来ると思っていた。今日がその朝だ。
令和7年4月10日午前9時。日昇ビル42階の朝礼室。柳田浩一社長、43歳が、すっぴんの少女を見下ろしていた。清水リオ。18歳。くたびれたカーディガンに、かかとの減った靴。床には、奪い取られた作業日報が叩きつけられていた。
誰もが彼女がその場で泣き崩れるのを待っていた。しかし、リオは怒鳴ることも、泣き叫ぶこともなかった。ただ、静かに一枚の紙を拾っただけだった。
「拾え。それがお前の仕事レベルだ」
柳田は鼻で笑った。周囲の社員もクスクスと笑い声をもらす。しかし、リオの背筋は少しも揺れなかった。
柳田は気づいていない。この少女が鞄の底に何を握っているかを。そして、全拠点のラインが一斉に止まる日が近づいていることを。
これは、外見と学歴で人を測った男が、静かな一枚の紙の先で、すべてを失う物語である。
時は、あの朝礼より前に遡る。
リオは朝礼のずっと前から、「BSOコア」の保守と改良を続けていた。父のメモに残された構想を形にした、同期制御の核。地方の町工場で生まれ育ったリオの父、清水誠は、日昇グループの工場で製造ラインの制御盤を握るエンジニアだった。
リオが15歳の冬。毒ガス漏れ事故で、父は避難誘導の末に取り残され、41歳で亡くなった。母の恵はその衝撃で倒れ、その後も入院と通院を繰り返した。破れた設計メモには、全工場を一本の指令で同期させる構想が走り書きされていた。
医療費は月12万円を超え、中学卒業後すぐに監視オペレーターとなった。リオは父の会社と母の薬代を守るため、弁当はいつもおにぎり一個。食堂の賑わいを遠くに聞きながら、機械室でメモを開いた。
「お父さんの字は、まだ温かい。もうすぐ完成するよ」
毎晩病院と自宅でメモを読み解き、独学で制御工学と暗号理論を身につけた。IQ175は14歳の検査で判明したが、両親は誰にも話さなかった。16歳で試作機を自作し、17歳で同期制御コア「BSOコア」を個人名義で特許取得した。
雪が降った夜、リオは監視フロアでサーバーの明かりに向かい、涙を拭って改良をメモに書き出した。
「お父さん、できたよ」
老練エンジニアの野村直樹、56歳が、そのシステムを偶然見つけた。夜中の本社端末で、リオにデモを見せてもらった。画面には、グループ全拠点の稼働ログが一枚に束ねられていた。
「これが、お父さんが夢見ていた中枢制御の核です」
野村はしばらく言葉を失った。
「リオちゃん、これは……すごいものだ。お父さんの構想を、本当に完成させたんだね」
野村は一年かけて社内を説得し、日昇グループと独占ライセンス契約を結んだ。年額8億円の契約で、全工場がBSOコアへ移行。停止事故は年間73%減り、年商30兆円規模の供給網の中枢となった。
しかし、リオは「中卒の飾り」と見なされ、真実を知るのは野村だけだった。契約書の第七条には、不当解雇ならば翌日午前0時にライセンスが失効し、権利も消滅するとあった。しかし、社内は誰もその重さを受け止めなかった。
物語は、あの朝礼の数日後に続く。
柳田は「品格改革」を宣言した。
「まず見た目。清潔感。話し方。これを徹底する。ここは日本の製造の顔だ。恥は許さん」
その日、柳田は中枢フロアの巡回を始めた。そして、リオの服装を見て立ち止まった。
「清水、その格好は何だ? 安っぽくないか」
「静電気対策の指定品です。社内規定の範囲内です」
「そういう問題じゃない。女が見た目も整えられないとは、非常識にもほどがある」
「粉塵と静電気の環境では、化粧は安全基準違反になります」
リオの言葉は、中枢フロアの作業員にもはっきりと届いた。柳田の顔がみるみるうちに赤くなった。
「言い訳をするな。脳なしが口答えするな」
周囲の社員が笑い声を漏らした。企画の西川凛、26歳も声を添えた。
「本当ですよ。中枢にあの格好は、取引先の目もありますし。正直、あんな見た目の人が同じフロアにいるの、恥ずかしかったんですよね。ちょうど良かったと思います、柳田社長」
柳田が満足そうに頷いた。
「そういうことだ。これが現代の常識というものだ」
リオは、ただ静かにその声を聞いていた。
「柳田社長、清水はこの会社にとって重要な…」
「野村さん、あなたには聞いていない。古い体質の社員が若い経営を阻害するんだ。口を挟まないでください」
野村は眉を寄せ、言葉を飲み込んだ。
翌日、柳田はリオのデスクに「コンプライアンス指導表」を貼り出した。実務と無関係な難癖をつけるだけの書類だった。
「受け取ります」
リオは黙ってその紙を受け取った。その翌日も、柳田は新しい指導表を張り出した。敬語の角度、報告書の余白、靴音の大きさ。どれも実務と無関係な指摘だった。しかし、リオは一枚ずつ黙って受け取り続けた。
「リオちゃん、抗議しなくていいのか?」
「野村さん、証拠は全て手元にあります」
リオは微笑み、ログとメモに日時を積み上げていた。
柳田の指示はそれだけではなかった。柳田はある日、管理職に耳打ちした。
「清水には話しかけるな。あいつは孤立させろ」
翌日から、リオへの挨拶が消えた。作業の申し送りすら、メモだけで渡されるようになった。昼休み、若い女性社員がリオの隣に座ろうとした。
「あっちのテーブルにしなよ」
その女性社員は困った顔で立ち去った。
「大丈夫。ログは嘘をつかない」
リオは全てに気づきながら、ただメモに書き続けた。
翌週、柳田はリオを監査室に呼び出した。
「お前が触ったログを全部印刷しろ。改ざんの疑いがある」
「監査規定なら、申請番号と担当者の署名が必要です」
「社長命令だ。文句を言うな」
リオは社内手続きの画面を開き、申請欄が空であることを示した。
「開かないなら今日は帰れ。給与は止める」
「後任だけで賃金を止めるのは、労働問題になりかねません。就業規則に乗ってください」
柳田は扉を強く閉め、廊下へ出ていった。リオはメモに日時と発言を追記した。
その夜も、リオは誰もいなくなったサーバー室に残った。メンテナンスをしながら、一人で通路を歩いた。誰にも話しかけてもらえなくても、リオは歩き続けた。ログとモニターだけは、リオの入力を欠かさず記録していた。
その夜、リオは病院へ行った。母・恵のベッドの脇に座り、リオはぽつりと話した。
「お母さん、最近少し辛い」
「リオ、逃げていいんだよ。無理しなくていい」
「逃げない。だって、お父さんのコアが、あの会社の大規模ラインを動かしてるから」
恵の目に涙が滲んだ。
「お父さんも、きっと認めてくれるよ」
リオはただ頷いた。病院の廊下に出ると、空調が肌寒かった。帰り道、リオはいつも本社の明かりを見上げた。
「父さんの設計が、まだ工場のラインで動いてる。もう少しだけ頑張る」
それでも、リオの目だけは強く見開かれていた。
週が明けた月曜日、柳田は社内会議で「低生産性人員のリストラ実施」を宣言した。リストの筆頭に、リオの名前があった。
「清水リオ。中卒。監視オペレーター」
「柳田社長、お待ちください。清水リオの解雇は、絶対にしてはいけません。理由は申し上げられませんが、彼女の解雇はこの会社に取り返しのつかない結果をもたらします」
「理由も言えない戯言は聞かん。来週の朝礼で、清水リオの解雇を発表する」
会議室のドアが閉まった。
実は、半年前。両運エレクトロニクスが、特許公開情報からリオを発見していた。両運は半導体から家電まで扱う大手電気メーカーだった。特許公開情報は国のサイトに並び、誰でも内容を読める。清水リオ、17歳、個人名義。という記録が、業界内で静かに注目を集めていたのだ。
リオは、すでに転職の準備を静かに進めていた。野村は廊下に出て、すぐにリオへ電話をかけた。
「リオちゃん、柳田社長が明日の朝礼で解雇を発表するつもりだ」
電話口のリオは、落ち着いた声で言った。
「野村さん、止めていただかなくていいです」
「リオちゃん、本当にいいのかい?」
「両運エレクトロニクスさんから連絡が来ています。明日、内定を受けます。もし解雇されたら、ライセンス契約書の第七条を柳田社長にお見せください」
野村の手が震えた。
「わかった」
翌朝の朝礼。柳田が全員の前でリオを呼び出した。
「清水。お前みたいな中卒が中枢にいるなんて笑える。品格改革の飾りは今日で終わりだ。付けで首だ。荷物をまとめて出ていけ」
社員たちは、身動きせず声を出さなかった。西川も、それまで笑っていた口を今は固く閉ざしていた。リオはゆっくりと頭を下げた。
「ありがとうございました」
そして、フロアを後にした。その背中を、野村だけが目で追った。リオは退出する際、野村の耳元に短く一言を残した。
翌日の午前8時。全拠点のラインは停止していた。工場の騒音は止み、本社の監視画面には警告表示だけが点滅した。
「ライセンス認証エラー。BSOコア使用権消滅」
工場側は一瞬で理解した。契約違反で認証が外れ、再起動しても動かないのだと。制御盤の全画面に、その警告が点滅し続けた。
「嘘でしょ? 全部止まったの?」
清掃部のあちこちで悲鳴に近い声が上がった。
「どうなってるんだ? 再起動できない。マニュアルがない」
「え、本当に止まった?」
西川の手が震え、それまで笑っていた口が、今は言葉を出せなかった。現場はパニックに陥り、再起動は全て失敗した。パスワードも、マニュアルも存在しなかった。
怒鳴り込んできた柳田に、野村が無表情で一枚の書類を差し出した。ライセンス契約書。第七条に赤線が引かれていた。
「昨日、柳田社長が解雇した清水リオが、このシステムの特許保有者です。そして、契約書の第七条は本日午前0時に発動しています」
柳田の顔面が蒼白になった。
「そんなバカな。あの、地味な…中卒が…」
「BSOコアは、日昇グループ全工場の同期制御を束ねています。現在、全ラインが停止しています。再起動は、システム開発者である清水本人にしかできません」
柳田が壁に手をつき、崩れ落ちそうになった。点滅する警告から目を離せなかった。地味な上着の少女が毎朝ログを洗っていた事実と、BSOコアを握る現実をようやく重ねた。
「いや、誤解だ。俺は知らなかった。人事が説明しなかった。責任は野村だ。お前が黙ってたんだ」
「社長就任時に、契約書は全てお渡ししています。第七条には、社長のサインもあります」
柳田の言い訳が途中で途切れた。説明担当が運んだ資料には、就任時の受領書と社長サインの写しが添えられていた。柳田はその印を一瞬だけ見て、すぐに床を見つめた。
「こんな損失、銀行でも補填できない。全部…この会社のせいか」
「お前が最終責任者だ。逃げ道はない」
柳田は唾を飲み込んだ。
「私は、社長の空気に合わせただけで…」
「空気に合わせて人を貶すのか。お前の処分も後で詰める」
西川の肩が跳ね上がり、すぐに下がった。
「野村が黙ってたのが悪い。重要なら、その前に止めろ」
「第七条は、就任後にも3回説明し、記録に残しています」
野村は日付の入った議事録も柳田の前に置いた。柳田はその紙の角に指を伸ばしかけて、すぐに拳を握り直した。
IT部門の緊急チームが招集された。世界的なITベンダーが緊急対応に呼ばれた。しかし、全員が同じ答えを返した。
「解析不能です。独自の暗号化により、外部からのアクセスは不可能です。このシステムは、作った本人にしか解除できません」
同日、自動車を組み立てる完成車メーカーから問い合わせが入った。
「完成車向けの部品まで止まるのか。明日納期の部品が数千台分あるんだが」
営業側に答えられる言葉はなかった。納期違反の損害賠償は推定3000億円規模と試算され、契約書の違約金条項が現実味を帯びた。取引先からの架電が、製造部と営業部に同時に鳴り響いた。海外拠点からも、同時多発的な停止報告が立て続けに入った。
日昇グループ会長室に報告が届いた。
「柳田を呼べ。数字を出せ。今すぐだ」
取締役が緊急招集された。会議室に怒号が飛び交った。
「誰が清水リオを解雇した?」
柳田が震えながら進み出た。
「私が…。しかし、あの格好と学歴では…」
「黙れ。今すぐ清水リオを探せ。謝罪して戻ってもらえ。会社に損失の原因を作った責任と、その解決を果たせ。逃げ道はない」
柳田の額に脂汗が浮かび、椅子の肘掛けを白くなるまで握った。役員の目が、次に人事部長の坂本友之、52歳へ向いた。
「坂本、お前はなぜ止めなかった?」
「申し訳ありません。人事として止めるべきでしたが、柳田社長の決定に…」
「お前はこの会社に何のためにいる?」
坂本の顔が蒼白に変わった。
「坂本が止めなかった。人事の不始末だ」
坂本は一瞬だけ柳田を見て、すぐに視線を落とした。
「社長から…『判断は社長に任せろ』との内部連絡が残っています」
坂本は震える指で、その記録のコピーを卓上へ滑らせた。
「二人とも黙れ。傷を広げるな」
部屋の全員が押し黙った。しかし、野村からの報告がその言葉を遮った。
「リオちゃんは、昨日の午後、両運エレクトロニクスと専属技術顧問契約を締結しています。今朝から、出社済みです。彼女の技術は両運属となり、日昇に戻る道は、紙の上から消えていました」
会議室では、誰も咳払い一つしなかった。柳田の手首が小刻みに震え、ネクタイの結び目を何度もいじった。
「金は払う。いくらでも払う。条件を出させてくれ」
「金ではない。信用の潰し方の問題だ」
柳田は椅子の背もたれに力なく背を預けた。
「両運につなげ。今すぐだ。頼む」
窓の外では、工場の煙突から煙が出ていなかった。ラインは完全に沈黙し、日昇の供給網は崩れ始めていた。
その日の午後、柳田と会長代理は両運に乗り込んだ。応接室に通され、二人はリオを待った。柳田は足を組んでは戻し、会長代理は膝に手を置いて俯いていた。
ドアが開き、リオが現れた。白いブラウスに着替え、両運のIDカードを首にかけていた。それでも、化粧はしていなかった。変わらない、すっぴんの顔。しかし、その目つきは日昇にいた頃とは、まるで別人だった。柳田はその目を直視できなかった。
「清水さん、昨日の解雇は不当なものでした。私の独断であり、会社として正式に謝罪します。どうか、日昇にお戻りいただけないでしょうか?」
リオは静かに答えた。
「柳田社長、私は『不要だ』と言われました」
「誤解だ。お前が…あなたがいなければ、俺は…」
柳田の声は途中で途切れ、言葉が続かなかった。顔を歪ませ、声を上ずらせた。
「弁護士を呼べ。独占契約は争えるはずだ。圧力で両運を屈させろ」
「第三者仲裁の手続きは済んでおり、長引くほど不利です」
柳田は声を張り上げたが、すぐにかれた声になった。
「土下座すればいいんだろう。する。見てろ」
柳田は膝を折ったが、体勢が崩れ、頭は床から離れたままだった。リオは表情を変えず、ただまっすぐに見据えた。
「土下座ではなく、事実から目をそらさないでください」
「待ってくれ。会社が潰れる。取引先が全部離れる。頼む。条件は飲む。年俸も役職も、何でも出す」
柳田は再び椅子に座り、身を乗り出して頭を下げたまま動けなかった。
「社長。父のノートに、この言葉が書いてありました。『技術は信頼の上に成り立つ。信頼を失った会社では、技術は続けられない』」
会長代理が深く息をついた。
「両運との独占契約はすでに成立しています。ライセンス回復は、契約上不可能です。違約金だけで3000億円規模です。日昇は終わります。どうか…」
リオは静かに首を振った。
「体裁を整えることは、人の尊厳を踏みにじる言い訳にはなりません。私は父の構想を、現場の形に戻したかっただけです」
リオは鞄から父の旧社員証を取り出し、一度だけ机に置いた。そして、静かにしまい直した。柳田は崩れ落ち、椅子にもたれかかったまま動けなかった。会長代理も、柳田を同じ人間だとは思えなかった。
両運での面談から一夜明け、役員室で最終会合が開かれた。野村は、この間のリオへの一連の嫌がらせを、会長代理に詳細に報告していた。西川の嘲笑も、坂本の不作為も、柳田の組織的な指示も、全て記録に残っていた。
「西川、お前は清水さんを嘲笑したな」
「そ、それは知らなかったんです。彼女がそんなに重要な人だとは」
「知らなかった? 人を笑い物にするのに、知識がいるのか」
西川はその場に震えながら、うつむいた。
「孤立指示は柳田社長が出したんです。私は空気に乗せられただけで…」
「お前が笑って場を作っただろう。煽ったのはお前だ」
二人の声は重なり、責任の押し付け合いになった。
「見苦しい。争うな。全部ログに残っている。坂本、お前は人事部長として、清水さんを守る立場にあった」
「申し訳ありません。柳田社長の決定を止めるべきでしたが…」
「付けで、お前は地方の子会社に移籍させろ」
坂本が唇を噛みしめ、ただ頭を下げた。会議室に、誰も声をあげる者はいなかった。
「柳田、お前は日の全ラインを止めた。そのことを、一生忘れるな」
柳田は何も言えなかった。口を開こうとして、また閉じた。
「俺は、品格を整えたかっただけだ。世間の常識に合わせただけだ」
「常識に逃げるな。人を切ったのは、お前の傲慢だ」
柳田の肩だけが落ち、口元の強張りがようやく溶けた。
最終会合の結論として、柳田は即日解任された。処分は解任に留まらず、解雇と同時に通達された。監査役会は、損害賠償請求と刑事告発の検討に入った。
「西川も論外だ。付けで出せ」
西川は席を立ち損ない、その場に膝をついた。同日午後、日昇は完成車メーカーに納品不能の可能性を通達した。完成車メーカーは即日、契約解除と違約金請求の準備を開始した。メインバンクからは融資停止の通知が届いた。
「後悔はするな。事実だけ並べろ」
他の主要取引先も、相次いで取引停止通知を出してきた。株価は翌日から暴落を始めた。会長はすでに辞任済みだったが、株の売り注文は止まらなかった。
業界紙が翌日、一面で報道した。
「中卒女性の特許、不当解雇で失う。年商30兆円規模グループが破綻危機」
柳田の暴言の抜粋と実名顔写真は、SNSで止まらず拡散された。名前まで晒された。
「こんな…」
柳田がスマートフォンを握る手は震えていた。「差別発言をした元社長」などの見出しが並び、炎上は収まらなかった。「学歴差別で天才を切った社長の末路」という記事まで再生回数を伸ばした。
「消せ。どうして消せないんだ?」
柳田は外出できなくなった。コンビニに行く時でさえ、帽子とマスクで顔を隠すようになった。転職活動を始めた柳田は、50社に応募したが、全て不採用だった。
「申し訳ありませんが、あなたのお名前で検索すると…」
そこで電話は止まった。言葉にならなかった。業界のブラックリストに、柳田の名前が載った。
月35万円のマンションを退去した。引っ越し先は築20年のアパートで、家賃は6万2000円だった。かつて着ていたブランドスーツは全て売り払った。
その夜、柳田は妻・美香にこの経緯を話した。美香は全てを黙って聞いた。そして、静かに言った。
「あなたは、何をしたの?」
それから3日間、美香は一言も口を聞かなかった。やがて、美香は静かに言った。
「私はあなたの能力を信じていた。でも、あなたの人間性を見損なった」
柳田は何も言い返せなかった。美香は顔を背けたまま、振り返らなかった。その後、美香は実家へ戻り、柳田の食卓には、カップ麺だけが二段に積まれた。
柳田は深夜の倉庫と清掃の求人を探し、待合室では若い応募者の視線から逃げるように番号を握った。
数ヶ月後、日昇は民事再生法を申請し、裁判所の監督下で返済計画の組み換えが始まった。年商30兆円規模の供給網は、一人の少女の解雇で立て直せず、取引先の注文は尽きなかった。
一方、両運エレクトロニクスでは、空気が全く違っていた。リオはBSOコア第2世代の開発で、夜遅くまで会議と実装を繰り返していた。野村直樹も両運に転職し、リオの開発チームに加わった。
「野村さん、ありがとうございました」
「お父さんが、きっと誇りに思っているよ」
リオは泣かなかった。ただ、サーバー室の窓から空を少しだけ見上げた。父が口にしていた言葉を、リオは声に出さず復唱した。
「制御は、現場の体温で動く」
「お父さん、次はここからだよ」
それから1年後。清水リオ、19歳。両運エレクトロニクスで最高技術責任者、いわゆるCTOに就任した。BSOコア第2世代には、大手メーカーから問い合わせが相次いだ。両運の業績は急成長し、止まった供給網の穴を埋める形で、顧客を支えた。
母・恵の手術は成功した。退院した日、二人で小さな食卓を囲んだ。
「リオ、ありがとう」
「お父さんのおかげだよ」
恵がリオの手を握り、その手のひらは温かかった。
両運では、若手技術者向けの説明会が月に2回開かれた。リオは資料の冒頭で、いつも同じ一言から始めた。
「ログは嘘をつきません。人が嘘をつく時、ログに穴が開きます」
若手たちはメモを取り、質問の列ができた。リオは一つずつ、手順と根拠だけを答えた。野村直樹は両運の技術顧問に就任した。
「これが最後のお仕事だ」
と言いながら、今も毎朝誰より早く出社している。日昇の旧拠点には、両運の新データセンター建設が予定されている。設計打ち合わせの席で、リオは短く付け加えた。
「あの通路は、現場の動線として残してください」
かつて、リオが毎朝歩いたあの通路のある場所だった。
リストラに加担した坂本友之は、今、北陸の子会社で総務課長を務めていた。かつての肩書き「人事部長」は、もうどこにもなかった。ある朝、坂本は窓から新入社員の姿を眺めた。
「この人は、正しく守られているだろうか」
坂本は初めて、その問いを自分に向けた。席を立ち、坂本はその新入社員に声をかけた。
「困ったことがあれば、いつでも来てください」
「え? ありがとうございます」
たった一言。しかし、坂本にとってそれが最初の一歩だった。リオを守れなかった自責を抱えながらも、坂本は仕事から逃げなかった。
一方、柳田浩一は、今も職が見つかっていない。飲食店のアルバイトで生計を立てている。ある夜、柳田が店の外に出ると、路地で西川凛と出くわした。西川も、別の店でアルバイトをしていた。
「柳田さん…」
「西川…」
二人はしばらく言葉を失った。かつての上司と部下は、どちらも非正規の仕事で食いつないでいた。
「あの時、一緒になって笑った自分が、本当に情けないです」
「俺の方が、ずっとひどかった」
「清水さんに謝りたいです。でも、もう遅いですよね」
「遅い。だが、それでも謝らなければならない」
二人は夜道に立ち尽くした。その後、柳田は毎晩、ノートに言葉を書き足すようになった。ノートの表紙には、「見えていなかったもの」というタイトルがあった。柳田は震える指でペンを握り直した。
「一行でも、本当のことを書きたい。人の価値を外見と学歴で決めた。私は間違っていた」
2ページ目には、こう書いた。
「あの少女は、毎朝誰より早くログを洗っていた。それを、私は一度も見ていなかった」
柳田はまだ詫びの形を決められなかった。アルバイト以外に、自分を責める手段は、ノートに字を足すことだけだった。アルバイト先では、客の名前を間違えないよう、小声で唱えていた。店長に叱られても、頭を下げる角度だけは正確だった。
ある夜、柳田は一枚の便箋を取り出した。「清水リオ様へ」と書き始めた。謝罪の言葉を書いては破り、書いては破った。何を書いても、言葉が軽く感じた。明け方、柳田は便箋を折りたたみ、引き出しの奥にしまった。封筒に入れることも、送ることもできなかった。
その年の秋、リオは久しぶりにあの町の外れへ行った。父が眠る墓の前に立ち、リオはしゃがんだ。持ってきたのは、花と父の旧社員証、そしてUSBメモリだった。旧社員証は、鞄の底に入れてあったもの。USBには、BSOコア第2世代の完成版データが入っていた。二つを揃えて抱え、初めて涙が零れた。
「お父さん、完成したよ。次の世代も動いてる」
リオは一度立ち上がり、眼鏡の位置を直した。そして、しばらくその場から動かなかった。
ある日、西川凛が両運の受付から面会を申し込んできた。西川はスーツではなく、アルバイト先のシャツ姿だったが、リオは会うことにした。会議室に入ってきた西川は、リオの顔を見た途端、その場で深く頭を下げた。
「あの時、笑いました。本当に申し訳ありませんでした」
リオはしばらく西川を見ていた。そして、静かに言った。
「西川さん、顔をあげてください。あなたが来てくれたこと、それで十分です」
西川の目から涙がこぼれた。
「清水さんは、怒っていないんですか?」
「怒る時間があったら、次のシステムを一行でも書きます」
西川が涙をこらえながら、小さく笑った。リオは泣かず、静かに頷いた。
今日も化粧はしない。サーバー室では、指定の地味な上着で、父の言葉へ立ち帰る。見た目や学歴ではなく、何を作り、何を守ったかで人は測られる。リオは胸に刻んでいた。
制御は、現場の体温で動く。
清水リオは、今日もその言葉と共に生きている。



