私が会社で一番信頼していた後輩の江野本さんは、ある日突然、部長から「あなたの顔を見ていると気分が悪くなる」と言われた。彼女はただ黙ってうつむくだけだった。私は怒りで体が震えた。「そんな言い方はないでしょう」と抗議したが、部長は「あなたが彼女の代わりに首になってあげたら?」と冷笑した。私は決意した。もうこの職場にはいられない。退職届を出したその日、私は大事な証拠を握っていた。それは、部長が誰も…

部長の声がまた響いた。 「江野本さん、あなたは仕事ができないわね。男の人には媚を売って、本当に困った人だわ。仕事はもっとテキパキやってもらわないと。」 江野本さんは営業事務として働いている。彼女はいつも迅速で丁寧だ。営業社員たちの間でも評判が良い。でも、異口部長は彼女だけを目の敵にしている。 「江野本さん、あなたは仕事ができないわね。男の人には媚を売って、本当に困った人だわ。仕事はもっとテキパキやってもらわないと。」 部長は今日も彼女にきつい言葉を浴びせている。彼女の顔のことをまで言い出す。 「お嬢様育ちだからって、勝手なことを言っていられるのも今のうちよ。あなたのその顔、見ていると気分が悪くなるの。分かるかしら?」 江野本さんはうつむいたまま、何も言わない。彼女は顔立ちが整っていて美人なのに、左の頬に大きな黒いあざがある。いつも髪を垂らして隠すようにしている。自己肯定感がかなり低いのだ。 俺は耐えきれなくなって、猛然と抗議した。 「部長、いくらなんでも言い過ぎですよ。江野本さんはいつも仕事をきちんとやっています。そんな言い方はないでしょう。」 部長は俺を睨みつけた。 「あら、高田さん。いつもあなたは彼女をちやほやして、随分気に入っているのね。だったらあなたが彼女の代わりにこのミスの責任を取って、首になってあげたらどうかしら。」 部長は、江野本さんがミスをしたと言っている。だが、実際にはそれは江野本さんのミスではない。部長の指示が曖昧だったせいだ。俺は歯を食いしばった。 「分かりました。じゃあ、そうしましょうか。私が首になる筋合いはありませんが、私はもうこの会社をやめますよ。」 部長は検討違いなことを言って、まともに取り合ってくれない。俺はもうほとほと嫌気がさしていた。これからもこんな非常識なことがまかり通っていくのかと思うと、もうたくさんだった。 部長の顔は青ざめた。 「何を言っているのよ、高田さん。そんな簡単に辞めるなんて、考え直しなさいよ。」 だが、俺の決意は固かった。 「部長とくだらないやり取りを繰り返すのはもうたくさんです。私が辞めます。」 急に退職することになり、みんなに心配をかけてしまった。でも、俺にはある秘策がある。お嬢様育ちだからと言って、勝手なことを言っていられるのも今のうちだ。 俺は退職届を出し、会社を後にした。 あの日から、俺は自分が思っていた以上にこの会社のことが嫌いになっていたことに気づいた。だが、それだけではない。俺はあることを知ってしまった。それは、部長が江野本さんを目の敵にしている理由が、単なる見た目や態度だけではないということ。 部長は、江野本さんが営業部で一番優秀なことを知っている。そして、そのことを嫉妬しているのだ。 俺は辞めたが、これで終わりにするつもりはない。俺にはある計画がある。それは、部長の不正を暴くことだ。 俺は会社の資料を手に入れていた。それは、部長が横領をしている証拠だった。俺はその資料を会社の上層部に提出した。 後日、部長は解雇された。江野本さんは、新しい部長の下で、ようやく認められるようになった。 俺は新しい仕事を見つけた。給料は前の会社より低かったが、気持ちは軽かった。 ある日、江野本さんから連絡があった。 「高田さん、ありがとうございました。あなたがいなかったら、私は今頃どうなっていたか分かりません。」 「そんなこと言わないでください。あなたが仕事をきちんとやっていたからですよ。」 「高田さん、また一緒に働けませんか。私、転職するんです。もし良かったら、同じ会社で働きませんか。」 俺は笑った。 「ええ、是非。」 こうして俺たちは新しい会社で再び一緒に働くことになった。江野本さんは、ようやく自分の実力を認められるようになった。そして、彼女は少しずつ自信を持つようになった。 あの日の出来事は、俺にとって大きな転機だった。まさか、自分がこんなことをするとは思ってもみなかった。でも、後悔はしていない。 だって、あの部長の言動は明らかに間違っていたから。そして、江野本さんには、もっと堂々としていてほしかったから。 今も俺は、彼女の仕事ぶりを誇りに思っている。 ============

10 September 2026

「ねえ、お寺の前に、嫁の私が呼び出されて『お前みたいな嫁、うちにはいらない』って言われた日、私の結婚は終わったと思った。夫は何も言わず隣で黙ってた。私はただ涙をこらえて、自分たちで貯めたお金のことばかり考えてた。その夜、夫に『俺たちの家、買わない?』って言われて、何を言ってるのか分からなかった。あの家は、義両親と義兄夫婦の家だろ?それが、リフォームして俺たちが住むって…。私は返事をする代わり…

「さやかさん、あの、私、ミカだけど、覚えてる?」 定休日の水曜日、家でくつろいでいた私の携帯が鳴った。 相手は義兄の妻、みかさんだった。 前に挨拶した時に連絡先を交換しただろうか。 「嫁同士、仲良くしましょうね」なんて言われたのは昨日のことのように思い出せる。 みかさんは物言いははっきりした私と違って、控えめで、人の話をじっと待つような人だ。 義兄は見るからに真面目で、遅くまで働く彼を心配するみかさんの声は、いつも小さくて、みんなの前でどもりながら話すのを、義兄が根気強く待っている姿に、ああ、愛されてるなあと微笑ましく思ったものだ。 それから特に絡みもなく過ごしてきたのに、急にどうしたのか。 「続き、どうしたの?」 私が促すと、絞り出すような声で、 「私、あの家、出たの…」 みかさんは実家を出たと繰り返した。 もう1ヶ月も前のことだという。 私は混乱した。 現在進行系で義実家の話が進んでいるようだが、何を言っているんだ? 嫌な予感がして、黙り込む私。 心配そうなみかさんに、また連絡すると告げて、一旦電話を切った。 その夜、夫が帰宅するのを玄関で待ち構えた。 「ねえ、お兄さんたち、家を出たって本当?」 夫はぎょっとした顔を見せたが、もう知らされていたのだろう。 目を泳がせる夫にもう一度鋭く問えば、 「母さんに、口止めされてたんだ…」 すねた子供のように、しぶしぶ白状した。 「それで、偽体住宅ってどういうことよ。義兄夫婦がいないのに、誰と住むの?」 「え、俺たちが一緒に住むんだよ」 「は?」 「兄さん夫婦が出てっちゃってさ、母さんたち、すごく落ち込んじゃって。まあ、嫁さんがひどかったらしいから、目が覚めたら兄さんも帰ってくるだろうけどね」 ヘラヘラと説明する夫。 私の唇が引きつった。 「最初は同居って言われたけど、夫婦のバシーも必要だろ。偽体住宅ならって言ってやったんだぜ」 「だぜ、じゃねえよ」 ドヤ顔の夫に、開いた口が塞がらない。 「まさかと思うけど、そのリフォーム代、お母さんたちが出してくれるのよね」 「まさかそんな。俺たちには貯金があるだろう。半分なら出すって言ったよ。母さん、すごく喜んでたし。半分の金額で俺たちの城が手に入るんだぜ。すげえ特した気分」 自慢げに言う夫に、私は足元から崩れ落ちそうだった。 何ヘラヘラ笑ってるのよ。 こんな大事なこと、勝手に決めて。 ぐっと歯を食い縛り、夫を睨みつける。 「いや、なんでそんなに怒るんだよ」 「怒るわよ。2人でコツコツ貯めてきたお金なのに。偽住住宅って何よ?一緒に住むって何よ?」 「俺たち、これから子供も欲しいんだろ?家が広くなったら、いいじゃないか」 「子供が欲しいのは私もよ。でも、マイホームの資金は、あと1年でようやく半分貯まるところだった。それを、どうして全部、義実家につぎ込むの?」 「半分だよ。俺たちの城が手に入るんだ。それで十分だろ」 夫は全く理解していない。 私の反応に、むしろ不満そうだ。 「お前はいつもそうだ。俺の話を聞かない」 「あんたこそ、私に一言も相談しなかったじゃない。それで、もう決定してるの?」 「ああ、もう母さんには言ってある。来月からリフォーム始めるから」 私は言葉を失った。 翌日、私は義実家に直接乗り込んだ。 義母は、私が怒っているのを見て、しれっとした顔をしていた。 「さやかさん、よく考えてみなさいよ。お義兄さんたちが家を出て、あの家が空いてるんだから。私たちだけじゃ広すぎるし、お前さんたちが来てくれたら、寂しくもないしね」 「でも、勝手に決めるのは…」 「決めたんじゃなくて、提案したのよ。あの子が(夫)が、自分から言い出したのよ」 義母の言葉に、私はさらに凍りついた。 … Read more

10 September 2026

「あんたなんてクズ中のクズ。クズ社員にはこれがお似合い。」…

「ちょっとおばさん、あんたの席はそこじゃないわよ。」 近田課長がやってきて、俺とリツコを止めた。 「ちょっと待ってください。主賓の前ですよ。」 するとプツプツと地田課長が笑い出す。気分が大きくなった地田課長は、持っていた道具箱の中から画鋲ケースを取り出した。 「あんたなんてクズ中のクズ。クズ社員にはこれがお似合い。」 そう言ってリツコが座る椅子やテーブルの上に、たくさんの画鋲をぶちまけたのだ。 俺は、東京を通る48歳のサラリーマンだ。サラリーマンと言っても「ゆるぽっちゃま」とか「セミリタイヤしてるんだろ」とかよく言われる。俺の実家は旧家の流れがあり、親は資産家だ。実際に親はいくつかの会社を経営している。子供は俺1人なので、親の資産は全て俺が相続することになる。とはいえ今のご時世だ。億万長者になろうとも、人生120年時代の今では一生暮らせる額ではないと思っている。だから親が経営する総合会館で働きながら、自分たちが暮らせる分だけの収入を得ている。 親が経営する会社だから役員報酬をもらっているのだが、働かないでいると本当に色々な感覚が麻痺しそうで怖い。だから使用人兼務として現場で働くことを選択しているのだ。だが、親が複数の会社を経営していることについては少なからず重荷に感じている。 3歳年下の妻のリツコは、見合いでこの家に嫁いできた。見合いと言っても、俺の幼馴染みであるミキ兄ちゃんこと後藤ミキの紹介で出会った。リツコはミキ兄ちゃんが務める茶所で働いている。俺の地元は、知る人ぞ知る茶の生産地で有名な茶所ほどの生産量はないが、日本の象徴とも言える方々へ毎年献上しているお茶として知られている。結婚後も茶所で働き続けることを希望し、バリバリ働いている。 総合会館で働いている俺の制服はブラックのフォーマルスーツ。24時間365日、オンコールの仕事である。連絡が入れば、病院やご自宅へ出向きお迎えをする他、夜間早朝の儀式についてのディレクションなど様々な仕事をこなしている。 昨夜の未明に、隣町の総合病院から連絡が入り、お迎えに出向くことになった。 「このところ、この時間の呼び出しが多いわね。気をつけていってらっしゃい。季節の変わり目だから、夕方にこの近くで大きな雷があったりしたからな。急激な気圧の変化があると、俺も心構えせざるを得ないよ。」 パジャマ姿の妻に見送られ、俺は家から徒歩圏にある職場に出向く。それから専用の車に乗り換えて、総合病院の個室へ向かった。 人仕事を終えれば、仕事上がりに自宅でノンビリしていることもある。俺の仕事はこんな風に目立つことが許されない業務が中心なので、「お坊ちゃまだ」とか「セミリタイヤ」などと言われる理由の1つなのだが、それはそれで仕事に誇りを持っていた。 ある夜、仕事帰りのリツコが晩御飯の支度をしながら言う。 「茶所が創業80年の記念祝賀会をするよ。ミキさんが言ってたわ。」 「ああ、それはこっちの職場でも話題になっていたな。そこで色々とお披露目をするって決まったみたい。」 「そうか。いよいよだな。」 リツコは軽く頷き、顔を引き締めた。 「私に役が勤まるかしら。」 「リツコなら大丈夫だよ。ミキ兄ちゃんがついているだろう。」 「だって祝賀会の場って、内輪と言っても司会や議員とか、あなたのお父様の関係者とかたくさん来るんでしょう。」 「それはそうだけど、大丈夫だよ。」 リツコは晴れの舞台を前に、かなり困惑している様子だった。もはや茶所の顔のような存在だし、人望も熱い。彼女ならうまく立ち回れると、俺は信じていた。 だが、記念祝賀会を開くことが決定されてから、妻の表情が冴えないことに気がついた。 「リツコ、最近元気ないけれど大丈夫かい?」 「え? 何言ってるの。大丈夫よ。」 そう言うけど、明らかに様子がおかしい。何かを隠しているような、後ろめたいような表情をしている。だが俺は、その日の仕事が忙しくて、それ以上深く考えないことにした。 祝賀会の日がやってきた。場所は、俺が働く総合会館の大ホールだ。俺は裏方として、会の進行がスムーズにいくように準備をしていた。リツコは着物姿で、受付の前に立っている。俺は遠くからそれを見て、安心していた。 会が始まり、しばらくすると、俺は異変に気がついた。リツコの様子がおかしいのだ。顔色が悪く、何かを必死にこらえているような表情をしている。 「リツコ、大丈夫か?」 こっそり近づいて声をかけると、リツコは無理やり笑顔を作った。 「大丈夫。ちょっと疲れただけ。」 そう言うけど、明らかに何かがおかしい。それから数分後、近田課長がリツコに近づいた。近田課長はリツコに何かを耳元でささやいた。すると、リツコは真っ青な顔でうつむいた。 何が起きているんだ? 俺が近づこうとしたその時、近田課長がリツコの椅子を指さして言った。 「ちょっとおばさん、あんたの席はそこじゃないわよ。ちょっと待ってください。主賓の前ですよ。」 リツコは何も言い返せず、ただうつむいている。俺は思わず足を止めた。確かに、リツコが座っている位置は、本来なら主賓が座るはずの場所のすぐ前だ。だが、それは俺が把握している席順の話だ。リツコがそこに座ったのには、何か理由があるはずだ。 近田課長は、プツプツと笑い出した。そして、持っていた道具箱の中から画鋲のケースを取り出した。 「あんたなんてクズ中のクズ。クズ社員にはこれがお似合い。」 そう言って、リツコの椅子やテーブルの上に画鋲をぶちまけた。会場中が、シーンと静まり返った。 俺の頭の中は、真っ白になった。リツコが、こんな公の場で、こんな屈辱を受けるなんて。これは、絶対に許せない。 俺は拳を握りしめ、その場に立ち尽くした。 (これは、俺が動く時だ。) だが、俺はまだ動けない。ここで俺が動けば、事態はさらに複雑になるかもしれない。俺はまず、状況を把握する必要がある。 リツコは、黙って画鋲の上に座ろうとした。俺はそれを見て、思わず叫びそうになった。 「リツコ!」 俺の声に、会場中の視線が一斉に集まった。俺はリツコに近づき、画鋲を片付けようとした。だが、近田課長がそれを止めた。 「おい、何やってるんだ。俺はこいつに教育しているんだぞ。」 「教育? あんたはただ、リツコを侮辱してるだけじゃないか。」 俺の言葉に、近田課長は鼻で笑った。 「侮辱? 仕事もできないクズ社員が、この場にいること自体が侮辱だって言ってるんだよ。」 … Read more

10 September 2026

あの日、左肩の傷跡を見られてしまった瞬間、私はすべてが終わると思った。十年前、紛争地域で軍医として働いていた時、患者の命を救うために選んだ選択——それは私の名前を消して、日本で静かにやり直す代償だった。今の病院で信頼を築き、ようやく平穏な日々を手に入れたと思っていた矢先、突然現れた監査チーム。そして、私の過去を知る男が病院の廊下を歩いてくる。その男が見た瞬間、私は悟った。この病院で積み上げて…

病院の白い壁と消毒液の匂い。俺はここで十年ぶりに医師として働き始めた。タクシーの運転手が「先生、お医者さんですかい?」と聞いてきた。俺は「ええ、今日から不妊するんです」とだけ答えた。それ以上は何も言わなかった。 病院は町外れの古びた四階建てだった。外壁の白い塗装は所々剥がれている。事務局で手続きを済ませ、用意された机に荷物を置いた。古い木製の机だ。俺は立ち上がり、ジャケットを脱いでシャツの袖をまくった。鏡に左肩の引き連れた傷跡が映った。十年経ってもこの傷だけは消えない。あの日のことが頭の片隅に浮かびかけて、俺は静かに袖を下ろした。語ることはもう何もない。 不妊から二週間が過ぎた。俺は外来診療を担当し、午後は病棟を回る。繰り返しの日々だ。「先生って前はどこで働いてたんですか?」と聞かれることも何度かあった。俺は決まって「海外の小さな病院でしばらく」とだけ答える。それ以上は誰も聞こうとしなかった。 ある日、医局でコーヒーを入れていると、若い男の声が後ろから聞こえてきた。 「は山先生、その内科の方針もう少し攻めてもいいんじゃないですか?」 振り向くと滝沢集平が腕を組んで立っていた。二十九歳の下界では腕利きの若手として通っている。 「攻めるべき場面ならそうします。今はまだその時ではありません」 「あなたみたいに慎重だと患者を逃しますよ」 滝沢はカルテを持って医局を出ていった。その日の午後、俺は新前の患者を見ていた。脈を取り、機を当て、検査値を確認する。処置は淡々と進めた。特別なことは何もしていない。それでも患者の呼吸はゆっくりと落ち着きを取り戻していった。 ステーションに戻ると、隣に立っていた女性がカルテを見つめていた。片瀬綾根だ。循環器内科で三十五歳。院内でも実力者として知られていると看護師たちの噂で耳にしていた。 「は山先生」 俺は顔を上げた。 「先ほどの処置、薬剤の選び方も投与量も迷いがありませんでしたね」 「教科書通りにやっただけですよ」 「教科書通りに迷いなくできる人はそう多くありません」 俺は何も答えずカルテに目を落とした。彼女の視線がしばらく俺の横顔に向けられているのを感じた。 数日後、当直明けの早朝のことだ。医局の洗面所で顔を洗っていた俺は、白衣を脱いでシャツ姿になっていた。襟元から左肩の傷跡がわずかに覗いていたのかもしれない。背後で足音が止まった。鏡越しに片瀬が立っているのが見えた。彼女は何も言わなかった。ただその視線は明らかに俺の肩に向けられていた。俺はゆっくりとタオルで顔を拭き、白衣を羽織った。 「失礼しました」 そう短く言って彼女は背を向けた。 その週の金曜の夕方、医局長室に呼ばれた。ノックをすると「どうぞ」と低い声が返ってきた。医局長の山本が書類の山に囲まれた机の向こうに座っていた。 「は山先生、忙しいところすまんね。少し話を聞いてもらいたくて」 「気になさらず、何かありましたか?」 山本は眼鏡を外して拭きながら、率直に言った。 「君のことは評価している。処置の正確さも、患者からの信頼も。ただ、もっと前に出てほしい。滝沢君なんかはどんどん新しい治療を試している」 「私は今の自分のやり方が正しいと思っています」 「うちの病院は地方の中核を担っている。新しい風も必要だが、確実な実績も必要だ。君の経歴は興味深い。だが、ここで何か特別なことをやろうとしているわけではないのだろう?」 「ただ患者を診たいだけです」 山本はため息をついた。 「そうか。だが、君の過去が何であれ、この病院では全てのことが表に出る。それを頭に入れておいてくれ」 その言葉に何か含みがあることは分かった。俺は軽く会釈して部屋を出た。 翌朝、外来の順番を待つ患者の中に、見覚えのある顔があった。田中という五十代の男性だ。少し前まで別の病院で治療を受けていたはずだ。 「先生、あの日は助かりました。心臓の痛みで倒れた時、私を診てくれたのは先生でしたよね? あの時、他の医者は私を切るべきだって言ったのに、先生は薬で抑えた。結果的に手術しないで済みました」 俺はカルテに目を落とした。 「覚えています」 「あの後、色々あって今はこっちに来たんです。また先生に診てもらえて安心しました」 その日の午後、片瀬が俺の机に来た。 「田中さんの件、聞きました。あの処置は正しかったんですね。よく見抜きましたね」 「経験があっただけです」 「その経験がどこで得られたのか、教えてもらえますか?」 俺はしばらく沈黙した。 「海外の小さな病院で、と言いましたよね」 「それは本当ですか?」 片瀬の目は真剣だった。何かを探っているように見えた。 「本当です」 そう答えると、彼女は何も言わずに去っていった。 その夜、当直室でカルテを整理していると、電話が鳴った。受話器を取ると、三階病棟の看護師の声だった。 「は山先生、三〇二号室の患者が状態を悪化させています。呼吸が速くなって、意識がもうろうとしています」 俺はすぐに病棟へ向かった。ベッドの上で青ざめた顔の患者が横たわっていた。モニターの心拍数が上がっている。脈を触り、呼吸を聞く。酸素飽和度は急速に下がっていた。 「気管挿管の準備を。あと、この薬をすぐに」 看護師たちが動き出した。俺は患者の肩に手を置いて声をかけた。 「大丈夫です。私がいますから」 処置は淡々と進んだ。血液検査の結果を確認し、原因を特定する。心筋炎の急性増悪だった。薬を投入し、呼吸を整える。モニターの数値が徐々に安定していく。患者の呼吸も落ち着いてきた。 一時間後、患者は危険な状態を脱した。看護師たちが安堵の息を漏らす。俺は手を洗い、当直室に戻った。時計を見ると夜の十一時を回っていた。 翌朝、医局に来ると滝沢が待ち構えていた。 … Read more

10 September 2026

「お前はもう用済みだ。これ書いて出しておけ」——夫がスナックから帰ってくるなり、記入済みの離婚届を突きつけてきた。隣には愛人らしきスナックのママがニヤニヤしながら立っている。私はただ呆然とするしかなかった。夫を支えるために仕事もやめ、義母の世話までしてきたのに、私の居場所はもうないと言われたのだ。しかも義母は二人の関係を知っていたのに、何も言わなかった。それどころか「家政婦として住み込みで働…

夫がスナックから帰ってくるなり、離婚届を突きつけてきた。すでに記入済みの紙には、夫の名前と、なぜか隣に立つスナックのママの名前があった。 「今日から母さんと彼女を同居させる。お前はもう用済みだから、これ書いて出しておけよ」 あまりの突然のことに、私は言葉を失った。 「え、どういうことなの?」 「察しが悪いな。見て分かるだろう。いつの間にか俺は、いつも通ってたスナックのママと愛人関係になってたんだよ。お前みたいに家事もできない女じゃなくてな」 若いママはニヤニヤしながら私を見下している。 「奥さんに攻め立てられてかわいそうだったから、私が慰めてあげてたのよ。感謝してほしいわ」 私は呆れてしまった。無職で働こうともせず、毎日飲んだくれている夫を支えているのは誰だと。それなのに、このママは自分のことを何か偉いかのように言っている。 とにかく現実を受け入れるしかなかった。夫はもう私のことを愛していない。ならば、この結婚を終わらせるしかないと覚悟を決めた。 しかし、私は一つ気になることがあった。同居している義母に尋ねた。 「お母さん、もしかして二人の関係をご存知だったんですか?」 義母は悪びれもせずに頷いた。 「ええ、そうよ。知ってたわよ」 私は言葉を失った。親子揃って私を騙し続けていたのか。 それでも、私は義母に別のことを言った。 「それより、私の部屋がないじゃないですか。おばさん、早く出ていってくれませんか?これじゃあ私が住めないでしょう」 すると義母は平然とこう言った。 「あら、追い出すのはかわいそうだから、あなたを家政婦として住み込みで働かせるっていうのはどう?」 それを聞いたスナックのママがキャッキャと笑いながら賛成した。 「あ、それいいわね。そうしたら私も家事しなくて済むし」 二人は自分たちの提案に大満足のようだった。 私がいなくなったらどうなるか、全く分かっていないお気楽な人たちだなと内心呆れていた。だったら痛い目を見てもらおうと決めた。 夫が言った。 「でもお前、離婚しても行くところなんかないだろう。これからどうするんだよ」 私は微笑みながら答えた。 「行くところなんか、世界中にいくらでもあるわよ。あなたたちの家政婦なんてごめんだわ」 そして私は、何も知らない夫に笑いかけた。 「だって私、あなたが思っているような女じゃないから」 夫は顔色を変え、焦り始めた。 実は私、みか子。現在40代。会社の同僚だった年明と職場結婚したばかり。年明は少し自分勝手なところはあるけれど優しかったし、お互い年齢的にそろそろ結婚しないとと思っていたので、ちょうどいい相手だと思っていた。 仕事は好きだったから、結婚後も当然続けるつもりだった。しかし、義母から反対を受けた。 「女が結婚後も仕事しているなんてありえないわ。家事はどうするの?おろかにしちゃだめでしょう。夫を支えるのが妻の勤めなんだから、仕事を続けるのは絶対にだめよ」 「でも今時、共働きなんて普通ですよ。別に仕事くらい続けてもいいじゃないですか」 「だめなものはだめ。続けるならあなたを嫁として認めませんからね」 早くに夫をなくした義母を引き取ったのはいいけれど、古い考えの義母は嫁が働くなんてとめくじを立てる。一言目には「早くやめなさい」と口うるさく言ってくる。 この調子で仕事をすることに反対され続け、私はしぶしぶ仕事をやめることにした。専業主婦として家事に専念することになった。 本当は、ずっと仕事をバリバリこなし続けていたかった。家事は嫌いじゃないけれど、主婦は私にはあまり向いていない気がするし、と心の中でため息をつく。しかし、仕方がないと割り切るしかなかった。 私が専業主婦になると、当然ながら義母は家事など一切せずに私に任せっきり。何ひとつ手伝おうとはしない。 年明も同じ調子だったが、そうなるだろうなと予想していたし、主婦なのだからそれは仕方ないことだと諦めていた。 そんなある日、年明が仕事から帰ると、私にある提案をしてきた。 「なあ、みか子は子供の頃から前速持ちだろう。こんな都会にいないで、田舎に引っ越した方がいいんじゃないかな」 「田舎に引っ越し?どうしたのよ、急に」 唐突な話に目を丸くする。確かに私は幼少時から前速を持っていた。大人になってからはそれも落ち着いて、前速が出ることはほとんどなくなったのだが、そこまで心配かけていたのだろうかと疑問に思う。 付き合っていた時も結婚した後も、私の前速なんて気にすることは一切なかったのに、なぜ今になって。 「何か訳があるの?」 「いや、別に。ただ、俺も最近体調が優しくなくて、都会の騒音が疲れるんだ。田舎の方が体にいいだろう」 夫の言い分はもっともに聞こえたが、どこか不自然だった。しかし、これ以上詰めても答えは返ってこないだろうと諦めて、私は田舎への引っ越しに同意した。 引っ越し先は、夫の田舎にある古い家。義母も一緒に移り住んだ。 しかし、そこでの生活は地獄の始まりだった。義母は私を家政婦のように扱い、毎日のように文句を言ってきた。夫は相変わらずスナックに通い、夜遅くに酔って帰ってくる。 私は少しずつ、この生活に限界を感じ始めていた。それでも、夫を愛しているから、なんとか頑張ろうと思っていた。 ところが、ある日。夫のスマホを見た私は、彼の浮気現場を目撃してしまう。スナックのママとのやり取り。愛人関係にあることを示すメッセージと写真。 私の心は崩れ落ちた。この男のために仕事をやめ、義母の身の回りの世話までしてきたのに、裏切られていたのだ。 しかし、私は反撃を決意した。泣き寝入りするつもりはない。 私はこっそりと行動を開始した。まず、夫の浮気の証拠を集めた。メッセージのスクリーンショット、写真、夫婦の会話の録音。そして、自分が持っていた仕事のスキルを活かして、新しい人生を準備し始めた。 すべてがそろった時、私は夫と義母を呼び寄せた。 … Read more

10 September 2026

昼食をとろうと、いつもの定食屋に足を踏み入れた。常連だから、母と娘の経営するこの店が、まるで家族のように思えている。ところが、その日に限っては、様子がおかしかった。突然、スーツ姿の男たちが怒鳴り込んできて、店主の母親にこう吐きかけたんだ。「お前の亡くなった旦那の借金、二千万円を返してもらうぞ。払えないなら、店を畳んでもらう」と。私は、店の戸を閉め、男の前に立ちはだかった。すると男は私を嘲笑い…

昼休み、私はいつもの定食屋へ足を運んだ。仕事を乗り切るには、ここで食べる生姜焼き定食が一番だと分かっていたからだ。この店は、三年前に主人を亡くした母娘が切り盛りしている。私はこの二人に、言い表せないほど世話になっている。かつて私がヤクザだった頃、この店の女将さんと娘さんは、私を普通の人間として接してくれた。その優しさが、私を更生させたと言っても過言ではない。今日も元気な声で客を迎える、娘のレミチャン。その姿に、私はいつも救われている。 「サバエさん、いらっしゃい!今日はお肉がおすすめだよ。生姜焼き定食、どう?」 「ありがとう、レミちゃん。じゃあ、それをもらおうかな。」 女将さんのコトコさんが、奥から優しく声をかける。彼女の笑顔は、まるで私の実の家族のようだ。私は席につき、出てきたばかりの熱々の生姜焼きに箸を伸ばそうとした。その瞬間だった。 ガラッと大きな音を立てて、店の戸が荒々しく開けられた。黒いスーツを着た大柄な男が、格闘家のような部下を何人も引き連れて、どかどかと店の中に入ってくる。彼らの目つきは、明らかに普通の客のものではなかった。店の中にいた他の客たちは、一瞬で空気を察し、慌ただしく会計を済ませると、逃げるように店を出て行った。店内は、私と母娘を残して、一気に静まり返る。 男はコトコさんの前に立ちはだかり、脅すような低い声を発した。 「おい、あんたがこの店の主か。お前の亭主が、うちの組に残した借金が二千万。耳を揃えて返してもらおうか。さもなければ、二度とこの店を営業できないようにしてやる。」 コトコさんの顔から血の気が引く。レミちゃんは怖気づき、母の後ろに隠れた。 「そんな…夫が借金を?そんなはずはございません。夫は真面目でした。家族に何も言わずに借金をするような人じゃなかったんです。」 「うるせえ!男ってのは、家族に言えない秘密の一つや二つ、あるもんなんだよ。借金が払えないっていうなら、この店の土地の権利書をよこしな。こんなボロ店でも、立地はいいんだ。借金の代わりにはなるだろう。」 男は、持っていた書類をテーブルに叩きつける。そこには、確かに私の知っているコトコさんの夫、つまり故人の名前で借金の借用書が書かれていた。しかし、私はこの家族をよく知っている。あの真面目で、家族思いだった男が、内緒で借金をするなんて、絶対に信じられなかった。 私は、意を決して立ち上がった。 「待て。その借用書、本当なのか?」 男は、私を睨みつけた。 「あんた誰だ?関係ない奴は引っ込んでろ。」 「この家族には、私も昔世話になった。あんたに言いがかりをつけるつもりはないが、故人が家族に隠して借金をするとは思えない。その書類、見せてもらっていいか?」 私は、男の目を真っ直ぐに見つめながら言った。すると、男はなぜかニヤリと笑った。そして、私の顔をしげしげと見つめた。 「おいおい、まさか…お前、昔、サバエ組の若頭だったって奴じゃねえか?組が解散したって聞いたぜ。今じゃ、こんな小さな店で飯食ってるのか?落ちぶれたもんだな。」 私の過去を知っている男だった。かつて私は、二万人を率いるサバエ組の若頭だった。今は足を洗い、普通の会社員として暮らしている。この男は、私の過去を知った上で、嘲笑うように言ってくる。 私は、ゆっくりとテーブルの上の借用書に目を落とした。それを手に取ると、指先で紙の質感を確かめた。そして、ある場所でピタリと指を止めた。 「この借用書だが…」 私の声は低く、静かだった。男は、私の態度に少し警戒したような表情を見せる。 「どうした?何か文句でもあるのか?」 私は、書類を男の目の前に突き出すと、静かに言った。 「この印鑑、偽物だ。本物の印鑑と、微妙に違う。私は昔の仕事で、書類を見る目だけは肥えてるんでね。これは、傑作の偽札だな。」 男の顔色が、一瞬で変わる。私は、すかさず続けた。 「俺は、もう昔のようなことはしない。だが、家族を大切にしている人を、偽の書類で脅すような奴は、許せないんだ。この店から、今すぐ出て行け。」 男は、悔しそうに私を睨みつける。だが、何も言い返せない。 「…覚えておけよ。」 男は、部下たちを連れて、店を出て行こうとする。だが、私はその背中に向かって、もう一言添えた。 「ああ、言っておくが、うちの組の昔の連中が、この近くで食事してるぜ。もしこの店に、もう二度と立ち入ったら、その連中がどう出るかは、俺が保証しかねる。」 男は、足を止め、振り返る。その顔は、さっきまでの威圧感を失っていた。彼は、無言のまま店を出て行った。 店内には、私と母娘だけが残された。レミちゃんは、放心状態で立ち尽くしている。コトコさんも、まだ震えているようだった。 「サバエさん…ありがとうございます。本当に、助けられました。」 コトコさんは、涙声でそう言って深く頭を下げる。レミちゃんも、やっと言葉を絞り出すように言った。 「おじさん、かっこよかった…!」 私は、2人を安心させるように、優しく微笑んだ。 「気にするな。ああいう奴は、自分が弱いから、他人を脅すんだ。お前さんたちに非はない。さあ、いつもの生姜焼き定食、続きを頼むよ。」 私は、そう言って席に戻った。女将さんは、何度も何度も頭を下げながら、厨房へと向かう。私は、湯呑みのお茶を一口啜り、ほっと息をついた。かつての自分の過去が、初めて誰かのために役に立った瞬間だった。この店を、これからも守っていこう。そう、心の中で強く誓った。熱々の生姜焼き定食が、再び私の前に運ばれてきた。その美味しそうな香りに、私は自然と笑みをこぼしていた。

10 September 2026

現場の担当者に「汚い格好でここまで来るなよ」と手で追い払われた時、俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。大工上がりの俺は、そういう扱いに慣れている。だがその担当者は、俺がただの小さい工務店の社長だと思って、見下し続けた。「下請けが納期を気にするな」とヘラヘラしながら。知らなかったんだろう。この建物の構造工法の特許を持つ会社の役員が、今まさに俺の目の前にいるということを。契約期限は5時間後。俺が名…

「おい、汚ねえ格好でここまで来るなよ。」 事務所に入って最終確認をお願いしようとした瞬間、担当者の三橋はそう言って手で俺を追い払った。要件を伝えようとしたが、聞く耳を持たない。苦笑いを浮かべながらも、腹の底では苦いものが渦巻いていた。 大工として現場に立っていた頃から、こういう扱いは腐るほど見てきた。今すぐ名刺の一枚でも出せば、この空気は一変する。だがそれをやらないと決めているのは、俺自身だ。 俺の名前は森田。45歳だ。高校時代、知人の紹介で大工の手伝いを始めてからこの世界に入った。一級建築士の資格を取り、現在は少数精鋭の工務店を経営している――というのが、世間向きの表の顔だ。 実は俺にはもう一つの顔がある。業界でも有数の規模を誇る大手建築メーカーの役員だ。そして、そのグループ会社全体を束ねる会長の小谷さんこそ、俺に大工の色派を叩き込んでくれた恩師だった。 小谷さんは今60代。今から20年以上前、小谷さんの工務店は職人の腕こそピカイチだったが、経営は大赤字だった。潰れかけていたその技術を残すため、俺はITを使った集客やブランディング、思考プロセスの改革を徹底的に叩き込んだ。その甲斐あって掴み取ったのが、地元の超大型ショッピングモールの建設案件だった。 「大抜擢だ。森田君、本当にありがとう。」 あの時、涙を流して喜んでくれた小谷さんの会社は、そこから一気に急成長を遂げ、今や業界を牽引する巨大グループとなった。小谷さんは会長へ。そして俺は現場の声を経営に届ける役員として、今も現場と経営の双方に携わっている。俺がどうしても現場に残りたいと言ったのを、小谷さんが聞き入れてくれた形だ。 そんな俺は今日から、中堅メーカーが仕切るショッピングモールの現場に入っている。だが待てども待てども、現場に担当者が来ない。仕方ないので、俺は事務所の方まで担当者を探しに行った。 この担当者は先日、打ち合わせをした時にも妙にこちらを見下してくるような印象だった。下請けを見下すのは、一部のメーカーや役職者にはありがちである。担当者の名前は三橋。おそらく50代だろう。この現場にはいくつかのメーカーが入っているが、大手にはペコペコしていた。 俺は今まで、現場の職人を大切にしない取引先とは、その後の取引を行わないようにしている。実際、俺が大工として働いていた時からそういった理不尽な取引先は多く、そういう人間とは付き合いをしたくないと思っているからだ。それにうちの職人たちは全員が一流。小さな工務店だからと舐められているのも腹が立つのだ。 俺が事務所を覗くと、三橋の姿があった。 「三橋さん、すみません。本日の最終確認なんですが」 声をかけると、三橋は「おいおい、汚い格好でここまで来るなよ」と俺を追い払う仕草をする。 「本日の最終確認をさせていただきたく」 「ああ、俺は忙しいんだ。そんなもん後にしてくれ」 「ですが確認していただかないと、作業が何もできません。契約期限は5時間後ですので、なるべく早く」 俺がそう念を押しているのに、三橋は頬を緩め、「まあそう焦るなって。うちのやり方ってもんがあるんでね」と含みのある言い方をして、俺と目を合わせもせず、わざと視線をそらす。 「やり方って、どういうことですか?」 「決まってんだろ。俺たちの都合に合わせてもらうってことだよ。下請けが納期を気にするのは分かるが、こっちはプロジェクトの責任者ですよ。え、出世界道真っ暗ですって? いやあ、困ったなあ」 ヘラヘラしている。三橋はこの社長とやらと繋がりがあり、このプロジェクトに抜擢されたというわけか。本当に何も分かっていない。俺は怒りを通り越して、哀れみさえ覚えた。 三橋の会社が請け負おうとしているこのショッピングモールは、特殊な大空間構造を採用している。柱と梁の接合部にかかる過重を分散させる特許工法がなければ、広い無柱空間を安全に支えることはできない。その特許を持っているのは、俺のグループ会社だ。 俺は名刺を出さずに、静かに言った。 「三橋さん。確認だけさせてください。この建物の構造計算書は、どういう基準で出されていますか?」 「はあ? そんなもん、うちの技術者がやったに決まってんだろ。お前みたいな小さな工務店が口出しすることじゃない」 「構造計算書、見せてもらえますか?」 「ああ、うるせえな。後で見せてやるから、とっとと帰れ。俺は忙しいんだ」 三橋は俺を追い出そうとする。だが、俺は動かなかった。 「三橋さん。このモールの構造には、『特許工法』が必要です。その工法の認証を持っているのは、俺の所属するグループ会社だけです」 三橋の顔色が一瞬で変わった。 「……は? 何言ってんだ、お前」 「確認したいんです。三橋さんの会社は、この工法の認証を取得していますか? それとも、別の方法で柱と梁の接合部を処理するつもりですか?」 三橋は押し黙った。やがて、小さな声で「……それは、うちの技術者が管理してる」と呟く。 「では、その技術者に確認を取ってください。契約期限は5時間後です。もし工法の認証が確認できなければ、工事は開始できません」 俺の口調は丁寧だったが、三橋には十分伝わったはずだ。彼の顔からヘラヘラした笑みが消えている。 三橋はしばらく俺を凝視していたが、やがて電話を取り出し、誰かにかけた。だが、その会話は噛み合っていないようだった。 「……おい、ちょっと待ってくれ。特許工法の認証ってのは、うちはどうなってるんだ?」 電話の相手の答えを聞いて、三橋の顔が青ざめていく。俺には、相手が何と言ったか推測できた。三橋の会社は、この工法の認証を持っていないのだ。 三橋は電話を切り、俺に向き直った。 「……お前、本当は誰だ?」 「森田です。一応、この工事の現場監督としてここにいます。そして、この工法の特許を持つ会社の役員でもあります」 俺は名刺を一枚、机の上に滑らせた。三橋はそれを手に取り、目を大きく見開いた。 「……まさか」 「三橋さん。この契約、成立していますか? もしあなたの会社が認証を持っていないなら、この工事は違法です。そして、あなたが責任を問われる」 三橋は机に突っ伏した。俺は時計を見た。契約期限まで残り4時間半。まだ十分にやり直せる。 「三橋さん。今からでも遅くありません。うちの技術者を呼んで、正しい工法で施工する手配をしてください。そうすれば、この工事は期限内に終わります」 三橋は顔を上げ、震える声で言った。 「……本気か?」 「本気です。俺はこのモールを、安全に完成させたいだけです。あなたが下請けを見下そうが、俺には関係ない。だが、この建物の安全性に関わることだけは、絶対に妥協できません」 三橋はしばらく沈黙した後、ゆっくりと頷いた。 … Read more

10 September 2026

Mitt namn är Siena Hol och jag var tio år när mina föräldrar packade sina väskor och lämnade mig på min mormors veranda. De vände sig aldrig om. I tio år väntade jag, skickade födelsedagskort och…

Det var inte ett samtal, utan en iskall tystnad som hördes tydligast genom luren. Jag hade äntligen samlat modet att ringa mina föräldrar efter tio år av tystnad. Tio år av födelsedagskort som aldrig besvarades, tio år av att undra om de någonsin tänkte på mig. Nu var jag vuxen och behövde veta varför jag … Read more

10 September 2026