毎年楽しみにしていたお正月。実家に着くなり、私は違和感を覚えた。豪華なおせち料理が並ぶ食卓に、母の姿がない。「お母さんは?」と尋ねると、義姉は笑いながら「玄関にいるわよ」とだけ言った。そこにいたのは、背中を丸めてカップ麺をすすっていた母。私が「一緒に食べよう」と言っても、母は「私はいいの。いつも迷惑かけてるから」と涙を見せた。義姉は「しつけようと思っただけよ」と平然と言い放った。私はこの瞬間…
正月の実家で、豪華なおせち料理が並ぶ食卓。なのに母は、玄関で一人、カップ麺をすすっていた。 「お母さん、一緒に食べよう」 そう言っても、母は背を向けたまま、こう答えるだけだった。 「私はいいの。いつも迷惑かけてるから、しつけよう」 私は、その時、胸の奥で何かが凍りつくのを感じた。 私の名前は緑、36歳。あの日、私は同僚に誘われて職場近くの居酒屋で飲み会をしていた。仕事に追われる毎日で、当時28歳の私は恋愛のことなど考えたこともなかった。席に着くと、一番端の席に見慣れない男性がいた。同僚に聞くと、他の社員が連れてきたらしい。 飲み会が始まって30分後、その男性が私に向かって軽く会釈をした。彼が後に私の夫となる弘樹だった。第一印象は大人しい人。派手さはなく、言葉を選ぶような優しい口調で、誰に対しても丁寧に接していた。周囲の同僚たちが酔っ払い始める中、私は黙々と食事をしていた。私はお酒が苦手なのだ。 そろそろ帰ろうかなと思っていると、彼が私の隣の席に来た。 「こういう集まり、緊張しますよね。僕も実はちょっと苦手なんです」 その言葉に思わず笑ってしまった。それから自然と会話が始まり、仕事の話や趣味の話をした。彼は私と同い年でお酒も苦手らしい。私がカフェが好きだと話すと、彼は興味深そうに聞いてくれた。 「今度、おすすめのカフェを教えてもらえますか?」 その笑顔が温かく感じられた。飲み会の帰り、彼が駅まで一緒に歩いてくれた。別れ際に彼は少し照れたように言う。 「よかったら、またお話ししたいです」 「私もです」 交際が始まって3年後、公園の噴水広場の前でプロポーズを受けた。彼はポケットから小さな箱を取り出した。 「これからもずっと一緒に笑っていこう」 驚きと同時に涙が頬を伝った。父が病気で倒れた時も、彼はそばにいてくれた。病室の前で俯いていた私の手を無言で包み込んでくれたあの夜を思い出す。「無理しないでもっと俺に頼ってよ」と言ってくれた声が今でも耳に残っている。そんな人が自分の未来を一緒に歩こうと言ってくれた。私は静かに頷いた。 「はい、お願いします」 結婚式の日、母は涙をこらえながら微笑んだ。 「お父さん、見てるわよ。きっと一番前でね」 父は倒れてしばらく入院していたが、亡くなってしまい、私の結婚式には出席できなかった。父の写真を胸に抱きしめながら、心の中でそっと呟いた。お父さん、私、幸せになります。 結婚して1年が経った頃、私は妊娠した。仕事から帰ってきた夫に報告すると、彼は数秒間言葉を失い、そして目を潤ませながら笑った。 「ありがとう」 妊娠中は決して楽なことばかりではなかったが、夫がいつもそばにいて食事を作り、背中をさすってくれた。母に妊娠を報告したら、電話の向こうで声を震わせていた。 「わあ、本当に良かったね。お父さんも喜んでるよ」 母は2歳年上の兄である修と一緒に暮らしている。私は結婚して実家を出て都内で暮らしているため、ほとんど実家に帰ることができない。帰るには電車で2時間はかかるのだ。そんな私を母はいつも心配してくれて、何度も電話やメールをくれた。妊娠したことで連絡の頻度も増え、「ちゃんと食べてる?無理しないでね」と気遣ってくれた。 そして私は無事に女の子を出産。娘が生後2ヶ月の頃、私は実家を訪ねた。母は孫を抱きながら微笑んだ。 「この子、お父さんに似てる気がするね」 兄もその横で穏やかに笑っている。その光景を見ていると、家族の絆が世代を超えてしっかりと繋がっていることを感じた。 娘が生まれて半年経ったある日、母から電話がかかってきた。 「修が結婚することになったのよ」 「え、本当?」 いつも落ち着いていて家族を支えてきた兄。父が亡くなった後も母を支えてきた兄の姿が思い浮かぶ。 それから1ヶ月後に、私は兄のお嫁さんになる女性と対面した。兄よりも2歳年上のなお。大人しそうで優しい笑顔の女性だった。 兄の結婚式の日。 「まるで自分の息子がお式に行くみたいね」 母は会場の入り口で少し緊張した様子で立っていた。その目には喜びと寂しさが混じっているように見える。兄となおの姿を見た瞬間、私は胸に込み上げるものがあった。父がいなくなってからの年月、兄も必死に前を向いて歩いてきたのだ。そして今、ようやくそれぞれが自分の幸せを手に入れようとしている。 披露宴の最後に、兄が感謝の言葉を述べた。 「父がいなくなってから、母と妹にはたくさん支えられてきました。これからは僕が家族を守っていきます」 私と母の目には涙が溢れた。 兄の結婚から1年。私は娘を連れて久しぶりに実家へ帰った。玄関を開けると懐かしい匂いがしたが、どこか以前とは違う空気が家全体に広がっていた。靴箱の上には兄夫婦の写真立てが置かれ、その横に母と兄夫婦の3人で映った新しい家族写真が飾られていた。 「あ、お帰りなさい」 台所から顔を出したのはなおだった。笑顔が母に似ている。なおが声をかけると、母が奥から現れ、娘を抱き上げた。 「ああ、こんなに大きくなって。おばあちゃんのこと覚えてる?」 娘は笑いながら母の頬に手を伸ばす。リビングに入ると、兄が新聞を畳みながら言った。 「久しぶりだな」 「お兄ちゃんたち、本当にお母さんと同居始めたの?」 「うん。結婚してからこっちに引っ越してきたんだ。母さん一人にしておくのも心配だったし」 兄によると、母が以前足を悪くしたことで同居を考え始めたらしい。母が照れくさそうに笑う。 「最初はなおさんに申し訳ないと思ったけど、楽しいのよ。なおさんが明るいから、毎日が賑やかでね」 母となおが一緒に作った夕飯を頂いた。その味は昔のままなのに、どこか少し新しい。家庭の中に世代のバトンが確かに渡されているような気がした。 兄夫婦が2階に引き上げた後、母がつぶやいた。 「こうしてまた家が笑い声で満ちる日が来るなんてね。お父さんも見てくれているわ」 私は兄夫婦がいるという安心感もあって、実家に帰る頻度は年に1〜2回。そんな状態が普通だったが、ここ2、3年の間に実家の近くに行くことが多くなった。開いた時間に実家へ寄っていたが、少しずつ気づく変化があった。母の笑顔は変わらないけれど、どこか遠慮がちに見える瞬間がある。なおは明るくて面倒見の良い人だと最初は思っていた。けれど家の中の空気を見ていると、自然と彼女の発言が家の中心になっているように感じた。 「お母さん、それはもう古いから新しいのに買いましょう」とか。「お母さん、洗濯は私がやりますから」とか。その言葉自体は優しくて、母のことを思っているように聞こえる。でも、母が何か言いかけても口を閉じてしまう。そんな小さな母の様子が気になった。 … Read more