夫が夕食後に差し出した一枚の紙は、三十年間連れ添った私への「お疲れ様」ではなく、離婚届だった。「もう自由になりたいんだ」という夫の言葉に、息子と嫁も頷いた。家族全員で私を追い出す準備をしていたのだと、その瞬間に理解した。慰謝料は二百万円。家を出て行けと言われた私は、なぜか涙ひとつ出なかった。ただ静かに、ペンを握った。あの人たちは私が泣き崩れると思っていた。でも、その週末、銀行から一本の電話が…
「もう自由になりたいんだ」 その言葉を聞いた瞬間、私の中で時間が止まったような気がした。夕食後の静かなリビングで、夫が差し出した一枚の紙。それは離婚届だった。 私たちは三十年以上、共に歩いてきた。子育ても終わり、これからゆっくりと老後を過ごせると思っていた矢先のことだ。 「三十年以上も我慢してきたけど、限界だよ」 我慢。一体、何を我慢してきたというのだろう。 振り返ると、そこには息子のたけしと嫁の秋さんも座っていた。まるでこの場面を待っていたかのように。 「母さん、これは家族全員の総意だから」 たけしの冷たい声がリビングに響く。家族全員の総意。その言葉が私の心に鋭く突き刺さった。 私は深く息を吸い込み、そして微笑んだ。 「あら、そう。分かったわ」 私の穏やかな反応に、三人は明らかに戸惑いの表情を見せた。きっと私が泣き崩れるか、激しく抵抗すると思っていたのだろう。でも私の心は不思議なほど静かだった。ただ、この三十年間は一体何だったのか。その答えを聞いてみたくなった。 「でもその前に聞かせて。なぜ今なの?」 夫は一瞬ためらったが、やがて口を開いた。 「君といると息が詰まる。もっと自由に生きたいんだ」 息が詰まる。その言葉を聞いて、私の脳裏に様々な場面がよぎった。毎朝五時に起きて作り続けたお弁当。夫の仕事が遅い日も温かい夕食を用意して待っていたこと。体調を崩した時には看病に尽くしてきたこと。それら全てが、夫にとっては生き苦しいものだったのだろうか。 「お母さんの存在が重いんです。古臭いし、現代的じゃないし」 秋さんの言葉に、私は思わず苦笑した。古臭い。確かに私は昔ながらの主婦かもしれない。でも、それが悪いことなのだろうか。 「そうね。私は確かに古い人間かもしれません」 私がそう答えると、夫は勢いづいたように続けた。 「正直、結婚は失敗だったと思ってる」 その瞬間、壁に飾られた結婚式の写真が目に入った。あの頃の私たちは確かに幸せそうに笑っていた。あの笑顔は全て偽りだったというのだろうか。 「母さん、時代は変わったんだよ。いつまでも昭和の価値観じゃ困るんだ」 昭和の価値観。家族を大切にし、相手を思いやることがそんなに時代遅れなのだろうか。私は静かに三人の顔を見渡した。三十年という歳月は、こんなにも簡単に否定されてしまうものなのだな。 でも不思議と、悲しみよりもある種の解放感のようなものを感じている自分がいた。 夫は書類を取り出し、テーブルの上に広げた。 「財産分与の件だが、この家は俺の名義だから出て行ってもらう。慰謝料は二百万円でどうだ?」 二百万円。三十年以上連れ添った妻の価値が、それだけなのか。私は思わず笑いそうになった。 「それは随分と私の価値を低く見積もっているのね」 「君に何の価値があるって言うんだ。専業主婦なんて誰でもできることじゃないか」 誰でもできること。そう言い切れるのは、実際にやったことがない人だけだ。私は静かに首を振った。 たけしが身を乗り出してきた。 「正直、母さんがいなくなれば、僕たちがこの家に住めるでしょ」 なるほど。そういうことだったのか。息子夫婦はこの家が欲しかったのだ。 「そうなの。あなたたちはこの家に住みたいのね」 「当然でしょう。僕たちには子供もいるんだから、僕たちが住んだ方が有効活用できる」 有効活用。まるで私が無駄な存在であるかのような言い方だ。秋さんも続ける。 「子供の教育にも良くないんです。古い価値観の人がいると」 「古い価値観というのは、具体的にどういうことかしら?」 私が尋ねると、秋さんは得意げに答えた。 「例えば、女は家を守るべきとか、夫に従うべきとか。そんな考えを子供に植えつけられたら困るんです」 「私がいつそんなことを言いましたか?」 「言わなくても態度で示してるじゃないですか。いつもお父さんを立てて自分は後回しにされる姿を見せられたら、子供が勘違いしてしまいます」 相手を尊重することが、勘違いだというのだ。私は深くため息をついた。 夫が畳みかけるように言った。 「とにかくこの家から出て行ってもらう。荷物をまとめる時間は一週間やる。それで十分だろう」 一週間。三十年以上暮らした家を、たった一週間で出ていけというのか。 「分かりました。でも、本当にそれでいいのね」 私の確認に、三人は勝ち誇ったような顔で頷いた。 「もちろん。もう家族じゃないんだから、早く出て行ってくれ」 もう家族じゃない。その言葉を、私はしっかりと心に刻んだ。 たけしが付け加える。 「母さん、変に意地を張らない方がいいよ。二百万円ももらえるんだから、感謝すべきだと思う」 感謝すべき? 息子の口から出た言葉とは思えなかった。 「そうね。あなたの言う通りかもしれません」 … Read more