私たちは、妻が家の中で倒れているのを見つけた。母は脈を確認して「死んでいる」と言い、錯乱したまま「火をつけてしまえば何もなかったことにできる」と叫んだ。私は怖くて逆らえず、古い苦塚に妻の体を運び、枯草に火を放った。炎が大きくなった時、布の奥から声が聞こえた。「お母さん、暑い」。そして、焼け焦げた手が炎の中から私に向かって伸びてきた。私は逃げ出した。あれから何年も経った今、妻の幽霊は毎年同じ夜…
その夜、修二は妻の玲子がまだ生きているとは思っていなかった。だからこそ、火をつけることができたのだ。 山間の小さな集落の外れに、古い苦塚があった。長い間誰も近づかず、冬になると雪と枯草に埋もれてしまうような場所だ。その夜、修二と母親の富子はその苦塚の前に立っていた。二人の足元には、古い布に包まれた女が一人横たわっている。修二の妻、秋山玲子だった。 「早くしなさい。」富子が低い声で言った。 「本当に死んでるんだよな。」 「何を今更言ってるの?あれだけ殴ったんだから、生きているわけがないでしょう。」 修二は答えなかった。玲子はその日の夕方、家の中で倒れた。富子と修二は玲子が死んだと思ったのだ。誰にも見つからない場所へ運び、火をつけてしまえば何もなかったことにできる。二人はそう考えていた。修二は枯草を集め、玲子の体の周りに置いた。富子は黙ったまま火を渡す。小さな炎が枯れ草へ移り、パチパチと乾いた音が響いた。炎は少しずつ大きくなり、布を包み、玲子の体へ近づいていった。修二は顔を背けた。 その時だった。 「お母さん。」 炎の向こうから女の声がした。修二の肩が震える。 「今、何か聞こえた?」 富子は答えない。炎が大きく揺れた。 「お母さん。」 今度ははっきり聞こえた。修二は炎を見つめた。玲子。返事はない。しかし、しばらくして炎の中からもう一度声が聞こえた。 「暑い。」 修二の顔から血の気が引いた。 「お母さん、玲子は…」 「黙りなさい。」 「でも、生きてるんじゃ…」 「黙って帰るのよ。」 富子は修二の腕を強く掴んだ。その瞬間、炎の中から一本の腕がゆっくりと持ち上がった。焼け焦げた手だった。五本の指が何かを探すように空中を描いている。修二が息を飲んだ。その手が二人の方へ伸びてくる。助けを求めるように。 「母さん、走るよ!」 二人は苦塚から逃げ出した。その後ろで炎だけが、音もなく燃え続けていた。 翌朝、富子は誰にも何も話さなかった。玲子は家を出て行った。夫婦喧嘩をしてどこかへ逃げた。それが富子と修二の作った話だった。ところが、その日の昼頃、富子は家の廊下に妙なものを見つけた。壁に黒い手形がついていたのだ。まるで焼け焦げた手をそのまま押し付けたような跡だった。富子は布で拭いた。落ちない。水をつけても、何度こすっても消えない。むしろ擦るほど黒い指の跡が濃くなっていった。 夜になり、修二が寝床へ入った後も富子はなかなか眠れなかった。家の中は静まり返っている。バーの灯りも消えていた。それなのに、夜中になるとどこからともなく焦げた髪のような匂いが漂ってきた。富子は目を開けた。暗い部屋の中に、誰かがいる気配がする。 「…誰?」 返事はない。富子は布団から出て廊下へ出た。すると、暗闇の奥から声がした。 「お母さん。」 富子の足が止まった。聞き間違いではない。玲子の声だった。 「お母さん。」 声は少しずつ近づいてくる。富子は振り返れなかった。やがて、耳元で女の声が囁いた。 「どうして、助けてくれなかったの?」 富子は悲鳴をあげ、振り返った。誰もいない。ただ、廊下の壁には昼間までなかった黒い手形が、もう一つ増えていた。最初の手形よりも明らかに小さい。そして、その小さな五本の指の下には、まるで子供が壁に触れたような、もう一つの黒い跡が残っていた。 翌朝、富子は昨夜のことを誰にも話さなかった。修二にも黒い手形のことは言わなかった。壁に残った二つの跡を布で覆い、その上から家具を置いて隠した。 一方、村では玲子がいなくなったという話が広がっていた。夫婦喧嘩の後、家を出たらしい。男ができたんじゃないか。若い女だからね。何を考えているかわからないよ。そんな噂ばかりだった。けれど、その話を聞いて納得できない男が一人いた。光一だ。玲子とは親戚同士で、子供の頃からよく知っていた。玲子が家族を捨てて突然いなくなるような人ではないことを、光一は知っていた。 数日後、光一は富子の家を尋ねた。 「玲子さんが出ていくところを、誰か見たんですか?」 富子は湯呑みを置きながら答えた。 「夜だったからね。私は見ていないよ。修二は寝ていたんじゃないかね。」 「じゃあ、誰も見ていないんですか?」 富子は黙った。光一は家の中を見回した。玲子の履物は玄関に残っている。冬用の着物も、普段使っていた箪笥もそのままだ。 「荷物が残ってますけど。」 「取りに戻るつもりだったのかもしれないでしょう。財布も…」 富子の手が止まった。光一はそれ以上追求しなかったが、帰る前に廊下へ目を向けた。そこには一枚の布がかけられていた。 「その布、何ですか?」 「なんでもないよ。」 「壁を隠しているんですか?」 富子の表情が変わった。「余計なことを詮索するんじゃないよ。」光一は黙って家を出た。 しかし、その日の夕方、もう一度その家へ戻ることにした。今度は誰もいない時間を選び、家の裏手から廊下を覗いた。障子の隙間から壁が見える。黒い手形。しかも、その数は一つではなかった。大人のものと思われる手形が一つ。その下に、少し小さな手形が一つ。そして、そのさらに下には指先だけの黒い跡が三つ並んでいた。光一は思わず息を止めた。誰かが煤をつけて押しただけなら、こんな形にはならない。それに手形の周りには焦げた跡がない。まるで壁の内側から手が押し出されているようだった。 その夜、光一は村の五郎を尋ねた。 「玲子さんが消えた夜のことを、何か知っていますか?」 五郎はしばらく黙っていた。 「あの夜、塚の近くを通った者がいる。」 「誰ですか?」 「名前は聞かなかった。ただな、妙な声を聞いたそうだ。」 「声?」 … Read more