飛行機の中で、CAの必死のアナウンスが響いた。医者はいないのかと。私は医師免許を持ちながら、もう一年も診察室から遠ざかっていた。あの日、論文を盗まれ、患者を守るために告発もできず、黙って病院を去った。そんな私が名乗り出る資格があるのか。怖かったのは、助けられなかった時に何を言われるかではなく、自分が自分に何を言うかだった。隣で妻が何も言わずに私の手を握っていた。その時、少女のうずくまる姿が目…

飛行機の中で、CAの必死のアナウンスが響いた。医者はいないのかと。私は医師免許を持ちながら、もう一年も診察室から遠ざかっていた。あの日、論文を盗まれ、患者を守るために告発もできず、黙って病院を去った。そんな私が名乗り出る資格があるのか。怖かったのは、助けられなかった時に何を言われるかではなく、自分が自分に何を言うかだった。隣で妻が何も言わずに私の手を握っていた。その時、少女のうずくまる姿が目...

機内にアナウンスが響いた。
「お客様の中にお医者様はいらっしゃいませんか?体調不良のお客様がいらっしゃいます。お医者様はいらっしゃいませんか?」
CAの声はひどく焦っていて、上ずっている。俺は妻と顔を見合わせた。俺は高橋安、53歳。地域で大きな病院に内科医として勤めて、もう30年近くになる。

朝の外来はいつも同じだ。診察室のドアが開いて閉じる音の繰り返し。俺は患者の歩き方や息の上がり方を見る。検査の数字には出てこないものがそこにはある。長く通ってくれている老婦人が言った。
「先生、この前言われた通り、階段は使わないようにしてますよ」
「それは偉いですね。買い物の坂道はどうしてますか?」
「郵便局の前の急な坂です。ちゃんと遠回りしてますよ」
俺は笑って血圧の記録に目を落とす。覚えていることが偉いわけじゃない。覚えていなければ治療の判断ができないだけだ。

昼を挟んで病棟の回診に上がる。エレベーターの前で内科に来て日の浅い若手医師が待っていた。
「高橋先生、奥の個室の患者さんの熱が下がらないんです。薬を変えた方がいいでしょうか?」
「変える前にもう一度足を見せてもらってください。むくみの出方が昨日と違うなら、熱の出所は肺ではないかもしれません」
俺は判断を教えるのではなく、見れば判断できる力を渡すようにしている。俺がいない夜に困るのは患者の方だからだ。

回診の途中、ナースステーションの前で看護師に呼び止められた。
「先生、来週の外来また指名の予約が入っちゃってます」
「ありがとう。待たせる方が体に悪い人たちですから」
看護師は嬉しそうにカルテの束を抱え直した。

回診の最後は、退院の日を決めかねている患者の部屋だった。ベッドの縁に腰を下ろして脈を見ながら、家の間取りのことを聞く。台所と便所が同じ階にあるかどうかで退院してからの一日はまるで変わる。検査の値が良くても、家に帰って転んでしまえば元に戻るのだ。患者が言った。
「先生、うちの階段のことまで聞く先生は初めてですよ」
「病気は病院で直しますが、生活は家で直すものですから」
「そういうことを言ってくれる人がもっといるといいんですけどね」
「言う人が少ないなら、俺が言い続けるしかありませんね」
「先生、やめないでくださいよ」
「やめませんよ。まだ当分は」
その時の俺は、その返事を本気で言っていた。

数年前から診療部長という役職についている。外来と回診が終わっても、机の上には決済を待つ書類と部門会議の資料が積まれている。ポケットの端末は食事の途中でも風呂の中でも遠慮なく鳴る。妻のかず子には長年、仕事絡みのわがままで苦労をかけている。まとまった休みも取れず、旅行にも連れて行ったことがない。休みが病院からの呼び出しで潰れることもしばしばだ。ある休日の朝、食卓に着いたところでポケットの端末が鳴った。かず子は弁当の包みを結び直していた手を止め、こちらを見ないまま小さく「はい」と言った。
「すまない。夕方には戻れると思う」
「行ってらっしゃい。お昼は冷蔵庫に入れておきますから」
責める言葉が一度も出てこないのが、この人の一番怖いところだ。玄関で靴を履いていると、かず子が畳んだハンカチを一枚、俺の胸のポケットに差し入れた。
「昨日のは汗臭かったので、取り替えておきました」
「ありがとう。今度の連休にはどこか行こう」
「はい。楽しみにしておきます」
その「今度」を、俺はもう何度も口にしている。結婚した頃に買った旅行の雑誌が、今も本棚の下の段に差してあるのを知っている。背表紙が日に焼けて白くなっていることも。

病院に着いてみれば、呼び出しの要件は俺がわざわざ出向くほどのこともなく片付いてしまった。帰りに商店街の総菜屋によって、かず子の好きな煮物を買った。玄関を開けると、かず子は昼に食べるはずだった弁当をそのまま食卓に置いて待っていた。
「食べていなかったのか」
「一人で食べても美味しくないでしょう」
台所で二人分の茶を入れる音を聞きながら、俺は白衣の入った鞄を廊下の隅に下ろした。

優しいかず子のおかげで夫婦関係は良好だが、頭を悩ませているのは職場の人間関係だ。俺は診療部長という役職持ちでありながら、いわゆる派閥というものに属していない。それを面白く思わない人物が一定数いて、頻繁に足の引っ張り合いのような嫌がらせに巻き込まれる。医局のドアを開けた瞬間に話し声の高さが変わること。エレベーターで一緒になった医師が、階数の表示だけを見つめて黙っていること。ある朝、提出期限の書類が机から消えていた。前の晩に確認して、確かに引き出しの一番上に入れておいたはずのものだ。机にも棚にも鞄にもない。事務局に問い合わせても、届いていないという返事しか返ってこない。作り直してどうにか間に合わせて自分の机に戻ると、消えたはずの書類が、あまりに丁寧な向きで置かれていた。

別の日には、ロッカーにかけておいた白衣の胸の辺りに、乾いた茶色のシミが付いていた。コーヒーの汚れだ。俺は誰にも言わずに予備の白衣へ袖を通し、汚れた方を丸めて鞄に押し込んだ。心当たりがないわけではなかったが、確かめたところで得るものは何もないと分かっていた。問い詰めれば「やっていない」と言われて終わるだけだ。俺はこういうことを起こす人間の名前を頭の中に置かないようにしていた。置いてしまえば、その人の患者を見る時に手が迷ってしまう。

その日の午後、最後の患者が診察室を出ていく間際に、不意にこちらを振り返った。退院してからずっと外来に通ってきている、日に焼けた顔の男だった。
「先生、俺はもうダメだと思ってたんですけどね。おかげで今年も畑ができましたよ」
「畑を続けるために薬もちゃんと続けてくださいよ」
「ええ、続けます。先生がいる限りは通いますから」
ドアが閉まってから、俺は椅子の背に持たれて天井をしばらく見上げていた。白衣のシミも消えた書類も、この一言の前では驚くほどどうでも良くなってしまう。こんな出来事が続いてもこの病院で働き続けるのは、何より俺を慕ってくれている患者さんがいるからだ。彼らの治療を途中で放り出してやめるなんて、信頼を裏切るような真似はできなかった。

そんな日々が続いていた、梅雨の入り口のことだ。午前の外来を終えて、昼の分の書類を抱えて医局へ向かっていると、この病院の副院長である宮崎先生に声をかけられた。彼は俺を目の敵にしている人物の筆頭だ。だが、宮崎先生はやけに親しげに話しかけてくる。
「高橋先生、今朝の外来はもう終わったのかい?相変わらず盛況だそうじゃないか」
「おかげ様でなんとか時間内に収まりました」
「いやいや、大したものだよ。指名で予約が埋まる医者なんて早々いないぞ」
「予約が埋まるのは俺の腕がいいからではないと思います。長く通ってくれている人が多いだけです」
「謙虚だね。そういうところが患者に好かれるんだろうなあ」
声はどこまでも柔らかい。柔らかいのに、耳の裏側がざわざわとした。この人が俺を褒めるのを、俺はこの病院で一度も聞いたことがなかったからだ。
「そういえば今度の学会には出るのかい?」
「え、俺はそういう場には縁がないので」
「もったいない話だ。先生ほど現場を見ている人間の話を誰も聞かないというのはねえ」
宮崎先生は壁に肩を預けて、世間話の顔のまま話を続ける。病棟の割振りの愚痴、若手が使えないと笑い、病院の移転の噂。俺は相槌を打ちながら、この会話がどこへ向かっているのかを測っていた。
「ところで先生、そろそろ書き上がるんじゃないのか?」
「あれというのは?」
「決まっているだろう。先生がここ何年もかけているあの研究のことだよ」
話題は俺が書いている論文の話になった。宮崎先生は壁から肩を離し、声を低くして俺の方へ顔を寄せてくる。
「宮崎先生は先生の研究にずっと興味があったんだよ。是非読ませてくれないか」
俺の研究は癌のリスクをいかに早く発見するかというものだ。外科が専門の宮崎先生が興味を持つのは少し違和感を感じた。だが、医者とは探求心が強い生き物だ。俺はその頼みを承諾した。
「では今からでいいかな?俺も午後は手術で捕まってしまうんだ」
「構いませんよ。部屋にありますから」

俺に割り振られているのは、日の当たらない北側の細長い部屋だ。机の上には読みかけの文献が塔のように積まれ、その隙間に飲みかけの紙コップが置いてある。宮崎先生は部屋の入り口で足を止め、中を見回しながら小さく息を吐いた。
「随分散らかっているな。ま、医者の部屋はこんなものか」
「片付ける時間があったら、その時間で書いていますので」
パソコンの脇の引き出しを開けてUSBを取り出す。その時、USBをつまんだ指が一度だけ止まった。自分でも理由の分からない引っかかりを覚えた。渡してしまえば、これは俺の手を離れる。書き上げるまでに何年かかったのか、俺は数えたことがない。夜の医局で書いた分、病棟の合間に書いた分、かず子が寝てから家の食卓で書いた分。宮崎先生は俺の背中の向こうから積まれた文献を目で追っていた。見られていることに気づいても、俺は手で隠すようなことはしなかった。隠すようなものを書いているつもりが、まるでなかったからだ。
「これは何年分だ?」
「数えていません。数えると途中でやめたくなりますから」
「なるほどな。研究というのはそういうものだ」
宮崎先生は指を伸ばして、一番上の文献の背を軽くつついた。
「どうした?急に惜しくなったか?」
「いえ、読みにくいところがあったら遠慮なく言ってください」
俺はその引っかかりを、渡すのが惜しいという未練のことだと片付けた。俺は論文データの入ったUSBを宮崎先生に手渡す。彼は「ありがとう。目を通したら数日中に返すよ」と言って立ち去っていった。

その日から俺は、手元に残っていた印刷の束で図の並びを試し続けた。データが手元にない状態でできるのは、順番を決めることくらいだったからだ。一度廊下で顔を合わせた時は、まだ読んでいる途中だと言われた。せかすようなことはしたくなかったので、黙って待つことにした。待っている間、あの人が俺の文章をどう読むのかを何度か想像した。外科の人が読めば、俺には見えていない穴が見えるかもしれない。そう思う程度には、俺はまだ同じ職場の医者を信じていたのだ。

数日後、廊下で偶然出会った宮崎先生からUSBを渡された。
「はい、これ。とても興味深かったよ。ありがとう」
「読ませてもらったよ。ああいう地道な仕事は俺には向いていないな」
「向いていないというより、外科の先生は待っていられないでしょう」
「その通りだ。俺たちは切ってしまえば結果が出る」
「羨ましい話です。内科は結果が出るまでに何年もかかりますから」
「その何年かを待てる人間が、先生みたいに患者に好かれるんだろうな」
褒め言葉を素直に受け取れるくらいには、俺の機嫌は良かった。USBを白衣のポケットに落とすと、宮崎先生は思い出したように顔を上げた。
「そういえば先生、投稿はもう済んだのか?」
「これから出します。データが戻ってきたところですから」
「そうか。急いだ方がいい。ああいうものは早いもの順のようなところがあるからな」
その言い方に含みはなく、忠告としてはまともなものだった。まともだからこそ、俺はそれを親切として受け取ってしまった。
「ま、先生の研究が世に出るのを楽しみにしているよ。本当にね」
「ありがとうございます。随分お褒めいただいて調子が狂いそうです」
「褒められ慣れておいた方がいい。これからはその機会が増えるかもしれないぞ」
「増えるとしたら、それは論文が通った時の話でしょうね」
「そうだな。通ればな」
宮崎先生はそう言って、俺より先に廊下を歩き出した。その背中は、いつも見ている時より歩き方が軽く見えた。

自分の部屋に戻ってパソコンにUSBを差し込み、一番新しいファイルを開いた。何度も直した文章なのに、読み返すと直したいところがまだ出てくる。それでもどこかで区切りをつけて、学会の投稿窓口にファイルを送信した。この文章の中には、名前を出せない人たちの記録がいくつも入っている。治療がうまくいかなかった人の記録も、うまくいった人の記録も同じ重さで並んでいた。その人たちに何かを返せるとしたら、多分こういう形しかないのだと俺は思っていた。

それから数日経った頃、学会からメールが届いていることに気づいた。少し不思議に思いながら開封して、俺は固まった。そこには、「俺の論文と全く同じ内容の論文がすでに投稿されているため、受け付けることができない」という趣旨が書かれていた。加えて最後の方には、「再び盗作が疑われるような事態が発生した場合、除名処分を行う」とまで書いてある。この文面の中で、俺は盗んだ側として扱われているのだ。ありえないことが起きたのなら、ありえないことをした人間がどこかにいる。同じ内容の論文を出せる人間は、俺の文章を持っていた人間だけだ。書きかけの原稿を誰かに見せた覚えは、この何年かで一度しかない。その一度を思い出すのに時間はかからなかった。

俺は慌てて学会の担当者に電話をかけた。
「間違いないんですか?」
「間違いございません。図表の構成まで一致しておりましたので、こちらとしても慎重に確認いたしました」
「一体誰がそんな論文を提出したんですか?」
驚きの答えが返ってきた。なんと、先に俺の論文を提出したのは宮崎悟師、つまり宮崎副院長だというのだ。あの日あの人は、「ああいうものは早いもの順のようなところがある」と言った。親切な忠告に聞こえたあの一言が、順番を知っていた人間の言葉として並び変わっていく。あの時あの人の目は俺の顔を見ていなかった。見なくても、俺がその言葉をどう受け取るかを分かっていたのだろう。

俺は足音も荒く副院長室に向かった。ノックもせずにドアの取っ手を回す。宮崎先生は机の向こうで書類に判を押しているところだった。
「副院長、あなた、俺の論文を盗みましたね。こんなことが許されると思いですか?」
部屋に入るなりそう言った俺に対して、宮崎先生はニヤニヤと笑ってくる。
「学会に確認しました。俺より先に同じ内容のものを出したのはあなたです」
「確認したのか。それは仕事が早い」
「認めるんですか?」
「認めるも認めないもないだろう。俺は自分の研究を出した。それだけの話だ」
宮崎先生は椅子の背に体を預けて、机の上でゆっくりと指を組み合わせた。否定する気も隠す気も、この人には初めからないのだと分かった。悪いことをした人間の顔ではなく、当然のことをした人間の顔だった。
「あの部屋であなたに渡したのは、俺が何年もかけて書いたものです。図の順番まで同じものが、どうして先に出せるんですか?」
「だが、俺の方が先なんだろう。盗んだのはお前なんじゃないか」
声の調子は廊下で世間話をしていた時とほとんど変わらず、その変わらなさが一番腹の底を冷やした。
「あの日部屋まで来たのは、初めからそのつもりだったんですね」
「そのつもりというのはどのつもりだ?」
聞いた俺の方が答えをもう知っているのだった。確かに先に投稿している分、宮崎先生に理がある。しかし、正式に告発すれば俺に勝ち目があるはずだ。どちらが先に書いたのかを争う話に持っていければ、俺は負けない。俺が口を開こうとすると、宮崎先生は相変わらずニヤニヤしながら言った。
「告発してもいいが、そうすると大事になるぞ。患者第一なんて立派な目標を掲げるお前には痛手じゃないか」
その言葉に俺はグッと押し黙る。論文の盗用は違法行為でもあるため、告発すればかなり大事になることは事実で、当事者である俺はしばらく診察に出られない。頭に浮かんだのは、来週の外来の予約表だった。坂を遠回りしていると笑った老婦人。今年も畑ができたと言った男。俺が当事者として調べられている間、あの人たちのカルテを開くのは俺ではない。代わりの医者がいないわけではないが、坂の話を覚えている医者はいない。正しさを通すために患者を置いていくのなら、俺は何のために正しさを通すのか。この人はそれを知っていて、だから「告発してもいい」と言えるのだ。
「一つだけ聞かせてください。あなたはあれをちゃんと読みましたか?」
「読んだよ。よく書けていた」
「それだけですか?」
「それだけだ」
その返事の短さが、部屋で聞いたどの言葉よりも冷たかった。俺の何年かは「よく書けていた」という一言で片付けられたのだ。俺の負けは論文を渡した日ではなく、この部屋の沈黙のところで決まった。負けたと分かっていても、この人に頭を下げるつもりはない。悔しそうな俺を見た宮崎先生は勝ち誇った顔をして、犬や猫を追い払うかのように手を振った。俺は黙って会釈を返し、部屋を出た。廊下の窓の外は相変わらず白く曇っていて、時間が進んだ感じがまるでしない。俺は白衣のポケットの中のUSBを握った。奪われたものの名前を、俺はまだ一度も声に出していない。出せない理由が自分の患者だというのが、一番始末に困る種類の悔しさだった。

その日の午後の外来も、いつもと同じように患者が入ってきて、いつもと同じように出ていく。俺は坂の話も畑の話もいつもの調子でして、笑うところではちゃんと笑った。自分の声が普通に出るのが少し不思議だった。家に帰ると、かず子が台所から顔を出していつもと変わらない声で俺を迎えた。食卓には煮物と味噌汁が並んでいて、俺の椅子の前にはもう箸が置かれている。
「今日は早かったですね」
「うん。会議が一つ流れたから」
味噌汁の椀を持ったところで、俺は言うべきことを喉の途中まで上げた。論文を盗まれたと言えば、かず子はきっとそのまま信じる。信じた上で「それはひどい」と怒って、明日には俺より先に憤慨しているだろう。それから彼女は、俺がどうするつもりなのかを聞くはずだ。告発しないと答えた時のかず子の顔を想像して、俺は椀をそのまま口に運んだ。

その日から、言わなかったことは俺の中で少しずつ重さを増していった。そしてこの病院の噂というものは、患者の容体よりも早く空気を移動する。朝の医局に入った時点で、俺は空気の温度が変わっていることに気づいていた。医局の前を通ると話し声がぴたりと止まって、それからわざとらしく別の話が始まる。エレベーターで乗り合わせた外科の若手が、階数の表示を見上げたまま黙っていた。降りる階でようやく口を開いて、その若手は俺の顔を見ずに言った。
「高橋先生、その……色々言われてますけど、あの、気にしないでください」
「ありがとう。何と言われているのか聞いてもいいですか?」
「いえ、俺は詳しくは……すみません」
扉が閉まって、俺は一人でその階の廊下に立っていた。「詳しくは知らない」人間が「気にしないでください」と言えるくらいには、話は生き渡っているのだろう。昼の医局では、机一つ挟んだ向こうに座った内科の医師が声をかけてきた。その人は俺より年上で、派閥の話にも噂の話にも乗らない口の重い人だった。
「高橋先生、一つだけ確かめておきたいんだが、あれは先生が書いたものなのか?」
「俺が書いたものです。何年もかけて書きました」
「そうか。ならそれでいい」
「それだけですか?」
「先生が書いたものならいつか出る。出る場所が今回でなかっただけの話だ」
その人はそう言って、また自分の書類に目を戻した。慰められたわけでもなく、はっきり味方についてくれたわけでもない。それでもその日、俺の話をまともに聞いたのはその人一人だった。言い返す場所も、信じてもらう場所も、この病院にはもうほとんど残っていなかった。一度だけ非常階段の踊り場で、話の断片を拾ってしまったことがある。
「でも、高橋先生ってそんなことする人に見えないよね」
「見えない人がやるから話題になるんだって、みんな言ってるよ」
俺は踊り場の一つ下で足を止めて、二人が行ってしまうまでそこに立っていた。否定しに行くには話が大きくなりすぎている。大きなった話に反論すると、反論した分だけ話がまた育つ。聞かないままに、周りの人の距離だけが少しずつ広がっていくのだった。この論文盗用事件は数日も経たずに院内に広まった。もちろん俺が盗んだ側として、面白おかしく作り上げられた噂話だ。俺はもういちいち否定して回るのが面倒になり、放っておいたのもあって噂はどんどん大きくなっていくようだ。俺はこんな思いをしてまで医者をする必要があるのか。頭に浮かぶそんな問いを、頭を振って追い出す。それでも、俺を待っている患者さんがいる。それを裏切ることはできない。俺はそんな思いで病棟診察へと向かった。

しかし、そんな俺をまたトラブルが見舞うのだった。診察に向かった病室で、俺は患者と言い争いになったのだ。その患者は、入院3日目だというのに症状が収まったからと勝手に退院しようとしていた。
「ですから、薬が効いて一時的に症状が抑えられているだけなんです。ちゃんと治療をしないと」
「数日で数字が落ち着けば、その後は家で見られるようにします」
「数日数日って、あんたら医者はいつもそれだ。俺には俺の予定がある」
「予定があるのは分かります。ただ、途中でやめた薬が一番体に悪いんです」
患者は俺が話している間、鞄の口を閉める手を一度も止めようとしない。そして、隣に怒鳴り声を大きくした。
「俺を誰だと思ってんだ?おい、院長呼んでこい」
患者はそう言って、近くに控えていた看護師に命令する。看護師は慌てて部屋を出ていった。
「どけ、俺は自分の足で帰る」
「手続きをしてください。それをしないと、次に何かあった時にあなたが困ります」
「困るのはあんただろ。院長に言われたら首が飛ぶからな」
その一言に、俺の中の何かが一度だけ音を立てた。首が飛ぶかどうかで患者を止めていると思われるのは、医者にとって一番屈辱的な誤解だ。
「俺の首の話はしていません。今しているのはあなたの体の話です」
言ってから、自分の声が思っていたよりも大きかったことに気づいた。だんだんヒートアップしてきて、俺の口調もわずかに荒くなってきた頃。
「高橋君、やめなさい!」
そう叫びながら飛び込んできたのは、うちの病院の院長だった。滅多に病棟まで来ることのない人物の登場に俺は驚く。そんな俺には用がないというように、院長はベッドに腰かける患者の元に走り寄り、愛想笑いを流しながら必死に話しかけている。院長は俺の名前を叫んだ後、一度も俺の顔を見なかった。
「申し訳ございません。本当に申し訳ございません。私の監督が行き届いておりませんでした」
「あんたを呼んだのは謝らせるためじゃないんだ」
「はいはい。なんなりとおっしゃってください」
部屋の入り口には、呼びに行った看護師が立ち尽くしたまま動けずにいる。2人の話を聞いていると、どうやらこの患者は病院にも院長個人にも多額の支援をしている人物らしい。院長は俺側の事情も聞かずに、患者にへいこらしている。腰の曲がり方が、俺が見たことのない角度だった。医者と患者の話が、いつの間にか金を出す人と受け取る人の話に変わっているのを、その場の全員が見ていた。患者が俺を指差しながらこう言った。
「院長先生、分かりますよね。ずっと彼の態度が気に食わなかったんですよ。彼がこれ以上病院にいるというなら、ちょっと俺も考えますよ」
「はい。分かっております」
あまりの返事の速さに、俺はその時自分の耳の方を疑ってしまった。俺は思わず口を挟もうとしたが、院長の睨みによって黙らされる。その後、患者の機嫌を取った院長によって連れ出された俺は、厳しく叱責を受け、「君の処遇は追って連絡する。生半可なもので済むと思わないように」と吐き捨てられた。連れ出された先は、病棟の端の使われていない面談室だった。叱責の中身は俺が何をしたかについての話ではなかった。誰を怒らせたか、それがいくらの話なのかという順番で並んでいて、治療の話は一つも出てこない。院長は言い終わると、返事を待たずに背を向けて歩き出した。宮崎先生は言葉で俺を封じたが、この人は言葉すらいらないのだと分かった。

翌日、俺の手元には退職勧奨の書類があった。事務局の封筒に入って、俺の机の上に置かれていた。書類を隠されたことのある机に、こういうものだけはきちんと届くのだ。理由の欄には、「患者との対応において信頼関係を損なった」という意味のことが書いてある。その一文を書いた人間も、多分本当の理由を知っている。俺は書類を元の通りに畳んで封筒に戻し、机の引き出しの一番上にしまった。その日の午前は、いつもの外来をいつもの通りに回した。坂を遠回りしている老婦人が入ってきて、椅子に腰を下ろすなり首をかしげた。
「先生、なんだか痩せましたね。ちゃんと食べてますか?」
「食べていますよ。人の心配より自分の血圧を心配してください」
「先生の顔色の方が私より悪いですよ」
俺は笑って、次の予約を来月に入れてもらった。自分がそこにいないと分かっていて、次の予約を入れるのは初めての経験だ。畑の男には、飲み方が変わる薬の説明をその場で紙に書いて渡した。
「先生、これ、次からは誰に聞けばいいんですかね?」
「次の時に受付で聞いてください。ちゃんと引き継いでおきますから」
男は紙を受け取らずに、俺の顔をしばらく見ていた。紙を二つに折って胸のポケットに入れると、いつもより深く頭を下げて帰っていく。帰り際に一度だけ振り返ったが、結局何も聞かなかった。聞かないでくれたことが、その時の俺にはありがたかった。

午後の早い時間に、俺は最後の回診に上がった。引き継ぎのために病室を回るのだと自分に言い聞かせて、実際にその通りに回った。ナースステーションの前を通ると、あの看護師が顔を上げて、それから立ち上がる。
「先生、噂、本当じゃないですよね」
「本当じゃありませんよ。ただ、そういうことになりました」
「そんなのおかしいじゃないですか。指名の予約、来月もいっぱい入ってるんですよ」
「その予約をちゃんと引き継いでおいてください。それが一番大事なことです」
看護師は何か言おうとして口を押さえて俯いた。エレベーターの前まで来たところで、後ろから足音が追いかけてくる。
「高橋先生、あの、足を見ろって、あれ正しかったです。熱の出所は足でしたか?」
若手医師は肩で息をしていて、階段を駆け上がってきたのが分かった。
「はい。先生の言った通りでした。それを報告したかったんです」
「よく見つけました。次からは俺に聞かなくても、自分で見つけられますよ」
若手医師は俯いて、それから深く頭を下げた。エレベーターの扉が閉まるまで、その頭は上がらなかった。俺が置いていけるものが何か一つでもあったのなら、それは今のこの一見くらいだろう。それでも残るものが何かあるというだけで、この日の帰り道は少し楽になった。

俺はその日のうちに退職届けを提出して、病院をやめた。もうこんな思いをしてまで、他人を救う必要性を見つけられなくなっていた。それから迎えたのは、白衣を着ないで過ごすことになる最初の朝だ。目は同じ時間に覚めるのに、行く場所がない。台所に降りて行くと、かず子は俺の湯呑みに茶をついでいるところだった。
「病院をやめた。昨日退職届けを出した。もう行かない」
湯呑みを持ったかず子の手が、置く場所を探すように一度止まった。湯呑みを置いてから、ようやく俺の顔をまっすぐに見る。責める顔ではなく、確かめる顔だった。
「体のことですか?それとも、誰かに何か言われたんですか?」
「体はどこも悪くない。人に言われたことは色々ある」
「聞いてもいいですか?」
「いつか話す。今はうまく話せる気がしない」
かず子は少しの間黙って、それから台所の椅子を引いて座った。
「あなたが決めたなら、それでいいんです」
「いいのか?」
「いいわけがないでしょう。心配ですよ。心配ですけど、あなたがやめるほどのことなら、やめるほどのことだったんでしょう」
かず子は湯呑みの縁を指でなぞって、それから顔を上げた。
「一つだけ聞いていいですか?」
「どうぞ」
「あなたは、悪いことをしましたか?」
その問いは、俺が自分に対して一度も出したことのない形をしている。
「していないなら、いいんです」
理由を聞かずに信じるというのは、理由を聞いて許すよりずっと難しいことだ。かず子は突然医者をやめると言い出した俺を心配し驚いていたが、俺の決断を尊重してくれた。とはいえ、明日から何をして生きていくのかという話は、感動とは別にちゃんと残る。

その夜から、俺は食卓で求人の一覧を眺めるばかりの日々に入っていく。医者の求人はいくらでもあった。そのどれもが、俺には遠い国の話のように見えた。白衣を着る仕事に戻れば、また同じ廊下の空気の中に立つことになる。かず子は毎晩、俺の隣に座って一緒に一覧を眺めた。最初に面接に行った会社では、履歴書を見た担当者が何度も頷いてから顔を上げた。
「高橋さん、その……率直に申し上げますと、うちには先生に教えられる人間がおりません」
「教えていただけないと困りますが、覚えるのは自分でやります」
「おっしゃっていただけるのはありがたいのですが、周りが気を使ってしまうんです」
面接の帰り道、俺は駅の階段の途中で立ち止まって手すりを掴んだ。体がきついのではなく、自分の使い道が思いつかないという種類の疲れ方だった。医者としての30年近くは、あの建物の外に出た瞬間に説明のいるものになった。「人の体を見てきました」と言えば、「では弊社で何をしていただけますか」と返される。家に帰ると、かず子は俺の顔を見て何も聞かずに風呂の湯を落としに行った。次に受けた会社では、面接の途中で相手の目が履歴書の年齢の欄に何度も戻る。その次の会社は、電話の段階で先方が言葉を選びながら話を終わらせた。若い頃は、俺の書いた紹介状は病院の名前で通っていた。その名前を外した紙一枚がこれほど軽いものだとは知らなかった。家に帰ると、かず子は履歴書の下書きを並べ替えて待っていた。
「経歴のところ、順番を変えてみたんです。診療部長というのを先に書くと構えられてしまうでしょう」
「そうかもしれないな」
「あなたが人の話を聞くのが上手だってことは、この紙のどこにも書いてないんですよ」

俺の就職活動も献身的に支えてくれ、俺はついにとある企業に雇ってもらえることになる。それはホームページの運営を代行するサービスを提供している比較的新しい企業で、若い社員がほとんどだった。初めて出社した日、案内された部屋は病院のどの部屋とも似ておらず、机が島のように並んでいる。案内された席に着くと、隣の島にいた若い社員たちがまとめて顔を上げてきた。
「ああ、今日から入られる高橋さんですよね。よろしくお願いします」
「高橋です。よろしくお願いします。何も分からないので、教えてください」
「大丈夫です。俺も去年入ったばかりなんで、一緒に迷いましょう」
その返し方に、俺は思わず笑ってしまった。病院では「分からない」と口に出せる立場の人間はそう多くない。昼になると、隣の島の社員が椅子ごと振り向いて弁当の蓋を開けた。
「高橋さん、お昼どうします?この辺定食屋しかないんですけど」
「定食屋で十分です。何が美味しいですか?」
「全部美味しいですよ。というか、それしか選べないんで」
若い社員たちは俺に前の仕事を聞かなかった。聞かないというのは配慮ではなく、興味の向きが違うだけらしかった。俺はすぐに新しい職場に馴染んだ。仕事が終わった後、教育担当の佐々木君に居酒屋へ連れて行かれたのは入って間もない頃だ。
「高橋さん、前は何をされてたんですか?ずっと聞きたかったんですけど」
「医者をしていました。内科です」
佐々木君の箸が皿の上で止まった。
「ええ、お医者さんですか?それがなんでうちに?」
「色々あってね。今は『色々あって』というのが精一杯です」
佐々木君はしばらく口を開けて、それからジョッキを両手で持って一気に飲んだ。
「じゃあ、聞きません。聞かないですけど、一つだけいいですか?」
「どうぞ」
「高橋さん、うちに来て正解でしたよ。俺が保証します」
「まだ何もできていない人間に、よく保証できますね」
「できないことを覚える速さで言えば、うちで一番早いですよ。俺、見てますから」
「見ています」と言われて嫌な気持ちにならなかったのは、あの病院を出てから初めてだった。あの廊下で誰かに見られているというのは、いつも隙を探されているという意味だったからだ。

社員たちとも交流を深め、特に教育担当の佐々木君とは頻繁に二人きりで食事に行くほどだ。何より良かったのが、団体で休みが取りやすくなったことだ。会社全体が各種休暇の積極的な取得を推奨しているから、届けさえ出せば簡単に休みが取れるのだ。初めて休暇の届けを出す時、俺は理由の欄に何を書くべきか分からずに手が止まった。病院で休みを取る時は、まず誰に迷惑がかかるかを数えるところから始めるものだ。紙を持って立っていると、通りかかった佐々木君が横から覗き込んで首をかしげた。
「理由、書かなくていいですよ。『私用』でいいんです」
「『私用』で通るんですか?」
「通らなかったら、その上司の方が怒られますから」

転職して1年が経った頃、俺はこれを活用してとある計画を練っていた。昼休みにパソコンとにらめっこしていれば、佐々木君が声をかけてきた。
「どうしたんですか?そんな真剣に調べ物ですか?」
「実は今度、休みを取って妻とハワイにでも行こうかと思ってるんですよ」
佐々木君は目を輝かせて賛成してくれた。
「いいじゃないですか。うち、新婚旅行がハワイだったんですよ。俺、詳しいですよ」
「それは助かります。何を見ればいいのかがまるで分からないんです」
「まず朝は海が静かなんで早起きしてください。夕方は風が出るんで、写真は朝です」
俺は手帳を開いて、教わった朝と夕方の違いをそのまま書き込んでいく。その日の夜、俺は妻のかず子にハワイを提案した。
「医者をやっているうちは旅行なんてできなかったから、今度二人きりでハワイにでも行かないか。ゆっくり観光しよう」
かず子は「まあ素敵。是非行きたいわ」と言って、少女のようにはしゃいだ。俺はそれを微笑ましく思いながら、鞄から一週間後の日付の入ったハワイのチケットを取り出す。かず子は目を見開いて固まった後、あまりにも急すぎると頬を膨らませた。
「急すぎます。急すぎますよ。私、まだ何も準備してませんよ」
「休みが取れると分かった時に、先に抑えてしまったんだ」
「抑えてしまったって、あなた、そういうところは昔から変わりませんね」
しかしすぐに気を取り直して、「準備しなくちゃ」と軽い足取りで寝室に消えていった。しばらくしてかず子は、本棚の下の段から抜いてきた雑誌を持って戻ってきた。背表紙の白くなったその雑誌を食卓に広げて、付箋を張りながら鼻歌を歌っている。その夜、かず子は寝る前に押入れから旅行鞄を出してきた。寝床に入ってから、かず子は暗い天井を見上げたまま言った。
「私、あなたが辞めた日のこと、ずっと考えていたんです」
「そうか。何を考えていたんですか?」
「あなたがあの日やめてくれなかったら、私たち多分、一生行けませんでしたね」
俺は返事の代わりに、かず子の手の甲を軽く叩いた。やめたことを、この人はいつの間にか損ではない方へ数え直している。

そして、いよいよ一週間後、ハワイの日がやってきた。余裕を持って空港に到着した俺たちは、搭乗まで時間を堪能してから飛行機に乗り込んだ。窓側の席にかず子を座らせる。かず子は雲の形が変わるたびに俺の腕を叩き、その度に俺は同じ顔をして頷いた。数時間が経ち、機内の照明が落とされて、通路のあちこちで毛布をかぶった影ができていた。前の方の列で誰かが席を立って足早に通路を歩いていく音がした。にわかに座席前方が騒がしくなる。機内の照明が急に明るくなり、前方から乗務員が続けて二人、後ろへ走っていった。CAが叫びながら機内を歩き回っている。
「お客様の中にお医者様はいらっしゃいませんか?体調不良のお客様がいらっしゃいます。お医者様はいらっしゃいませんか?」
CAはひどく焦っているようで、声が上ずっている。機内が一度完全に静かになった。エンジンの音だけが残って、その音がさっきより随分大きく聞こえた。俺はかず子と顔を見合わせた。俺は一度、人を助ける意味を見失った人間だ。その業を、俺はこの一年の間何度も自分に言って聞かせてきた。そんな人間が医者だと名乗り出ていいのだろうか。免許はやめても取り上げられるものではない。免許があることと医者であることが同じだと思えなくなったのは、あの廊下を出てからだ。あの病院で俺は、人を助けるために一つも勝てなかった。盗まれた論文を取り返せず、患者に説明もできず、白衣を置いて出てきた人間だ。そういう人間が名乗り出て、もしその人を助けられなかったら、俺は何を言われるのか。いや、言われることが怖いのではない。助けられなかった時に、俺が自分に向かって何を言うのかが怖い。隣でかず子が息を殺しているのが分かった。「行け」と言えば俺はきっと行かないための理由を探しただろう。「行くな」と言えば俺はその一言をそのまま言い訳にしただろう。かず子は何も言わなかった。膝の上の手を握って、ただ俺の横顔を見ていた。長く一緒にいる人というのは、こういう時に何も言わないことを知っている人のことだ。
「お医者様はいませんか?」
その声はもう乗客に向けた案内の声ではなかった。助けを呼ぶ人間の声だった。膝の上に置いていた俺の手が、頭より先に勝手にシートベルトの金具を探している。外す音が自分の耳にやけに大きく響いた。俺は決意を固め、近くにいたCAを捕まえて言う。
「俺は医師免許を持っています。役に立てるかもしれません」
言い終わってから、機内がすっかり静かになっていることに気づいた。近くの席の人たちが一斉にこちらを向いていて、その視線が全部俺の顔に集まっている。決めるまでが長くて、決めてからは早い。医者の仕事はいつもそういう形をしていた。かず子は俺の上着の袖を掴んで、それからすぐに自分から手を離す。話す時、かず子の指先が一度だけ強く俺の腕を押したのが分かった。言葉にすれば「行ってらっしゃい」の合図だった。

俺の言葉を聞いて、CAはほっとした顔をすると急いで俺を前方の席まで案内した。案内された座席を覗き込むと、一人の少女が胸を押さえてうずくまっていた。顔面は蒼白になり、痛みに耐えている。周りには保護者らしき姿はない。一人で搭乗しているようだ。その姿を見た瞬間、俺の中で聞こえている音がすっかり切り替わってしまった。機内のざわめきも集まっていた視線も、急に遠いところの出来事になる。俺は膝をついて、少女の顔の高さに自分の顔を合わせた。呼吸は早く浅い。唇の色は落ちているが、意識はあり、俺の顔を見ようとしている。
「先生が来たよ。もう大丈夫だから、喋らなくていい」
俺はCAからブランケットを受け取ると、それを通路に敷いて、抱え上げた少女をそこに横向きに寝かせた。
「ゆっくり深呼吸をしよう。できるかな?」
少女は俺のそんな言葉に必死に答えようとしてくれる。俺は少女の手の甲に自分の手を重ねて、吸うところと吐くところで軽く指を動かした。苦しそうに深呼吸をするのを見届けて、俺はCAに指示を出す。
「この子の鞄の中に、薬が入ったポーチなどがないか探してください」
そばに立っていたCAが慌てて少女の鞄を開き、中から小さなポーチを取り出した。
「薬が入ってます」
「それをこっちに」
俺の読み通り、少女は何かしら心臓に疾患を抱えているようだ。CAから受け取った数種類の薬に目を通して、その中の一つを取り出す。袋には飲む時間と飲み方が、大人の字で丁寧に書き添えられていた。薬の並びを見れば、この子がどれくらい長くこの病気と付き合ってきたかがおよそ分かる。毎日飲む薬と、必要な時だけ使う薬がきちんと分けて袋に入れてあった。分けたのは医者ではなく、家の人だろう。俺はもう一度少女の顔を見て、この子が飲めるかどうかを確かめた。
「この薬は、苦しくなった時に飲むように言われているものかな?」
少女は小さく頷く。
「よく覚えていたね。じゃあ、これを飲もう」
飲ませるものを自分で選ばずに、この子に確かめてから決めた。家の人と病院が決めた形を、俺が上から書き換えていい場面ではない。少女の背中に腕を添えて上半身を起こし、声をかけながら薬を飲むのを補助する。少女は小さく喉を鳴らして、その薬を飲み込んだ。飲んでから、疲れたようにまぶたを閉じた。このまましばらく様子を見る。俺は少女の手首に指を当てて脈を数えながら、時計の針を見ていた。脈が一周する間の数が、少しずつ落ち着いてくるのが分かった。そうして数分が経つと、苦しそうだった少女の顔が柔らいでくる。
「痛みは引いてきたかな?もう少しこうして横になっておこうね」
「はい」
その声は、俺がこの子から聞いた最初の言葉だった。声が出るというだけのことは、こんなに嬉しいものだとは忘れていた。少女の背中を撫でながら、疾患と直近の診察で言われたことなどを聞き出していく。
「病院では、心臓のことで何と言われているか覚えているかな?」
「はい。生まれた時からで、走りすぎると苦しくなるって」
「そうか。じゃあ、走ってはいけないと言われているんだね。体育は見学?」
「はい。見学です」
「見学の時、つまらないだろう」
少女は毛布の下で自分の胸の辺りに手を置いていた。おそらく今回のものは、一人で飛行機に乗るという緊張によって引き起こされた発作で、すぐ病院にかかるような緊急性はない。俺はそれをCAと少女に伝える。
「着いたら、念のためお母さんと病院に行くといい。でも、今すぐでなくて大丈夫だよ」
「よかった」
その一言が、痛みが引いたことに対してではなく、旅を続けられることに対して出たのが分かった。何度もお礼を言う少女を座席に戻して、それから一時間ほど彼女の座席のそばに膝をついて、会話をしながら様子を観察していた。
「一人で飛行機に乗るのは初めてかな?」
「はい。お母さんが、飛行機の人が見てくれるからって」
「怖かったか?」
「離れる時が一番」
出発のことではなく、空港で母親と離れた瞬間のことを言っているのだと分かった。
「お母さんは向こうで待っているんだね」
「はい。お父さんのお仕事で先に行ってるんです。私は学校があったから」
「学校を休まずに来たのか。それは偉い」
「休むと、追いつくのが大変だから」
「お母さんに会ったら、一番最初に何を言うか決めてあるかい?」
少女は少し考えてから、初めてはっきりこちらを見て答えた。
「一人で来られたよ、って言います」
心臓の辺りを掴まれたような気がして、俺は少しの間返事ができなかった。この子は、心配されないことを一番の土産にしようとしているのだ。
「それは、お母さんが泣くかもしれないな」
「泣きますかね?」
「泣くよ。うちの妻も大したことでよく泣くから」
少女は口の端だけで小さく笑った。学校の友達には心臓のことは話しているのかと聞くと、「話してます」と答えた。
「でも、心配されるのはちょっと嫌です」
「嫌か」
「『大丈夫』って言っても、信じてくれないから」
俺は膝の位置を少しずらして、この子の顔がよく見える角度に座り直した。「大丈夫」と言っても信じてもらえないというのは、俺にも心当たりのある話だ。
「先生も『大丈夫』だと言って、信じてもらえなかったことがあるよ」
「お医者さんなのに」
その返しがあまりに素直で、俺は言葉を選び直すことになった。
「お医者さんでも、信じてもらえないことはあるんだ」
「そういう時はどうするんですか?」
その問いに、俺はすぐには答えられなかった。どうしたかと言えば、俺は何も言わずにあの病院を出てきたのだ。
「その時はうまくできなかった。だから今も考えているところだよ」
「まだ考えてるんですか?」
「まだ考えているよ。大人でもそういうことはあるんだ」
少女は少しの間黙って、それから毛布の端を握り直した。
「じゃあ、私も考えます」
その言い方が妙に大げさで、俺は思わず笑ってしまった。笑ってから、この子の言葉に自分が助けられていることに気づいた。助けているつもりで座っていたのに、この座席の脇でもらったものの方が多い。窓の外はもう明るくなっていて、雲の上に朝の色が広がり始めていた。少女は毛布を顎の下まで引き上げて、窓の方を見ながら小さな声で言った。
「先生、お医者さんに戻らないんですか?」
「戻るという考え方を、したことがなかったな」
「今日はお医者さんでしたよ」
少女の指が俺の袖に軽く触れた。
「そうかな?」
「私、そう思いました」
俺は返事の代わりに、この子の毛布の端を直した。戻る、戻らないの話ではなく、今日この通路でしていたことが答えだったのだ。問題ないと判断した俺は、少女に声をかけ、CAにも念のため俺の座席位置を伝えてから、自分の席に戻る。通路を後ろへ歩いていくと、通り過ぎる列の何人かが俺に向かって小さく頭を下げる。俺も同じように頭を下げた。自分の席が見えた辺りで、俺を迎えてくれたのは心配そうな顔のかず子だった。
「お帰りなさい」
「持っていた薬が合っていました。緊張で出たものでしょう」
「あの子、一人だったんですか?」
「一人です。お母さんが向こうで待っているそうですよ」
「そんな小さい子が一人で」
「あなた、手を洗ってきた方がいいですよ」
「そうだな。そうします」
洗面所の鏡には、いつもより随分背筋の伸びた男が映っていた。同じ顔なのに、駅の階段で手すりを掴んでいた男とは別人のように見える。戻ってくると、かず子は俺に笑いかけた。
「私は、あなたを誇りに思います」
そう言って、微笑み返してくれた。俺は座席に体を沈めて、天井の方を見た。医者を辞めた理由を俺はまだかず子にきちんと話していない。それなのにこの人は、俺が医者であることを疑ったことが一度もなかった。

そうしているうちに着陸の案内が流れて、窓の外はもう海の色が変わっていた。それからまた数時間のフライトを経て、ようやくハワイの空港に到着した。扉が開いた瞬間に入ってきた空気は、日本の湿り気とは重さが違った。温かいのに肌にまとわりつかず、どこからか花のような甘い匂いがする。かず子は搭乗口を出たところで立ち止まって、その匂いを確かめるように息を吸った。
「あなた、匂いが違いますね」
「本当ですね。何の匂いなんでしょうか?」
「分かりません。でも、いい匂いです」

荷物を受け取る場所は人でいっぱいで、あちこちから聞き慣れない言葉が飛び交っていた。かず子と共に到着口に降り立つと、少し離れたところでさっきの少女がキョロキョロと辺りを見回している。背伸びをして人の頭の向こうを見ようとして、その度に見つからずに肩を落としていた。その子が気になっていた俺は、かず子に声をかけて少女のそばに近寄った。
「やあ、もう苦しくないかい」
俺がそう声をかけると、少女がぴょんと跳ねて慌てて頭を下げる。
「さっきはありがとうございました。お母さん、この方よ」
少女がお母さんと呼びかけた方に顔を向けると、少女にそっくりの顔つきの女性が深々と頭を下げるところだった。
「初めまして。この子の母親です。娘から話を聞きました。本当に、なんとお礼を言ったらいいか」
「頭を上げてください。薬を持たせていたのはお母さんでしょ」
「はい。飛行機の中で何かあったらと思って、いつもより多めに」
「あの袋の字はお母さんが書かれたんですね。あれがあったから、迷わずに済みました」
母親は自分の手を胸の前で握って、小さく首を振った。
「そんな字なんて、誰でも書きます」
「誰でも書きますが、あの分け方は誰でもできることではありません。毎日の薬と、必要な時だけの薬を分けておく手間は、慣れた人の手間だ」
それに従ってゆっくりと顔を上げた母親は、俺の顔を見てふと首をかしげた。首をかしげたまま、その人はゆっくりとまばたきをした。その間があまりに長かった。
「あの、もしかして、高橋先生ではありませんか?」
「先生」と呼ばれて、俺は一瞬誰のことを言われたのか分からなかった。その呼び方をされなくなってから、もう1年が経っている。俺が驚いて思わず頷くと、母親は眩しい笑顔を浮かべて俺の手を握った。
「あの、覚えてらっしゃるか分かりませんが、私、佐々木のやよいと言います。旧姓は石川です。子供の頃、先生にお世話になってたんです」
その言葉で、俺の頭の中のアルバムが開かれる。石川やよい。俺がまだ若かった頃に、入院していた子だ。あの頃の病棟は今の建物ではなく、廊下の床がまだ薄い緑色をしていた。やよいちゃんの病室は日当たりのいい南向きで、窓の下には小さな花壇がある。熱が続いて起きられない日、俺は回診のついでにその花壇の話をした。
「先生、今日は何が咲いてましたか?」
「黄色いのが増えていたよ。名前は分からないが、随分元気そうだった」
一度だけ夜の病棟で泣いているところを見たことがある。俺が声をかけると、この子は慌てて顔を拭いて、それから聞いてきた。
「私、大人になれますか?」
その問いに、俺は嘘を言わなかったし、言い切りもしなかった。言えたのは、「そのために俺はここにいる」ということだけだった。俺はその夜、ナースステーションで当直の看護師に一つ頼み事をした。翌朝の回診の前に、花壇の花を一輪だけ切って病室へ持っていく許可をもらったのだ。やよいちゃんはそれを見て、しばらく何も言わずに窓の方を向いている。
「先生、これ、勝手に切ったんですか?」
「許可はもらったよ。一輪だけならいいと言われた」
「怒られませんか?」
「怒られたら、君のせいにする」
そう言うと、この子は初めて声を出して笑った。その花が枯れる前に、やよいちゃんは窓の下まで降りられるようになる。俺は車椅子を押して花壇の前で一緒にしゃがんだ。
「先生、この黄色いの、名前は分からないんですか?」
「分からない。誰かに聞いておこうと思って、いつも忘れるんだ」
「じゃあ、私が調べます。調べたら教えてくれ」
「教えます。約束です」
その約束をこの人は結局果たさないまま、退院していった。果たさなかったのを、俺は一度も残念だと思ったことがない。調べる約束をした子が、調べる必要のない生活へ帰って行ったということだからだ。あの夜のことを、この人は覚えているだろうか?覚えていないでいてくれたら、その方がいいと俺は思った。あんなに幼く細かった子が、こんなにも大きくなって。大人になれますかと聞いた子が、自分の子供の手を引いて空港に立っている。医者をしていて報われる形はいくつもあるが、これはその中でも一番静かな形だった。あの病院で俺が勝てなかったことも、噂で傷つけられたことも、この人には何の関係もない。関係がないのに、この人が立っているというだけで、あの何年かが無駄ではなくなってしまう。
「やよいちゃんは、子供の頃、優しかった先生のことが本当に大好きだったんです。再開できて嬉しい」
やよいちゃんは何か言いたそうな顔をして、それから何も聞かなかった。聞かない代わりに、俺の顔をもう一度まっすぐ見た。
「でも、さっき娘を見てくださったのは先生ですよね」
「あれはたまたま乗り合わせただけです」
「たまたまでも、立ってくださったのは先生です」
話を聞くと、やよいちゃんは旦那さんの仕事の都合で先にハワイに来ており、学校があった娘さんはそれを追いかける形で今回一人で搭乗していたのだという。
「主人が先に来ていて、私も後から追いかけたんです。この子だけ学校がありまして」
「それで一人で乗ることになったんですね」
「一人で大丈夫だというものですから。でも、乗せた後で何度も後悔しました」
「後悔しなくていいと思いますよ。この子は『一人で来られたよ』と言うと決めていましたから」
やよいちゃんは口を押さえて、それから娘の頭に手を置いた。彼女に今日はどんな用でハワイにやってきたのかと尋ねられたので、俺はそっと身を乗り出して、かず子に聞こえないように用件を短く伝えた。伝えている間、やよいちゃんの目が少しずつ大きくなっていくのが分かった。すると彼女は目を輝かせて、突然どこかに電話し始めた。それも、俺が止める間もない速さだった。電話を終えたやよいちゃんは、こちらに戻ってくるまでの数歩でもう笑っていた。
「先生、明日のご予定は空いていますか?」
「予定というほどのものはありませんが」
「では、開いていることにしてください。連絡先を教えてください」
「やよいちゃん、何を決めたのか教えてくれないか?」
「言いません。言ったら、先生が遠慮しますから」
言われて、俺は口を閉じるしかなかった。「先生、一つだけ約束してください」
「約束か。内容を聞かずに約束はできないな」
「明日、断らないでください。それだけです」
「断るようなことをするつもりなのか?」
「先生が断りそうなことを、これからします」
そう言って、この人は俺の手をもう一度しっかり握ってから、娘と歩き出す準備を始めた。かず子は俺の横で、事情がまるで分からないという顔で首をかしげている。その日は、やよいちゃんと連絡先を交換して、親子とは別れることになった。別れる前に、少女が俺の前まで来てもう一度きちんと頭を下げた。
「一人で来られました」
「知っているよ。ちゃんと見ていたから」
顔を上げたこの子の表情を、俺はしばらく忘れないだろうと思った。親子の姿が人の流れの向こうに消えてから、かず子が俺の隣にそっと並んだ。
「『先生』と呼ばれていましたね」
「呼ばれました」
「あなた、その呼ばれ方をされた時、少し背筋が伸びましたよ」
「背筋が伸びましたか?」
「伸びました。病院にいた頃の歩き方でしたよ」
「それは褒めていますか?」
かず子は前を向いたまま、シートベルトの位置を指で少し直している。
「褒めています。でも、あの頃に戻ってほしいという話ではありません」
「戻りたいとは思っていませんよ」
「知っています。だから、一旦です」

翌朝、光がカーテンの隙間から床の上に一本の線を引いていた。次の日、せっかくだからと早起きして目一杯豪華な朝食を楽しんだ俺たちは、部屋でゆっくりした後、ホテルの外に出てきた。部屋に戻ってから、かず子は買い物に行く支度をして鏡の前で髪を直していた。
「今日はお買い物するんでしたっけね」
と微笑むかず子に、俺は少し緊張しながら言った。
「あの、そのことなんだが、少しついてきて欲しいところがあるんだ」
「ついてきて欲しいところ?」
「行けば分かる。頼むから、着くまで何も聞かないでくれないか」
「怪しいですね。あなたがそういう顔をする時は、大抵何かあるんです」
かず子を連れてレンタカーを借りて、ナビを頼りに20分ほど走らせる。道の右手には白い塀に囲まれた広い敷地がいくつも現れ始めている。ようやく到着したのは、俺たちが止まっているところより明らかにグレードが高そうなホテルだ。かず子は口を開けて、その立派な外装に見とれている。車を降りたところで、かず子は俺の腕を掴んで随分小さな声で言ってきた。
「あなた、ここ、間違えていませんか?」
「間違えていませんよ」
フロントのスタッフに俺の名前を告げると、にっこりと微笑んで頷いてくれる。名前を告げただけで話が通っているというのが、俺にはまだ信じられない。スタッフはカウンターの下から小さな封筒を取り出して、それを俺に渡した。中には俺の名前とかず子の名前が綺麗な字で並べて書かれた紙が入っている。スタッフの案内に従ってホテル内を進むと、敷地内のグリーンガーデンに出ることができた。目の前には海が見え、芝生の上の真っ白なテントが美しい。芝生の上には椅子が並べられていて、その並べ方には明らかに意図があった。真ん中を開けて左右に分けた並べ方。テントの柱には白い花が巻きつけられていて、その花が本物であることに俺は驚いた。かず子が「まあ」と簡単な声をあげる。その声の後、かず子は俺の顔を見て、それから並べられた椅子をもう一度見た。俺は俺も別のスタッフに連れられて、着替えを行う。袖を通したのはタキシード。鏡の前に立って、俺はしばらくそこに映った自分の姿を見ていた。白衣を脱いだ日から、俺は自分が何かを着る人間ではなくなったような気がしていた。こういう服は人生の節目に着るものだ。節目を作る資格が自分にあるのかどうかを、俺はこの1年ずっと決めかねていた。スタッフが後ろから襟を直して、ネクタイの位置を指で抑えた。鏡の中の自分の肩の高さを見た。あの病院の廊下を歩いていた頃、俺の肩は片方だけ下がっていた。書類を抱えて歩く癖で下がっていたのだと当時は思っていた。今は両方が同じ高さにある。抱えていたものを置いたからだと、素直にそう認めるのに1年かかった。医者をやめたことを、俺はずっと逃げたのだと思っていた。逃げたのなら、こんな服を着る資格はない。だが、逃げなかった人間が誓いの場所に立つとも決まっていない。立てる人間は、連れてきてくれる人がいる人間だ。

照れ臭い気持ちで再び庭に戻ってくると、そこにはすでに2つの影があった。俺は彼女たちに声をかける。
「やよいちゃん」
振り返ったやよいちゃん。親子は俺の格好を見て褒めちぎってくれる。
「先生、まあ、なんてこと?すごくお似合いです」
「先生、かっこいいです」
「ほら、この子まで言ってますよ。写真撮りますから、そこに立ってください」
やよいちゃんは片手で携帯を構えて、もう片方の手で俺を招いた。
「やよいちゃん、恥ずかしいから勘弁してくれないか?」
「勘弁しません。今日は先生の言うことは聞きません」
俺は思わず頬を赤くした。少女は白いワンピースを着て、髪に花をさしてもらっていた。昨日、通路に横になって胸を押さえていた子と同じ子だとは思えない元気さだ。しばらく雑談していた流れで、やよいちゃんは声を潜めて話し始めた。その前に彼女は娘の方を見て、「あっちで花を見ていらっしゃい」と言った。少女が芝生を走っていくのを見送ってから、やよいちゃんは俺の隣に並んだ。
「先生、知っていますか?先生が前いらっしゃった病院のこと」
俺はそんな話をここで聞くと思わず、驚いたまま首を振る。首を振ってから、自分の指先が急に冷たくなったのが分かった。あの病院の名前を人の口から聞くのは、辞めてから初めてだった。
「先生、聞きたくなければやめます」
「聞かせてくれ。ここまで来て逃げるのは格好がつかない」
やよいちゃんは娘の方を一度見て、それから声をさらに落とした。
「私、先生がやめられた後、一度だけあそこにかかったんです。受付で先生の名前を言ったら『もういらっしゃいません』と言われて、それで別の先生に診てもらったんです」
「その先生はどうだった?」
「話を聞かないんです。こちらが言い終わる前に、次のことを言うんです」
「それは辛かったな」
「辛いというより、悲しかったです。あの病院は、そういう場所ではなかったので」
「そういう場所にしていた」という言い方に、俺は返す言葉を失った。何も伝えず急にやめてしまって申し訳ないと謝ると、やよいちゃんは力一杯否定した。
「謝らないでください。先生が謝ることじゃありません」
「それでも、来てくれた人に何も言えなかったのは俺の落ち度だ」
「先生。私、先生が辞めた理由を後で知りました。辞めて正解だったと思いますよ。あの病院、論文の盗用があったとかで調査委員会が立ち上がったら、別の問題もゴロゴロ出てきたらしいんです。何でも、お金をもらって治療の優先順位を金額で決めてたとか、お金をもらえなかったら重症でも放置してたとかで、大問題になってるんです」
病院をやめた後、徹底的に病院関連の情報を断っていた俺には、初耳のことばかりだ。
「先生の論文の話が最初だったそうです。学会に出す順番の記録が残っていて、それで分かったって」
「記録」という言葉が、俺の頭の中で、あの日の保留音とつながった。学会に出した順番の記録は、俺が慌てて電話をかけた時にも同じ場所にあった。あの日の俺は、その記録を武器として使うかどうかで迷って、使わないことを選んだ。使わなかった記録が、俺のいないところで勝手に仕事をしていたことになる。
「先生、悔しくありませんか?」
「悔しいかどうかを、まだ決められていない。俺が言えなかったことを、他の誰かが言ってくれたわけだから、ありがたいのが先に来るんだ」
「先生は、そういう人ですよね」
「そういう人でいたかっただけの話だよ」
俺がそれを知った時、胸の奥で何かが静かに解けていくのを感じた。あの廊下で俺が守れなかったもの。噂で傷ついた名前。それらが、俺の知らない場所で、誰かの手によって正されたのだ。俺が捨てた道を、俺ではない誰かが通ったということだった。

顔を上げたやよいちゃんが笑った。
「話しすぎちゃいました。ほら、先生、主役の登場です」
そう言って差し示された先を見ると、純白のドレスに身を包んだかず子が、照れ臭そうにこちらに歩いてきている。芝生の上を歩いてくるその姿を、俺は最初、誰なのかうまく認識できなかった。25年分の生活の中で、俺はこの人の白い服というものを見たことがなかったのだ。髪はいつもより高いところで結ばれていて、耳の辺りに小さな白い花が止められている。近づいてくるにつれて、かず子の目の縁が赤いのが分かった。泣いたのではなく、まだこれから泣くのを我慢している顔だった。ゆっくりと俺の横に並び立ったかず子は、「一体どういうことなんです」と赤い顔で笑いながら問いかけてくる。俺も照れながら答える。
「俺たちが結婚した時、俺が忙しくて結婚式も上げられなかっただろう。だから、結婚25周年を『銀婚式』と呼ぶのを知って、今年こそ盛大に祝おうかと思ったんだ。そしたら、やよいちゃんたちがここを貸してくれたんだよ」
俺の説明を聞いても、かず子はしばらくの間黙ったままだった。黙ったまま自分の着ているドレスの袖を見て、それからテントを見て、最後に俺を見る。
「あなた、それであんなに急いでチケットを」
「そういうことです」
「あの雑誌、いつから知っていたんですか?」
その問いを口にしたところで、かず子の声が少しだけ震えるのが分かった。
「本棚の下の段にあることは、ずっと前から知っていました」
かず子は口の形だけで何か言おうとして、途中でそれをやめてしまった。やめてから、自分の手の甲を反対の手で強く抑えた。泣くのをこらえる時に、この人は昔からそうする。
「あの時、式はあげなくていいと言ったのは君だ」
「言いました。あなたが忙しかったので」
「忙しかったのを、君の言葉のせいにして通してきた。言ってしまってから、俺は自分の卑怯を声に出したのだと気づいた。私は一度も『あげたかった』と言わなかったでしょう。言われなかったから、俺は逃げられたんです」
「逃げていたのは、私も同じですよ。言えばあなたが無理をすると分かっていましたから。だから言いませんでした」
「それはお互いに黙っていたんです。25年ずっと」
かず子のその言い方の中には、俺を責める色が一つも入っていない。ただ事実の並べ方として正確だった。俺が守っていたつもりのものを、この人は自分の側でも守っていたのだ。

やよいちゃんが少女の手を引いて、少し離れた椅子の方へ下がっていった。芝生の上に残ったのは、俺とかず子と風の音だけになった。俺はそっと彼女の手を取り、そして2人でゆっくりとテントへと歩いていく。かず子君にはたくさん苦労をかけたね。
「いいえ」
かず子は首を振って、それ以上言葉にならないまま、俺の手を握り直した。俺はこの人に、随分長い間「待つ」ばかりをさせてきた。待たせていた時間の中身を、俺はほとんど知らない。これから帰ったら、その話も聞かなければならない。苦労をかけたというだけでは、何も返したことにならないのだ。
「それでも、君がいたから俺は生きてこられたよ。本当にありがとう」
かず子はしばらく下を向いていて、それから顔を上げてゆっくりと笑った。濡れた目のままで笑うということが、この人はいつも上手なのだ。
「あなた、一つ聞いていいですか?」
「今日は何でも聞いてください」
「病院をやめた理由、いつか話すと言いましたよね。今日でなくていいです。でも、いつか聞かせてください」
「帰ったら話します。長くなりますが」
「長くていいんです。私、時間はいくらでもありますから」
「いくらでもある」と俺が言った言葉を、この人はそのまま返してくる。その日、雄大な海と優しい人々に見守られて、俺たちはこれからの幸せを誓った。その後、予定していたディナーを食べて、俺たちのハワイ旅行は終わった。

帰国後、俺は上司にとある相談をしに行った。ずっと心の片隅で気になっていた、我が社の専属産業医の募集についての相談だ。本来は外部に対しての募集だったが、俺の経験を生かすことができるのではないかと考えたのだ。
「高橋さん、お土産ありがとうございました。それで、ご相談というのは?」
「社内で募集されている産業医の話です。あれは、外の人でないとダメでしょうか」
上司はペンを置いて、募集の紙をこちらへ向けた。
「外に出したのは、社内に医師免許を持っている人間がいないと思ったからですよ」
「いるんです。ここに」
言ってから、俺は自分の言い方が少しおかしかったことに気づいてしまう。上司は書類から顔を上げて、それから背もたれに体を預けた。
「高橋さん、それ、うちにとっては随分都合のいい話なんですけど、いいんですか?」
「都合がいいのは、俺の方です。社員の顔と名前がもう頭に入っていますから」
上司は椅子に体を預けたまま、しばらく天井の辺りを見ていた。
「高橋さん、うちの社員、多分、先生には言えないことを、高橋さんには言いますよ」
「そうでしょうか」
「言います。俺が言いますから」
上司は社内の事情も知っている俺が産業医になってくれるのは大歓迎だと言ってくれた。俺は産業医になるための研修を受け、経験を生かしてお世話になった社員たちを支えることになった。面談室の机の上には、聴診器と血圧計と、記録を書き込む紙が並んでいる。白衣は着ないことに決めた。着ない方が話しやすいと、一番最初に来た社員が教えてくれたからだ。診療部長だった頃、俺は自分の部屋のドアをいつも閉めていた。今の面談室のドアは、誰も来ない時間はわざと開けておくことにしている。開けておくと、通りかかった社員が用のない顔で覗いていくのだ。用のない顔で覗いてきた人の方が、大抵本当の用を持っている。白衣を着ていた30年近くで俺が身につけたものは、多分そういう見分け方だった。

ある日、やよいちゃんからメッセージが届いた。メッセージには何枚もの写真が添付されていた。それは全てハワイのテントでの俺たちの写真で、どれもこれも幸せそうに微笑んでいる。俺はかず子と写真をじっくり眺めて、お気に入りの一枚をプリントアウトした。選ぶのに、俺たちは随分長い時間をかけた。かず子が最後まで手元に残したのは、俺が海の方を向いている一枚だった。
「これがいいです。あなたが笑っていない方が、あなたらしいので」
「褒められているのかどうか、分かりませんね」
戸棚の上に飾られたそれは、俺たちの将来の幸せを証明するかのように輝いていた。

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