兄が連れてきた婚約者は、鈴のなるような声の、優しくて綺麗な女性だった。両親も兄もすっかり彼女に夢中だ。ところが、兄が席を外したほんの一瞬で、彼女の顔が歪んだ。「中卒レベルの頭じゃ人生うまくいかないでしょう。早く家から出ていかないとね」──兄の前では決して見せない、あの冷たい笑顔。俺はこっそり探偵に彼女の調査を依頼していた。そして家族の前で、その報告書を静かにテーブルへ置いた。あの瞬間、兄と両…

兄が連れてきた婚約者は、鈴のなるような声の、優しくて綺麗な女性だった。両親も兄もすっかり彼女に夢中だ。ところが、兄が席を外したほんの一瞬で、彼女の顔が歪んだ。「中卒レベルの頭じゃ人生うまくいかないでしょう。早く家から出ていかないとね」──兄の前では決して見せない、あの冷たい笑顔。俺はこっそり探偵に彼女の調査を依頼していた。そして家族の前で、その報告書を静かにテーブルへ置いた。あの瞬間、兄と両...

兄が婚約者を連れて実家に来たのは、週末のことだった。白いワンピースをまとった、鈴のなるような声の綺麗な女性だった。兄の話では、俺が店で働いている時に知り合ったらしい。母が腕によりをかけて作った料理を囲み、酒も進み、家族は和やかな雰囲気に包まれていた。

「一目惚れみたいな感じでさ、マキとどうしても仲良くなりたくて一生懸命話しかけたもんだよ」

調子のいい兄の話に、まきさんは恥ずかしそうに微笑む。控えめで愛想のいい彼女は、あっという間に家族と打ち解けた。

「会社員として立派に活躍している彼を、そばで精一杯支えたいんです」

その言葉に母は目頭を抑えていた。

世間話も尽き、三人で静かな時間が流れた頃、兄のスマホが震える。兄は「すまん、ちょっと出てくる」と言って部屋を出ていった。

兄が姿を消した瞬間、まきさんの表情が変わった。それまで優しい雰囲気だったのに、まるで別人のように冷たい目線を俺に向けてくる。机に頬杖をつき、足を組んだまきさんは、低くなった声で言った。

「彼からあなたは中卒って聞いたけど、本当なの?」

俺は嘘をつく必要もないと思い、頷いて肯定した。

「うわ、マジ?」

そして、思いもよらない言葉を浴びせられた。

「兄は名門大学を出て、今や会社役員。方や弟は中卒でフラフラしてんの」

そう言って、彼女は笑った。さっきまでの謙虚さも美しさも、今の彼女には何もない。

「中卒レベルの頭じゃ人生うまくいかないでしょう。いい大人になった今でも実家に寄生してダラダラ生きて。兄はあんなに立派に働いているのに」

俺は悲しみや恐怖というより、呆れて声が出なかった。

「遺相郎は早く家から出ていかないとね」

意地悪く右の口だけを上げた彼女の表情に、あっけに取られていると、電話を終えた兄が戻ってきた。

兄がドアを開けた瞬間、まきさんは瞬時に優しい笑顔に戻った。女優並みの見事な演技だった。この人はこうやって兄を騙しているのだろうか。俺は不審感を抱えたまま、その日は何も言わずにやり過ごした。

数週間後、結婚式の打ち合わせのために、再びまきさんが実家へやってきた。俺は親や兄に気づかれないよう、ソファーでテレビを見るふりをして、家族の会話に聞き耳を立てた。

打ち合わせが一通り終わったところで、まきさんが声のトーンを落として話し始めた。

「これからのことですが、正式に籍を入れた後、この家は彼と私で守っていきたいと思っています。ですからお母さんとお父さんには、安心して引退していただきたいと思っています」

父と母が戸惑った様子を見せる。

「あ、すみません。言い方が悪かったですね。これまでお父さんたちは家族のために懸命にこの家や家族を守って来られたんだと思います。私は結婚したらお2人にはその重圧から解放していただいて、静かにのんびり暮らしていただきたいと思っています」

まるで父母のことを思っているかのように演技をするまきさん。そして、次にその刃は俺にも向いた。

「それから剣さんなのですが、もう30歳になるんですし、1人暮らしとかした方がいいかなって」

まきさんの根胆は、少なくとも俺にとっては丸見えだった。ここで俺は我慢が効かなくなった。手元に隠し持っていたものをぎゅっと握り、立ち上がって食卓へと進んだ。

「これ、見てほしい」

突然の俺の登場に驚く4人。俺は構わず、数枚の資料が入った封筒を食卓に静かに置いた。

「何?いいから」

父がゆっくりと封筒を持ち上げ、中身を取り出す。

「調査…お前」

「落ち着いて見て。文句は見てからにしてほしい」

「あんた、自分が何しているか分かってるの?」

母が立ち上がり、テーブルに両手をついた。部屋に大きな音が響く。

「いや、母さん、1回見てみよう」

興奮した母を止める父。資料の冒頭を読んだのだろう、父の言葉に母も落ち着きを取り戻し、一緒に調査報告書を黙って眺めた。

まきさんの方をちらっと見ると、彼女は作り笑顔のまま固まってしまっている。両親が報告書を読み終えるのを、俺は待った。

そこには、とんでもないまきさんの本性が書かれていた。

彼女は夜な夜なホストクラブに通い、気に入ったホスト「勇気」の家に入り浸っていた。そして、彼に貢ぐための金を作るために多額の借金を抱えていることが、写真と共に報告されていた。

また、会社での発言も記されていた。

「彼氏の実家がかなり立派で資産家であるから、結婚すれば財産も自分のもの。借金も綺麗になくなって勇気君にもいくらでも貢げるようになる」

そんな内容ばかりが、30ページに渡って並べられていた。

父は黙って全てを読み終えた。母は冒頭の10ページほどで読む気力をなくした様子で、頭を抱えて動かなくなった。

「これが彼女の本性だと思う。俺は兄と彼女に結婚して欲しくないと思っている」

「そうだな」

初めて会った夜に見た、あの表変した彼女への不審感から、俺は探偵事務所に依頼して調べてもらっていたのだ。

「剣さん、どうしたの?」

家族が見ている前では、相変わらず優しくて美しい嫁を演じるまきさん。俺は、彼女が知らないであろう話を始めた。

「俺のこと、中卒でフラフラしてるってバカにしたよな。兄貴は役員で、弟は実家に寄生してダラダラ生きてるってさ」

「私、そんなこと言ったかしら?あなたの聞き間違いじゃない?」

「兄が役員を務めている会社は、俺の会社だ」

固く微笑むまきさんをしっかり見据え、俺は告げた。

「はぁ?何の冗談?」

たっぷりの沈黙の後、引きつった表情でまきさんはそれだけ漏らした。

「この家も、俺が3年前に建てたものだし。両親が家を出ても、まきさんがこの家を継ぐことはないよ」

「そんな話、聞いていない」

まきさんはテーブルの上で拳を握る。信じようとしない彼女に、今度は兄が話し始めた。

「マキ、本当のことだよ」

兄の言葉に、まきさんは大きく目を見開いた。

「秋、前にも伝えたように、俺は新卒で入ったメーカーでの働き方が好きじゃなくて転職したんだ。それが今の会社、剣の会社だよ」

「信じられない…」

「組織の歯車になって働いていた俺からしてみると、生き生きと働いている剣に憧れて、剣の会社に転職したんだ。それに、マキと出会ったあの店も剣の店だよ」

「嘘でしょ?」

「剣は中卒だけど、19の時に始めた雑貨屋がうまくいって、複数店舗を展開するまでになっていたんだ。その1つを俺に任せてくれていたんだ」

父と母は黙って話を聞いていた。

「そんなの聞いていない!なんで言ってくれなかったのよ!」

「俺が兄に言ったんだ。弟が俺が社長だと公表しないで欲しいと。何も知らない周りからしてみれば、弟に利用されている兄と誤解を産んでしまう可能性を考えてのことだった」

「嘘?嘘でしょ?」

まきさんは俯いて肩を震わせる。

「こんなの信じない!これは剣さんが自分で作ったものでしょう!」

調査書を指差し叫ぶ。それから、両目を潤ませて兄を見た。

「金目当てだったんだな」

兄の静かな言葉に、まきさんが唸る。

「婚約は解消だ」

「ちょっと待って!ごめん、秋!いや、いやよ!ごめんなさい!もうホストには行かないから!ごめんなさい!許して!」

「秋、ごめん」

兄は申し訳なさそうにまきさんに頭を下げた。兄は何も悪くないというのに。

「待って待ってよ!」

まきさんは泣きじゃくる。涙は止まるどころか、どんどんひどくなっていく。

「ホストも勇気君ももうやめるから!借金も頑張って返すから!別れたくない!もうしない!」

その2つを延々と繰り返すまきさん。兄は彼女を見ずに、俯いたままだった。

そんな状況に、先ほどから黙っていた父親が突然立ち上がった。

「まきさん、お父さん!話を!」

「もう帰ってくれ。2度と顔も見せないでくれ」

父に怒鳴られたまきさんは、兄の腕にしがみつく。

「待って!お願い!会長なんて…私…ごめんなさい!」

「すまない。出てってくれ」

取り乱すまきさんとは反対に、とびっきり落ち着いた様子の兄が、低く冷たい声でそれだけ言った。その姿と声にもう無理だと感じたのだろう、まきさんは一瞬で静かになった。荷物をまとめ、「お邪魔しました。ごめんなさい」と呟いて家を出ていった。

その後、兄は慰謝料を請求することにした。しかし、まきさんは調べの通り借金まみれで一銭も払うことができず、結局まきさんの両親が肩代わりして支払っているという。まきさんは現在、自分で作った借金を返すために大変な生活を送っているとのことだった。

騒動がしっかり落ち着いたのは、3ヶ月後のことだった。今も変わらず実家に住む俺と、たまに遊びに来る兄。関係性は変わらない。

両親が寝静まった後、食卓を囲んで静かに飲んでいると、一連の騒動の話となった。

「剣のおかげだよ」

「え、あのままマキの本性に気づかずに結婚していたらと考えるとする。正直なことを言うと、俺はちょっとだけ怖かった。もしあの時俺がこんなことをしていなければ、今頃兄とまきさんは幸せに過ごしたんじゃないか。父も母も可愛い嫁が来て幸せに過ごしていたんじゃないか。そんな幸せを俺が壊したんじゃないかなんて思ってしまう夜があるのだ」

「いや、そんなこと思う必要ないよ。あの時剣が気づいてくれていなかったら、家庭崩壊だったよ、きっと」

そのことを打ち明けると、兄はそんな風に俺を励まし、冗談のように笑い飛ばす。

「俺に見る目がなかっただけだよ。剣は何も悪くない。むしろあそこで動いてくれてありがとう」

兄は俺の空になったグラスを見て、焼酎を入れてくれた。氷が溶ける音が、静かなダイニングに響いた。

「俺もいい勉強になったよ」

「愛は仕事より難しいな」

「ああ、そうだな」

そんな風に、兄弟の夜は更けていった。

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