午後四時、給与明細が配られる一階の応接フロアに、社員たちが集められていた。六月最後の金曜日、蒸し暑さが窓の外から漂ってくる。中央に立つ二代目社長、霧谷俊介が手にしたマイクを一度下ろし、ゆっくりと周囲を見渡した。その隣で営業の藤崎レナがスマートフォンを弄るふりをしながら、わざと声を張った。
「へえ、本当に下がってるんですね。可哀想に」
その言葉に、何人かが息を呑んだ。人事が配った白い通知書には、基本給改定後の評価として「マイナス五万円」と赤字で記されていた。全員三万円の引き上げのはずが、私だけが五万円の引き下げ。どうやらこの会社は、変化についていける者にお金を使う方針らしい。
だが私は怒らなかった。泣きも、机を叩きもしなかった。ただ、通知書を二つに折り、淡々と口を開いた。
「承知しました」
周囲がどよめく。社長も一瞬、目を丸くした。だがそれだけだった。私はそのまま定位置へ戻り、デスクの引き出しから一冊の赤い手帳を取り出して胸ポケットにしまった。十五年前、社会人初日、検査員だった父から渡された、あの手帳だ。
父は言っていた。「数字の向こうには人がいる。数字だけ見て仕事をするな」と。私は教えられた通り、誰が、いつ、何を言ったか。どのロットに違和感があったのか。必ず手帳に残してきた。父はもういない。だけど、この手帳だけが、私の背中を押してくれていた。
六月二十七日、金曜日。午前中、私は決済を求める書類を三回、社長の机に置いた。いずれも却下された。理由は決まって「コストに見合わない」。そして金曜日の午後、会社は私に「退職」を告げた。私が退職届を出したのではなかった。会社が、私の権限を削除したのだ。退職処理は人事システムから自動で連携され、私のアカウントは停止された。十八時四分、私は会社を後にした。
その夜、私は机の前に座り、手帳にもう一つ、メモを書き足した。「六月二十七日、十七時四十三分、社長メール。即時、権限削除、引き継ぎ不要。明日から藤崎にやらせる」と。そして、こうも書いた。「検査時刻改ざん、四月から数回。佐藤証言、あり」。
翌朝、九時十二分。スマートフォンが鳴り響いた。社長からの着信だ。三度目で私は電話を取った。
「お前、何をした」
「おはようございます、社長。何のご用件でしょうか」
「システムが全部止まってる。取引先から契約凍結の通告が来た。お前の仕業だな」
「私は何もしていません。昨日十八時四分で私のアカウントは執行停止されました。停止操作はしていません。ご確認ください」
「じゃあ復旧させろ。パスワードを教えろ。今すぐ来い」
「行きません。引き継ぎ資料は三ヶ月前から共有フォルダーに置いてあります。単一管理者のリスク是正として、四月から三度、副管理者の設置を提案しましたが、いずれもコストを理由に却下されました。決済メールも保存されています」
「そんな硬い名前、分かるわけないだろう。お前、わざとやってるんだろ」
「いえ。手順書は共有フォルダーの『業務継続計画』にあります。場所が分からなければ、システム管理会社の担当者にお尋ねください。私は既に退職処理が完了しておりますので、システムに触れることはできません」
「退職処理だと? 俺は退職を認めた覚えはないぞ」
「六月二十七日十八時四分、人事システムから自動連携されました。会社のアカウントから私の権限が自動削除されています。これで私の責任は果たしました。以降の問い合わせは顧問弁護士の市石先生までお願いします」
「損害が出たらお前を訴えるぞ」
「ならば、正式な書面でお願いします。社長、今の発言も記録されています。勢いは理由になりません」
電話が切れた。私はスマートフォンを置き、カップに残ったコーヒーを一口含んだ。机の上には、あの赤い手帳が開かれたまま置かれている。六ページ目に、私は幾つかの数字を書き込んでいた。「四月十二日、検査時刻、四十二ロット分。五月六日、同様。六月二十日、同様。すべて出荷前データの検査時刻が本来の記録と一致せず。修正は社長の指示。元ファイルは監査フォルダーに保存」。
数時間後、今度は通知音が鳴った。人事課長の大塚経由で、会長名義のメールが届いたのだ。
「緊急会議を開く。会長も出席される。お前も出てくれ。ただし、あの男を同席させることは許さん。条件がある。会議の記録と議事録の作成、それからシステム管理会社と取引先の監査担当者にも参加してもらう」
「分かりました。条件を飲みます。ただし、私から一つだけ要望があります。副管理者の設置を、今回の議題に含めてください」
午後一時、私は自宅からオンラインで会議に参加した。会長の姿が映り、その隣に社長も座っている。だが、最初に口を開いたのは社長だった。
「お前が会社を止めたんだろう。よっぽどの意地悪だな」
「私は当番の停止操作をしていません。昨日の十八時四分、人事システムから連携された退職処理で、自動的に権限が削除されました。係員、私の証言は記録されています。システム管理会社の担当者、確認できますか」
画面の端にいた技術担当者が頷いた。「技術的にも、中村氏による停止操作は確認されていません。十八時四分、人事システムから連携された退職処理により権限が自動削除されています。それ以外の操作記録は、私どもでも調べましたが、存在しません」
「じゃあ、社長が勢いでメールを送ったからだろう」と、会長が口を挟んだ。「この馬鹿者が。お前、なぜ止めなかった」
私は手帳を開き、静かに読み上げた。「六月二十七日、十七時四十三分、社長メール。『即時、権限削除。引き継ぎ不要。明日から藤崎にやらせる』。このメールを、私は削除していません。それから、四月十二日、五月六日、六月二十日、三回にわたり、出荷前データの検査時刻が改ざんされた記録があります。指示を出したのは、社長ご自身です。元ファイルは監査フォルダーに残っています。私が触らなければ、このまま残り続けます」
「ふざけたことを言うな!」社長が机を叩いた。
「証言は録音されています。佐藤彩佳さんからも、指示を受けた証言を取っています。彼女はあなたに消せと言われたが怖くて残しておいたと言っていました。監査フォルダーの中に、そのロットの生データも保存されています。検査日時を改ざんすれば、出荷先の品質記録も偽装することになります。取引先の品質監査で発覚すれば、当社の信用は一瞬で崩壊します。もはや、こんな話ではありません」
会長が深く息を吐き、社長を睨んだ。社長は唇を噛み、何も言えない。
「中村、お前はどうしたい」と、会長が静かに言った。
「私はもう退職しました。しかし、あなたが望むなら、三日間だけ復職します。その間に、副管理者の設定と、システムの監査体制を整えます。ただし、条件があります。一、私への給料減額は撤回すること。二、藤崎の人事評価は、第三者機関の監査を受けること。三、この会議の内容を、取引先と監査法人に全て開示すること。これが飲めないなら、今ここで退職を受理してください」
「そこまでするのか」と、会長が呟いた。
「ええ。十五年間、信用を守る仕事をしてきました。数字の向こうに人がいる。機械は正しい。でも人間は、都合が悪くなると記憶を変える。だから、私は記録を残してきたんです。私が止めなければ、この会社は潰れていたでしょう」
沈黙が続いた。やがて、会長がどこか哀しそうな目で私を見て言った。
「分かった。お前の言う通りにする。復職を認める。そして、副管理者の件も、今日から進めてくれ。すまなかった、中村。私の息子が、お前にこんなことをしたとは知らなかった」
「謝罪は不要です。私がしたことは、私の決めたことですから」
会議が終わり、回線が切れた。私はスマートフォンを置き、赤い手帳を閉じた。父の教え通りだ。数字の向こうには、人がいる。私はただ、その人たちの信用を守っただけだ。
翌日、私は会社に出社した。入口には佐藤彩佳が待っていた。彼女は目を赤くして、小さく頭を下げた。
「先輩……ごめんなさい。私、何も言えなくて」
「謝らなくていい。君は正しかった。ちゃんと記録を残していたね」
「あの……復職、おめでとうございます。副管理者の設定、私も手伝います」
「ありがとう。じゃあ、早速始めよう。時間が惜しい」
私はデスクに向かい、自分の席に座った。周りの社員たちが、何か言いたげにこちらを見ている。だが、私は構わずにパソコンを立ち上げた。背筋を伸ばし、キーボードに手を置く。父の手帳が、胸ポケットの中で温かく感じられた。
六月二十八日、土曜日。午前十時。私のアカウントは復旧していた。そして、副管理者の権限が、佐藤彩佳に付与されていた。社長室からは、何やら激しい話し声が聞こえていたが、私は気にしなかった。ただ、目の前の仕事をこなすだけだ。
「中村さん、システムが止まりました。出荷が間に合いません」
「落ち着いて。監査ログを取って。原因は自分で調べる。副管理者の彩佳ちゃんに連携して。取引先には、状況説明を」
「はい!」
私の指示が飛び、オフィスが動き始めた。誰もが自分事として行動している。三十分後、システムは復旧し、出荷は滞りなく行われた。私は、自分の手帳にこう記録した。「六月二十八日、システム障害発生。原因は権限設定ミス。再発防止策を提言」。
一週間後、会長から私に一通のメールが届いた。「中村へ。お前には辛い思いをさせた。今回の騒動で、会社は変わらなければならないと痛感した。お前には、常務取締役として、私を支えてほしい。ただし、断るなら断ってくれ。君の心を無視するつもりはない」
私は返信せずに、そのメールを印刷し、青い手帳の最後のページに貼り付けた。そして、その下に一言だけ書き加えた。
「涙の後には、必ず朝が来る。しかし、その朝は、誰にでも平等にやってくるわけではない。自分の足で、立ち上がった者だけに与えられるのだ」
そして、私は受信トレイを開き、返信を打った。
「承知しました。ただし、私のやり方でやらせてください」
その日から、私はもう「46歳の旧式社員」ではない。会社を変えるために招かれた、新しい役割を担う一人の人間だ。ブラック会社に勤める、たった一人の記録係の物語が、今、動き始めている。
