夫の越郎と義母がニヤニヤしながら言い放った。「ああ、驚いた。ここは今日からママの部屋にする。あんたはリビングで寝てね。」笑い声が部屋に広がる。越郎は義母のベッドに上がって「ママ、おはよう」と抱きついた。情が湧かない。ため息すら出ない。それすらも無駄と思えるほどくだらない光景だった。「ダンボールが足りないわね。」夜勤明けで動き続けた体に鞭を打って、私は玄関を出る。あの2人が笑っていられるのも今のうちだ。彼らは私が何もできないと信じて疑わず、ここまで好き勝手をしてきたのだ。だが、その計算は最初から狂っていた。私がどこで何を積み上げてきたか、あの2人は何ひとつ知らない。それでいい。私は静かに動く。絶対に許さない。
私の名前は坂口あゆみ。43歳の介護師だ。朝の施設は独特の匂いと音に包まれている。消毒液のツンとした香りに混じって厨房から漂う味噌汁の湯気。廊下を伝う車椅子のカスカスという音。誰かが呼ぶ低い唸り声。そして窓の外から差し込む朝の光。この場所で過ごす時間が私にとっての日常だった。利用者の朝のケアを終えると、私は詰所で記録をつける。バイタルの数値、服薬の確認、夜間の様子。ひとつひとつを丁寧に記録しながら、ふと窓の外に目をやる。桜が満開の季節だった。この施設の庭に植えられた桜の木が、毎年変わらず花を咲かせている。
この仕事が好きかと聞かれれば、少し答えに詰まる。でも転職しろと言われれば、迷わず頷ける。それはきっと、物心ついた頃からこの世界が自分の隣にあったからだ。両親は二人とも介護師だった。父の成田正は地元の特別養護老人ホームで30年近く働いた男だ。無口で不器用だったが、利用者の名前と好みをすべて頭に入れていて、誰よりも丁寧に手を動かす人。母の成田幸恵は訪問介護の仕事をしていた。自転車で地域中を駆け回り、いつも日焼けした顔で帰ってくる人だった。夕食の席で二人が交わす会話は決まって仕事の話になる。難しい利用者の対応、家族とのやり取り、体が限界なのに頭だけが動いている老人の話。子供ながら、そういう会話が好きだった。
小学生の頃から母に連れられて施設に遊びに行くことがあった。最初は戸惑いもあった。呼びかけに反応しない人、独り言をつぶやき続ける人。けれど重ねるうちに、その空間が怖くなくなった。ある日、一人の老婦人が私の手をそっと握って「あなたはお母さんに似てるね」と言った。その温かさが今でも手のひらに残っている気がする。いつか両親と一緒に同じ職場で働くのが夢だった。しかしその夢が叶わぬまま、高校2年の秋に両親は亡くなった。雨の夜、帰りが遅いと思っていたら警察から電話がかかってきた。国道沿いの交差点で対向車と正面衝突したという。二人とも即死だったらしい。私は16歳で突然一人になったのだ。
両親の葬儀の場で、私以上に涙を流している男性がいた。介護施設を経営する田村施設長である。私がまだ幼い頃に施設を開業し、両親もその施設に出入りしていた。年の近い子供がいて、よく一緒に遊んだのを覚えている。一度に両親を失った私に、田村施設長は誰よりも寄り添ってくれた。「あゆみちゃん、辛いかもしれないが心配することはないよ。ご両親の意思は私が受け継ぐ。これからは私を頼っていいからね。」そう言って泣きながら私の背中を撫でてくれた。本当に両親と深い関わりがあったのだろう。両親が残した遺産を心配する親戚よりも、誰よりも私の悲しみを共有していた。そんな縁があり、高校を卒業した春、私は彼の施設に就職することを決めた。
「ここがあゆみちゃんの居場所だよ。困ったことがあれば何でも言ってね。」まだ未成年だった私の代わりに、田村施設長は本当によくしてくれた。生活面でも学校のことも、まるで両親のように真剣に向き合ってくれる。高校の卒業式にはご夫婦で参列してくれたのが嬉しかった。遺産の手続きをする時には、葬式でだけ会った顔も知らない親戚がどこからともなく湧いてきた。しかし、田村施設長がそんな親戚を一蹴してくれた。正式な相続人は私だけだったため、おかげで両親の遺産を滞りなく受け継ぐことができたのだ。両親が残してくれた財産の中身を、私は成人してから初めて詳しく知る。実家の土地の他に賃貸用の建物が一つと、そしてマンションが一室あった。預金も、派手な暮らしとは無縁だった両親らしく堅実に積み上げられた額が残っていた。「ご両親は本当に実直で素晴らしい人たちだった。財産より大切なものをあゆみちゃんに残してくれたんだよ。」田村施設長が言うように、両親がいなくなった後に生活に困ることはなかった。何度も仏壇に手を合わせ、両親に感謝する。「お父さんとお母さんが愛した仕事。私も頑張るよ。」
私はマンションに移り住み、働きながら介護職員初任者研修を取得。現場での経験を積み重ね、23歳で介護福祉士の国家資格を手にした。田村施設長が試験の合格を誰よりも喜んでくれたのを覚えている。そして30歳を目前にした頃、ケアマネージャーの資格も取得した。その頃から田村施設長は時折こんな言葉を口にするようになった。「あゆみちゃん、そろそろ素敵な人と出会って幸せになるんだよ。」私はいつも苦笑いで返した。介護の仕事に打ち込むことが両親への恩返しだと思っていたからだ。この世界で精一杯生きることが、二人が叶えられなかった夢を継ぐことだと信じていた。
そんな私が夫の坂口越郎と出会ったのは35歳の冬。田村施設長にお見合いを勧められたのだ。「私の妻の親戚の奥様が施設にいらした時に、あゆみちゃんを気に入ったみたいなんだ。是非うちの息子に会って欲しいと言われてね。会ってみるだけどうだい?」気乗りはしなかったが、田村施設長の顔を思えば断れなかった。現れた越郎は背が高く顔立ちの整った男性。当時は38歳とは思えないほど若々しく、柔らかな笑みを浮かべていた。どうしてこれほどの男性がこの年になってもお見合いをしているのか、というのが素直な感想だった。「僕、奥手すぎて女性とうまく話せないんですよ。でもあゆみさんとは不思議と話が弾みますね。」人懐っこい目元だった。物腰が柔らかく声が穏やかで、話をしているうちに肩の力が抜けていくような感覚があった。これまで感じたことのない初めての感情だった。同席していた義母の直子も、息子によく似た穏やかな雰囲気を持つ人だった。上品な物腰で、私に対してとても丁寧に接してくれた。越郎の父親が田村施設長の知り合いだと聞いて、根拠のない安心感が生まれた。
交際は1年半を経て結婚へと進む。両親を早くに亡くしていることも最初から打ち明けている。越郎は「僕が守ります」と言い、義母も「私を母親だと思ってね」と笑った。田村施設長を仲人に立てた式は、小さくとも温かいものだった。式の日、私は一つだけ心の中で呟いた。「お父さん、お母さん、見ていますか?私、結婚しました。」空にいる両親へのささやかな報告。これから幸せな人生が始まると思っていた。
結婚生活は穏やかな始まりだった。家事に対して一切の文句も言わない越郎。私が夜勤で家を開けても、帰りが遅くなっても嫌な顔をひとつ見せない。急な夜勤で夕飯の支度ができない日も「気にしないで、仕事頑張ってね」と笑って、義両親の家で夕飯を済ませてくれる。仕事に理解のある夫を持ったことを素直にありがたいと思っていた。新生活の住まいを両親が残してくれた賃貸の建物にしたのは越郎の案だ。元々はずっと住み慣れたマンションで暮らすつもりだった。しかし越郎が「これから家族が増えるかもしれないし広い方がいい」と言ったのだ。それに加えて義両親を近くに住まわせたいという希望も打ち明けてくれた。そのため義両親には私がこれまで住んでいたマンションに住んでもらい、借主のいなかった賃貸用の建物に越郎と暮らすことになったのだ。両親の実家はそのまま残してある。月に一度ほど足を運んで掃除をするのが私の習慣になっていた。
順調に思えた結婚生活の中で、少しだけ気になることがあった。結婚してすぐに義両親のマンションへ越郎と一緒に行った時のこと。それは何気ない親子の会話だった。「今日のママの服可愛い。似合ってるよ。」一瞬、自分の体が固まるのを感じた。成人男性が母親をママと呼ぶことに慣れていない私は、少し違和感を覚える。しかしその後も食卓で義母が料理を出せば「さすがママ、美味しい」と越郎が言う。電話口でも「ママ、今日どうだった?」と話しかけている。40歳手前の男性であっても、母親をそう呼ぶことは珍しくないのかもしれない。「僕は昔からママって呼んでるんだ。今更変える気はないよ。ママはママだし。」笑顔で返されると、それ以上は言えなかった。だが結婚前は母さんと呼んでいたと記憶している。義母も義母で、越郎に可愛がられるのが嬉しそうな様子。そんな二人の間に割って入る勇気もなく、小さな違和感は胸の奥にしまい込んだ。
越郎のママに慣れてきた頃、私は思い切って越郎に聞いたことがある。「越郎は子供のことをどう考えてる?」両親を早くに亡くした私にとって、家族が増えることは純粋な希望だった。すでに高齢出産の域に達していた私にとって、子供の話をするのは正直怖い。しかしちゃんと話し合うべきだとも思っていた。「子供はまだ早いよ。もっと新婚生活を楽しもう。」越郎はそれだけ言って話題を変えてしまった。私の思いは消化されない。なぜなら夫婦として過ごす時間は、思っていたよりずっと少なかったからだ。越郎が家にいるのは一週間のうち二日ほど。残りの日は義両親の家に行くか、仕事の付き合いだと言って帰りが遅い。私も夜勤が入ったり仕事が忙しかったりすると、一週間会わない時もある。寝室も自然と別になった。家の中に二人の気配はあるのに、夫婦としての温度がどこかへ抜けていく感覚。子供のことは半ば諦め始めていた。
そんな日常の中で、いつも変わらず私を気にかけてくれたのは田村施設長だ。施設で顔を合わせるたびに「あゆみちゃん、無理してないかい?」と声をかけてくる。業務の話よりも先に、私自身のことを心配してくれる。彼の目には、まるで両親のような静かで深い温かさがあった。家庭での悩みは多少あったが、仕事をしている時は忘れられる。私は嫌なことを払拭するように業務に身を出していた。
結婚して3年が過ぎた頃、義父の高志が入院することになった。長年患っていた持病が悪化したのだという。長期入院になるとの知らせを受け、義母から電話がかかってきたのはある平日の午後のことだ。「お父さんが入院することになってね。何かと物入りで困っているのよ。」入院費の話だった。詳しい金額は言わないまま、「一緒に出してもらえると助かるわ」という義母。どれくらいかかるのか確認しようとしたが、義母はそれ以上の説明をしない。結局、請求書が届くたびに私が全額を支払う形になっていった。それからというもの、越郎が義母の家に泊まる頻度がさらに増えた。「ママ一人だと心配だろ」という言葉を残して、何日も連続で帰らないことがある。その度に施設での夜勤と日勤をこなしながら、私は一人で家に戻った。そして義母からの電話は週に何度もかかってくるようになった。対応のほとんどが義父の入院費、病院への交通費、日用品が足りないといったお金の話。断れないまま応じ続けていると、気づいた頃には私の出費が随分積み上がっていた。
休日には「義父の見舞いに行ってほしい」と義母に言われることも増える。病院に足を運ぶと、義父の洗濯物が溜まったまま放置されているのが目についた。担当の看護師に声をかけると「ご家族がいらっしゃるのは久しぶりですね」と言われ、驚く。普段は義母が来ているものと思っていたからだ。越郎が「ママと一緒に父さんの病院に行く」と言って出かけたことも何度かあった。それが事実ではなかったと気づいたのは、その時だった。義父は掠れた声で「あゆみさん、すまないね」と繰り返した。その言葉が胸に刺さった。義父が謝ることではない。私は洗濯物を受け取り、体を拭き、できる範囲のケアをする。介護の仕事で培った手つきが、義父の前では自然と出てくる。私にできることを黙々とこなし、病院を後にした。
数ヶ月が過ぎた頃、義父が退院するという連絡が届く。医師から自宅療養が可能な状態まで回復したと説明を受けたとのことだ。完全に元通りというわけではなく、日常生活に介助が必要な部分も残っているという。私は内心ほっとしながら、退院後の生活サポートをどう整えるか考え始めた。ただ義母の反応は予想と少し違った。「あらあら。ずっと病院にいてくれてればよかったのに。退院したら家でまた大変だわ。」冗談めかした口調だったが笑えない言葉。長年連れ添った妻のセリフとは、とても思えない。退院後、分かりやすく越郎が義母の家に顔を出す頻度が減った。義父が戻ってきたことで、義母の「一人で寂しい」という口実が使いにくくなったのか。それとも義母の家に行けば義父の面倒を見ることになるからか。おそらく後者だろう。越郎が行かなくなった代わりに、義母が私たちの家に来る回数が増えていたからだ。何かと理由をつけては上がり込み、台所を使い、昼食を食べて帰っていく義母。義父のことが気になって電話を入れると、義母は開き直った。「心配ならあゆみさんが見てきたよ。私も疲れてるんだから。」その言葉に引っかかりを覚えながら、休日に義父の家を訪ねた。玄関に入った瞬間、空気の重さを感じる。換気が十分にされていない部屋に、食器が洗われないまま残っていた。義父は椅子に腰をかけ、窓の外をぼんやりと見ている。体を清潔に保つためのケアが、ほとんどされていない様子だった。本来であれば要介護の認定を受けて然るべき状態である。義父は私の顔を見た瞬間、目に薄く水膜を張った。何かを言おうとして、唇だけが小さく動く。私は何も言わず、まず窓を開けて空気を入れ替えた。溜まった食器を洗い、体を拭くための湯を沸かし、手の届く範囲を少しずつ整える。仕事で何百回と行ってきた動作が、今日ばかりは腕の奥に重くのしかかった。
そんなことが何回も繰り返された。気がつけば、義父が退院してから4年近く経った今も状況は変わらない。早朝から出勤して、帰りに義父の様子を見に行く。帰宅して家事を行い、就寝はいつも夜中の2時。夜勤の日は、仕事が終わったその足で義父の様子を見に行く。その間も義母は何もせず、自分の部屋で悠長に寝ていた。いくら病状が回復しても、食事の管理や衛生が保たれなければ元も子もない。何度も義母に介護を促すが、「あゆみさんがやった方がいいでしょ」と言うだけだ。越郎も同様で、「全部あゆみがやりなよ。僕は応援する」と言う。自分の父親なのに、まともに向き合おうとしない彼の態度に苛立ちすら覚えた。この状況であれば、本当に入院していた方が増しだとさえ思えてくる。
田村施設長に話を聞いてもらったのは、施設の廊下で立ち話をした時のことだ。「最近少し疲れた顔をしているな。何かあったかい?」義父の状態について、差し障りのない範囲で伝えた。余計な心配をかけないように、義母や越郎のことは触れなかった。義父が自宅での生活が難しい状態にあることだけを話すと、彼は少し考えてからある提案をしてくれた。「うちの施設に来てもらうのはどうだろう。彼とは旧知の中だしね。あゆみちゃんが安心できる環境で、ちゃんとケアしてあげられる。ちょうど入居者の入れ替わりの時期だから、部屋も開いているよ。」義父を施設に入れるというのは、全く考えなかったわけではない。私以外にも義母や越郎という介護ができる人間がいるのに、という思いは常にあった。しかし義父が施設に入れば、私も目の届く場所で様子を確認できる。今の状況を考えるとそれが一番だと思った。その日の仕事終わりに義父の様子を見に行った。同時に施設への入居という話を義母と義父本人にも聞いてもらおうと考えていた。だが義母は留守で、義父はその日朝から何も食事を取っていないという。「あゆみさん、いつもすまないね。うちの女房が朝から出かけたようで。」私は涙をこらえながら義父の食事を用意する。やはり義父には施設という環境が必要だ。
食事を終えた後、義父は私の話を静かに聞いてくれた。田村施設長の施設であること。私も同じ職場で働いていること。何かあればすぐに気づける環境であることを、ゆっくりと伝える。話を終えると、しばらく窓の外を見ていた義父は、ゆっくりと私の方に顔を向けた。「田村の経営する施設なら安心だろうな。そこであゆみさんも働いてるんだね。」義父はそれ以上は何も言わなかった。ただ皺の刻まれた手が膝の上でゆっくりと握られるのが見える。拒否でも承諾でもない。その仕草が返事の代わりのように思えた。
義父を施設に移すことを越郎に相談しなくては。その日、珍しく早い時間に戻ってきた越郎はソファーに腰を下ろしてスマホを眺めていた。私が義父の状態を説明すると、越郎は画面から目を離さないまま「そうなんだ」と短く返した。まるで他人事である。「ママも忙しいから、父さんに時間を割けないんじゃない。」介護が必要な伴侶の世話以上に優先すべき事柄などあるのだろうか。仮にあったとしても、実の息子が言うべき言葉なのかと首をかしげる。ずっとスマホを見ていた越郎だが、施設への入居を提案するとようやく顔を上げた。心なしか表情が明るい。「あゆみが決めたならいいんじゃない?ママへの説明は頼むよ。」自分の父親の話をしているとは思えない口調。それ以上何も言わず、越郎は再びスマホに視線を落とした。私はしばらくその横顔を眺めてから、静かに立ち上がった。正直、越郎が義母に話してくれることを期待していた自分がいる。期待も虚しく、義母への連絡は私がすることになった。義母に電話をすると、予想よりも明るい声色で聞かれた。「私はね、施設になんて入れなくていいと思ってるのよ。でも私も忙しいし、越郎も仕事があるし、仕方ないわ。どうしても入れるというなら、費用はあゆみさんが出してくださいね。」この時には何を言われても驚かなくなっていた。むしろ少し予想ができていた。費用を出すことにも迷いがなかったと思う。
入居の日、私は仕事前に時間を作って施設の玄関で義父を迎えた。案の定、義母の姿は見当たらない。施設の車が正面玄関に止まり、スタッフに付き添われて降りてきた義父は、施設の建物をゆっくりと見上げる。手入れの行き届いた植木、開け放たれた玄関、廊下の奥から漂う温かな食事の匂い。私が毎日過ごしている場所が義父の目にどう映っているのかを考えた。スタッフが笑顔で出迎え、部屋まで案内する。義父は無言のまま背筋をわずかに伸ばして歩いた。その後ろ姿がどこか逞しく見えた。部屋に荷物を置いて一息ついた頃に、義父がぽつりと言った。「綺麗なところだね。あゆみさんが働いているなら安心だ。」その言葉を聞いた田村施設長が、廊下からそっと顔を出した。「まあ、ここでゆっくり過ごすといいよ。ここには、あゆみちゃんもいるから。」義父は小さく頷いた。その顔に、家で見ていた頃の疲れが少しだけ薄れているのが分かる。
義父が入居したのを機に、義母は施設に顔を出すようになった。入居の日には付き添いすら来なかった母が。しかしその様子がどうにも落ち着かない。義父の見舞いかと思えば、田村施設長に話しかけることの方が多い。義母は他の利用者や家族がいる前で、わざとらしく声を張り上げた。「田村施設長。嫁のあゆみがいつもお世話になっております。主人とも昔からのお付き合いということで、ありがたいことですわ。」いかにも自分は施設長と深い縁があると誇示しているのが透けて見える。田村施設長は丁寧に応じていたが、その後で私にこっそり苦笑して見せた。施設に慣れてくるにつれ、義父の表情は少しずつ穏やかになっていった。食堂で他の利用者と肩を並べて食事をする姿。レクリエーションの時間に窓際の椅子でうとうとしている姿。家で見ていた、誰にも気づかれないまま一人で時間を過ごしていた頃の緊張が、少しずつほぐれているようだ。スタッフからも「坂口さんはとても穏やかな方ですね」と声をかけられるようになった。義父が家で過ごしていた日々を思うと、この静かな日常がどれほど貴重なものか、介護士である私には痛いほど分かる。
田村施設長が体調を崩し、施設の運営を継ぐことを考えていると聞いたのは、義父が入居して半年が経った頃だった。後継者についても話し合いが進んでいるという。私にとって田村施設長の存在は、施設の長であり、唯一の後ろ盾だった。その事実が静かに胸の奥に重みを持って落ちるのを感じる。「私はどこにいてもあゆみちゃんの味方だからね。それだけは忘れないでおくれ。」廊下ですれ違った時に、田村施設長がそう言った。何かを言い残しておきたいような、穏やかで少し寂しそうな目だった。私にとっても彼は、もう一人の父のような存在だ。両親を失った私を、ここで働かせてくれた人である。そうして田村施設長が施設に顔を見せることか減っていった。噂を聞きつけたかのように、さらに施設への出入りを増やす義母。表面上は夫の様子を頻繁に見に来る献身的な妻。およそそう見える。しかし彼女の目的が別のところにあるのは明白だった。
義母がまた施設にやってきた日のことだ。利用者の家族に混じって談話室にいた義母が、周囲にこんな話をしているのが聞こえてきた。「どうやら子供はできないみたいなんですよ。息子はずっと子供には積極的だったらしいんですけどね。言いにくいんですけど、あゆみさんの体質かしら?困ったものだわ。」誰に話しかけているのかも分からない声が、廊下まで流れてくる。私は足を止めた。体の中で何かがスーッと冷えていくのを感じる。その場に立ち入らず、踵を返して詰所に戻った。夫婦の間のことを他人に話す。しかも私に非があるかのように。その義母の後ろに越郎の顔が浮かぶ。あの柔らかな笑顔が、急にどこか遠いものに見えた。
田村施設長が施設に姿を見せる回数が減っていく中、新しい顔が私の前に現れるようになった。中村まき。田村施設長の娘で、施設を代理として運営することになったと、朝礼で紹介を受けた。年齢は私より二歳上。すらりとした立ち姿に、父譲りの落ち着いた目元。スタッフたちの視線が自然と集まるような、凛とした雰囲気を持つ女性である。その日の昼休み、まきが詰所に顔を出した。「あゆみちゃん、久しぶり。覚えてる?」声を聞いた瞬間、記憶の奥から懐かしい感触が蘇る。この施設に遊びに来るたびに、まきと一緒に遊んでいた記憶。お互いの両親が施設を通じて繋がっていたから、子供の頃はよく顔を合わせていた。「まきちゃん、全然変わってないね。」「あゆみちゃんこそ、ずっとここで働いてたんだね。父から聞いてたよ。」二人きりになると、声のトーンを少し落としたまき。父の体調のこと、施設の今後のこと、自分がここに来た経緯をゆっくりと話してくれた。「父はね、いずれあゆみさんにこの施設を引き継いで欲しいと思ってるの。私はそこまでの資格は持ってないし。将来的には病院で仕事をしようと思ってるから。」彼女は看護師の資格を持っているという。子供がまだ高校生で、落ち着いたら現場に戻るつもりだと話すまきの横顔は、どこか父親に似た静かな強さを持っていた。私が施設を引き継ぐ。そんなことを田村施設長が考えていたとは思わなかった。
詰所の扉が開いたのは、その直後のことだ。満面の笑みを浮かべる義母がそこにいた。「お母さん、いらしてたんですか?」義母がニコニコと笑いながら中に入ってきた。いつからそこにいたのか。私とまきの会話がどこまで聞こえていたのか。背筋に冷たいものが走る。「お父さんの様子を見にね。まあ、あゆみさん、あなたこの施設を受け継ぐの?いいじゃない。」まきが穏やかに微笑みながら「まだ何も決まっていませんよ」と返したが、義母の耳には届いていないようだった。上機嫌のまま義父の部屋へと歩いていく後ろ姿を、私はただ見送ることしかできなかった。
義母に話を聞かれてしまった。そのことが重くのしかかる。案の定、それからの義母は変わった。施設内での振る舞いが明らかに大きくなったのだ。スタッフに声をかける時の口調、利用者家族の集まりでの話しぶり。まるでこの施設が自分の所有物であるかのような態度で廊下を歩く。スタッフたちが困惑した顔で私に視線を向けることも増えたが、何も言えなかった。そして家に帰ると常に義母がいた。玄関を開けた時に漂う義母の香水の匂い。台所には使い終わった食器が出しっぱなしになっていて、リビングのソファーには義母がくつろいでいる。「あゆみさん、老人ホームって儲かるんでしょ?お父さんの入居費用も結構するものね。ああ、楽しみだわ。」「お母さん、まきさんも言ってましたが、何も決まってないんですから。」「私、欲しいものがいっぱいあるのよね。」返す言葉を持てないまま台所に立っていると、玄関の扉が勢いよく開いた。越郎だった。ただし一人ではない。派手な身なりの女性を三人連れて、ニコニコと上がり込んでくる。「え、どちら様?」「友達だよ。お腹空いてるって言うから。あゆみ、何か作ってよ。」夜勤明けの体で朝から動き続けてきた一日の終わりだった。知らない女性たちの前で当然のように料理を求める夫の顔を見ながら、胃の奥が重くなるのを感じる。「お友達なら問題ないわよね。」女性の一人が不遠慮な声で言った。「えっちゃん、結婚してたんだ。」「まあね。でも仮初めみたいなものだから、気にしないで。」「それにこの人、お金持ちなのよ。」「本当に助かるわ。これからも面倒見てもらわなくちゃ。」二人の声が重なってリビングに響いた。怒りが込み上げてくるのを、唇を結んで抑える。反論すればこの場がどうなるか分かっていた。私は黙って冷蔵庫を開け、あるものを並べることだけを考える。
女性たちは翌朝まで帰らなかった。義母もそのまま泊まっていき、明け方には散らかり放題になったリビングだけが残された。越郎は出勤の時間になっても寝室から出てこない。ようやく顔を出したかと思えば、こう言った。「今日は会社休む。電話しといて。」自分で休む連絡くらいできるはずだ。それすら私に任せようとする感覚が理解できない。義母が起きてきたのは、私が出勤の支度をしている時だった。「あゆみさん、3万円ほど頂戴できるかしら?今日お買い物に行きたいのよ。」私の財布に入っていたのは3000円だけだった。それを差し出すと、義母の表情が一変した。「は?3000円。」「痛いな。俺の嫁だろ。金持ってるんだから、よしなさいよ。」廊下に声が響く。驚いて振り返ると、越郎がのこのこと部屋から出てきた。「ごめんね、ママ。うちの嫁が。俺がお金あげるから、我慢して。」そう言って義母の肩を抱き、子供をあやすように背中を擦る越郎。その光景に胃の奥から何かが競り上がってくるのを感じながら、私はカバンを持って玄関を出る。外の空気を吸っても、その重さはしばらく消えなかった。
それからの義母はさらに変わった。金の話が日常の中心になった。施設の話を聞いてから、その傾向は一層強くなっている。「断るごとにいくらになるの?何が手に入るの?」と聞いてくる。時には驚くようなことを平然と口にする。「田村さん、まだ元気なのかしら?無理しないで、楽になればいいのにね。」その言葉を聞いた瞬間、胸の内側で何かが音を立てた。田村施設長の命をまるで邪魔者のように語る声に、返す言葉を見つけられなかった。越郎が仕事を辞めたと告げたのは、ある朝のことだ。「ママがやめていいって言ったから。」それだけ言って、また部屋に戻っていった。日中はパチンコに出かけ、夜になると知らない女性を連れて帰ってくる日が続いた。家の中は少しずつ荒れていく。私は自分の部屋だけは何とか守っていた。義母が「あなたの部屋で寝かせなさい」と言う度に、穏やかに断る。あの部屋だけが、この家で唯一自分でいられる場所だったからだ。
施設に行けば義母が大きな顔をしている。家に帰れば越郎が見知らぬ女性を連れ込んでいる。追い詰められた夜は、誰もいない実家に車を走らせた。両親が暮らしていた家の鍵を開け、電気もつけないまま畳に座る。静寂の中に、両親の気配だけが残っている気がする。「お父さん、お母さん。」この時の私は、自分の居場所を守ることで精一杯だった。
目が覚めた時、見慣れた天井があった。両親の実家の和室。昨夜、疲れ果てたままソファーに横になったのだろう。窓の外から鳥の声が聞こえる。久しぶりの休日だった。この家にいる間だけは、あの家の空気から遠ざかることができる。あの家に帰るのが怖い。頭の中にそんな言葉が浮かんできて、自分でも驚いた。怖いという感情ではないかもしれない。正確には疲れているのだ。帰るたびに何かを削られていく感覚が、積み重なっている。それでもあの家は、両親が残してくれた場所だ。私が守らなければならない。越郎は一日中出かけていることが多い。義母は夕方には決まって出かける習慣がある。その隙を見計らって戻ろうと考えながら、ゆっくりと体を起こした。
休みとはいえ、施設にいる義父のことが頭から離れない。家に帰る前に顔だけ出しておこうと思った。施設に着くと、顔見知りのスタッフが少し驚いた様子で声をかけてきた。「あれ?あゆみさん、今日はお休みでしょ?」「お父さんのことが気になって。今日の様子はどうですか?」スタッフの表情が、わずかに曇る。今日は朝から部屋を出てこないのだという。義父はいつもは、体調が優れない日でもプレイルームに顔を出す。「何度か声をかけたんですが、反応が薄くて気になっていたんです。」義父の部屋をノックして、ドアを静かに開ける。「お父さん、あゆみです。どうかされましたか?」椅子に腰をかけたまま、窓の外に目を向けている義父の横顔があった。寂しいという言葉以外に形容できない表情だった。気配に気づいたのか、彼はゆっくりとこちらに顔を向ける。そして無言のまま、引き出しから一枚の紙を取り出して差し出した。受け取った瞬間、息が止まった。離婚届だった。義母の名前がしっかりと記入されている。そして証人欄に記載されていた名前を見て、目を見開いた。越郎の名前だった。息子が両親の離婚に証人のサインをしている。「今朝、うちの女房が持ってきたんだ。もう不要だとさ。」不要。その言葉が耳の奥でじわりと広がった。長年連れ添った夫に向かって「不要」と言い放てる神経が理解できなかった。義父は施設の費用が出なくなったから、見切りをつけられたのだろうか。そんな考えが頭をよぎった瞬間、体の奥から何かが込み上げてきた。「もうこの施設にもいられないかな?」「そんなことありません。」気づいたら義父の手を両手で包んでいた。皺だらけの冷たい手。義父は驚いたように目を瞬かせてから、ゆっくりと視線を落とす。怒りが静かに湧いてくるのを感じた。越郎と義母の身勝手さへの怒りだけではない。この人がずっと誰にも顧みられないまま時間を過ごしてきたことへの、やり場のない感情。
怒りを胸に抱えたまま、家に向かった。義母は夕方に出かけるはずだ。昼を過ぎていれば越郎も外に出ているだろう。そう思っていたのに、玄関を開けるとリビングから声が聞こえてきた。越郎と義母の声だった。昼間から酒でも飲んでいるのか、弛んだ軽薄な笑い声が混じっている。とっさにスマホを取り出して、録音機能をオンにする。自分でもなぜそうしたのか説明できない。ただ体が先に動いた。「父さん、すんなりサインしてくれるといいけどね。」「無理にでも書かせるから大丈夫よ。あの施設が手に入れば、お父さんは不要だもの。」笑い声が廊下まで漏れてきた。不要。先ほど施設で聞いたばかりの言葉が、また耳に刺さった。「ママが紹介してくれたあゆみ。父さんより使えるね。」「ま、父さんも悪くなかったけどさ。あの人はケチでダメよ。退職してからは役立たず。」「病院の上の介護とか、勘弁して欲しいわ。」二人の声は軽やかで、まるで日常会話のようだ。「この家も手に入ったし、施設も手に入ればもっとお金持ちになれるね。」「実は全部あゆみさんに任せて。私たちは優雅に暮らしましょう。楽できるわ。」廊下に立ったまま、二人の会話を聞いていた。義父もまた、彼らの計算の中に組み込まれた存在だったのだ。この婚姻の最初から、すべてが仕組まれていたのかもしれない。そう気づいた時、録音を止めてそっと玄関を出た。冷たい空気を吸い込みながら、スマホを握りしめる。義母が離婚を突きつけたのであれば、義父の貴重品がどこへ行ったか分からない。まずそれを確認しなければ。
車に乗り込んでから、施設に電話をかける。義父が出るまで、少し時間がかかった。「お父さん、あゆみです。今からマンションに行って、貴重品をお持ちしようと思うんですが、よろしいでしょうか?」「頼む。引き出しの中の茶色いケースだ。それだけ持ってきてもらえれば。」短いやり取りだったが、義父の声が少しだけ安堵したように聞こえた。電話を切って、マンションへ車を走らせる。到着してエントランスのオートロックを解除する。エレベーターを降り、部屋の前に立つとわずかに違和感を覚えた。鍵を差し込もうとした時、ドアの向こうから人の気配がした。先ほど義母は確かに私の家にいた。では、今ここにいるのは誰なのか。「あの、すみません。誰かいますか?」すると廊下の奥から、見知らぬ年配の女性が顔を出した。「どちら様でしょう?」「それはこちらが伺いたいのですが、どうしてこのお部屋に?」「昨日からこちらに引っ越してきたんですよ。まだ片付いてなくて。」私は何も聞いていない。「元々大家さんが住んでたみたいで、大家さんの荷物は昨日運ばれていきましたよ。物置きは使えないからって。」「その分、家賃も安くしてもらったんです。」「あの大家さんというのは、この部屋のオーナーさんですよ。坂口さんだったかしら。前家賃も敷金もちゃんとお渡ししましたけど。」声が出なかった。大家というのは、おそらく義母だ。彼女はこのマンションを勝手に他人に貸したのだ。家賃を受け取って、自分の懐に入れた。義父の荷物を物置きに押し込んで、さも自分の所有物のように扱った。一階の共有スペースにある物置きに向かう。鍵は私も持っている。扉を開けると、義父の私物が無造作に詰め込まれていた。大切に使われた形跡のある衣類が、雑然と押し込められている。その中に、義父の貴重品が入ったケースを見つけた。ひどいという言葉しか出てこない。貴重品のケースを持って、施設に戻った。義父に中身を確認してもらうと、大切なものは全て揃っているという。ほっとした息をついた直後、廊下からまきの声が聞こえてきた。「あゆみちゃん、ちょうどよかった。今夜のシフト、急に入れなくなったスタッフがいてね。無理にとは言わないけど、交代をお願いできそう?」「分かった。大丈夫。入るよ。」即答だった。まきが少し目を細めて、私の顔を見る。「あ、何かあった?」誤魔化せなかったのだろう。私は小さく頷いて、まきと一緒に施設長室へ向かった。扉を閉めると、まきは黙って向かいに座った。急かすでも促すでもなく、ただそこにいてくれる。それだけで言葉が出てきた。義父の離婚届のこと。廊下で聞いてしまった会話のこと。マンションで出会った見知らぬ女性のこと。物置きに押し込められた義父の荷物のこと。話しながら、自分がどれほど追い詰められていたかを改めて知った。まきは全てを聞いた後、少し考えてから口を開いた。その言葉に、私は思わず顔を上げる。信じられないと思った。でも同時に、これしかないとも感じた。
翌朝、夜勤を終えて体は重かった。それでも頭の中は奇妙なほど冷えている。施設を出て家へ向かう車の中で、まきの言葉を反芻した。それにしても、まきちゃん随分斬新なことを思いつくものだわ。独り言が静かな車内に解ける。玄関を開けると、リビングから越郎の声がした。「あれ?帰ってきたんだ。お腹空いたから、何か作って欲しいな。」甘えたような声。昼近くだというのに、今し方起きたばかりのような弛んだ空気を漂わせている。背筋に冷たいものが走った。さっき廊下で聞いた会話が頭の中で再生される。返事をしないまま自室に向かった。ドアを開けた瞬間、体が固まる。見知らぬ家具が部屋を埋め尽くしていたからだ。趣味の悪い花柄で覆われた大きなベッドが、私のベッドがあった場所に鎮座している。その上に義母が寝ていた。気配を感じたのか、義母は大きなあくびと共に身を起こして、ベッドの縁に腰をかけた。「ああ、よく寝たわ。」背後に気配がする。振り返ると越郎が立っていた。「ああ、驚いた。ここは今日からママの部屋にする。あんたはリビングで寝てね。」越郎と義母がニヤニヤしながら言い放つ。笑い声が部屋に広がる。「どういうこと?」「だってママがこの部屋気に入ったんだもん。あ、あゆみの荷物は納戸にあるから。」それだけ言うと、越郎は義母のベッドに上がって「ママ、おはよう」と抱きついた。感情が湧かない。ため息も出ない。それすらも無駄と思えるほどくだらない光景だと思った。「あら、何?その目。あんたも越郎と離婚でもする?無理でしょ。親もいなくて天涯孤独。その上、恩のある田村さんの仲介で越郎と結婚したんでしょ。」ここぞとばかりに田村施設長の名前を出す義母。そうすれば私が言うことを聞くとでも思っているのだろうか。「離婚なんてできるわけないわよね。田村さんの顔に泥は塗れないもの。あんたは黙って、この先も私たちに尽くしてればいいのよ。」越郎と義母の下品な笑い声が重なる。吐き気がした。静かに部屋を出て、納戸へ。扉を開けると、私の荷物が雑然と押し込まれていた。ダンボールが数枚、畳まれたまま干してある。一枚を広げて、目についたものから順番に詰め始めた。手を動かしながら、頭は静かに回転していた。義父のこと、義母が受け取った家賃のこと、田村施設長と施設のこと、この家のこと、廊下で録音したあの会話のこと。その全てが、順序良く並び始めていた。ダンボールが足りないわね。夜勤明けで動き続けた体に鞭を打って、玄関を出る。外の空気が冷たい。歩きながら、心の中で静かに言葉が生まれた。これで終わりにする。怒鳴るわけでも泣くわけでもない。ただ、それだけが揺るぎない核として胸の中心に根を下ろした。あの二人が笑っていられるのも今のうちだ。彼らは私が何もできないと信じて疑わず、ここまで好き勝手をしてきたのだ。だが、その計算は最初から狂っていた。私がどこで何を積み上げてきたか、あの二人は何ひとつ知らない。それでいい。私は静かに動く。絶対に許さない。
ダンボールを積んで家に戻ると、中は静まり返っていた。リビングを覗いても義母の姿はない。車もない。二人がどこへ行ったのかは知らないし、知る必要もない。むしろ好都合だ。誰もいない家の中に立って、湿った空気を吸い込む。先ほどまであれほど騒がしかった場所が、今は妙に広く感じられた。玄関の隅に脱ぎ捨てられたままの義母のサンダルだけが、まだそこにある。それすらもう関係ない。自室だった部屋の前に立つ。ドアの取っ手に手をかけて、一度だけ深呼吸をした。開けると、まだ義母の香水の残り香が漂っていた。嫌ったるい重い匂いだ。趣味の悪い花柄のベッドは、寝て起きた時のまま。私のベッドがあった場所に、他人の寝具が収まっている光景をもう一度正面から見る。不思議と怒りは湧いてこなかった。ただ、早くここを片付けてしまいたいという焦りだけがある。散らかったままの床に、義母が脱ぎ捨てていった靴下が落ちている。怒りにもならなかった。納戸を開けると、私の荷物が雑然と押し込まれたままになっていた。ダンボールを広げて、黙々と詰め込んでいく。仕事着、日用品、本、小物。それほど多くはない。この家に越してきた時から、なんとなく荷物を増やす気になれなかったのかもしれない。自分のものがこの家に馴染んでいく感覚が、ずっと無かった。そのことに今更気づいて、少し胸が痛む。両親の写真が入った小さな写真立てを手に取った時だけ、少し手が止まった。結婚式の日に持ってきた、唯一の家族の写真だ。二人の笑顔がこちらを見ている。母は白いブラウスを着ていて、父は照れたように視線をずらしている。ここに置いていくわけにはいかない。タオルで丁寧に包んで、ダンボールの一番上に乗せた。思ったよりも早くまとまった。この部屋で過ごした時間を振り返る余裕はあまりない。愛着がなかったわけではない。結婚当初、ここが自分の居場所になると信じていた頃もある。越郎と並んで台所に立った朝も、二人で食卓を囲んだ夜も確かにあった。ただ今の私には、そこに浸る時間よりも先にやるべきことがある。ダンボールを一箱ずつ抱えて車に運び込みながら、頭の中で手順を整理していた。
荷物を全て車に積み終えて、玄関の鍵を閉める。振り返らずに、そのまま実家へ向かった。両親が暮らしていた家の玄関を開けて、ダンボールを運び込む。積み上げられた箱を和室に並べながら、ここが今の自分の居場所だと改めて思った。静かで清潔で、誰の声もしない。両親の気配だけが空気の奥にある。夕暮れ前の光が縁側から差し込んで、畳の上に細長い影を作っていた。母がいつも座っていた場所に、光が当たっている。しばらくそれを眺めてから、深く息を吸った。仏壇に向かって手を合わせる。線香に火をつけると、細い煙がゆらりと立ち上った。「お父さん、お母さん。少しだけ待っていてください。」心の中でそう呟いて、立ち上がった。
次に車で向かったのは、両親の時代から付き合いのある不動産会社である。駅前の通りに面した小さな店構えだ。ガラス張りの窓に、物件情報が何枚も貼られている。子供の頃から何度も前を通ったその店に、今日は客として入る。自動ドアが開くと、カウンターの奥から店長の宮田が顔を上げた。白髪が混じりの、人の良さそうな顔だ。私の両親が賃貸物件の管理を任せていた頃からの知り合いで、私が相続してからも変わらずお世話になっている。父のことも母のことも、よく知っている人だった。彼は事務仕事の手を止めて、少し驚いた様子で立ち上がった。「あゆみちゃん、今日はどうしたんだい?珍しいね、突然。」いつもの穏やかな声だ。カウンター越しに向かい合うと、宮田の目が私の顔を一度だけ、確認するように動く。何かを察したのかもしれない。「あの家を売ろうと思っています。」彼の表情が一瞬止まった。目の前の書類から視線を上げて、私の顔をまじまじと見る。いつも穏やかな人が、珍しく言葉を探しているようだった。店内に流れる静かなBGMだけが、変わらず続いていた。「え、貸し出しじゃなくて?」「ちょっと、やむを得ない事情がありまして。」住んでいる人間がいる場合、売却が難しくなることは知っている。現に今も越郎と義母があの家に住んでいる。法的な手続きが必要になる場合もあるだろう。それでも構わなかった。両親が残してくれたあの家を手放すことになっても、あの二人にだけはこれ以上住み続けて欲しくなかったからだ。その思いだけは、どれだけ考えても揺らがない。今日ここに来たのは、その覚悟を形にするためだ。「いざとなったら、弁護士の先生にご依頼しますから。加藤先生です。」加藤弁護士も、両親の時代からお世話になっている先生だ。相続の手続きの折に知り合い、それ以来何かあるたびに相談に乗ってもらってきた。穏やかな口調の中に、確かな筋の通った人だった。ここに来るまでの車の中で、すでに電話を入れてある。事情を話すと「分かりました。動きます」と即座に答えてくれた。その一言にどれほど救われたか分からない。宮田はしばらく私の顔を見ていた。長い付き合いだからこそ、言葉にしなくても分かることがある。やがて彼は静かに一つ頷いて、口を開いた。「分かったよ。あゆみちゃん、任せて。」その一言で十分だった。胸の中で何かが少し解けるのを感じる。両親が築いてきた縁が、今の私を支えてくれている。そのことがじわりと胸に広がった。
施設に向かったのは、それからしばらく経ってからのことだ。今日も夜勤に入るが、出勤時間にはまだ余裕がある。駐車場に車を止めて、建物の中へ入る。廊下を歩くと、利用者の笑い声がどこかから聞こえてきた。レクリエーションの時間だろうか。変わらない日常の音が、今日はいつもより温かく聞こえた。到着するなり、まきの部屋へ直行した。「まきちゃん、あの件お願いできる?」まきは私の顔を一度見てから、静かに頷く。その目に迷いはなかった。「分かった。明日、声をかけてみるわ。」部屋を出る時、まきが背中に向かって小さく言った。「あゆみちゃん、今夜は無理しないでね。」その声が廊下に静かに溶けた。
翌日の午前中、義母と越郎が施設に現れた。二人揃って施設長室の前に立つ姿を、廊下の影から確認した。義母は長袖で、口元に笑みを浮かべている。越郎はいつもの弛んだ様子とは打って変わって、どこか浮き足立っていた。二人の顔には、普段とは違う期待の色があった。まるでいい知らせを待ちわびている人間の顔だった。「本日はお越しいただき、ありがとうございます。どうぞ中へ。」施設長室に通されたのは、義母、越郎、そして私の三人だ。まきが扉を閉めて正面に座る。部屋の空気が静かに引き締まった。その表情は穏やかだが、目の奥に鋭いものが宿っている。義母も越郎も、そこには気づいていないだろう。「実は皆様にお伝えしなければならないことがあり、越しいただきました。」誰も口を開かない。義母が体をわずかに前のめりにする。期待を隠しきれていない。「昨日、父が永眠しました。」まきが言葉をつまらせる。一瞬、部屋の空気が変わった。すると義母の口から短い声が漏れる。「あら、まあ。」越郎が素早く義母の腕を掴んだ。「やったな」なのか「やっとかな」なのか。最後まで言葉にはならなかったが、どちらであっても不謹慎極まりない。私は正面を向いたまま、視線を動かさなかった。まきの目が一瞬だけ、二人の方に向く。その目に浮かんだ感情を、義母も越郎も気づいていないだろう。薄い笑みを浮かべたまま、まきは続けた。「これはスタッフにもまだお伝えしていません。動揺させるといけませんので。父と信頼の深かった坂口様だけに、先にしてお伝えしています。」義母の顔がパッと明るくなる。特別に知らされたという事実が、よほど嬉しいらしい。背筋をわずかに伸ばして、いかにも重要人物であるかのような顔をしている。先ほどの衝撃など、もう頭にないようだった。「そこで、正式にあゆみさんを新施設長に任命したいと思っています。私の父の意思でもありますので。」義母が膝の上で拳を握るのが見える。ガッツポーズをこらえているのが、見ていて滑稽だった。越郎も口元の笑みを隠しきれず、軽く咳払いをしてごまかしている。二人の顔に浮かぶ色があまりにも露骨だった。「ただ、まだ内密にしていただけますか?正式発表は来週を予定していますので。」「ええ、もちろんよ。」義母の声のトーンが、今まで聞いたことのないほど低く抑えられていた。秘密を共有したことで、自分が特別な立場に置かれたと思っているのだろう。その目が爛々と輝いている。「来週、新施設長のお披露目会をスタッフだけで行う予定です。幸い施設の経営も順調でして、あゆみさんに引き継ぐことが、父の長年の願いでしたから。」「それじゃあ、引き継いだ後は、田村さんはもう無関係になるのよね。」「ええ、まあ、そういうことになりますが。」「全てこちらに権利が移るということですよね。」こちらというのが、自分たちを指しているのは明白だった。私が施設長になれば、それは自分たちの施設も同然だと、この人は本気で思っているのだろう。その確信に満ちた顔が、哀れというよりも滑稽だった。私は黙ったまま正面を見ていた。「まあ、施設長はあゆみさんになりますから。嬉しいわ。」義母は、田村施設長の死を悼むでもなく、葬儀のことも何ひとつ訪ねてこない。今は施設がどうなるかという話にしか興味がないのだろう。越郎も同様で、口元の笑みを隠そうともしない。逆上せそうになって、私は自然に窓の外へ目を向けた。まきはその様子を、ゴミを見るような静かな目で眺めていた。義母が「さあ、忙しくなるわ」と言って立ち上がる。椅子を引く音が部屋に響く。その動作に、田村施設長への哀悼のかけらもなかった。「坂口さん、くれぐれも内密に。分かってるわよ。」手を振りながら部屋を出ていく義母の後ろに、越郎がついていく。「まあまあ、帰りに寿司でも食べようよ。お祝いも兼ねてさ。」「いいわね。」二人の声が廊下に響いて、やがて遠ざかった。足音が消えていくのを聞きながら、私は椅子の上で静かに息を吐いた。あの二人の笑い声が遠くなるにつれて、部屋の静けさが戻ってくる。施設長室に残ったのは、私とまきだけになった。「本当に不謹慎な人たちね。あゆみちゃん、今まで本当によく耐えたわね。お疲れ様。」その言葉が、思いがけず胸に染みた。耐えてきた。ずっと一人で、誰にも全部は話せないまま日常をこなし続けてきた。義父のこと、義母のこと、越郎のこと。仕事が終わるたびに実家に逃げ込んで、電気もつけないまま暗い和室に座っていた夜のことを思い出す。それを誰かに言葉にしてもらえたのは、初めてのような気がした。返事をしようとして、うまく声が出なかった。代わりに、小さく頷いた。「ここからは一緒に動くから。あなたは一人じゃないよ。」窓から差し込む光が、施設の床に長く伸びていた。
家から姿を消して一週間が過ぎた。あれから、あの家には帰っていない。越郎からの着信は初日だけで七回あった。義母からも、同じくらいかかってきたと思う。最初のうちは、留守番電話に切り替わるたびに苛立ったような声が残されていた。「どこにいるの?早く帰ってきなさい。」その声に、心配の色はない。あるのは焦りと命令だけ。私は一度も折り返さなかった。二日目以降、着信の回数は減っていった。それでも毎日必ず数回はなる。画面に越郎という文字が浮かぶたびに、廊下で録音したあの会話が蘇る。静かに画面を裏返して、仕事に戻った。実家の和室は、ダンボールが片付いてからは穏やかさを取り戻していた。両親の残した家具はそのままにしてある。父が読んでいた本棚、母が使っていた裁縫箱。縁側に置かれた小さな炬燵。誰かが暮らしていた温かさが、この家には今も残っている。彼らはこの家の場所を知らない。結婚してから、私の実家について話したことはほとんどなかった。義母も越郎も、私の過去には興味がなかったからである。育った場所も、両親がどんな人間だったかも、何ひとつ聞いてこない。今思えば、それが唯一の逃げ場を守ることになった。興味を持たれなかったことが、唯一の救いだったとは。皮肉なものだ。そして、まきの計らいで、しばらくの間は系列の別施設で仕事をすることになった。義母たちとの接触を避けるための措置だ。環境は違えど、仕事の内容は変わらない。利用者の朝のケアをして、記録をつけて、食事の介助をする。慣れない場所でも、体は動いた。むしろ普段の施設ではない分だけ、頭の中が整理されていく感覚があった。手を動かしながら、次に何をすべきかを考える。加藤弁護士とのやり取りも、この一週間で着実に進んでいた。まきからは毎日のように電話が入った。「今日も来たわよ。二人とももう我が物顔で廊下を歩いてる。」電話口のまきの声に、呆れと苦笑いが混じっていた。あの話をしてから、義母と越郎は施設を自分たちの所有物だと完全に思い込んでいるらしい。廊下を歩く時も、利用者家族と話す時も、まるでここのオーナーのような態度だという。「内密に」と釘を刺されているにも関わらず、義母は廊下で利用者家族に何かを吹き込んでいる様子。秘密を抱えていられるような人間ではない。きっと言いたくて仕方がないのだろう。「ただ、あゆみちゃんがいないのは焦ってるみたい。仕事を全部任せるつもりだったから。」それはそうだろうと思った。施設を手に入れたとしても、自分たちには何もできない。介護の知識も資格も経験も、何ひとつ持っていない。私という駒がいなければ、絵に描いた餅だ。義母の目論見は最初からそこにあった。私は彼らにとって、施設を手に入れるための道具に過ぎない。
数日後、まきから深刻な声で電話がかかってきた。「お母さんが、施設長室に無言で入り込んでたの。帳簿を探してたみたい。スタッフが気づいて私に連絡をくれたんだけど、駆けつけた時にはもう部屋の中を漁ってたわ。」ぞっとした。それほどまでに踏み込んでくるのか。その神経の太さに、怒りよりも呆れが勝ってしまう。「でも大丈夫。帳簿は全部パソコンの中に移し替えて、パスワードもかけてある。こんなこともあるかと思って、先週のうちに済ませておいたの。」まきの声は落ち着いていた。彼女は最初から、ここまで冷静に着実に手を打っている。私一人では、とてもここまで動けなかっただろう。「来週のあの会を行うから、その時にこっちに来てちょうだい。」「分かったわ。」電話を切って、窓の外を眺める。実家の庭に、両親が植えた金木犀がある。秋になると毎年、甘い香りを漂わせる木だ。今年も変わらず、橙色の小さな花を咲かせていた。その香りを胸いっぱいに吸い込みながら、来週と心の中で繰り返した。いよいよだ。
当日の朝は、よく晴れていた。施設の駐車場に車を止めて、建物を見上げる。いつもと変わらない外観なのに、今日だけは少し違って見える。誰かが待っているようだ。受付をして、玄関を抜けた。広間にはスタッフが集まっていた。普段は利用者のレクリエーションに使われるその部屋が、今日は別の空気をまとっている。折りたたみの椅子が整然と並べられ、正面には小さな演台が置かれていた。スタッフたちの顔に、緊張と期待が混じっていた。義母と越郎もすでに来ている。「あら、あゆみさん、どこに行ってたのよ。連絡もしないで。」広間に響く声で、義母が駆け寄ってきた。心配している風に見せているが、目の色が違った。焦りと苛立ちと、そして計算の色が混じっている。「本当にどこにいたの?連絡くらいしてよ。」越郎も歩み寄ってきた。普段の弛みはどこへやら。今日は背筋を伸ばして立っている。まるで重役のような顔をして。その滑稽さに、笑いそうになるのをこらえた。私が何も答えないでいると、越郎は薄く笑って首を傾げた。「僕たちから逃げたつもり?でも家族なんだから、逃げられるわけないよね。」その言葉に、私は何も返さない。今日、全部終わる。それだけが頭の中にあった。まきが演台の前に立ち、マイクを手にする。「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。皆さんにお知らせがありま――」その瞬間、義母がスッと前に出た。待ちきれずに、まきの手からマイクを引き取って、スタッフたちの前に立つ。まきは一瞬だけ目を瞬かせながら、静かに後ろへ下がった。私は思わず口元が緩んだ。まきがわざと義母にマイクを渡すタイミングを作っていたのに、自ら飛び出してきたのだから、よほど待ちきれなかったのだろう。何日も何日も、この瞬間のために体の内側で言葉を温め込んでいたのだ。「皆さん、おはようございます。お集まりいただきありがとうございます。」場が騒ついた。誰だ、この人は、という空気が広間を静かに流れる。スタッフの何人かが顔を見合わせた。「前置きの挨拶なんて必要ありませんわ。単刀直入に言います。今後この施設は、私たちが管理することになりました。」広間が静まり返った。義母は満足そうに胸を張り、越郎も誇らしげに腕を組んでいる。スタッフたちの視線が、困惑と疑問の色を帯びて交差する。誰一人として、声を上げない。その沈黙を、義母は歓迎と受け取ったのだろう。さらに声を張り上げた。「今後は、私たちの指示に従ってください。」スタッフの一人が、おずおずと手を上げた。「あの、施設長が変わるんですか?田村施設長の具合はどうなんですか?」「ああ、皆さんまだ知らないのね。田村施設長は、先日お亡くなりになったそうです。」広間が凍った。まきが「内密に」と釘を刺していたのに、あっさりと口にしてしまった。これだけの人数の前で、これだけの秘密を披露できる機会など早々ない。だからこそ、止められないのだろう。義母の声はさらに大きくなっていった。「正直申し上げて、あの方の運営は古いと思っていましたの。設備も考え方も時代遅れと言いますか。ですので今後は、利用料をもっと引き上げて、より高度なサービスを提供していきます。」田村施設長が亡くなったと聞かされたその場で、利用料の値上げを宣言する。スタッフたちの顔に、困惑を通り越した何かが浮かんでいた。「それに伴い、実務はうちの嫁の坂口あゆみが担当します。ですが、事実上のトップ、施設長は、息子の坂口越郎が就任します。」義母ならそういうだろうと、最初から分かっていた。越郎が施設長。その言葉の意味を、スタッフたちは一瞬考えてから、ほぼ同時に同じ疑問を持ったようだった。「その方は、介護の資格をお持ちなんですか?」「あ、介護資格?そんなのいらないでしょ。旦那が介護で。」「お母さん、介護を甘く見ないでください。」自然と口が出ていた。「介護施設の管理者には、社会福祉士、介護福祉士、医師、看護師などの国家資格保有者で、一定以上の実務経験が法律で定められています。」私の言葉に、義母が迷惑そうに眉をひそめる。難しい言葉が理解できないのか、時々首を傾げていた。「資格も経験もない方が、施設長に就くことは法的に認められません。越郎さんにそれができるとは、私には思えませんが。」「はあ?できるに決まってるでしょ。あんたでもできるんだから。」「お言葉ですが、私は介護福祉士とケアマネージャーの資格を持っています。夜勤も続けながら、何年もかけて取得したものです。それを『あんたでもできる』とおっしゃるのは、この場にいる全員への侮辱ではないですか?」義母の顔が歪んだ。言い返す言葉を探しているようだが、出てこない。代わりに、別の方向へ矛先が向いた。「言っておきますけどね。うちの主人は田村施設長と旧知の中だったの。あんたの親みたいに、ただの知り合いとは立場が違うのよ。私に意見しないでちょうだい。」広間が騒つき、スタッフたちの顔に唖然とした表情が浮かぶ。「とにかく、亡き田村施設長の意思を受け継いでいるのは、私たちなんです。この先は、誰も私たちに口答えできないと思って。」義母の声が天井に響いて、広間が静まり返る。その時だった。ギィ、と車輪の回る音が聞こえてきた。その場にいた全員が、その音の方向に顔を向ける。広間の入り口のドアが、静かに開いた。マスクをした男性が、車椅子を押しながら入ってきた。背筋の伸びた、見覚えのある歩き方だ。「え、お父さん?」車椅子を押していたのは、義父だった。施設のリハビリが着実に効を奏しているのだろう。マスクの上から見える目には力があった。顔色も悪くない。ゆっくりと確かな足取りで、車椅子を押しながら広間の中央へ向かって進んでいく。そして、その車椅子に乗っていたのは、田村施設長だった。スタッフたちの顔に、次々と笑みが広がっていく。何人かが、思わず口元を押さえた。みんな知っていた。今日のために、ずっと黙っていたのだ。田村施設長の訃報を匂わせたのは、義母と越郎の暴走を煽るための方便である。そして、この場にいるスタッフ全員が、その計画の協力者だったのだ。田村施設長はゆっくりと広間を見回した。いつもと変わらない、穏やかな目。一瞬だけ私と目が合って、小さく頷く。それだけで胸の奥が暖かくなった。「私は、あなたに施設を託した記憶はありませんが。」義母の顔から、みるみる血の気が引いていく。越郎も、口を開いたまま固まっている。「ど、どうして、だって、まきさんが……」義母がまきに視線を向けるが、彼女は無表情のまま田村施設長の隣に立っている。義母はもう一度まきを見るも、まきは動じない。その様子を見て、ようやく二人は気づいたのだろう。最初から、嵌められていたのだと。「う、でも、施設長、あなたがあゆみに施設を任せると言ったんでしょ?それはつまり、うちの家族に任せるということでしょ?」「お前たち、見苦しいな。今の話、全部聞いてたぞ。」低く、しかし確かな、義父の声。義母が振り返る。義父はマスクをゆっくりと外して、義母を見た。その目には、怒りよりも深い静かな疲労がある。「あゆみちゃんもおっしゃっていましたが、介護を甘く見ないでください。この仕事に誇りを持って向き合っている人たちが、ここにはいます。その人たちの前で吐いた言葉を、どうかご自身でよく考えてください。」田村施設長の言葉が、広間に静かに落ちた。「それと、私が施設を託しているのは、このあゆみ君です。あなたではありません。」義母の顔が真っ赤に染まる。「ひどいじゃないですか。謝ってください。」田村施設長は越郎の方に視線を向けた。穏やかな目だが、その奥に揺るぎない意思がある。「越郎さん、あなたは仕事を辞め、奥様の収入で生活しながら、日中はギャンブルに興じていたようですね。自宅には、見知らぬ女性を複数回連れ込み、奥様の口座から無断で引き出しを繰り返していた。表向きは、事実ですね。」越郎の顔から笑みが消えた。「それについて、補足があります。」まきが一歩前に出る。「越郎さんは、この数週間、施設にいらっしゃる際に、利用者のご家族の女性の方々に繰り返し声をかけていました。複数の方から苦情が入っています。そして、私にも同様のことがありました。証拠もございます。」スタッフたちが互いに顔を見合わせる。そのうちの一人が、おずおずと手を挙げた。「その、あゆみさんの旦那さんだと思ってずっと黙ってたんですが、先日、町で越郎さんを見かけたんです。女性の方と一緒で、親しそうにされていました。」他にも声が上がり始めた。見ていたこと、気になっていたことを、それぞれが語り出す。越郎の額に、じわりと汗が滲んでいた。腕を組んでいた手が、いつの間にか下ろされている。出会った頃、「僕は奥手なんで」と言っていた男が、この有様だ。義母が声を張り上げる。「あゆみさんが仕事ばかりで、越郎の相手をしないのがいけないんでしょ。妻としての自覚があるんですか?」「それは違う。」義父の声が、義母の言葉を断ち切った。「あゆみさんは、お前が放置した私の世話をずっとしてくれていた。入院中は、毎日洗濯物をまとめて持ってきてくれたんだ。退院してからも、夜勤明けの体で食事を作り、身の回りを整えてくれた。お前と越郎が見向きもしなかった間、あの子だけが、ずっとそこにいた。私は、それを全部見ていた。」義父がこれほど長い言葉を口にするのを、聞いたことがなかった。握った拳に力が入っている。当時のことを思い出しているのだろう。「いや、違うな。父さん、僕とママで何度も見舞いに行ったじゃないか。忘れちゃったの?」「あ、父さんが寝てる時だったかな。」明らかな嘘であることは、ここにいる全員が気づいている。越郎の言葉に、一人のスタッフが声を発した。「え、その年になっても、お母さんのことをママって……」広間の空気が、また別の意味で騒ついた。笑い声も聞こえてくる。さすがの越郎も、顔を真っ赤にして俯いてしまった。どんな虚勢を打ち消すかのように、義母が義父に向かって叫んだ。「何よ、あゆみさんばかりか。あなたが甲斐性のない人だったのがいけないんでしょ。退職して役立たずになったから。」「だから、父さんは役立たずなんかじゃないですよ。」田村施設長が穏やかな声で遮った。「彼は昔から、先見の目があった。知らなかったのですか?退職後も、コツコツと積み上げてきた人ですよ。」義父がリハビリの傍らで続けていた投資の話が、静かに語られた。長い時間をかけて堅実に積み上げてきた資産。その額は、義母が想像しているよりもずっと大きかった。すると義母の目の色が、瞬時に変わった。先ほどまでの険しさが消えて、愛想笑いとも取れる表情が浮かぶ。「そうなの?だったら、早く言ってちょうだいよ。もう、あなたったら、水臭い。」数分前まで「役立たず」と呼んでいた相手に、途端に笑顔を向ける。その変わり身の速さに、スタッフたちは呆気に取られている。越郎も同様だった。「僕も、静かに父さんのこと尊敬してたよ。本当だよ。」義父は迷いなく首を横に振った。「お前たちにやれる金など、一円もない。忘れたのか。離婚を突きつけてきたのは、お前だろうが。」義母が、ぴたりと動かなくなった。離婚届のことなど、すっかり忘れていたのだろう。義父はすでに離婚届を提出し、離婚は成立している。「で、でも、僕は父さんの息子だよね。だったら、遺産とかそういうものは……」義父は少し間を置いてから、口を開いた。その表情に、迷いと覚悟が混じり合っている。言おうか言うまいか、ずっと迷っていたのかもしれない。それでも今日言わなければ、きっとこの先もずっと言えないままだろう。「申し訳ない。お前は、俺の子じゃないんだ。母さんの連れ子で、本当の父親との間で、俺と養子縁組はしていない。」「え?どういうこと?」義母には、かつて別の相手との間に子がいた。実の父親は認知し、越郎が18歳になるまで養育費を払う約束をしたという。その代わり、将来自分が窮した際には越郎を頼るかもしれない、という含みを残して。義母が義父と結婚したのは、越郎がまだ一歳になる前のことだったらしい。金のある男を見つけた。それだけのことだったのだろう。「だから、お前に残せる金もない。そのうち、本当の父親がお前を探し回るかもしれないがな。」越郎の顔色が、みるみる変わっていく。余裕が消え、視線が泳ぎ、やがて私のところで止まる。「あ、あゆみ、君は僕の味方だよね。」すがるような声だった。私はその目を、まっすぐに見返した。「そんなわけないでしょ。なるつもりはない。ただ、はっきりと言わなければならなかった。離婚一択です。」そして、話し始めた。結婚してからの年月。義父の入院費を全額負担し続けたこと。義母に無心されるたびに応じてきたこと。夜勤明けの体で、義母の知人たちに食事を振る舞ったこと。自分の部屋を奪われた夜のこと。廊下で録音した、あの会話のこと。淡々と、しかし一つ一つを丁寧に語った。そして最後に、マンションの件を口にした。「お母さんがマンションを無断で他人に貸し出し、家賃を受け取っていたことは、不法行為に当たります。入居されていた女性とは、私が改めて正式に賃貸契約を結びました。」義母の顔が強張った。「また、あの家については、売却が完了しています。もう少しすると、正式な立ち退きの依頼が届くはずです。」「は?売却?あの家は、越郎のものでしょ?」「私名義の物件です。売却に、他の誰かの同意は必要ありません。」義母が最後に吠えた。「あ、あんたなんて、所詮こそ泥じゃないの?田村さんに頭が上がらないくせに、離婚なんてできるわけないでしょ。田村さんのコネを使って結婚したくせに。」「頭が上がらないのは、私の方です。」田村施設長の声には、確かな真剣みがある。広間の空気がピンと張り詰めた。「私が若い頃、両親の介護が必要になりました。しかし当時の私には、それと向き合う覚悟がなかった。何もできないまま途方に暮れていた時、病院の廊下で偶然、一組の夫婦に出会ったんです。」広間の誰もが、息を飲んで聞いていた。「その夫婦は、介護の仕事をしていると言いました。そして、ほとんど無償で、私の両親のもとへ通い続けてくれたんです。仕事が終わった後も、夜遅くても、駆けつけてくれた。両親が最後の時を迎える、その瞬間まで。その真心は、一度も揺らがなかった。」田村施設長の目が、私に向けられた。「その夫婦が、あゆみさんのご両親です。お二人の姿を見て、私は初めて、介護という仕事の意味を知りました。そして、この施設を作り、今日まで続けてこられたのは、あのお二人がいたからです。」広間が静寂に包まれる。両親が田村施設長と、そんな風に出会っていたことを、私は知らなかった。一度もそれを話してくれなかった両親。ただ黙って、誰かのために動き続けていた人たちだった。そのあり方が、今こうして私の目の前で形になっている。私は何が何でも、彼らに恩返しをしなければならない。そして、彼らが残してくれた大切なものを傷つける者は、絶対に許さない。「婚姻関係は解消です。これまでの行為については、全て正式に問題にさせていただきます。」義母と越郎は、もはや何も言えなかった。広間の中で、二人だけが取り残されたように立っている。義母は唇を震わせ、越郎は床を見つめている。あれほど大きかった声が、今はかけらもない。スタッフたちは、誰も助け舟を出さなかった。出す理由が、誰にもないからだ。最初に崩れたのは、越郎だった。膝から力が抜けるように、その場にしゃがみ込む。床に手をついて、肩を震わせた。「施設長の息子」と腕を組んでいた。さっきまでの姿は、どこにもない。残ったのは、寄る辺を失った中年男だった。「あゆみ、助けてよ。」絞り出すような声だった。顔を上げた彼の目は赤くなっていて、涙が頬を伝っている。私に向かって伸ばしてくるその手が、震えていた。義母も続いた。先ほどまでの勢いが嘘のように、その場に崩れ込む。「あゆみさん、お願い。私たちを助けて。」半泣きで目元を押さえながら、言葉を繰り返す。声が枯れている。これほど追い詰められた義母の顔を、私は見たことがなかった。それでも、胸は動かない。「あゆみさん、あなたしかいないのよ。お願い。」私は二人を見る。答えは、最初から決まっていた。「私にとって、あなたたちはもう過去の存在です。過去は振り返りません。永遠に。さようなら。」それだけを言って、前を向く。怒りはもうなかった。長い間胸の奥で燻り続けていた感情が、今日ようやく形になって消えていくのを感じる。長い何かが終わったのだという、実感があった。義父が私の方に顔を向け、深く頷く。それだけで十分だった。この人に届いていた。それが分かったのだから。長い戦いが、終わろうとしている。私は静かに歩き出す。もう振り返る理由はない。二人の嗚咽が、遠くなっていく。胸の中は静かだった。嵐が過ぎ去った後の空のように、どこまでも澄んでいた。
その後は、思っていたよりも早く決着することになる。加藤弁護士が動き出すと、積み上げられた証拠の重さが、じわじわと効いてきた。義母の悪行は、一つではなかった。私名義のマンションを無断で他人に貸し出し、家賃を着服し続けた不法行為。施設長室への不法侵入と、帳簿類の無断閲覧。そして、長年にわたる生活費の無心と、預金口座からの無断引き出しへの関与。加藤弁護士が証拠を一つ一つ並べていくたびに、義母の顔から色が失われていたと、後から聞いた。民事では、損害賠償と慰謝料の支払いが命じられることに。刑事の手続きも、正式に進んだ。義母は最後まで言い逃れを図ったが、加藤弁護士の前では通用しなかった。両親の時代から積み上げてきた信頼と実績を持つ彼の前で、義母の言い訳は、紙上の城のように崩れていったという。越郎との離婚は、想像していたよりも早く成立した。録音データと、まきが収集した不貞の証拠。施設での素行に関する、スタッフたちの証言。それらが揃っていれば、調停の場で長引く理由がなかった。慰謝料は満額で認められた。弁護士費用を差し引いても、手元に残る額は十分である。八年間削り続けてきた分の、せめてもの補填だと思うことにした。越郎の実の父親は、義父の言葉通り、しばらくして現れたという。事業に失敗して困窮しているらしく、認知した息子を頼ってきたのだという。越郎がどう答えたのかは知らない。知ろうとも思わなかった。
義父は施設に残った。離婚が成立してからも、私は変わらず顔を出している。リハビリの成果で、最近は廊下を杖なしで歩けるようになったと、担当スタッフから聞いた。義父は多くを語らないが、私が来るたびに少しだけ表情が柔らぐ。ある日、帰り際に「ありがとう」とだけ言われた。たった五文字だったが、それ以上の言葉は要らなかった。実家に戻って初めての春。縁側に座って、両親が植えた木を眺める朝が好きだ。仕事に出かける前の、静かな時間。冬の間は枯れ枝だけだった木に、小さな芽が吹き始めている。こんなに穏やかな朝が、ここにずっとあったのだと、今更のように気づいた。今、私は新しい施設長として、まきと並んで仕事をしている。田村施設長は現役を退いたが、時折顔を出しては、利用者と話し込んでいる。その背中を廊下から見るたびに、両親のことを思う。あの二人がいたから、この場所がある。私がここにいるのも、きっとその続きなのだろう。私は誰かに感謝されるために働いているわけではない。誰かに認められたくて続けてきたわけでもない。ただ、目の前の人に誠実でありたいと思って、ここまで来た。それだけのことが、今は誇らしかった。庭の金木犀が、今年も花をつけるだろう。両親が見ていてくれているなら、どうか安心して欲しいと思う。お父さん、お母さん、私は幸せです。
