朝の点検を終えたところで、新しい部長に呼び出された。着任から三週間。本社の管理部門から来た男は、書類も見ずにこう言った。
「作業主任者の資格、持っているのはこの工場であなただけだと柴原君から聞いた。好きでそうしているわけじゃない。毎年、候補者の名前を上げて申請している。そう答えると、部長は言った。「そうか。では、近くを増やそう。」
少し安心した。次の言葉で、血の気が引いた。「が、それは車内の決め事でしょう。私が変えると言えば変えられる話です。」
机の書類をこちらに向け、三つの項目を指で順に叩いた。作業主任者手当、事業内検査者手当、特許の実績保障金。「一人に三つの項目が付いているのはあなただけだ。高すぎる。」
入ってきた設備管理主任の柴原が、それに続いた。「システムの運用は私にもできます。」部長は頷いた。「では、作業主任者の仕事は設備管理主任の職務に含めよう。」
反論した。「いえ、無理です。この資格には五年の実務経験と試験が必要です。」だが部長は手を振った。「これ以上はあなたが心配することじゃない。」
これはまずい、と思った。それでも、言うべきことは言わなければならなかった。三号機の話だ。数値はまだ上限の内側だが、力のかかる時間がじわじわと伸びている。このままでは肩が割れる。ラインを一時間止めて、点検させてほしい。
部長は顔も上げずに柴原に訊ねた。「柴原君、どう思う? 」「数値は正常範囲です。問題ないでしょう。はっきり言って、大げさすぎます。」
結局、点検の許可は下りず、俺は部屋を追い出された。
その日の午後、部長の指示を受けた柴原が、機械の点検に現れた。記録を確かめ、「やはり問題ないですね」と言って、次へ移っていく。ちょうど通りかかった作業員が俺に声をかけた。それを見て、柴原がぽつりと言った。「相変わらず慕われてますね。騙されているのに、呑気なものだ。」
「騙すだと? 」「正常範囲の数値を騒ぎ立て、一人で三つも高額な手当てをもらっている。嘘つきだと知ったら、みんなの評価も変わるでしょうよ。」
俺は言い返した。「早めに対処してきたからこそ、大きなトラブルが起こらなかったんだ。」柴原は何も答えなかった。
翌朝、また呼び出しが来た。部屋には、部長と柴原がいた。部長は書類に目を落としたまま言った。「固定費の削減案を本社に提出した。”一人に集中していた三項目を整理した。特許の権利は会社が持っている。これ以上、支払いを続ける理由はない。”
めくられた紙には、俺の名前と新しい辞令が書かれていた。「来週付けで、資材倉庫へ移動。広角です。月給は十七万。”
基本給に三項目を足した三十八万から、二十一万も引かれていた。「プレス設備の管理は柴原さんの職務に加えます。あなたの手順書があれば、十分に勤まります。」
俺が書いた設計図が、俺を追い出すために使われた。
「あなたのやり方は、正直、継続的すぎました。正常範囲の数値を恋に異常と判断して、自分の有要性を示そうとしていた。これは配人行為ですよ。広角と言及で済ませているだけ、ありがたく思っていただきたい。」
そして柴原の方を向いて言った。「柴原君、この工場がうまく回れば、次は俺が製造統括の椅子に座るんだ。君には期待している。」
部長の企みが読めた。この工場の実績を手土み上げに本社へ戻り、う木さんの椅子を継ぐつもりだ。柴原は、その駒にされていることに気づいていないようだった。「はい、任せてください。」胸を張って答えた。
俺は移動を承知した。「ですが、プレス設備の管理を柴原さんに移すのと、作業主任者としての起動の承認を出すのとは別の話です。資格を持つものは、この工場にはもう俺しかいない。このままだと、来週からプレス機の起動承認を出せるものが、一人もいなくなります。」
横から柴原が口を挟んだ。「いえ、できますよ。「初詮ただの機械のチェックです。設計図も保守順所もこちらで見られるようにしてあります。五年という条件は、車内規定によるものでしょう。起部長の権限で変更できるはずだ。」
部長は俺と柴原を見比べた。そして、目を見開いて、俺に言った。「はっきり言わせてもらう。機械のバをするだけの仕事を特別扱いしてきたことの方がおかしいんです。代わりは大勢いる。嫌ならやめろ。」
指の先が冷えていくのが分かった。
「いいんですね。公認がいないまま移動を進めるということで。」
「結構です。移動は予定通り執行します。」
言うべきことは言った。それでも、この男は引かない。俺は首から認証カードを外し、机の上に置いた。「退職させていただきます。」
隣で柴原が息を詰めた。部長の返事は早かった。「では、本日付けで手続きは総務でお願いします。」
その足で総務へ行き、退職届を書いた。最後に、一行だけ書き添えた。「三号機の記録を確認されたし。」
翌朝七時、携帯が鳴った。工場長の牧村からだ。
「退職届が総務に回ってきた。今朝、プレス機の起動承認がまだ出ていない。点検記録は正常だというのに、機械が全て止まったままだ。壊れたわけではない。認証処理が行われていないため、会社の規定が十四台のプレス機を黙らせている。」
柴原が承認を試みたが、先任大長に名前がなく、端末が受け付けなかったという。俺が机に置いていったカードも、退職の扱いになった時点で無効になっていた。部長も昨夜のうちに柴原の名前を大長へ書き込もうとしたらしいが、手続きが間に合わなかったという。
「主導で解除する案が出たが、私が止めた。次の監査で不適格がつけば、止まるのは一日では済まない。」牧村は言った。「資格を持つものがこの工場に一人でもいれば、その日のうちに大長へ書き入れて掲示すれば足りる。だが、経験年数の足りている作業員はいても、終了証を持つものがいない。」
最後に、牧村は言った。「昼から本社の担当が来る。夕方にまた連絡していいか? 」
構いません、と答えて電話を切った。
その日の夕方、二度目の電話が鳴った。牧村は、俺が書き残した通り、三号機の記録を見たという。「プレスが止まっている間に、週ごとの波形を並べたところ、力のかかる時間が伸び続けていた。あのまま動かしていれば、肩が割れていたはずだ。やはり、点検する必要があったのだ。」
俺の判断は間違っていなかった。そのことに、ほっとした。
翌日の午前、牧村から電話が入った。「製造統括役員のう木さんの名で、工場停止の経緯と選任について、事実確認の場を設けたい。その席に立ち合って欲しい。」
翌日の午後、工場の応接室に通された。依頼の趣旨を記した書面を牧村から受け取る。奥にいたのが製造統括役員のう木だと名乗り、「本日は経緯を伺いたい」と述べた。部長と柴原が向かいに座り、俺は牧村の隣に座った。
う木はまず、牧村に停止からの経緯を求めた。牧村は、プレス機を起動するために承認を出すものが退職したため、十四台が三日目に入っても動いていないと報告し、承認を出せるものは作業主任者の資格を持つものだけだと付け加えた。
「納期への影響は?

」う木が質問すると、牧村は「三日で五千万を超えました。止まったままなら、今週で八千万に届きます」と答えた。
部長の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
「候補者は、どのくらいいるんですか? 」う木が牧村に聞いた。「資格を持つものがいれば、大長に書いて掲示するだけで住みます。」
すると、部長が口を開いた。「私は四つの工場の固定費を、締めまでに見直すよう言われてきています。一人に三つの手当てがついていたのは、この工場だけでしたので、そこから手をつけました。」「候補者がいるなら、選任すればいいだけの話です。」
う木がこちらを見た。俺は初めて口を開いた。「口で申し上げるより、先任大長をご覧いただいた方が早いかと思います。部長室の書棚にありますので、お持ちいただけますか? 」
部長は柴原に取りに行かせた。戻ってきた大長が机に置かれた。表紙をめくると同時に、俺は言った。「こちらをご覧いただければ分かりますが、全任者が定年で解除されてから、選任されているのは私一人です。その私が三日前に退職しましたので、公認の欄は開いたままのはずです。」
十八年分の記録の最後に、俺の名前だけが残っている。その先は、白いままだ。指が止まり、部長はページから顔をあげずに言った。「現場の経験者から選べばいい。五年以上働いた作業員はおります。ただ、終了証を持つものがおりません。」
「なぜ受けさせていないんですか? 」う木が聞いた。「毎年、申請は出しました。会社からの返答は『来に回す』の一言だけです。」
部長は、大長から手を離した。「私が聞いていたのは手当ての話です。そこまで具体的な話ではありませんでした。柴原君からも、誰でもできる仕事だと聞いていましたし。」
俺は、正面から部長を見据えていった。「候補者のことは繰り返し伝えました。帰ってきたのは『代わりは大勢いる』の一言だけです。この五日間、その代わりはどこにいたんですか?
」
すると、それまで黙っていた柴原が開き直ったように口を開いた。「私が変われるはずです。はっきり言って、何かと言うと点検だの、大げさだのと言って騒ぎ立てているだけだったでしょう。エラーも出ていないのに。五年の資格が必要なことは知っていましたが、車内の規定なら起部長が変えれば済む話だと思っていました。正直、作業員が旗中さんばかり頼るのも、面白くなかった。」
牧村が口を挟んだ。「規定が変えられると思っていたでは済まされない。人の安全に関わる資格だぞ。」
「不調の予兆で動くのが、本来あるべき仕事です。大げさという方が、間違っている。」
俺は静かに言った。「慕われたくてやってきたわけじゃない。何も起きない工場にするために、続けてきただけだ。」
そして、続けた。「先週、三号機の記録に妙な変化がありました。歯が鉄板を抜けるまでの時間が、じわじわと伸びていたんです。数字はまだ上限の内側でしたが、力のかかり方の形が変わっていました。あのまま気づかず動かし続けていれば、肩が割れて、生産ラインが止まっていたのは、この程度の数日では済まなかったはずです。数字の上限だけを見る目には、その変化は映りません。」
部長の声が上ずった。「だが、それでは効率が悪いのでは…」
「起田部長、あなたが見ていたのは、帳簿に記された手当ての数字だけで、この工場で働く私を見ていなかった。その姿勢が、今も工場を止めているのではありませんか? 」
何も答えようとしない部長に対し、う木が聞いた。「削減案を作る前に、先任大長を確認したか。」「…していません。」か細い声だった。
う木は「経緯を幹部会に図ります」と告げ、俺に向き直った。「旗中さん、こちらの不際です。社員としてお戻りいただく以外に、方法がありません。どうか、お願いできませんでしょうか。」
う木が頭を下げ、牧村もそれに続いた。
「条件を、一つだけ申し上げます。五年以上働いた作業員に、順に講習を受けさせてください。候補者が一人しかいない状態を、これで終わりにしていただきたい。それを、文書でいただけますか? 」
俺はそう言うと、う木たちに頭を下げてから、工場を後にした。
数日後、う木を通じて、部長は幹部会に測られ、部長を解かれて本社へ戻ったと聞いた。柴原は、拡大されるはずだった職務と手当てを全て取り消された。「十分可能です」と答えていた始末書も命じられたという。
届いた文書通り、俺は正社員として、長の職に戻った。大長と掲示板の欄が埋まり、十四台に機道の証人が出たのは、停止してから五日目のことだ。
その日、現場に戻った俺を、フルカブの作業員が「お帰りなさい」と迎えた。牧村も「お前がいないと、この工場は回らない」と言って、肩を叩いてきた。
復職から半年、経験者二人がようやく受講を終えた。終了書はまだ渡せないが、取れるものは育てられる。俺は再び動き出した工場で、新たなやりがいを見つけたのだった。


