「高卒が何ができるんだよ。解雇だ」——社長室でそう言い放たれた時、私は何も言い返さなかった。ただ静かに一礼して、荷物をまとめて会社を出た。あの日、私を追い出した男は、私がこの会社の全システムを一人で支えていることを知らなかった。そして、私が契約書に残した「在籍中のみ有効」という一文の意味も。翌朝、会社は止まった。私は新しいオフィスで、その知らせを静かに聞いていた。…
5月の午後、東京渋谷の柊テクノロジー株式会社の高層ビル最上階、社長室。窓の外には都心の街並みが広がっていた。高級な椅子に深く腰を下ろし、足を組んでいる男がいた。室田吉孝、42歳。新しく代表取締役社長に就任したばかりの男だ。 「当然ですよね。このレベルの会社には合わない方でしたから」 部屋の隅に立つ人事部長の富山洋子が、口元を歪めて同調した。室田の背後には名門大学の学歴証明書と米国MBAの認定書が飾られていた。 室田は書類にサインしながら、目の前の少女を一度も見なかった。立たされていたのは朝日マイカ、18歳。細縁の眼鏡、白いシャツ、小柄で声一つあげない少女だった。高卒。それだけが室田の見た全てだった。 「このシステムが止まれば、日本の金融インフラが危険にさらされます。お願いです。少しだけ話を聞いてください。これで何百万人もの人が守られるんです」 しかし室田は書類から目もあげなかった。 「高卒が何ができるんだよ。底辺が先端企業にいること自体がおかしい。解雇だ。お前みたいな低学歴が会社に混じってるだけで、品位が下がるんだよ。分かってる? 今日付けで解雇。法的には問題ない。さっさと荷物をまとめて出ていけ。二度と来るな」 マイカはその言葉を最後まで黙って聞いていた。ゆっくりと一礼し、荷物を持って静かに立ち上がった。 「わかりました」 怒りも涙も抗議も一切なかった。ドアを開けた時、マイカはほんの少しだけ振り返った。 「今に見てろ」 その言葉は室田の耳には届かなかった。廊下を歩くマイカを数人の社員が遠巻きに見ていた。 「大丈夫なのか、あの子は」 誰かが小声で呟いた。しかし誰も動かなかった。 これは天才少女を、底辺だと切り捨てた男の因果応報の物語だ。しかしこの時、誰も知らなかった。翌朝、この会社に何が起こるのかを。室田が追い出した少女が何者だったのかを。そしてあの静かな笑みが何を意味していたのかを。 — 二年前の秋。東京都渋谷区、柊テクノロジー株式会社。設立10年、量子暗号通信の分野で国内最大手を誇るIT企業だ。前社長の熊田鉄造、62歳が会議室に入ってきた。ベテランエンジニア出身で、温かみのある笑顔が特徴の男だった。 「朝日さん、遠くまでよく来てくれた。特許庁から連絡を受けてね。16歳でこれほどのものを作れたとは。どうしても直接会いたかった」 対面に座っていたのは制服姿の少女だった。朝日マイカ、16歳。古いノートパソコンを一台だけ抱えていた。マイカは静かに一礼した。余分な言葉は一切なかった。 「特許の中身、説明してもらえますか?」 マイカが開発したQシールドプロトコルは、量子暗号通信の技術だ。政府機関、金融機関、インフラ企業向けのセキュリティシステム。現行の暗号技術を将来の量子コンピューターから守る、世界初の実用プロトコル。 「量子配送を使えば、解読は不可能です。量子コンピューターが普及すれば、既存の暗号は一瞬で解読される。その脅威に先じて実用化したのが、私の発明です」 特許庁の担当者は、16歳と知って驚いたと言っていた。特許を審査した弁理士ですら、高校生が発明したとは信じられなかった。 「うちで一緒に仕事をしてほしい。あなたの技術が必要なんです」 「わかりました。でも、一つだけ条件があります」 「どんな条件でも聞きます」 「ライセンスは、私が在籍している間のみ有効という条項を入れてください。それだけです」 熊田は少し驚いた。しかし即座に顧問弁護士を呼び、契約修正を指示した。こうしてQシールドの使用は、マイカの在籍のみ連動することになった。 「念のため、という意味ですか?」 「そうです」 マイカが16歳でこの条項を求めた本当の理由を、熊田は深く考えなかった。しかし後に、この一文が全てを決めることになる。 — 朝日マイカには複雑な事情があった。母の安子は工場の夜勤で生計を立てていた。父親は早くに家を出た。 ある朝、深夜0時過ぎに玄関が開いた。疲れ果てた顔の安子が、作業着姿で帰ってきた。テーブルにはマイカが作った夕食が残っていた。 「今日も夜勤だったんだね。温めるから食べてよ」 安子はそのまま椅子に倒れ込んだ。油の匂いが漂った。二人でしばらく黙って食べた。静かな夜だった。でも温かかった。 「マイカ。大学、本当に行かなくていいの?」 「行かなくていい。やりたいことがもう決まってるから」 安子は小さく頷いた。その目に涙の気配があった。マイカはそれ以上何も言わなかった。ただ横に座っていた。 「お母さん、毎日疲れてる」 マイカが技術を志したのは、12歳の冬のことだった。深夜0時を過ぎて帰る母を、窓から何度も見送った夜があった。 「いつかこの人を楽にしてあげたい」 そう思い続けた。でも自分に何ができるかは分からなかった。 「絶対に方法を見つける」 ある日、図書館で偶然、量子暗号の論文を読んだ。 「これだ。これでお母さんを守る技術が作れる」 ページをめくる手が止まった。頭の中で何かが繋がった。誰かに教わったわけでも、背中を押されたわけでもなかった。マイカの娯楽は近所の図書館だけだった。中学1年から大学院レベルの専門書を借りて読み込んでいた。 「できた」 中学3年の夏、エアコンのない部屋で8時間書き続けた設計図が完成した。翌日も図書館に走り、検証を繰り返した。16歳の春、マイカは一人で特許庁に申請書を提出した。 — 入社から1年が過ぎた頃、熊田は満面の笑みで言った。 「52社が採用を決めてくれた。本当に信じられない」 入社後、マイカは開発フロアの隅の席で黙々と仕事をした。コードを書いている時、マイカは世界が消えたような集中状態になった。エラーが出る度に仮説を検証し、また修正した。 「あの子、一度も休憩してない」 … Read more