たった一通の電話で、すべてが終わると思った。『タイルのイメージが違うから五千万円分の注文はキャンセルね。料金は払わない』。頭が真っ白になった。何度も打ち合わせを重ね、サンプルまで確認したはずなのに。それはビル完成の前日、午後三時のことだった。電話の相手はマックス建設の木村という男。俺は満点タイルで施工管理を担当していた。『下受けのくせに身の程をわきまえろ』と笑う声が、今も耳から離れない。でも…
「タイルのイメージが違うんだよね。だから五千万円分の床タイルの注文はキャンセルで」 木村の言葉に、俺は自分の耳を疑った。この男は何を言っているんだ。タイルに関しては何度も話し合ったはずだ。もちろんその際にサンプルだって提示していた。それなのに今さらイメージが違うだと? 「そ、そんな……今からキャンセルと言われましても、もうタイルは先日全て貼ってしまいましたし……」 「いいから。とにかく注文はキャンセルね。料金は払わないんで、そのつもりで。もう明日にはビルを完成させなくちゃいけないし、タイルは貼ったままでいいから」 そう言い残して、木村は一方的に電話を切った。 俺の名前は辻本洋一。今年四十歳になるサラリーマンだ。自分で言うのもなんだが、俺は子供の頃から特に飛び抜けた才能もない、凡庸な男だった。勉強もスポーツもそれなりにこなすことはできるが、抜きん出たものは何ひとつなかった。それは年を重ねても変わらない。 高校卒業後、俺はそこそこの大学に入学し、新卒で今の会社に入った。俺が働いているのは満点タイルの施工管理部。満点タイルはその企業名の通り、タイルの製造販売を行っている会社だ。お世辞にも大企業とは呼べない中規模の会社だが、俺はこの会社を気に入っている。何と言っても、俺のような身の丈に合わない人間にとって、これ以上合う会社は他にないからだ。 ある日、いつも通りオフィスで仕事をしていると、俺の飲み仲間でもある営業部長が大きな歓声を上げながら飛び込んできた。話を聞くと、どうやらマックス建設との交渉がうまくいったらしい。 マックス建設といえば、数々の高層ビルを手掛けていることでお馴染みの、日本でも有数の大手建築会社だ。そのマックス建設から、今度の商業ビルの建設に際して五千万円分のタイルの注文を受けたという。これはうちの会社にとってとんでもないビッグチャンスである。取引がうまくいけば評判が口コミで広がり、どんどん売上を伸ばすことができるからだ。 しかし喜びはそれだけでは終わらなかった。営業部長はその流れで、なんと俺を今回の現場の施工管理担当者に任命してくれたのだ。 俺は驚いて、思わず「ええっ」と声を上げてしまった。これは責任重大どころではない。今まで俺は自分の身の丈に合わないことはなるべく避けてきた。しかし今回は逃げるわけにはいかない。俺自身が逃げたくないからだ。自分自身を卑下し続ける生活に、俺はいい加減終止符を打ちたいと思っていた。その絶好の機会を、営業部長は与えてくれたのだ。 「これを逃すわけにはいかない」 俺は思わず背筋をピンと伸ばし、「頑張ります」と力強く生き込んだ。 その後、俺は早速マックス建設の本社へ出向くことになった。今回の件の打ち合わせのためだ。マックス建設の本社ビルは、満点タイルのそれとは比べ物にならないほど巨大で、俺はすっかり圧倒されてしまった。だが、ここで気遅れするわけにはいかない。マックス建設とうちとは、元受けと下受けという関係ではあれ、別にどちらが偉いということではないのだから。 俺は気を取り直して本社ビルの中へと入っていった。社内にはなんとコンビニまである。別に大企業で働く人々にとっては何てことないだろうが、約二十分歩かないと最寄りのコンビニにたどり着けないうちの会社と比べれば大違いだ。まあ、うちの方が健康維持のためにはいいのかもしれないが。 俺は打ち合わせ室に通され、しばらくそこで担当者を待つことに。そして約束の時間から約三十分後、ようやく打ち合わせ室のドアが開いた。やってきたのはマックス建設開発部長の木村だ。メールや電話では何度もやり取りしているが、俺と木村は今日が初対面である。 木村は遅れたことを謝罪することなく、俺の向かいに腰かけた。俺は木村に名刺を差し出し、うやうやしく自己紹介した。木村は「ああ、どうも」と言葉少なに答えただけだった。俺はそんな木村の態度に若干の不審感を感じつつも、施工の手順や日数、料金について改めて説明した。木村は心ここにあらずといった具合で、「うん」「はい」と適当に相槌を打つばかり。この男はちゃんと話を聞いているのだろうか。俺はそんな不安に駆られつつも打ち合わせを続けていった。 俺が全てを話し終えた頃、木村が「施工完了までの日数はどのくらいかかるの?」と聞いてきた。それは先ほど俺が説明したばかりである。しかしことを荒立てて、万が一契約が破談になってしまったら大変だ。そう考えた俺は、もう一度木村に対して「約一週間ほどになります」と丁寧に説明してやった。 木村はその納期に不満を示し、「え、そんなの三日でできるでしょ。できるよね」と俺に圧力をかけてくる。「もし三日でできないなら、今からでも他のタイル会社に変えちゃおっかな」と脅し文句までつけてきた。 提示した期間の半分以下を要求してくるなんて。この男はひょっとするとヤバいやつなのかもしれない。俺はそんな予感がしたものの、この時は特に気にすることはなかった。今にして思えば、もっとちゃんと自分の直感を信じるべきだったと思う。 話し合いの結果、というか木村がひたすら自分の主張を繰り返した結果、納期は四日ということにまとまった。加えて木村は料金の後払いも要求してきたので、その条件も飲むことに。これも五千万円という大口契約のためだ。仕方ない。 その後も俺は木村との打ち合わせを何度か重ねた。木村が終始一貫して横柄で不誠実な態度のままだったことは言うまでもない。それと同時に、俺の不安はどんどん大きくなっていったのもまた然りである。 そしてあれよあれよと言う間に施工は無事に完了。あとは商業ビルの完成を待つばかりである。ビルが完成したら、きっとたくさんの人が俺たちが施工したタイルの上を歩くのだろう。そこで様々なドラマが生まれることだってあるかもしれない。そんなことを考えていると、俺は自然と笑顔になっていた。 ビル完成の一日前、俺がオフィスで仕事をしていると電話がかかってきた。相手は木村だ。今頃一体何の用だろうか。俺が要件を伺うと、木村は電話越しにこんなとんでもないことを言ってきたのだ。 「あのさ、あなたたちのタイルなんかイメージと違うんだよね。だから五千万円分の床タイルは注文キャンセルで」 俺は木村の言葉に自分自身の耳を疑わずにはいられなかった。この男は何を言っているのだろうか。大体、タイルに関しては何度も話し合ったはずである。もちろんその際にちゃんとサンプルだって提示していた。それにも関わらず「イメージとは違う」とは一体どういうことだろう。 「そ、そんな……今からキャンセルと言われましても、もうタイルは先日全て貼ってしまいましたし」 俺がそう言っても、木村は俺の言葉になど耳を貸すことはなかった。ただひたすら「いいから、とにかく注文はキャンセルね。料金は払わないんで、そのつもりで」と繰り返すばかりだ。 そんなふざけた話があるだろうか。俺は「タイルをそのまま使用するつもりでしたら、料金は支払っていただかないと。こちらとしても困ります」と反論する。だが木村は鼻で笑いながら言い放った。 「そっちが困ろうがどうしようが、うちみたいな大企業の知ったことじゃないし。あのさ、少しは身の程をわきまえれば?」 なんてことだ。仮に今回の契約が破談になるだけならば、うちにとっての痛手は最小限で済む。しかし肝心のタイル施工はもう終わってしまっているのだ。それなのに料金を支払ってもらえないとなると、満点タイルにとってとんでもない損害になってしまうではないか。 全く冗談ではない。俺はなんとか木村に支払いを迫ろうとする。しかし木村は自分の言いたいことだけ言うと、すぐに電話を切ってしまった。俺がいくら折り返しても出る気配はない。 こんなとんでもないことに巻き込まれてしまうなんて。俺は木村の本性を見抜けなかった自分自身に対しても情けなさを感じてしまった。商談がまとまって契約を取ってきた時、営業部長はあんなに喜んでいたのに。それも全て木村のせいで泡のように儚く消えてしまう。 世の中にはいろんな人間がいる。俺ももう四十年も生きてきて社会の荒波にも揉まれてきたので、それは分かっているつもりだった。しかし、あそこまでひどい男がいたとは。 俺はこれから一体どうすればいいのだろうか。このままでは未払いのままうちのタイルが使われてしまう。それだけは何としてでも阻止せねば。かと言って、相手はまともに話の通じる人間ではない。あんなやつ、人間扱いするのも嫌なくらいだ。 そもそも契約というものは、双方が了承した上で成り立つはずのものである。元受けだからと言って下受けに何でも言うことを聞かせることができるなんてルールは存在しない。そんなことは社会人としての常識だ。だが、そんな常識を身につけていない奴は、他人に迷惑をかけることを何とも思わないようだ。今回の木村はまさしくそういうタイプである。 それにしても、マックス建設などという大企業が、どうしてあんなとんでもない男を開発部の部長なんて重要なポジションに置いているのだろうか。おそらく人材不足か何かの影響だろうとは思うが、木村を部長にしておくことはマックス建設にとってデメリットしかないだろう。あれだけ自分本位の男だ。どうせ部下や他の下受けに対しても、俺にそうしたような無理難題を要求しているに決まっているではないか。 そんなお粗末な男がのうのうと大企業で働いているなんて。まあ実際のところは、奴のことだから大して働きもせずにサボりまくっているのだろうが。 こんなことになってしまってはもうどうしようもない。今の俺にできることはただ一つだけである。俺はある決心を固めて、マックス建設の商業ビルへと足早に向かっていった。 そしてビル完成の当日。俺の元に電話がかかってきた。相手は昨日、いくら俺が折り返しても電話に出ることのなかった木村である。今更電話をかけてくるなんて、この男は一体どこまで礼儀知らずなのだろうか。俺はしぶしぶ電話に出る。 すると木村は開口一番、随分と焦った口調でこう言ってきた。 「おい、お前、一体どういうことだ? なんでビルのタイルが全部剥がれてるんだよ。説明しろ」 そう、昨日俺は例の商業ビルへスタッフ数人を引き連れて、貼り付けたタイルを一枚残らず全て剥がしたのである。 俺は「どういうことって、そんなの決まっているじゃないですか。あなたが料金を支払わないって言うからですよ」と答えた。 木村は「そんなことはどうでもいい。うちの社長が怒ってるんだ。今すぐ社長のところへ来い」とだけ言って、一方的に電話を切った。 全く、本当に自分のことしか考えていない最低の人間だ。俺は苛立ちつつも、これはマックス建設の社長に木村のやったことを報告するいい機会だと考えた。 そして俺は例の商業ビルへ到着した。俺を待っていたのは木村と、マックス建設の社長である天寺さん。木村は殴りかからんばかりの勢いで「この野郎、なめた真似しやがって。下受けのくせに」と俺の襟元を掴んで詰め寄ってきた。 そんな木村を、天寺さんは「おい、やめなさい。見苦しい」と静かに制した。さすがの木村も、社長である天寺さんの言うことには従うらしい。木村は俺の襟元から仕方なく手を離した。 天寺さんは「今回の件について、詳しく聞かせて欲しいのですが」と俺に頼んできた。 俺はこれまでのことを洗いざらい、天寺さんに全て余すことなく伝えた。俺が言葉を続ければ続けるほど、天寺さんの顔は険しいものになっていった。 そして天寺さんは木村をじっと睨み、「君、何てことをしてくれたんだ」と言った。 木村は大慌てで取り繕おうとする。「よう、何言ってるんですか? 全部こいつの作り話ですよ。俺がそんな支払い拒否なんてするわけないでしょう」と嘘をついた。 卑怯でわがままで嘘つき。この木村という男は、本当に救いのない男である。 … Read more