朝の魚市場で、観光で来た大学生の女の子にヒラメの説明をした。その数時間後、彼女が食堂で倒れた。顔は真っ青で、唇は紫色。呼吸がどんどん浅くなっていく。エピペンもAEDも間に合わない。彼女の首筋を見た瞬間、10年間封じ込めてきた記憶がよみがえった。俺は誰かに「包丁を1本、ボールペンの軸を抜いたものを」と叫んでいた。周りの誰もが俺を止めようとした。でも時間はなかった。彼女の命と、俺が捨てた過去への…
夜明け前の港。俺は冷蔵倉庫から運ばれてきた発泡スチロールの箱を覗き込み、氷の上からサバを1匹つまみ上げた。エラを開いて色を見る。身を指で押して跳ね返り具合を確かめる。目指の濁り、腹の針、鱗の艶。 「井沢さん、この箱は2番手の方に回した方がいい。鮮度は悪くないけど締めが甘い」 「うん。お前がそう言うならそうなんだろうな」 親方はタバコを口の端に加えたまま頷いた。 俺の名前は原田誠、49歳。この港町の魚市場で仲買人をやっている。朝の3時に起きて、5時には競りの前に並ぶ箱を一通り見て回るのが日課だ。ゴム前掛けに長靴。肩には濡れた手ぬぐい。それが俺の制服になってもう10年になる。 市場の連中は俺のことを「魚博士」と呼ぶ。タコの体調、ブリの油乗り、ヒラメの状態。触れずとも見ただけで大体分かる。最初の頃は胡散臭がられたが、今では当たり前の風景になってしまった。 競り人の声が天井で反響し、誰かが冗談を飛ばし、誰かが値段で揉めている。俺はその真ん中でただ魚を見る。仲買の若い男が横から覗き込んできた。 「博士、今日のヒラメどうですか?仕入れていいすかね?」 「腹の傷見たか?網ですれてる。両亭に出すには厳しいから、煮付け用なら卸してもらえ」 「さすが。助かります」 そんなやり取りを繰り返しながら競りが進んでいく。俺はこの仕事が嫌いではない。むしろ好きだ。魚は嘘をつかない。鮮度が落ちていればちゃんと体で教えてくれる。人間よりずっと正直だ。 競りが一段落つくと、井沢の親方が顎で食堂の方を指した。俺は黙って頷き、食堂へ向かう。朝の6時半、湯気の立つ味噌汁と焼いたサンマ、どんぶり飯。これが俺たちの朝飯だ。 「もう10年か」 「ええ、もうすぐ10年になります」 「早いもんだ」 親方はサンマのみを箸でほぐしながら、それ以上は何も聞かない。10年前、俺がこの港町に流れついた日のことを、井沢さんは一度も口にしたことがない。 あの日、俺はずぶ濡れの背広で港のベンチに座っていた。金も一銭も持っていなかった。これからどうするかも何も決まっていなかった。ただ東京から逃げてきたという事実だけがあった。 声をかけてきたのが井沢さんだった。「仕事はあるか」と聞かれて「ない」と答えた。「身寄りはあるか」と聞かれて「ない」と答えた。それだけで井沢さんは「うちで働け」と言った。名前以外、何も聞かなかった。 「親方、今日もごちそうさまでした」 ご飯茶碗を置いて、俺は湯飲みを両手で包んだ。10年は長いようであっという間だった。東京で外科医をしていた頃の記憶はもう霞の向こうにある。無影灯の白い光も、心電図の電子音も、誰かの命を握っていた感覚も、全部海に流して忘れたつもりでいた。 「お前、たまには休めよ。顔色が悪いぞ」 「親方こそタバコ減らした方がいいですよ。咳、増えてるでしょう」 「うるせえな」 親方が口元を緩めた。この人は俺を息子のように見ている。俺もまたこの人を父親のように思っている。言葉にしなくても通じる関係がこの港にはある。食堂のラジオが地方のニュースを流していた。 10時を回った頃、市場に観光客の一団が現れた。最近町が観光に力を入れ始めて、こういう光景も珍しくなくなった。俺はふと顔を上げた。明るい黄色いパーカーを着た娘が目を輝かせてヒラメの箱を覗き込んでいた。年は20前後だろうか。ポニーテールに健康そうな顔。都会から来た学生のように見えた。 「あの、すみません。この魚って何ですか?」 「ああ、それはヒラメだよ。底引きで上がったやつだ。今日は身がいい」 「ヒラメってお刺身にするんですか?」 「そう。縁側がうまい」 娘は嬉しそうに頷いて、丁寧に頭を下げた。 「ありがとうございます。私、水原里って言います。大学のレポートで漁業の町を取材しに来てて」 「そうか。学生さんか」 「はい。あの、おじさんすごく魚に詳しいんですね」 「まあ、長くやってるからな」 おじさんと呼ばれて少し笑ってしまった。 「この後、港の食堂でお昼を食べようと思ってるんです。おすすめとかありますか?」 「港食堂の海鮮丼がいい。さっき俺が見立てた魚もいくつかそこに回ってる」 「じゃあ絶対そこにします」 人懐っこい子だった。里が手を振って見学グループの方へ駆け戻っていく。俺はブリを抱えて軽トラック2台へ積み込んだ。 「お前、珍しいな」 親方が背後に立っていた。 「何がです?」 「観光客にあんなに話したのを初めて見た」 「愛想よくしないと町の評判が悪くなるでしょう」 親方は鼻で笑って競り場の方へ戻っていった。 その日の昼過ぎ、俺が氷の補充をしていると、市場の外がにわかに騒がしくなった。誰かが走ってきて、競り場の方へ叫んでいる。 「救急車だ!救急車呼んでくれ!食堂で女の子が倒れた!」 俺の手からスコップが滑り落ちた。ガシャンと乾いた音が立った。食堂。女の子。頭の中で勝手に映像が組み上がっていく。あの黄色いパーカー。ポニーテール。水原里。 俺は走り出していた。ゴム長靴のまま市場の通路を蹴って食堂へ駆ける。食堂の入り口に人だかりができていた。俺は人をかき分けて中へ入った。 床に黄色いパーカーが倒れている。顔は蒼白で、唇が紫色になりかけていた。胸はわずかに上下しているが、呼吸が浅い。 俺の体は考えるより先に動いていた。膝をつき、頚動脈に指を当てる。脈は速く弱い。瞳孔を確認する。左右差はない。口の中に異物はないか。気道は確保できているか。 「気道確保する」 声が自分でも驚くほど低く落ち着いていた。俺は里の顎を持ち上げ、気道を確保した。胸の上下がさっきより明らかに弱くなっていた。 「誰かAEDを持ってきてくれ!市場の事務所にあるはずだ」 若い男が「はい!」と叫んで駆け出した。俺は里の手首を取り脈を測りながら顔部を観察した。皮膚に赤い発疹が浮き出ている。首筋にも腕にもジンマシンのような発疹が広がっていた。 … Read more