「冗談に決まってるでしょう。」――姉の結婚式当日、式場のロビーで、花嫁姿の姉は一人ぼっちだった。母が遺した黒い着物を着て、白い角隠しを被って。周りには見物人の輪ができ、誰かがそう言って笑った。新郎も、付き添いも、誰も来ない。代わりに現れたのは、新郎の母親だった。「あなたのお席はお広間にはございませんから」と。47歳でやっと掴んだ幸せを、家族ぐるみで嘲笑された。弟として黙っているわけにはいかな…
ロビーの中央で、姉が一人で立っていた。黒い着物の裾には白い藤の花が描かれ、髪には角隠しが載っている。花嫁の装いだ。だが、その周りには誰もいない。付き添いも、新郎もいない。見物人の輪だけが、少し離れた場所から姉を取り囲んでいた。誰も近づかない。何人かは手で口を覆い、肩を震わせている。 「冗談に決まってるでしょう。」 その声が、高い天井に響いた。輪の中の年配の女性が、姉に言い放った言葉だ。俺は入口で立ち尽くした。持っていた袱紗の角が指に食い込むのも気づかないほどだった。 俺の名前は七尾港。37歳の時、姉の結婚式でこの光景を目の当たりにした。姉は10歳上のあや。両親を早くに亡くした俺を、7歳の時から一人で育ててくれた人だ。その人が、今、これ以上ない形で侮辱されている。 両親が死んだ後、親戚たちは俺を施設にやろうとした。17歳だった姉は、それを断固として拒んだ。 「この子にはもう私しかいないから。私が育てます。」 叔父が「感情で決める話じゃない」と言えば、姉は「感情で決めます。それ以外に何で決めるんですか」と言い返した。結局、叔父は書類上の後見人になることだけを渋々承諾し、「金は出せんぞ」と言い残して、それきりほとんど家に来なくなった。 それからの姉の生活は、想像を絶するものだった。朝の5時に起きて弁当を作り、学校へ行き、放課後は駅前の食堂で夜の9時まで働く。帰ってからは俺の宿題を見て、自分の宿題をやる。高校を卒業してからは、朝は弁当工場、夕方からは食堂と、掛け持ちで働き続けた。俺が大学に行きたいと言った時も、姉は反対しなかった。むしろ、俺が「進学をやめて就職する」と言い出した時、初めて本気で怒った。 「私はね、あんたに楽をさせたくて働いてきたんじゃないの。あんたが選べるようにしてきたの。行きたいところに行って、やりたいことをやって、嫌なことは嫌だって言える人間になって欲しくて、そのためにやってきたの。その10年は、あんたが今ここで捨てるの?」 俺は東京の大学に進学した。学費の免除と奨学金でどうにかするつもりだったが、入学金と初期費用だけはどうしても現金が必要だった。途方に暮れる俺に、姉は「3月までに用意する」と言い、本当に用意した。どこから工面したのか、俺は聞かなかった。聞けば姉が困ると思ったからだ。そして、その金の出所を知るのは、19年後の今日になる。 大学を卒業後、俺は物流の会社を興した。倉庫の中の動きを作り、配送の順番を組み立てる仕事だ。最初は小さな会社だったが、15年で社員1800人、売上950億円を超える企業に成長した。姉には何度も仕事を辞めて楽をさせたいと言ったが、その度に断られた。「そういうのを人はお情けって言うんだよ」と。 姉が結婚するという知らせが来たのは、1年ちょっと前のことだ。相手は40歳の篠之介さん。食品大手「篠ノ食品ホールディングス」の社長の息子で、営業と商品開発を担当しているという。俺はその時、ある事実を胸に秘めていた。うちの会社は、篠ノ食品と500億円規模の物流センター建て替え計画を進めていたのだ。だが、俺は姉の喜ぶ顔に水を差したくなくて、そのことを言わなかった。担当が交わらない。そう自分に言い聞かせて。 式は6月、東京のホテルで行われることになった。姉は、母が遺した黒い着物を着ると言った。母は亡くなる間際まで、その着物を姉の寸法に直していた。袖の縫い目には、母の最後の力が込められていた。俺は7歳の夏、その縫い目を見て「ここ下手になってる」と指摘したことがある。母の手が震えていたからだ。その意味を、俺は今でもずっと知らないままでいた。 式の前日、姉からメッセージが来た。「明日は朝8時に美容室へ入ります。着物着られるみたいで嬉しい。おやすみ。」最後に、絵文字が一つ付いていた。姉が絵文字を使うのを初めて見た。 式は11時からだった。俺は朝一番の会議をどうしても外せず、終わってすぐ車を飛ばした。ホテルに着いたのは11時10分。遅刻だった。袱紗を手にロビーへ入ると、そこで足が止まった。 姉が一人で立っていた。母の着物を着て。そして、周りの人々が笑っている。 「あやさん、あなたまだ分かってらっしゃらないの?今日は篠之介の婚約披露のお席なんですよ。あちらの大広間で11時から始まっております。」 そう言ったのは、篠之介の母親、清子さんだった。彼女は続けた。 「あやさんにはね、こちらのロビーでお待ちいただいてるの。あなたのお席はお広間にはございませんから。支度だけはこちらの美容室にお願いしてもらいましたのよ。せっかくの置き物ですもの。写真くらいは残りますでしょう。1度きちんと諦めていただかないと、篠之介がまたふらつきますから。」 その時、大広間から男が出てきた。篠之介だ。彼は姉の前に立ち、首をかしげて言った。 「あやさん、本気でうちの嫁になれると思ってたんですか?」 姉の体が、一度だけ大きく動いた。俺は前に出ようとした。だが、出る前に、姉の手が俺の袖を掴んだ。 「港、帰ろう。ごめんね。こんな姿見せて。」 俺は姉の正面に立った。背中を向けて、あの人たちを視界から外した。 「謝るのは姉ちゃんじゃない。一言も謝らなくていい。その人は俺をここまで育ててくれた人だ。笑っていい人間なんて1人もいない。」 姉さんの目から、ようやく涙が落ちた。俺はハンカチを取り出し、姉の襟元に残った涙の粒を、押さえずに布の方へ吸わせた。母が仕事の時に布を扱っていた手つきを真似て。 「姉ちゃん、その着物すごく似合ってる。母さんが見たら絶対に綺麗だって言うよ。」 その時、清子さんがまた口を開いた。 「弟さん、あなた東京でお勤めですって。そちらのお家も大した家柄ではないんでしょう。」 その言葉を遮るように、奥から人が走ってきた。黒い服を着た50代の男。胸に名札を付けている。支配人の島さんだった。彼は俺の3歩手前で止まり、深々と頭を下げた。 「七尾社長、お島でございます。ご到着に気づかず大変失礼をいたしました。」 ロビーが静まり返った。島さんは続けた。 「本日はどのようなご用向きで?奥にお部屋をご用意いたします。お姉様をどうぞこちらへ。」 その一言で、俺はこの人が姉を輪の外へ逃そうとしているのだと分かった。 「島さん、うちの姉です。」 「姉上様でいらっしゃいますか?」 島さんの顔から血の気が引いていくのが見えた。その時、大広間からまた男が出てきた。白髪を後ろに撫でつけた、品のいい男。篠ノ食品の社長、篠之雪だ。彼は俺を見て足を止めた。島さんの声が届いていたのだろう。 「まさか、青空の七尾さん。」 「篠社長、ご無沙汰しております。青空物流システム代表取締役の七尾港と申します。そこにいるのが私の姉です。」 篠社長は名刺を受け取り、手を震わせながらそれを見た。俺は静かに続けた。 「篠社長、1つだけはっきりさせてください。今日のこれは、冗談だったんですよね。では、御社と進めている500億の契約も、冗談だったということにいたします。」 ロビーが真となった。 「待ってください!あれは来週締結です!うちの取締役会も通っている!」 「あの契約にはうちの会社の命運がかかっているんです。存じております。だからこそ、うちも2年かけて設計しました。うちの去年の売上が950億です。この案件は5年でうちの背骨にあたります。それを手放すことが何を意味するかは、私が一番よく分かっています。そちらの取締役会が通っていても、判はまだ押されていません。判を押す前に降りるなら、違約金は1円も出ません。決めるのはうちの取締役会です。週明けに議案を出します。来週の締結までに降ります。」 俺は、自分でも驚くほど静かな声で言った。 「私は取引先を数字だけで選びません。うちの倉庫で夜中に台車を押しているのは機械ではありません。人です。人を笑い物にする会社とは、信頼関係を築けません。私の姉の人生を冗談にした方々とは、なおさらです。」 篠社長は何も言えなかった。その時、篠之介が動いた。姉の方へ2歩近づき、声の調子を変えて言った。 「あやさん、違うんだ。これは親が勝手に決めたことで、俺は本当は君と……」 「やめてください。」 俺は間に入った。 「あなたは今日ずっとそこにいた。一言も止めなかった。姉を守れない人に、姉を任せるつもりはありません。」 篠之介が何か言いかけようとした。それを止めたのは、俺ではなかった。 「もういいです。」 姉の声だった。さっきまで泣いていた人の声とは思えないくらい、はっきりとしていた。 「篠之介さん、私は冗談で花嫁になるためにここへ来たんじゃありません。今日この着物を着たのは、あなたの家に入るためじゃないんです。母に見てもらうためです。それだけは、あなたたちに笑われる筋合いがない。」 … Read more