息子の「親の老後なんてどうでもいいんだよね」という声が玄関の向こうから聞こえてきた瞬間、私の心臓は凍りつくような感覚に襲われました。まさか実の息子の口から、そんな言葉が出るなんて。38年間、母親として必死に働き続け、総額2600万円以上もの援助をしてきた私に対して。雨に濡れながら立ち尽くす私の隣で、夫の高志も息を飲んでいました。
私たちは約束の日に訪れたのに、インターホンを押しても応答はなく、30分も雨の中待たされた末に、ようやく開いたドアの向こうから聞こえてきたのは、あまりにも酷すぎる本音でした。
「金さえ出してくれれば、それでいいんだから」
続けて聞こえた息子の言葉に、私の中で何かが音を立てて崩れ落ちていきます。でも不思議なことに、涙は出ませんでした。代わりに、静かな微笑みが私の顔に浮かんでいくのを感じます。
ああ、そうですか。それならば、お望み通りにして差し上げましょう。
その時、私にはまだ誰も知らない秘密がありました。30年間、夫にも明かしていなかった、3億円という隠し財産が。
私の名前は藤原照るよ。64歳です。市役所の事務職員として41年間、1日も休まず働き続けてきました。息子の強しが生まれてからは、全てが彼のためでした。夜遅くまで残業をして稼いだお金は、全て息子の教育費に注ぎ込みました。大学の学費だけで800万円、結婚式の費用として500万円、マイホームの頭金に700万円、そして毎月の生活費援助が10万円。計算すると、これまでに2600万円以上を援助してきたことになります。
「母さん、本当に助かるよ」
以前の強は、そう言って感謝の言葉をくれました。でもいつからでしょうか。感謝の言葉が消え、援助が当たり前になっていったのは。月に1度、孫に会える時間は、精々30分だけ。それも嫁の香織の機嫌次第で、突然キャンセルされることもあります。
「お母さん、その服装、ちょっと古臭くないですか?」
香織からの冷たい言葉に、私は静かに笑顔で答えます。でも心の中では、小さな違和感が少しずつ大きくなっていくのを感じていました。夫の高志も同じように感じていたようです。ある晩、2人でお茶を飲みながら、彼がぽつりとつぶやきます。
「照るよ。最近の強したち、何か様子がおかしくないか?」
私は頷くことしかできませんでした。
違和感が確信に変わったのは、ある休日の午後のことです。強の家を訪れた時、玄関先で香織が友人と電話をしているのが聞こえてきました。
「義母、正直言って完全にATMなんですよね」
香織の声が笑いを含みながら続きます。
「毎月10万円振り込んでくれるし、頼んだら何でも出してくれるから便利なんです。でも頻繁に来られると、ちょっと邪魔で」
その言葉を聞いた瞬間、私の手が震え始めます。ATM。私は息子夫婦にとって、お金を引き出す機械でしかなかったのでしょうか。インターホンを押すと、香織が慌てた様子で出てきます。電話の内容を聞かれたとは思っていない様子で、いつもの作り笑顔を浮かべていました。
「お母さん、いらっしゃい。でも今日はちょっと忙しくて、30分だけ」
駆け足の時間。その間も香織は露骨に時計を見ながら、早く帰ってほしいという態度を隠そうともしません。
家に帰ってから、私は強のSNSをこっそり確認してみます。すると、そこには信じられない投稿がありました。
「親の援助、正直きついけど使ってる。でも老後の世話とか勘弁してほしいよな」
友人のコメントにはこう書かれています。「わかる。うちもそう。金だけ出してくれればいい」
それに対して強は、笑顔の絵文字で返信していました。私の目の前で見せる優しい息子の顔は、全て演技だったのでしょうか。
翌週、私が風邪で寝込んだ時のことです。熱が39度もあり、高志が心配して強に連絡を入れます。
「強、母さんが高熱で倒れているんだ。ちょっと顔を見に来てくれないか?」
電話の向こうから聞こえてきたのは、面倒そうな息子の声でした。
「父さん、今週は仕事が忙しくて無理だよ。それに、風邪くらいで大げさにしないでよ」
風邪くらい。38年間、子供が熱を出すたびに仕事を休んで看病してきた私に対して、息子は風邪くらいと言い放ちます。高志の拳を握りしめる手に、怒りが滲んでいるのが分かりました。でも彼は私のために怒りを抑えて、静かに電話を切ります。
「照るよ、俺たちは一体、強にとって何なんだろうな」
夫の悲しそうな声に、私は答えることができませんでした。
さらなる追い打ちをかけるように、香織の両親との露骨な差別が始まります。強の家で偶然見つけたメッセージのやり取り。香織が強に送った文章が、私の心を深く傷つけました。
「私の両親は若くて現代的だから、子供の教育にもいい影響があるの。でもあなたのご両親は、正直言って時代錯誤だよね。孫にはできるだけ私の両親と過ごさせたいの。お父さんとお母さんは、もう年寄りだし」
年寄り。確かに私たちは60代ですが、まだまだ元気に暮らしています。それなのに、まるで価値のない存在のように扱われることが、どれほど辛いか。
ある日、孫の運動会がありました。事前に日程を聞いていたので、私たちは朝早くから会場に向かいます。でも最前列で見かけたのは、香織の両親だけでした。私たちが近づくと、香織が困ったような顔をします。
「お母さんたち、今日来るって聞いてなかったんですけど」
でも確かに、先月伝えたはずです。香織は私の言葉を遮るように続けます。
「席が足りないので、私の両親の隣は開けられないんです。すみませんが、後ろの方で見てもらえますか?」
運動会の後、香織の両親は強たちと一緒に食事に行きます。私たちには声もかかりませんでした。
「お母さんたちは疲れてるでしょうから、先に帰った方がいいですよ」
香織の冷たい言葉に、高志の拳が震えているのが分かります。でも彼は私のために怒りを飲み込んで、静かに頷きました。車の中で高志がハンドルを握ったまま動けなくなります。
「照るよ、俺たちは強にとって、邪魔者なのか。これまで何のために頑張ってきたんだ」
夫の涙を見たのは、結婚して以来初めてのことでした。
そして、決定的な瞬間が訪れます。それは約束していた日曜日の訪問でした。月に1度の孫との面会日。私たちは手土産を持って、強の家のドアの前に立ちます。インターホンを押しても応答がありません。でも駐車場には車があり、中に人がいることは確実です。30分待っても、誰も出てきません。雨が降り始め、私たちの服が徐々に濡れていきます。それでも待ち続けた私たちの前に、ようやくドアが開きました。出てきた香織の顔には、謝罪の色は一切ありませんでした。
「あ、今日でしたっけ? すっかり忘れてました」
玄関先で立ち話をする形になります。香織は私たちを中に入れようともせず、ドアを半分だけ開けた状態で、面倒そうな表情を浮かべていました。
「今日はちょっと都合が悪くて、また今度にしてもらえます?」
私は雨に濡れながら、必死に言葉を探します。
「でも、約束していた日ですよね。孫の顔を見るのを楽しみにしていたんです」
香織の表情が一瞬だけ、苛立ちの色を見せます。その時、室内から強の声が聞こえてきました。最初は小さな声でしたが、徐々にはっきりと聞こえてくるようになります。
「もういいだろ。追い返せよ。正直、親の老後なんてどうでもいいし」
その言葉が、雨音の中でも鮮明に私の耳に届きます。心臓が凍りつくような感覚。38年間、子供のために全てを捧げてきた私に対して、どうでもいいという言葉。香織が慌てて振り返りますが、強の言葉は続きます。
「俺たちには俺たちの人生があるんだよ。金さえ出してくれれば、それでいいんだから」
時間が止まったように感じました。雨の冷たさも、体の震えも、全てが遠くなっていきます。ただ、息子の冷酷な言葉だけが何度も何度も頭の中で繰り返されていました。香織が取りつくろうと口を開きますが、もう遅いのです。
「お母さん、今のはその……」
その時、玄関に強が現れます。私たちの濡れた姿を見て、一瞬だけ驚いた表情を浮かべました。でもすぐに、開き直ったような顔になります。
「母さん、聞こえてた」
私は何も答えません。ただ息子の顔をじっと見つめるだけです。この人は本当に、私が血を吐く思いで育てた子供なのでしょうか。強は気まずそうに視線をそらしながらも、言葉を続けます。
「悪いけど、俺たち忙しいんだ。もう来ないでくれる?」
隣で高志が低く抑えた声で訪ねます。
「強、お前、本気でそう思っているのか?」
息子は父親の問いかけに、ため息をつきながら答えました。
「父さんも母さんも、もう年なんだから、俺たちの生活に首を突っ込まないでよ。援助は続けてほしいけど、正直、顔を見せられるのは面倒なんだ」
援助は続けてほしい。その言葉が、私の心に最後のとどめを刺します。つまり、お金だけを要求しているということです。香織が横から付け加えます。
「お母さんたち、正直言って邪魔なんです。私の両親は若くて話も合うし、子供の教育にもいいんですけど、お母さんたちはもう時代遅れで邪魔」
時代遅れ。その言葉の一つ一つが、鋭い刃物のように私の心を切り裂いていきます。でも不思議なことに、涙は出ませんでした。強が最後に言い放ちます。
「だから、もう来ないで。連絡も最低限にしてくれ。でも、来月の援助は忘れずによろしく」
そう言って、ドアを閉めようとします。私は静かに口を開きました。
「わかりました」
その一言だけを残して、私は背を返します。高志が慌てて私の肩を支えてくれますが、私の足はしっかりと地面を踏み締めていました。車に戻る道すがら、高志が震える声でつぶやきます。
「照るよ、俺たちは一体、何だったんだ? これまでの38年間は、何のためだったんだ?」
私は答える代わりに、静かに微笑みます。その笑みを見て、高志が不思議そうな顔をしました。
「照るよ?」
車に乗り込んでから、私は初めて口を開きます。
「高志、家に帰ったら、あなたに話さなければならないことがあります。30年間、誰にも言わなかった秘密です。あなたにも」
高志の顔に困惑の色が浮かびます。でも私は、それ以上何も言いませんでした。雨の中を走る車の中で、私の心は不思議なほど静かでした。怒りも悲しみも通り越して、冷たく澄んだ決意だけが残っています。どうでもいい。そう言われた瞬間、私も決めたのです。息子夫婦のことは、もうどうでもいいと。
38年間、母親として全てを捧げてきた人生。それが完全に否定された。今、私には新しい人生を始める理由ができました。
家に着くと、高志が心配そうに私を見ます。
「照るよ、大丈夫か?」
私は静かに頷いて、家の奥へと向かいます。寝室の金庫の前に立ち、ダイヤルを回していきました。金庫の扉が開きます。中には、大量の株券、通帳、不動産の権利書が整然と並んでいました。高志が息を飲む音が聞こえます。
「これは一体……」
私は静かに答えます。
「私の秘密です。30年間、誰にも話さなかった」
通帳を一つ一つ取り出しながら、私は説明を始めます。独身時代から続けてきた株式投資。実家から相続した都内の不動産。41年間の勤務で貯めた退職金と貯蓄。総額で約3億円になります。高志の顔から血の気が引いていくのが分かりました。
「3億円だと? 照るよ……」
私は静かに微笑みます。
「なぜ黙っていたのか。それは、息子が本当に私を愛してくれているのか、それともお金目当てなのか、確かめたかったからです」
そして、結果は——。私の微笑みが冷たいものに変わっていきます。
「最悪でした。息子は私をただのATMだと思っていた。お金さえ出してくれれば、それでいいと」
高志が拳を握りしめます。
「強のやつ……」
「でも、もういいんです。息子夫婦が私の価値に気づく時には、もう手遅れになっているでしょうから」
私は金庫からもう一つ、書類を取り出します。それは弁護士事務所の名刺でした。
「明日から、動きます」
翌朝、私は誰よりも早く目を覚まします。不思議なことに、昨夜はぐっすりと眠ることができました。長年抱えていた秘密を夫に打ち明けたことで、心が軽くなったのかもしれません。高志もすでに起きていて、リビングのテーブルで昨夜の書類を見つめていました。
「照るよ、本当にこれを実行するのか?」
私は静かに頷きます。
「ええ。息子夫婦が望んだ通りにします。どうでもいい親なら、お望み通りに消えて差し上げましょう」
高志が深く息を吸い込みます。
「わかった。俺も覚悟を決めた。照るよ、俺はお前の味方だ。何があっても」
夫の力強い言葉に、私は初めて涙が溢れそうになります。でもすぐに気持ちを引き締めました。今は、涙を流している場合ではありません。
午前10時、私は予約していた弁護士事務所を訪れます。応対してくれたのは、50代の落ち着いた女性弁護士でした。
「藤原様、お電話でお聞きした件ですが、詳しくお話をお聞かせください」
私はこれまでの経緯を、感情を交えずに淡々と説明していきます。38年間の献身、総額2600万円の援助、そして昨日の決定的な言葉。弁護士は深刻な表情で頷きながら、メモを取り続けます。
「なるほど。それで、今後どのような対応をご希望ですか?」
「全ての援助を即座に停止したいのです。そして、連絡先も全て変更します」
「承知しました。まず、息子さん夫婦が使用している口座ですが、藤原様の名義ということですね」
「はい。私の名義で、息子たちに自由に使わせていました」
弁護士が書類を取り出します。
「でしたら、すぐに口座の凍結の手続きを取りましょう」
私は頷いて、必要な書類にサインをしていきます。一つ一つの署名が、これまでの人生との決別を意味していました。
「それから、携帯電話の番号も変更されたいとのことですが」
「ええ。息子夫婦からの連絡を、物理的に遮断したいのです」
「わかりました。こちらで新しい番号の手配もお手伝いします」
弁護士事務所を出た後、私は銀行に直行します。長年付き合いのある担当者が、驚いた様子で私を迎えてくれました。
「藤原様、口座の凍結とは、何かトラブルでも?」
「不正利用を防ぐためです。すぐに手続きをお願いします」
担当者は私の真剣な表情を見て、それ以上は聞かずに手続きを進めてくれます。息子夫婦が使っていた口座に入っていた残高、523万円。それも新しい口座に移動させます。
「毎月の自動振り込みも、全て停止でよろしいですね」
「はい。今後一切の取引を停止してください」
手続きを終えると、担当者が小さな声で言いました。
「藤原様、長年のお付き合いですから、あえて申し上げます。ご決断は、相当なお覚悟だと思います」
私は静かに微笑みます。
「ええ。でも、もう決めたことですから」
次に向かったのは、携帯電話のショップです。番号を変更し、新しい機種に変えます。古い携帯電話には、息子たちからの様々なメッセージが残っていました。
「母さん、来月の援助よろしく」
「ローンがあるから、早めに振り込んで」
全てがお金の要求ばかり。感謝の言葉も、体を気遣う言葉も、一つもありません。
「このデータは、全て消去してください」
「かしこまりました。復元もできなくなりますが、よろしいですか?」
「はい。全て消してください」
古い携帯電話のデータが消去されていく様子を見ながら、私は不思議な解放感を覚えます。これで息子夫婦からの連絡は、一切届かなくなります。
家に戻ると、高志が不動産の情報を調べていました。
「照るよ、熱海にいい物件がある。海が見える高級マンションだ」
私は高志の横に座り、画面を覗き込みます。そこには美しい海の景色が広がる、素敵なマンションの写真がありました。
「熱海……ああ、俺たちの新婚旅行の場所だ。あの時、お前が言っただろう。いつかここに住めたらいいねって」
私は夫の優しさに、胸が熱くなります。
「覚えていてくれたんですね」
「もちろんだ。これからは、俺たち2人のために生きよう」
その夜、私たちは具体的な計画を立てていきます。まず、この家も売却すること。そして熱海のマンションを購入して、完全に新しい生活を始めること。
「息子には、何も言わないのか?」
高志の問いかけに、私は首を横に振ります。
「何も言いません。ただ、消えるだけです」
「孫にも、会えなくなるぞ」
その言葉に、一瞬だけ心が揺れます。でもすぐに、決意を固めました。どうでもいい。そう言ったのは、息子たちの方です。ならば、お望み通りにするだけです。
翌日の早朝、私たちは引っ越しの準備を始めます。不動産業者に連絡を入れ、この家の売却査定を依頼しました。
「藤原様のお宅でしたら、すぐに買い手がつくと思います。3500万円程度で売却できるでしょう」
さらに熱海のマンションの購入手続きも進めます。海が見える最上階の部屋。温泉付きで、2人で暮らすには十分すぎる広さです。全ての手続きが驚くほどスムーズに進んでいきます。まるで、この決断が正しいことを、何かが後押ししてくれているかのようでした。
「照るよ、本当にいいんだな」
何度も確認する高志に、私は確信を持って答えます。
「ええ。息子夫婦が私たちの価値に気づく時には、もう手遅れです。その時、彼らがどれだけ後悔しても、私たちはもう戻りません」
全ての準備が整った翌朝、私たちは静かに家を出ます。引っ越し業者が荷物を運び出す様子を見守りながら、私は深く息を吸い込みました。これで本当に、新しい人生が始まります。
その頃、強は何も知らずに、いつもの朝を迎えていました。朝、強はいつものようにATMに向かいます。今月の生活費を引き出すためです。カードを挿入し、暗証番号を入力して、10万円のボタンを押します。しかし、画面に表示されたのは予想外のメッセージでした。
「残高不足です」
強の顔が一瞬にして青ざめていきます。そんなはずはない。この口座にはいつも、母親から十分な金額が入っているはずです。慌てて残高照会をすると、画面には0円の文字が表示されます。
「どういうことだ?」
強は震える手でもう一度カードを挿入しますが、結果は同じです。すぐに銀行の窓口に駆け込みます。
「すみません。この口座なんですけど、残高が全部なくなっていて」
窓口の担当者がパソコンで確認すると、困惑した表情を浮かべました。
「お客様、この口座は現在、凍結されております」
「凍結? なぜですか?」
「口座の名義人である、藤原照るよ様からのご依頼です」
その瞬間、強の頭が真っ白になります。母さんが口座を凍結した。それは一体、どういう意味なのでしょうか。慌てて携帯電話を取り出し、母親に電話をかけます。しかし、聞こえてきたのは無機質なアナウンスでした。
「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」
何度かけ直しても、同じアナウンスが繰り返されるだけです。父親の番号にかけても、同じ結果でした。家に戻った強は、香織に事の次第を説明します。
「どういうこと? 生活費がないって、今月の支払いはどうするの?」
香織の声が、パニックを隠せないほど高くなっていきます。
「分からない。母さんの電話も繋がらないし」
「じゃあ、直接会いに行きましょう。お母さんの家に」
2人は車で、私たちの家に向かいます。しかし、そこで見たのは驚愕の光景でした。玄関には「売却済み」の看板が建てられていて、家の中は完全に空っぽになっています。
「嘘だろ?」
強が呆然と立ち尽くす中、隣の家から住人が出てきます。
「あら、強さん。ご両親を探してるの?」
「隣のおばさん、母さんたちはどこに?」
「昨日、引っ越されましたよ。大きなトラックが来て、荷物を全部運び出していったわ」
「引っ越し? どこに行ったか、聞いてませんか?」
隣人は首を横に振ります。
「何も聞いてないわ。ただ、とても晴れやかな顔をしていらしたのが、印象的だったわ」
強と香織は、完全に言葉を失います。消えた。両親が、何の連絡もなく、完全に消えてしまったのです。家に戻った2人は、現実と向き合わざるを得なくなります。
「今月の住宅ローンは? 子供の習い事の月謝は?」
香織の問いかけに、強は答えることができません。毎月10万円の援助がなければ、生活が成り立たないように設計してしまっていたのです。
翌日、郵便受けには様々な請求書が届いていました。住宅ローンの支払い通知、クレジットカードの請求、子供の習い事の月謝。全てを合わせると、今月だけで35万円以上の支払いが必要です。
「どうするの、強。私たちの貯金なんて、ほとんどないのよ」
香織の言葉通り、2人の貯金はわずか50万円程度しかありません。母親の援助に頼りきっていた、その結果でした。
強は必死に母親の行方を探し始めます。市役所に問い合わせても、個人情報だからと教えてもらえません。母親の元職場にも電話をかけてみます。
「藤原さんでしたら、先日退職されましたよ」
「退職? まだ定年まで時間があったはずですが」
「ええ、でも早期退職を選択されたんです。退職金もかなりの額だったはずですよ。2000万円以上は」
2000万円。その金額を聞いて、強の膝が震えます。母親には、そんな資産があったのでしょうか。さらに調べを進めると、驚愕の事実が次々と明らかになっていきます。不動産会社に問い合わせると、母親が都内の一等地に不動産を所有していたことがわかりました。その評価額は、約1億円。証券会社からも情報を得ると、母親が長年株式投資を続けていて、かなりの資産を築いていたことが判明します。全てを合わせると、母親の総資産は、約3億円にも及ぶことがわかりました。
「3億円だって?」
強は自分の部屋で頭を抱えます。母親がそんな大金持ちだったなんて。それを全く知らずに、ATM扱いしていた自分。香織も真っ青な顔で座り込んでいます。
「ねえ、もしかして、お母さんってすごいお金持ちだったの?」
「俺たちが知らなかっただけで……」
「じゃあ、あの援助なんて、お母さんにとっては大した金額じゃなかったってこと?」
強は、先日の自分の言葉を思い出します。「親の老後なんて、正直どうでもいいんだよね」。その言葉を母親に聞かれた瞬間の母親の表情。あれは絶望だったのでしょうか。それとも、決意だったのでしょうか。
さらなる追い打ちをかけるように、香織の両親に助けを求めても、断られてしまいます。
「うちにも、そんな余裕はないのよ。自分たちで何とかしなさい」
若くて現代的だと持ち上げていた香織の両親は、経済的な援助を一切してくれませんでした。子供の習い事は、全て中止せざるを得なくなります。
「どうして、お稽古やめなきゃいけないの?」
泣く子供に、強は何も言えません。香織がヒステリックに叫びます。
「あなたのせいよ。あんなこと言わなければ、お母さんは援助を続けてくれたのに」
「分かってる。俺が悪かったんだ」
強は何度も母親に連絡を試みます。でも電話は繋がらず、住所も分からず、完全に連絡が取れない状態が続きます。
そして、ある日のこと。強の元に、弁護士からの手紙が届きます。
「藤原照るよ様より、今後一切の連絡をお断りする旨、ご通知申し上げます。なお、過去の援助金の返還請求については、現時点では行使いたしませんが、今後の状況によっては法的措置を検討する可能性があることを申し添えます」
弁護士からの冷たい文面に、強は完全に打ちのめされます。
「母さん、本気なんだ」
夜、一人でリビングに座る強は、これまでの自分の行動を振り返ります。母親の献身。総額2600万円以上の援助。そして自分のATM発言。
「俺は、なんてことをしたんだ?」
涙が溢れてきますが、もう遅いのです。母親は、もう二度と戻ってきません。香織も、自分の言動を後悔し始めていました。
「お母さんに、邪魔だなんて言わなければ……」
でも時間は戻りません。2人の生活は、日に日に厳しくなっていきます。
一方、その頃の私たちは、熱海の高級マンションで新しい生活を始めていました。朝目を覚ますと、窓の外には美しい海が広がっています。波の音が心地よく聞こえてきて、これまでとは全く違う朝の景色に、私は深く息を吸い込みます。
「照るよ、朝食ができたぞ」
高志がテラスにテーブルをセッティングしてくれていました。温かいコーヒーの香りと、焼きたてのパンの匂い。こんなに穏やかな朝を過ごせる日が来るなんて、数週間前には想像もできませんでした。
「今日は、どこに行きましょうか?」
「そうだな。午前中は温泉に入って、午後は海岸を散歩するのはどうだ?」
私たちにはもう、誰かのために時間を使う必要がありません。自分たちのためだけに、自由に時間を使えるのです。マンションの温泉で、同世代の女性と知り合いになりました。
「藤原さん、いつもお幸せそうですね」
「ええ。ようやく、自分の人生を生きられるようになりましたから」
新しい友人たちとの交流も、私にとって大きな喜びになっています。誰も私をATM扱いせず、一人の人間として接してくれる。それがどれほど心地よいことか。
ある日、海岸を散歩していると、高志が突然立ち止まります。
「照るよ、後悔はしていないか」
私は夫の顔を見つめて、静かに微笑みました。
「いいえ。これが正しい選択だったと、心から思っています」
孫のことは、一瞬だけ胸が痛みます。でもすぐに、気持ちを切り替えました。どうでもいい。そう言ったのは、息子たちの方です。ならば、私たちもその通りにしただけです。高志が私の手を握ります。
「俺たちには、俺たちの人生がある」
夕方、マンションに戻ると、管理人から手紙が届いていました。差出人の名前を見て、私は静かにその封筒を開けます。強からの手紙でした。
「母さん、本当にごめんなさい。僕は最低な息子でした。どうか、もう一度だけ会ってください」
手紙は後悔と謝罪の言葉で埋め尽くされています。でも、私はそれを最後まで読むことなく、静かに封筒を伏せました。
「返事は書かないのか?」
高志の問いかけに、私は首を横に振ります。
「もう、遅いのです。息子は、私たちの価値を失ってから気づいた。でも、時間は戻りません」
その夜、私たちは2人でワインを飲みながら、これからの計画を話し合います。
「来月は、京都に旅行に行かない?」
「いいね。その次は、北海道なんてどうだ」
38年間、子供のために我慢してきた全てのこと。それを、今、取り戻している実感があります。
翌朝、私は日記を開いて、今の気持ちを綴ります。「理不尽に耐えると決めた日から、私の本当の人生が始まりました。息子夫婦に軽視されていた頃の自分は、もういません。今の私は、自由で、幸せで、そして強い」
窓の外の海を見つめながら、私は静かに考えます。親の愛情を当たり前だと思ってはいけません。どれだけ血が繋がっていても、相手を大切にしなければ、いつか取り返しのつかないことになります。そして、理不尽に我慢し続ける必要はないのです。自分の尊厳を守ることは、決して悪いことではありません。私は64歳で、新しい人生を始めました。いくつになっても、人生はやり直せるのです。
高志がテラスから私を呼びます。
「照るよ、夕日が綺麗だぞ」
私は日記を閉じて、夫の隣に座ります。海に沈んでいく夕日は、言葉にできないほど美しく、2人でその光景を静かに見つめていました。
「照るよ、幸せか?」
「ええ、本当に」
これが私たちが選んだ人生です。息子夫婦が何を言おうと、どれだけ後悔しようと、私たちはもう戻りません。人を大切にしない者は、大切なものを失う。それが因果応報というものです。そして今、私たちは完全な自由と、心からの幸せを手に入れています。海からの風が、優しく頬を撫でていきます。これから先の人生が、どれほど素晴らしいものになるか。そう考えるだけで、胸が高鳴ります。
「高志、これからもよろしくね」
「ああ、照るよ。これが俺たちの、第二の人生だ」
夕日が完全に沈み、空が暗くなり始めます。でも、私たちの心は、明るい希望で満ちていました。どうでもいいと切り捨てられた私たちは、今、誰よりも自由で幸せな日々を送っています。これが、私たち夫婦の選んだ道です。そして私は、一切の後悔をしていません。



