、学歴がなくても問題ないと思っていた。俺の予想に反して、面倒なことが起きるまでは。
今回、俺は新製品を山下製品という会社に売ろうとしていた。この製品はうちの会社の自信作で、これからの時代にぴったりのものだった。だから、取引は絶対に成功すると思っていたし、香川さんの反応も良かった。契約が成立した時は、心から安堵のため息をついたものだ。
なのに、この山下という男が現れて、すべてを台無しにした。
「契約書ゴミだなんて、失礼ですよ!」
香川さんが必死に抗議する。しかし、山下さんはまったく悪びれずに、こちらを振り返ると、勝ち誇ったように笑った。
「お前、どうせ高卒とかじゃないんだろ? 底辺企業で働いてる奴は、みんな低学歴なんだよ。猿みたいな知能の奴らばかりで、大変そうだな」
「課長、そんな言い方は…」
「本当のことだろ。それとも、この俺が間違ったことを言うとでも?」
もう反論できなかった。こいつは、この会社の社長の息子だから、ここまで強気でいられるんだ。俺は小さく、気づかれないようにため息をついた。
「で、どこの高校なんだ?」と山下さんは続けた。「きっと聞いても分からないようなところなんだろうけど、教えてみろよ」
嘘をついて後でバレるのは面倒だと思い、俺は正直に答えた。「中卒です」
すると、山下さんは目を大きく見開いて、大声で笑い出した。「嘘だろ? 初めて見たよ、そんな底辺野郎」
「底辺企業の中卒と契約はないだろう」そう言って、彼は持っていた契約書を破り捨てた。大切な書類が、ひらひらと地面に舞い落ちる。香川さんは「何をしているんですか!」と叫んでいたが、山下さんはまったく聞く耳を持たなかった。
「なんでお前らはそんなに驚いてるんだ。こんなゴミはいらないだろう」
「契約書をゴミだなんて…」
「そうだよ。こんなことしたら、うちの会社が中卒のいる底辺企業と一緒ってことになるだろう。バカなことを考えるなよ」
香川さんは「でも、木村さんの製品はとても素晴らしく…」と言いかけたが、山下さんに胸ぐらを掴まれて、黙るしかなかった。俺たちの製品をちゃんと評価してくれている人なのに、権力には逆らえないらしい。
香川さんが目で「すみません」と言っているように見えた。こんな横暴で勝手な男がいるなら、仕方ない。俺はもう一度ため息をついて、言った。
「分かりました。契約はなかったことにします」
破れた資料をすべて拾い集め、俺は山下製品の会社を出ていった。その時、山下さんは「もう二度と底辺がこのビルに足を踏み入れるなよ」と言って笑っていた。
俺は「分かりました」と答えた後、心の中で誓った。絶対に後悔させてやる、と。
それから数日後、俺が忙しく働いていると、会社に一本の電話がかかってきた。社員が電話に出て、俺を呼んでいるらしい。すぐに受話器を取ると、耳をつんざくような怒鳴り声が飛び込んできた。
「お前、何をしたんだ!」
俺は眉間にしわを寄せて、受話器を耳から遠ざけた。怒号が収まった後、「何のつもりですか、山下さん?」と聞いた。
電話の相手は、あの日、契約書を破り捨てて俺を追い出した山下製品の山下さんだった。どうやら、文句があるらしいが、何が言いたいのかさっぱり分からない。
「さっき、香川からライバル社の新商品がバカ売れしているって聞かされたんだ」
どうやら、山下製品のライバル会社である「色々物販」という会社が新商品を出したらしい。それがSNSでも話題になるほど人気商品になったそうで、山下製品の社内は大騒ぎになっているという。色々調べたら、その製品が俺の会社で生産されたものだということが判明したらしい。だから、俺に電話をかけてきたというわけだ。
それは、全部山下さんが悪い。数日前、俺が契約しに行ったのは、実はあの「色々物販」と取引するためだった。本当は、山下製品に売ってほしかったんだ。うちの会社は、製品を作るのが天下一品だと自負している。これまでも、人気商品をたくさん生み出してきた。しかし、今回は歴代製品の中で一番と言ってもいいほどのものが完成した。だから、有名企業と契約して、実店舗でも販売しようという話になったんだ。
そのために、日本で有名な山下製品に取引をお願いしに行った。担当の香川さんの印象はとても良かったから、無事に成立すると思っていたのに、まさか話がまとまった後に破棄されるとは思わなかった。
もう許せなかった。うちの製品は絶対に売りたいし、会社の知名度と俺の学歴だけで判断されたことに腹が立った。「絶対に後悔させてやる」そう決めて、すぐに山下製品のライバルである「色々物販」にお願いに行ったんだ。
色々物販さんは、うちの製品をとても高く評価してくれた。すぐに「契約販売したいから、納品してくれ」と言ってもらえて、今に至る。
「なるほどね。でも、それはあなたがバカにした会社の製品が売れているんですよ」
俺がはっきりと伝えると、山下さんは「そんなバカな話があるか!」と怒鳴ってきた。
「だって、お前は中卒だろ。そんな学歴の低い奴がいる会社に、いい製品が作れるわけがない」
「確かに、私には学歴はありません。使うのかも分からない難しい数学や、外国の歴史なんて、私には全く理解できないでしょう。しかし、うちの製品を作るのに、そんなものは必要ありません」
「ありえない!」
「あなたは学歴が全てだと思ってるんですか? どれだけ勉強ができても、発想ができなければ物作りはできません。それに、努力できなければ、完成度の高いものは作れませんよね」
それは、きっと山下さん自身も頭では分かっているんだろう。しかし、一度見下した人間や会社を認めるのは、プライドが許さないのかもしれない。
「俺は、あなたがうちの製品をどう思おうと勝手です。今後、あなたと話すこともないでしょう。失礼します」
そう言って、受話器を置こうとした。正直、とても忙しくて、彼と電話をしている暇はない。今すぐ仕事に戻って、生産と納品の準備をしなくてはいけない。うちは大きな会社じゃないから、人手が足りない。社員たちは、俺の電話が終わるのを待っているだろう。
「待ってくれ!」
受話器の向こうで、山下さんが叫んだ。
「今すぐうちと契約してくれ」
「何を言ってるんですか? そんなことできるわけがありません」
「契約金は色々物販よりも多く出す。だから、いいだろう?」
「お金の問題ではありません。もう契約をしたのに、他の会社となんてできませんよ」
「なんとかしてくれ! 今、我が社は大変なことになってるんだ!」
山下さんは、勝手に今の状況を話し始めた。ライバル社の製品がバカ売れしていると騒ぎになった時、山下製品の社長である山下さんのお父さんが、すぐに情報を集めて対策を練るように言ったらしい。そして、うちの会社が作ったものだと分かり、香川さんが契約の時のことを話した。
すると、社長は「なんてことをしたんだ」と山下さんを激怒させたそうだ。「今すぐなんとかしろ」と言われ、もし契約を取れなかったら、もしかしたらクビになるかもしれないと怯えているらしい。
「お願いだから、契約してくれ!」
何度も何度も懇願される。しかし、相手が困っているからという理由だけで、取引をするわけがない。俺は、きっぱりと拒否して、今度こそ電話を切った。
その後も何度も電話がかかってきたが、山下さんの番号からの着信はすべて無視した。
それから一時間ほどが経った頃、もうすぐ仕事が終わりだという時間帯に、山下さんがうちの会社にやってきた。俺を見かけるとすぐに近寄ってきて、頭を下げた。
「お願いだから、どうにかしてうちと契約してくれ!」
なんと、土下座している。俺は慌てて「やめてくれ!」と言って立ち上がらせようとしたが、彼はまったく頭を上げようとしない。
「さっき、父さんに首を言い渡されたんだ」
聞いてもいないのに、彼は話し始めた。せっかくの工場の契約を破談にさせた罪は重く、社長は「息子だからと今まで甘やかしてきたのが間違いだった」と言って、減給や降格ではなく、解雇を命じたらしい。
山下さんは、自分が将来社長になると勝手に思っていた。だから、すぐに抗議したようだが、「お前を社長にしたら、この会社は終わりだ」と言われて、まったく取り合ってもらえなかったのだとか。
課長まで登り詰め、社長の息子としてプライドも高い山下さんには、信じられない出来事ばかりだろう。
「家族がいるんだ。今の地位をなくして食い扶持がなくなるのは、さすがに厳しい」
だから、なんとかしてうちと契約して、挽回しようとしているようだ。
「今の俺を助けてください! 大事な子供がまだ中学生なんです!」
必死に訴える彼に、心が痛まないわけではない。しかし、俺や会社にはまったく関係のない話だ。だって、契約しないと決めたのは、彼自身なのだから。
会社に来て土下座までして、本気で謝っているのなら、もしかしたら取引を考えてもよかったかもしれない。しかし、勝手に契約を破談にしたのも、俺たちをバカにしたのも、自分が困ったから土下座してるだけなのも、全部彼の都合だ。
そう割り切るのは簡単だが、やはり胸の奥がざわつく。だから、俺は父に目を向けて、どうするか相談しようとした。
すると、父がこちらに近づいてきて、静かに話し始めた。
「あなたは、うちの製品をバカにしたと聞いています。中卒がいる会社は、いいものは作れないと思っているんでしょう?」
「考えを改めました。本当に、御社の製品は素晴らしいです」
「そうですか。では、どこがいいと思ったんでしょう?」
「えっと…たくさんの人が使いたくなるような、ところでしょうか」
「具体的ですね。では、あなたはどうして多くの人が私どもの製品を選ぶと思いますか?」
「えっと…」
山下さんは答えられずに、口ごもった。彼がうちの製品のことを何も知らないまま、調べずにここまで来たというのが丸分かりだ。
それを見て、父は「本当に残念でなりません」と言った。
父は寛大な人だから、新製品は無理でも他の製品なら契約してもいいと思っていたらしい。しかし、会社まで足を運び土下座までしたのに、まったく誠意が見えない。それでは取引をしたいとは思えないと父は続けた。
「もしもう一度チャンスが欲しいのなら、それ相応の態度と敬意を示すものではないでしょうか」
しかし、山下さんは自分の事情を話し続ける。それに、今はもうすぐ仕事が終わる時間帯で、会社はみんな忙しい。こちらの都合をまったくお構いなしに話し続けられて、社員も迷惑している。それを気にするそぶりもなく、謝罪もほとんどしない人と、取引をしたいと思うだろうか。
いや、そんなことはないはずだ。
「山下さん、私どもはこれ以上あなたと話す気はありません」
父は優しい声で、しかしはっきりと伝えた。
「元々、生産数には限りがあります。新製品以外を大量に製造することもできません。なので、お引き取りください」
「そこをなんとか、お願いします!」
山下さんは頭を下げ続けた。プライドが高く、人を簡単に見下していた人がここまで謝るというのは、思っている以上に会社でひどい扱いを受けたのかもしれない。しかし、世の中はそう単純ではない。過去の行いの報いは、必ず自分で受けるものだ。
「帰ってくれないと、こちらも困るんだけどな…」
父が困ったような顔でそう呟いた。ため息混じりの言葉に、俺は山下さんの腕を掴んで、無理やり立たせた。そして、そのまま会社の出口に引きずって連れて行った。
「やめてくれ! お願いだ!」
慌てる山下さんの言葉を無視して、外に追い出す。「これ以上ここにいたら、不法侵入で警察を呼びますよ」と伝えると、彼は問題になるのを恐れたのか、強いられて顔色を悪くした。
それでも、「このまま帰ったら、父さんに何て言われるか…」と、会社の前をしばらくうろうろしていた。しかし、やがて観念したのか、違う方向へ歩き出した。
その背中は、悲しさに満ちていた。このままどこかへ消えてしまうのではないかと、思ってしまうほどだった。きっと、彼の頭の中は首になった絶望でいっぱいなんだろう。仕事を失い、家族のことも考えているのかもしれない。でも、これが彼が選んだ結果なんだ。
その後、俺はある噂を耳にした。山下さんは、本当に会社を首になったらしい。大きな利益になるはずだった契約を放り投げた罪や、不始末が原因だった。そして、なんと家族との縁も切られたというのだ。奥さんには、仕事を失ったことや将来社長になれないことを恨まれて、離婚を突きつけられたそうだ。子供二人の養育費も払わなければいけないようで、今は新しい職場で馬車馬のように働いているらしい。副業もして、一日中働きっぱなしのため、目の下に大きな隈ができていて、ふらふらの状態なんだとか。周りの人たちは、「このままじゃ、いつか倒れるんじゃないか」と心配しているという。
一方、俺はあれからも新製品を生産し続け、たくさんの人の手に届くように頑張っている。もう少ししたら、また新しい製品を作ろうと模索中で、会社のみんなで気合いを入れているところだ。中卒の俺が作った製品が、こうやって世の中に認められている。それが、何よりの誇りだ。
