「貧乏人はいらん。離婚で」――夫は勝ち誇ったようにそう言い放ち、私の父の借金二億を鼻で笑った。十年以上連れ添った夫の本性を、その瞬間初めて見た気がした。彼は離婚届をテーブルに叩きつけ、「今後一生、俺に絶対服従すると誓え」と脅してきた。でも、彼は一つだけ知らなかった。私が、彼の言う「かわいそうな専業主婦」ではないことを。あの日、私は彼の目を見て決めた。離婚届にサインをして、娘を連れて、あの家を…
「貧乏はいらん。離婚で」 こちらを馬鹿にしきった言い方に、背筋が凍った。直は勝ち誇ったように腕を組む。私が父の借金を相続したことを追求して、鼻で笑った。 「まあ、このまま放り出すのはかわいそうだからさ。選択肢をくれてやる。今後一生、俺に絶対服従すると誓え」 あまりの言い草に、ぽかんとしてしまった。直は離婚届をテーブルに残し、玄関へ向かう。こちらをまともに見ず、彼は出ていった。 私はキッチンを離れ、ストンと椅子に腰を下ろす。あれが彼の本性だ。私が昔から嫌い続けてきたタイプの人間、そのものだった。 足音が近づいてくる。ユナだった。 「私はママについてくよ」 私は目を閉じる。泣きそうになるけれど、泣いている場合じゃない。守らなければ。何よりもまずユナを守りたい。それが私の一番の役割だ。 私はボールペンを取る。不思議なくらい、迷いはなかった。離婚届にサインを終え、即座に行動を開始した。 私の名前は三木あみ。どこにでもいる三十五歳の専業主婦だ。 自分で言うのもなんだが、私はかなり顔立ちが整っている方だと思う。学生時代は毎日のように告白された。周囲からは美人より可愛い系だと評価される。モデルをしていたこともあった。子供を産んだ今でも二十代に間違われるし、よく声をかけられる。 だが、それは私にとって嬉しいことではない。外見で舐められていると感じるからだ。もちろん褒められることには慣れているし、素直に嬉しいと思う。だが、私の外見しか見ていない人間の口から続く言葉は、いつも薄っぺらかった。「何も考えてなさそう」「守ってあげたくなる」「怒らなそう、ふわふわしてそう」など、勝手なイメージばかり押し付けられる。その度に私は心の中で毒づいていた。 初対面の数秒で、何が分かるのよ、と。 私はおっとりした性格ではない。むしろ逆だ。白黒はっきりつけたいタイプだし、嫌いなものは嫌い。納得できないことには従わず、腹が立てば普通に言い返す。 特に男性は私を見ると、勝手に「大人しそうで従順で扱いやすい女」だと思い込むようだ。だからこそ、相手がこちらを見下しているのにも、私はすぐ気づくことができる。舐められないためにも、私は自分の性格を偽ることなく生きてきた。 三歳年上の夫・直と出会ったのは、まだ二十代半ばの頃だ。当時の私はモデルの仕事をやめ、人生の方向性を探している最中だった。そんな時、人に連れて行かれた食事会で直と出会った。 第一印象は真面目そうな人。背筋がちゃんと伸びていて清潔感があり、物腰も柔らかい。誰に対しても気配りを欠かさず、店員への態度も丁寧だった。正直最初は警戒した。私は昔から優しそうな男性に対して条件反射で身構えてしまう。表面だけ取り繕って、中身は腐っている人間を、嫌というほど見てきたからだ。 だが直は違った。会話の最中、私が冗談半分で投げた言葉にも、きちんと自分の考えを返してくる。「向いてるかどうかじゃなくて、自分がどう生きたいかじゃないですか」――その返答が妙に印象に残った。外面的な話ではなく、ちゃんと私自身を見ようとしている感覚があったからだ。 付き合うようになってからは、もちろん衝突も多かった。私は白黒つけたがる性格だし、直も自分の考えを譲らない。どちらも負けず嫌いなのだ。それでも不思議と嫌ではなく、むしろ心地よかった。私という人間と真正面から向き合ってくれると感じていた。 交際期間を経て私たちは結婚し、一年後には娘のユナが生まれる。ユナは私によく似ていた。ぱっちりと開いた丸い目、ふんだくる黒く長いまつ毛。肌の色は抜けるように白く、頬はいつもバラ色。小柄な体格に柔らかそうな雰囲気をまとっている。年齢が一桁の頃から誰もが振り返る美少女だった。 だが彼女の中身は、周囲の大人の数倍は成熟していた。異様に頭の回転が速く、人の機嫌や空気を読む能力にも長けている。しかも無駄に肝が座っていた。幼稚園時代、年上の男子に砂をかけられて泣かされた友達を見たユナは、その男子の前へ歩いていき、「自分より弱い相手にしかそんなことできないんだね」と真顔で言い放ったらしい。相手の男子は大泣きした。 ユナは勉強も運動もできた。小学四年生になった今では、学年問わず有名人で一目置かれている。そのくせ家では普通に甘えてくる。充実すると私の膝に転がってきて、「ねえ、ママ、髪いじって、編み込みにしてほしい」と要求してくる姿は、年相応の女の子そのものだ。 夫がいて、娘がいて、家族三人で笑い合う日々がある。私はそんな毎日を幸せだと感じていた。多少の衝突や不満はどこの家庭にも存在する。それらを乗り越えてこそ絆が深まり、ずっと長く家族として過ごせるのだと、当時の私は本気で考えていた。 とある夏、直が不意に声をかけてきた。 「あみは今年も実家には帰らないんだよな」 「うん、帰らない」 私の実家は地方の観光地で老舗旅館を営んでいる。旅館の名前は「海宮」。海沿いに立つ古い大型旅館だ。父は海宮の主人。性格は豪快で傲慢で気分屋。思いつきで行動し、人の話を聞かない。酒癖も最悪だった。娘の立場から言わせてもらうなら、人間性は終わっている。 幼い頃から私も姉のつぐみも、父に厳しく育てられた。礼儀作法、言葉遣い、旅館の人間としての立ち居振る舞いはもちろん、勉強も運動も手を抜くことは許されず、「愛想として常に笑顔でいろ」と言われた。「旅館の娘として恥ずかしくないようにしろ」と繰り返し叩き込まれた。気に入らないことがあれば怒鳴られる。理不尽なことで説教される。夜中に叩き起こされ、学校にも行かせてもらえず、一日中掃除をさせられることもあった。 何よりも旅館と従業員たちを大事にしているところだけは尊敬するが、父親との温かな思い出なんてものは、ほぼ存在しない。だから私は高校卒業と同時に家を出た。そのまま実家とは距離を置き、以来一度も帰っていない。 母は私が十五歳の時に亡くなっている。重い病気だった。私もつぐみも、母のことは今でも大好きで愛している。 そんな事情を直も知っているはずだが、正しく理解しているかと言われると違った。 「あみって、お姉さんともあんまり仲良くないんだよな。なんかさ、かわいそうだよな。せっかく家族なのに」 彼の目に浮かんでいるのは、哀れみだった。最近増えていた。直は時々こんな視線を私に向けてくる。家族に恵まれなかった不幸そうな女を見る目だ。優しいし穏やかで気遣いもできる。外から見れば理想的な夫だ。けれど、時折言葉の端々に、「俺が支えてあげないと」という空気が、妙に私の胸をざわつかせた。 「いや、私とお姉ちゃん、超仲良しだけど」 「またまた」 即座に否定された。直は苦笑している。まるで強がっている人間を優しく受け止めてあげているような態度だった。正直腹が立つ。 つぐみは私より数年早く家を出て、現在海外の企業で働いている。性格は猛烈に不器用。常に無表情で、愛想も皆無で口数も少ない。初対面の人間からはほぼ確実に「冷たい人」だと誤解される。しかし実際は違う。感情表現が壊滅的に下手なだけで、身内への情は深い。ユナが生まれた時も、病院へは来られなかったが、代わりに海外ブランドのベビー用品を山ほど送ってくれた。しかも全部高級品。直は当時、「お姉さんなんか怖い人だな」と笑っていた。ちなみに彼はつぐみと直接会ったことがない。 洗濯物を片付けた私は、麦茶を一気に飲み干す。氷がカランと音を立てた。 「ま、あみには俺とユナがいるしな。心配するなよ」 優しい夫のセリフだ。世間の人間が聞けば感動するような言葉かもしれない。一方で私は、「身寄りのない哀れな女を救ってやっている」――そんな言い方だと、斜に構えた感想を抱いてしまった。 結局、直は休み直前になって義実家への同行をやめた。「悪い。本当に急な仕事でさ」。申し訳なさそうな口ぶりだけれど、私は内心で「はあ」と息を吐いていた。ここ数年、直は何かと義実家を避けている。ユナに至っては完全に慣れている。「今年もパパは来ないんだ、みたいね。あー、まあ、どうでもいいか」 そんなわけで、今年も私とユナの二人で義実家へ向かうことに。義両親はいつものように歓迎してくれた。「あみちゃん、ゆなちゃん、いらっしゃい。よく来たね。暑かっただろう」。私と義両親の仲は良好だ。むしろ直抜きの方が会話が弾む。春家とは真逆だった。 数日後、私とユナは自宅へ戻った。玄関を開けた瞬間、二人同時に声が漏れる。 「うわ、何これ?」 「うわ、信じられない」 リビングにはコンビニの袋と脱ぎっぱなしの服が散乱している。食べ終えたカップ麺の容器が何個も積まれ、ハエがたかっていて、倒れた缶ビールの中身がカーペットの上にこぼれていた。エアコンはつけっぱなし、家の中が全体的に妙に酒臭い。リビングのソファーでは、直が大の字で寝ていた。豪快ないびきまで響いている。どうやらここ数日、放題食いして散らかした末に力尽きたらしい。 ユナはそんな父親を見下ろし、真顔になった。躊躇なくつま先で直の脇腹を軽く蹴り、あるいは踏みつける。「とっとと起きて」 「うわっ!」 変な悲鳴をあげながら直が飛び起きた。二日酔いで痛む頭を抑えている彼は、何の役にも立たなそうだ。そう判断して、私とユナは二人で散らかったリビングを片付けた。 夏休みが終わった頃から、私はなんとなく違和感を抱くようになっていた。直の関心が家庭へ向いていない気がする。もちろん分かりやすく冷たくなったわけではない。生活費は今まで通り入れてくれる。記念日を忘れることもない。体調を崩せば気遣ってくれるし、荷物だって持つ。一般で見れば、十分いい夫の範囲に入るのだろう。 けれど空気が違うのだ。会話をしていても、意識が別の場所へ飛んでいる。私が話している最中にスマートフォンを見る回数も増えた。休日一緒に出かけることも減った。 そんなある日、ユナが夏休みの自由研究コンクールの小学生部門で最優秀賞を受賞した。学校代表どころの話ではない。全国の学生を対象とした大規模なコンクールだ。テーマは「地域別観光地における外国人観光客の行動分析」らしい。小学四年生の研究内容ではない。担任から「保護者の方が手伝いました?」と真顔で確認されたほどだ。そんなわけがなく、完全にユナの単独制作である。我が娘ながら異様な念を抱かずにはいられない。 私は早速直に話をした。「絶対見に来た方がいいよ。ユナ頑張ってたし。軽く発表みたいなものもするんだって」 「ああ」 返事が薄っぺらい。直はソファーへ座ったままスマートフォンを操作している。 … Read more