役人が吐き捨てたその言葉を、私は今も忘れない。「最期が生き恥をさらすことだ」。そう言って放り出された見知らぬ罪人に、里の誰もが見て見ぬふりをした。十七の私は、ただ目の前に死にかけている人がいる、それだけで一杯の粥を運び始めた。毎日、毎日。痩せ衰えていく彼に、私は必死で食事を食べさせ続けた。それは、瀕死の彼の体に命を燈す、たった一つの温かな光だった。しかし、彼が少しでも快復すると、決まって彼は…

役人が吐き捨てたその言葉を、私は今も忘れない。「最期が生き恥をさらすことだ」。そう言って放り出された見知らぬ罪人に、里の誰もが見て見ぬふりをした。十七の私は、ただ目の前に死にかけている人がいる、それだけで一杯の粥を運び始めた。毎日、毎日。痩せ衰えていく彼に、私は必死で食事を食べさせ続けた。それは、瀕死の彼の体に命を燈す、たった一つの温かな光だった。しかし、彼が少しでも快復すると、決まって彼は...

役人が吐き捨てるように言った言葉は、小屋の中に横たわる男の耳に屆くことはなかった。生死の境を彷徨うその男のもとへ、一椀の粥を手に足を踏み入れたのは、まだ十七の娘だった。その日、彼女が流れ者の世話を引き受けた瞬間から、誰も知らない恐ろしい陰謀の扉が開かれようとしていた。

山深い谷あいに、菅ヶ原という小さな里があった。山は高く、一度入り込めば容易には出られない土地だった。その里の外れで、斧兵という五十がらみの男が、古びた一軒の旅籠を切り盛りしていた。妻を早くに亡くし、三人の娘を男手一つで育て上げた。上の二人の娘はすでに嫁ぎ、年老いた父の傍らに残ったのは、末娘のさきだけであった。

さきは丸い顔に濃い眉、目元には芯の強さが宿る娘だった。毎日の水汲みと薪割り、火を炊くのが彼女の朝の日課だった。斧兵が奥の客人の膳を頼むと、さきは「はい」と明るく応じた。彼女は苦しい顔を一度も見せたことがなかった。父が咳き込めば、真っ先に駆け寄り背を撫でてやる。「あの一杯に、この里の人情が全て詰まっている」と、旅人たちは口を揃えて言った。腹を空かせた行き倒れが辻に倒れていれば、父に隠れて焦げ飯を握らせてやることもある娘だった。

「末え、うちも決して裕福な暮らしではないのだよ」

「父え、あの人は今宵を越さねば、明日の朝を見られませぬ」

そう言われると、斧兵はそれ以上何も言えなかった。娘のその情がどこから来たのか、斧兵には分かっていた。亡くなった妻が、まさにそういう人だったからだ。人を救うのに身分の上下などあろうか。それが亡き母の教えであり、今はさきの胸に根を張っていた。

そんなある春の日、里はにわかに騒めいた。お城から罪人が一人流されてくるという。「罪人とは、一体どんな罪人だ」「滅多なことを口にするものではないぞ」「よほど高い地位から転げ落ちたものらしい」村人たちが集まれば、その話で持ち切りだった。しかし、いざその罪人が運ばれてくると、里の者たちは言葉を失った。義者が運んできた筵の下から、痩せ細った手が力なく垂れ下がっていたのだ。

役人たちはその男を引きずり下ろすと、里外れの崩れかけた小屋へ放り込むように押し入れた。「この者には決して手荒な真似をするな。しかし、手厚く世話をする必要もない」言葉は前後が食い違っていた。手を出すなとも、世話をするなとも言う。里の者たちは、その意味を測りかねたまま、ただ遠くから小屋を眺めるばかりだった。

小屋に寝かされていた男は、二十六ほどの年頃だった。血の気のない顔は幽鬼のようで、髪は乱れて顔の半分を覆っていた。目は閉じたまま開く気配もなく、痩せた胸だけがかすかに上下していた。「あれをご覧。生きているのか死んでいるのか、生きた心地がしないだろう」「あの様子で何日持つものか」人々は顔を寄せ合い、囁き合った。誰も、その男が何の罪を犯したのか、どこから来た何者なのか知る者はいなかった。役人はそれだけ言い残すと、罪人の生死には興味もない様子で城へ戻っていった。

罪人に飯を運ぶという噂は、我が身まで危なくなりかねない。誰もその役目を引き受けようとしなかったが、結局、それは死者に一番近い斧兵の旅籠に落ち着いた。

「父上、私が運びます」

ためらう父の前に進み出たのは、さきであった。「末え、それがどこの誰かもしれぬのだぞ。高い地位から落ちた罪人だというではないか」「罪人であろうとなかろうと、飢えて横たわっているものではございませんか」。斧兵は娘の顔をしばし見つめた。止めても無駄だということを、彼は知っていた。「気をつけるのだぞ。長居はするな」「はい」

こうしてさきは毎日、粥を運ぶ者となった。初日、さきは粥を置くと逃げるように旅籠へ戻った。小屋の中には、末娘の運ぶ粥だけが日々置かれるようになった。誰にも顧みられぬまま、その男は生と死の境を彷徨っていた。二日目も三日目も、椀は手つかずのまま冷え固まっていた。この人は、本当に何も口にできぬのだろうか。三日目、さきは男をそっと覗き込んだ。乾いた唇はひび割れ、息遣いは糸のようだった。このまま放っておけば、幾ばくも持たずに死んでしまう。

さきは匙で粥の汁をすくい、そっと男の口元へ運んだ。唇を開かせると、喉がわずかに動いた。飲み込んでいる。さきの目が見開かれた。死んだものと思っていた人が、一滴の汁に喉を動かしたのである。この人は、もしかしたら助かるかもしれない。その日から、さきの心構えが変わった。投げるように置いていた椀を、一匙一匙丁寧に食べさせるようになった。口元を開かせ、割れた唇に水をつけ、冷めぬよう粥を抱いて運んだ。

「末え、近頃どうしてそんなに長くいるのだ」「粥を食べさせております」斧兵は渋い顔で娘を見つめたが、止めることはできなかった。瀕死の人を救おうとするその心を、どうして止められようか。しかし、その男が一体何者であるのか、さきは依然として知らなかった。半月ほどが過ぎると、男の唇にいくらか血色が戻ってきた。やがて目蓋を開き、さきの姿を目で追うようになったが、まだ声を出すことはできなかった。

「大丈夫でございます。急ぐことがございません。ゆっくり良くなれば良いのです」

さきは男の痩せた手を握ってやった。氷のように冷たかったその手に、少しずつぬくもりが戻っていった。荒れてはいても、指の節は長く整い、畑を耕したことのない手だった。

ところが不思議なことに、男の具合には妙な上がり下がりがあった。ある日は目に見えて良くなるかと思えば、また別の日にはげっそりと痩せ細る。その上がり下がりには、どうにもわけのわからぬ何かがあった。その頃、里の近くには藩の役所から差し向けられた、又蔵という監視役がいた。下衆な顔つきのその男は、罪人が弱っていくことを少しも悲しまず、むしろ痩せ衰えていくほどにどこか満足げな顔つきをしていた。又蔵は知らなかった。人が真心で世話をすれば、病は癒えるということを。さきもまた知らなかった。自分が毎日粥を食べさせているこの人が、つい先までこの藩で最も高い地位にあった若殿様だということを。

さらに幾日か過ぎたある日、さきが粥を食べさせていると、男の閉じた目蓋がかすかに震え、吐息とも言葉ともつかぬ声が漏れた。「今日はいかがでございますか?お気づきになられましたか?」さきは驚いて匙を取り落としそうになった。男は答えられなかったが、瞳が苦しげに動くのが見えた。死にかけていた一個の人間が、ゆっくりとこの世に戻ってきているのだ。

「大丈夫でございます。ゆっくり良くなれば良いのです」

さきがそう声をかけた時、男の乾いた喉から絞り出すような細い声が漏れた。

「……片付けない」

それは確かに人の言葉だった。さきはあまりに驚いて、椀を落としそうになった。半月あまり、吐息ひとつ出せなかった人が、ついに言葉を発したのである。「そなたは……誰か」「私はこの里の旅籠の娘。さきと申します」「……旅籠の娘が、どうして」「旦那様が飢えて横たわっておられたので、飯を運んでいただけです」。男の乾いた目に涙が滲んだ。誰にも顧みられなかった自分を、名もなき旅籠の娘が命がけで救ったのだと悟ったのである。

その頃、里には物騒な噂が一つ広まっていた。若殿様が代替わりしたそうな。前の殿様が、全て家老に差し回されたという話だ。さきはその噂が自分が世話をしている男とどう関わるのか知らなかった。ただ、この男がただの罪人ではなく、高い地位から追われたものらしいということだけが里に広まっていた。

しかし、又蔵が思い及ばなかったことがあった。さきには、人を救おうとする真心と毒の混じらぬ柔らかさがあった。日々男の世話をするうち、さきはその上がり下がりにある規則を感じ取るようになった。男の具合が悪くなる日には、決まって小屋の中に見慣れぬ赤黒い薬が置かれているのである。誰かがこの男にその薬を飲ませている。役所から下される薬ならば、人を救うための薬であるはずだ。ところが、その薬を飲んだ日に人が死にかけていくとは。

さきは数日の間、その薬をこっそり片付けてしまうことにした。粥と清水だけを飲ませ続けると、三日目には男の顔にはっきりと血の気が戻った。やはりあの薬が問題だったのだ。案の定、五日目に又蔵がやって来て言った。「ここ幾日、薬はそのまま残っておったな。どういうことだ?」さきは背筋を凍らせながらも、とっさに言い繕った。「罪人様が薬を飲むと嘔吐き戻されますので、先に飯を食べさせてから薬をお飲ませしようと思っておりました」。又蔵はしばらく睨みつけたが、「余計な口出しはやめておけ。薬は私が自ら飲ませる」と言い放ち、引き下がった。

その日以来、又蔵はさきが来る前に自ら男に薬を飲ませるようになった。男は再び衰え始めた。このままではいけない。あの人は死んでしまう。しかし、十七の旅籠の娘が、藩から遣わされた監視役をどうやって止めれば良いのか。さきは力ない思いに涙をこぼした。その時、一人の人物が思い浮かんだ。数年前この里に流れ着いた、玄斎という牢人だ。口数は少なく世間に関心のない老人だったが、その医術だけは並々ならぬものであった。

さきは夜が明けると、玄斎の料理へ駆けつけ、隠しておいた薬壺を差し出した。「先生、どうかこの薬が何であるか見てくださいませ」。玄斎はその匂いを嗅ぎ、指先で確かめると、顔色が険しくなった。「これをどこで手に入れた?」「谷向こうの牢に囚われている罪人に、役所から下されているという薬でございます」「これは薬ではない。人をゆっくりと殺める毒だ。一度に殺す毒ではなく、日々わずかずつ盛り、幾月もかけてゆっくりと息を絶つ毒だ。このような毒を使う者は、藩の者ではない」玄斎の声が低く沈んだ。「私はこの毒の出所に覚えがある。しかし、その前にこの罪人が何者であるか確かめねばならぬ」

その夜、さきは玄斎を連れて月明かりひとつない廃小屋へ向かった。玄斎はまず男の手首を取り脈を見た。「脈が糸のようだ。毒がすでに五臓六腑に深く染み込んでおる」。そして明かりで男の顔を照らした瞬間、玄斎は息を飲み、手にした明かりが落ちそうになった。震える声で、痩せた顔をなおもじっと見つめ、痩せた手をもう一度取り確かめるように何度も眺めた。「……よ、今そなたが救おうとしているこの方は、この藩の若殿様であられる」玄斎の口からついにその言葉が漏れた。さきは自分の耳を疑った。「ご天領であられた頃、このお顔をどうして見忘れようか」。さきはその場に崩れ落ちそうになった。毎日粥を食べさせていたこの人が、つい先頃までこの藩で最も高い地位にあった若殿様だったとは。

玄斎はかつて藩の医師を務めていた。若き藩主は、家老・堀田一門が年貢を搾取し、農民の田畑を奪っていることを突き止め、密かに検地を進めようとしていた。玄斎もまた、堀田一門が薬種を横流しし、毒を買い集めている事実を知ったため、濡れ衣を着せられて城を追われたのであった。改革によって長年の不正が暴かれることを恐れた家老は、先代の遺言を捏造して若殿を追放し、遠い山里へ追いやった。そして又蔵に、役所の薬と偽って毒を飲ませ、病死に見せかけるよう命じていたのだ。

「先生、これから私はどうすればよろしいのでしょうか?このことが知れれば、私たちの命も無事では済みませぬ」「これは命がけのことになる。私たちが手を引けば、若殿はほどなくお亡くなりになろう。しかし、私たちが動けば、私たちもまた命が危うい」

さきは死んだように横たわる若殿の顔を見下ろした。そして、父が常々口にしていた言葉を思い出した。飢えている人の前で飯を隠すのは、人の道に外れることだと。「この方が若殿であろうと罪人であろうと、私の目の前で死にかけている人であることに変わりません。私はこの方を、お救いいたします」。その言葉に、玄斎の胸が熱くなった。「よかろう。私も共にやろう。身分あるものの命だから救うのではない。人を救うのは、家柄の高い手ではなく、その傍らを離れぬ温かい手なのだ。さきよ、お前の手がここまで若殿の命をつないだのだ。されば、最後に人の道を果たしてみようではないか」

問題は、又蔵の毒をどう防ぐかだった。玄斎は一つの策を思いついた。「よ、そなたが又蔵を別の要件で引き止めておれ。その間に私が裏手から忍び込み、若殿様に解毒の薬を授ける」。翌日から二人の密かな戦いが始まった。「旦那様、罪人が昨晩うわごとを申しておりましたが」「旦那様、小屋の屋根が雨漏りしておりますが」さきはそうした理由をつけて又蔵を足止めした。その隙に、玄斎は裏手からこっそり忍び込み、毒を中和する薬草を煎じて飲ませた。それは薄氷を踏むような危険な渡りだった。一度でも見つかれば、三人とも命を保つことはできなかった。

そうしていくつか月が過ぎるうち、若殿は再び力を取り戻し始めた。ある朝、さきが粥を持って小屋に入ると、若殿が壁に背を持たせかけて座っていた。さきはあまりの嬉しさに涙が滲んだ。「ああ、お立ち上がりになられましたか」「……そなたのおかげだ」「私の力ではございません。あの玄斎先生が尽力してくださったのです」「玄斎と?あの玄斎のことか」若殿が驚いた。「無実の罪でご天領の座を追われた牢人であるぞ」。見捨てられた若殿と追われた大夫が、この深い山里でこうして巡り合っていた。玄斎は若殿の前に平伏し、どっと涙を流した。

しかし、喜びも束の間だった。若殿が力を取り戻していくことに気づいた又蔵が、怪しい気配を感じ始めたのだ。「おかしい。なぜあのお方は生き返るのか」。又蔵は、さきの後をつけて玄斎が出入りするのを見てしまった。「あの老人、裏で手を回していたのか」そして、その老者が数年前に追放されたご天領だと気づいたのである。「さよ、大事だ。又蔵が我らを疑っておる」「若殿をここからお連れせねばならぬ」。三人は額を寄せ合った。「この山を越えた谷に、人の足が入らぬ空き小屋がございます」口を開いたのはさきだった。「しかしまだ歩くこともままならぬ若殿を、どうやってそこまで運ぶのか」「私に力業がございます。あの薪を背負って山を越えております。娘は幼い頃から薪や水の荷を負って、この山を登り下りしてまいりました」

その夜、二人は若殿を山越えさせる決行の日を迎えた。玄斎は又蔵に「罪人の病が重く、今夜が峠だ。今夜は私が最後を見取りましょう」と告げて油断させた。その隙に、さきは小屋へ忍び込んだ。「しんがり、私です。ここを出ていただかねばなりません」若殿は力なく頷いた。「私一人のために、そなたたちがこれほど危険を犯すとは」。さきは若殿を薪背負い具に乗せて縛りつけると、真っ暗な山道へ足を踏み出した。

人一人を背負って山を越えることは、想像以上に過酷だった。一歩一歩が千鈞の重さで、険しい山道に息が上がり、膝が折れそうになった。「しんがり、もう少しの辛抱でございます」さきは歯を食いしばって山を登った。背に負う若殿の息遣いが耳元近くに聞こえた。山の中腹で、さきの足がよろめき石に引っかかって倒れた。幸い、若殿を体で庇い、若殿は傷を負わずに済んだが、さきの膝は石に裂かれ、血が流れた。「よ、大事ないか」「大事ございません。何ともございません」さきは流れる血を着物の裾で縛り、再び荷を担いだ。冷たい山風が肌を刺す中、さきは自分の上着を脱いで若殿にかけてやった。「しんがり、お寒うございましょう」「私の衣を脱げば、そなたが寒かろう」「私は山を登って汗をかいておりますゆえ、大事ございません」。実際にはさきも歯の根が合わぬほど寒かったが、表には出さなかった。若殿は荷に縛られたまま、声もなく涙を流した。何の関わりもない自分のために、膝を裂きながら山を登るこの娘の心に胸を打たれていた。必ずこの恩に報い、生き延びてこの藩を正そう。若殿は心の中で固く誓った。

夜明け近く、二人は谷向こうの空き小屋にたどり着いた。若殿は自ら着物の裾を裂いて、さきの裂けた膝を包んでやった。「私の命を救った手ではないか。これしきのことしてやらぬで、どうする?」その瞬間、二人の間には身分の壁を超えた何かが静かに芽生えていた。その日以来、さきは毎日山を越えて小屋へ粥を運んだ。ある夜、若殿はさきに尋ねた。「そなたは、なぜ罪人である私を命がけで救ったのだ。恐ろしくなかったのか」「母が常々申しておりました。人を救うのに身分の上下などあろうかと」「良い母君であったのだな」「早くに亡くなりました。私が幼い頃に」「……私も幼い頃に母をなくした。私たちは似たところがあるのだな」。若殿の目が遠くを見つめるようになった。「若殿は、どのような藩をお作りになりたかったのですか?」さきがおずおずと尋ねた。「飢えに苦しむ者がない藩。力なき農民が理不尽に虐げられて死なぬ藩。それが私の夢であった」。その言葉に、さきの胸が熱くなった。「そのような藩であれば、私もお力になれましょうか」「必ず作る。生きて戻り、必ず」

若殿の体が少しずつ癒えると、小屋の前に出て座る日が多くなった。ある日、さきが粥を頭に乗せて山を登ると、若殿が迎えに出ていた。「しんがり、どうしてここまでお出しになられたのですか?まだ御無理をなさってはなりません」「毎日そなた一人がこの重い物を担いで登り下りするのに、私だけが楽に座っているわけにはいかぬ」若殿は自ら粥の器を受け取った。かつて藩を治めていた若殿が自ら粥を運ぶ姿に、さきは思わず笑みをこぼした。「今日は私が水を汲んでこよう」若殿は谷へ降り、不慣れな手つきで水を汲んできた。水桶を半ばこぼしながらも、その顔には和みが満ちていた。「城で山海の珍味を口にした時より、この山里でそなたの粥を食べる時の方が、よほど心が安らぐ」「それは若殿がようやく人の情を知られたからでございます」。若殿は頷いた。農民のための藩を夢見ながら、身のほどに農民の心を知らなかった自分を振り返ったのである。

玄斎もまた折に触れ山を訪れ、又蔵の目を逃れるため、人の形に組んだ藁を廃小屋の寝床に置き、布団を頭まで深くかけた。又蔵は戸口の外からその膨らみを眺め、若殿が床に伏しているものと思い込んでいた。「あれはまだ死なぬのか。執心な命でございます」「しかし、時期に息を引き取りましょう」。黴臭い日々の中で、玄斎の解毒薬とさきの粥が体の中の毒を洗い流し、若殿の体は日に日に回復していった。いつしか若殿は自ら立ち上がり、庭を歩けるまでになった。血の気のなかった顔に艶が戻り、力強い眼差しにはかつての精悍さが蘇っていた。「随分と人らしい姿になられました」玄斎が満足げに言った。「そなたたちのおかげだ。この恩をどう返せば良いものか」若殿は山の下を見渡した。その眼差しには、今すぐ城へ戻り必ず真実を明らかにするという決意が満ちていた。

その頃、又蔵の疑いが再び頭をもたげていた。死ぬはずのものが、なぜこれほど長く持ち堪えるのか。ある日、又蔵はあの寝床の膨らみが本当に人間か確かめようと小屋へ向かった。ちょうどその場にいた玄斎が慌てて立ち塞がった。「旦那様、行けません。実は罪人が昨夜息を引き取りましたが、その体に恐ろしい疫病の気配が出始めております」疫病だと、又蔵はぎょっとして後ずさりした。「迂闊にお入りになれば、旦那様まで災いを被られましょう」「子宵い中に山へ埋葬いたします」。又蔵は疑いながらも命が惜しく、遠くから睨みつけて立ち去った。玄斎はその晩、藁を山に埋める芝居を打って、又蔵をすっかり信じ込ませた。今度こそ厄介が消えたと、又蔵は肩の荷が下りた思いで、城へ戻る支度を始めた。

春が来た。そろそろ城へ戻る支度をせねばならぬ。若殿は玄斎とさきを呼び集めた。「まず、道重と連絡を取らねばならぬ。あの者が改革の証を握っておる」若殿は密かに一通の訴状を認めた。「この訴状を誰が届けようか」「私が参ります」さきが進み出た。「私は旅籠の娘。行商人のふりをすれば疑われませぬ」「さきよ。なぜそなたは、いつも危ない役目に真っ先に立つのだ」「殿をお救いすることであれば、私は何でもいたします」「わかった。しかし、必ず身を大切にせよ。もしお前に何かあれば、この藩を取り戻したとて何の喜びもない」

翌日、さきは旅商人に変装して城下への道に出た。関所の検問は厳しかったが、荷に薬草を載せていたため、役人たちは特に疑うこともなく通した。さきは道重の屋敷を見つけたが、そこは家老の密偵に厳しく見張られていた。さきは水売りから天秤を渡され、水桶を頭に乗せて水売りのふりをして中へ入った。「あの水売り、見慣れぬ顔だな」門番の密偵に呼び止められ、さきの背筋が凍りついた。「いつもの水売りが体を壊したので、代わりに来たのだ」。さきはあまりにも堂々と言い放ったので、密偵もそれ以上言いがかりをつけられず、無事に通り抜けることができた。台所仕事に紛れ、さきは密かに道重に訴状を渡した。訴状を開いた道重の手が震えた。「これは誠に若殿のご実印か。若様がご存命であられたとは。老臣、ただその日を待っておりました」道重は涙を拭うと、さきに密かに集めてきた証を示した。藩の蔵から搾取された罪の記録、農民から奪った田畑の証文、堀田一門が買い入れた薬種の記録まで。全ては若殿の帰還を待つばかりだった。「若様が無事に城入りになれば、全ての支度が整います」さきの目が輝いた。「ならば、あとは若様がお戻りになりさえすればよろしいのですね」。道重は、若殿が密かに城へ入れるよう、城の内に従っている者たちに先回りして手を回すことにした。

さきは道重の返書を懐に、再び奥山への道を急いだ。しかし、さきは知らなかった。城に戻っていた又蔵が、家老に「罪人が病死した」と報告したところ、家老がそれを信じなかったのである。「尸(むくろ)をその目で確かと見届けたのか」「疫病が広がっておりましたゆえ、近づけず。牢人が埋葬するのを遠くから見届けただけでございます」家老の目が鋭く細くなった。「この愚か者め。その目で尸を確かめもしなかったのか。あの牢人とやらが怪しい。まさか、あの者が罪人を逃がしたのではあるまいな」。又蔵は背中に冷や汗を流した。「今すぐ戻り、罪人の生死を確かめよ。もし生きておれば、その場で首を跳ねよ」又蔵は今度は刀ではなく、鋭い刃を手に奥山へ引き返した。

さきが里に戻った頃、すでに黒い影が差していた。又蔵は真っ直ぐ廃小屋へ向かい、罪人を埋葬したというその墓を掘り返した。藁の山の中から出てきたのは、人の形を組んだだけの藁人形だった。「よくもこの俺を欺いたな」又蔵の目に燃えるような怒りが宿った。罪人が死んでいないこと、誰かがそれを逃がしたことが明るみに出たのである。又蔵は里の者たちを片っ端から捕えて締め上げた。「人を逃がした者は誰だ。知っておる者は名乗り出よ」。凄まじい脅しに、恐れをなした人々が、一人、二人と口を開き始めた。「あの罪人に飯を運んでおったのは、旅籠の末娘でございました」。又蔵は真っ直ぐ旅籠へ乗り込み、斧兵を捕えて締め上げた。「お前の娘はどこへ行った?罪人をどこに隠した?」「旦那様、私の娘が何の罪を犯したというのですか。おやめください」斧兵が弁解すると、又蔵は容赦なく彼を打ち据えた。旅籠中を荒らしても若殿の痕跡は見つからず、又蔵は真っ直ぐ玄斎の料理へ向かった。「この年寄り、罪人をどこに隠した。正直に申せ」又蔵は玄斎の襟首を掴んで刀を突きつけた。「何のことか。罪人はすでに病死しましたぞ」玄斎は最後まで白を切り通した。「それでも、墓を暴けば藁が出てこぬではないか。どこで嘘をつくつもりか。今すぐ罪人の居場所を白状しろ。さすれば、命だけは助けてやる」「我が首が落ちようとも、この口だけは開かぬ」。正しく真っ直ぐに生きてきた老者は、死を前にしても屈しなかった。その時、城から戻ったばかりのさきが、この光景を目にしてしまった。「先生!」さきが悲鳴をあげて駆け込んだ。「おお、ちょうど良いところに来た。お前も罪人を逃がすのに加担したな」又蔵の刀が今度はさきへと向けられた。「大人がどこにいるか告げねば、まずこの年寄りから殺す」。さきはどうすることもできず、体を震わせた。若殿のいる場所を告げれば若殿が殺される。告げなければ、目の前で玄斎が殺される。どちらもさきには耐えられぬことだった。

まさにその瞬間、さきは決心した。我を投げ出すことを。「私が、私が罪人を逃がしました。先生は何もご存知ありませぬ。どうか、私をお縛りください」さきは又蔵の前に膝まずいた。「私を殺すなり、縛るなり、お好きになさいませ。ただ、先生だけはお許しください」。又蔵は鼻で笑った。「殊勝な心がけだな。しかし、お前が死んだところで罪人が現れるわけでもあるまい。お前たち二人とも殺し、この山を白みつぶしにすれば済むことだ」又蔵はさきに刀を振り上げた。さきは目を閉じた。このまま死ぬのか。その時、戸が勢いよく開いた。「やめよ」戸口に立っていたのは、若殿だった。さきがなかなか戻らぬのを不安に思い、山を下りてきたのである。「何の騒ぎか。その者たちを放してやれ」若殿の声には、若殿としての威厳が満ちていた。その声を聞いた又蔵の顔が、瞬間に青ざめた。しかし、それも一瞬のことであった。「わ、わわっ、これはよくできた。己から現れてくださるとは。死んだと思っていた罪人が生きていようとは。ここで私自らの手で首を跳ねれば、大きな手柄が立とう」又蔵は再び刀を構え直した。「しんがり、お逃げくださいませ」さきは若殿の前に体を投げ出した。「知れたことか。今日、貴様ら三人ともここで死ぬのだ」又蔵が刀を振りかざして突っ込んできた。その瞬間、若殿はさきを抱き抱えて身を躱したが、刃が若殿の肩をかすめ、血が吹き出した。「しんがり!」さきが悲鳴をあげた。若殿は肩を押さえてよろめいた。まだ完全には癒えぬ体で、刀を持つ又蔵に立ち向かうことはできなかった。まさに絶体絶命の刹那、又蔵は倒れた若殿に向かって再び刀を振り上げた。「これで終わりだ」その時だった。玄斎が身を挺して又蔵の足にしがみついた。「若殿、お逃げください。この老いぼれの命、最後に使い果たしてくれよう」又蔵は玄斎を蹴り飛ばし、その刀で玄斎の背を切りつけた。「先生!」さきの目の前で、老人が血を流して倒れた。若殿を守ろうとして、自らの命を投げ出したのである。「玄斎、私がそなたを死なせたのだ。私が至らぬばかりに、そなたまでも」若殿は倒れた玄斎を抱き起こし、号泣した。告天領であった頃から自分を慈しんでくれたこの老人が、この山里で自分のために命を投げ出したのである。玄斎は最後の力を振り絞り、若殿の手を握った。「何卒、生き延び、この藩をお建てください。それが、この老いぼれの最後の願いでございます」。その言葉を最後に、玄斎は静かに目を閉じた。正しく真っ直ぐに生きて、若殿のために命を捧げた大夫の最後であった。さきもまた、声を上げて泣いた。「もはや、残るはそなたたち二人だけだな」又蔵が近づいてきた。さきは若殿を抱きしめて目を閉じた。まさにその時だった。どこからか矢が飛んできて、又蔵の腕に突き刺さった。山の上から一団の人々が駆け下りてきた。それは、道重がさきの身を案じ、気づかれぬよう尾行させていた家臣たちであった。彼らはまたたく間に又蔵を取り囲んで縛り上げた。「お前を殺しはせぬ。お前は生きて城まで共に参るのだ」若殿は縛られた又蔵を見下ろし、冷ややかに言った。

しかし、若殿の肩の傷は深く、再び熱にうなされて床に伏すこととなった。「しんがり、しっかりなさいませ。もう少しだけご辛抱ください」さきは夜を徹して傷を洗い、玄斎が残した薬草を煎じて飲ませ続けた。五日目の明方、ようやく熱が下がり、息遣いも整った。「さき、そなたのおかげで私は再び生き延びることができた。命をつないでくれて、ありがとう」。さきはそこでようやく堪えていた涙を溢れさせた。若殿は玄斎の亡骸を、日当たりの良い場所に丁寧に葬った。「よ、そなたの願い通り、必ずこの藩を正してみせよう」。しかしその夜、若殿は一人、月前に座り夜を明かした。「私が農民を救おうとしたことが、帰ってこれほど多くの人を死に追いやったのか。私一人のために玄斎が死に、さきは膝を裂いてまで山を越え、年老いた斧兵まで打ち据えられた」。若殿は深い自責の念に沈んだ。その時、さきが静かに寄り添った。「玄斎様が最後におっしゃった言葉を覚えておいでですか。『生き延び、この藩をお建てください』と。玄斎様は若殿のために死なれたのではございません。若殿がこれからお作りになる藩のために死なれたのです。飢えに苦しむ者がない藩。その藩を見たくて、命を投げ出されたのです」。さきの言葉に、若殿は顔を上げた。人を救うのは身分の高い手ではなく、傍らを守る温かい手である。玄斎がかつて語ったその言葉が、若殿の胸に蘇った。「そうだ。さき、そなたの言う通りだ」若殿は立ち上がった。その眼差しからは、昨夜の迷いが洗い流されたように消えていた。「城へ戻ろう。必ず、この藩を正してみせよう」

数日後、若殿は道重が遣わした護衛に守られて城へ向かった。又蔵は縛られたまま連れて行かれた。死人として葬られた自分が、再び生きて城下の土を踏むことになろうとは、若殿自身にも夢のようであった。城に入った若殿は、密かに道重と家臣たちに会った。「若様のご帰還、誠にこの藩の幸いにございます」道重をはじめとする家臣たちは、若殿の前に平伏し、涙を流した。「長らく苦労をかけたな。いよいよ、あの奸悪な家老を断つ時が来た」若殿は道重が守り続けた改革の証と、堀田一派の悪事を記した台帳を受け取った。全ての支度が整ったのである。ついに、死者として扱われた若殿が、生ける者として再び立つ日が明けた。

その日、藩の表書院には重臣たちを集めた大会議が開かれ、幼い世子を仮の当主に立てて、家老が全ての権限を握っていた。その場に、若殿が忽然と現れた。「これは一体」重臣たちが騒めいた。「あの者がなぜ生きている?」家老は自分の目を疑った。死んだはずの若殿が、正装を取り戻した姿で目の前に立っていたのである。「堀田か門」若殿の声が表書院の間をひときわ揺るがせた。「そなたは先代の遺言を捏造し、私を追放したのみならず、牢居先に毒を盛り、私を殺めようとした。この罪、認めるか」家老は顔色を変えつつも、虚勢を張って言い返した。「とんでもないことでございます。御隠居されたお方は、自ら病を患って隠居を余儀なくされたのであり、牢居先で病を得られたことを、どうして責められましょうや」「病というならば、よかろう。ならば証拠を見せてやろう」若殿が手を上げると、道重が帳簿を広げた。「ここに、そなたの一門が過去十年に渡り藩の蔵より搾取した罪と、農民から強奪した田畑の証文が、克明に記されておる」。読み上げられると、表書院の間が騒めいた。家老の悪事が明るみに出たのである。「それは偽りの文書にございます。賤しき家臣が捏造したものにございましょう」家老がなおも誤魔化した。まさにその時、若殿は又蔵を引き出させた。「誰が、そなたに私を毒殺せよと命じたのか」。又蔵は初め口を閉ざしていたが、ついに口を開いた。「堀田様が、私にお命になりました。あの毒も、家老様のご一門の薬種問屋から出たものにございます」。若殿はさらに、その薬種問屋が毒を買い入れた記録を記した帳面を示した。証拠に隙はなかった。「そなたは、なぜ今になって真実を告げるのか」若殿が問うと、又蔵はうなだれた。「私は堀田様を恐れ、その命に従って人の命を奪ってまいりました。命を惜しんだから申すのではございません。されど、玄斎殿が己の命を捨ててまで若殿をお守りする姿を、この目で見ました。そして、捕えられた後、さき殿が膝を裂きながら荷を背負って山を越えたことも聞きました。人を傷つけることしか知らなかったこの身も、あの者たちの生き方に触れて、初めて己を恥じました。このまま堀田様の罪を抱いたまま死ぬことだけは、人として耐えられなくなったのでございます」。その言葉に、表書院の間が静まり返った。人を殺めていた者の心すら動かしたのは、まさにさきのその温かい手であった。家老の罪を知っていた他の重臣たちも、「それがしも存じておりました。何卒お許しくださいませ」と、一人、また一人と名乗り出始めた。権勢を振るってきた家老は、一転して四面楚歌に追い込まれた。その時、城の外がにわかに騒がしくなった。家老の圧政に苦しんできた農民たちが、「ご存命であられたとは」「あの奸悪な家老をお裁きください」と城の前に雲のごとく押し寄せ、口々に叫んでいたのである。「あの声が聞こえるか。あれこそが、そなたが踏みにじってきた農民の声だ。そなたが恐れねばならなかったのは、私の改革ではない。あの農民たちの怒りであったのだ」。家老は何も言えず、ただ震えながら血の気の引いた顔で平伏するばかりだった。「家老は先代の遺言を捏造し、主君を追放し、財を盗み、農民を苦しめた。その罪は重い。よって、その家老職を剥奪し、禄を没収して農民に返し、遠くへ追放して二度とこの藩に足を踏み入れさせるな」。家老とその一派はこうして崩れ去った。長年にかけて積み上げてきた権力と悪事が、一瞬にして水の泡に帰したのである。又蔵もまた、玄斎を殺め、若殿を毒殺しようとした罪を免れることはできなかった。ただし、表書院の場で真実を明らかにしたことを加味され、命だけは助けられ、遠流の処に処されることとなった。若殿はついに藩主の座を取り戻した。そして、長らく先延ばしにしていた改革をついに世に放った。隠された財を一つ残らず明らかにして、年貢を正し、農民を苦しめていた付け高いの弊害を根絶やしにした。奪われていた田は元の持ち主の元へ帰り、家老一門から没収した財は困窮する村に分け与えられた。飢えに苦しむ農民のいない藩。農民が夢見ていたその藩は、少しずつ形をなしていった。農民は蘇った若殿を慕い、藩中に喜びが満ちた。

しかし、若殿にはまだ返さねばならぬ恩が一つ残っていた。それは、あの旅籠の末娘・さきであった。「さきを連れて参れ」若殿の命により、さきは城へ召し出された。生まれて初めて足を踏み入れる城の中で、さきはどうして良いか分からなかった。若殿はそんなさきを優しく見つめて言った。「よ、そなたがいなければ、私は当に山里の小屋で死んでいたであろう。そなたは私を、藩主としてではなく一人の人として救ってくれた。この恩を、どう返せば良いものか」「しんがり、私はただ、人としての道を尽くしただけでございます。いかなる褒美も望みませぬ」さきは静かに頭を下げた。「いや。ら、そなたに頼みたいことがある」若殿は立ち上がり、さきの前に立った。「さきよ、私と共にこの藩を治めてはくれぬか。飢えに苦しむ者がない藩を、私はその温かい手と共に作りたい。そなたを、この藩の御許嫁に迎えたい」。さきは驚いて顔を上げた。名もなき旅籠の娘を、藩主が正室に迎えたいというのである。「若殿、私は一介の旅籠の娘にございます。どうして恐れ多くも御正室の座など」「身分が何と申すのだ。人を救うのに貴賤がないように、藩を愛する心にも貴賤はない。私の傍らにいるべきは、家柄の高い姫君ではなく、農民の心を知る者だ。その心を持つそなたでなければ、誰がこの藩の御正室にふさわしいというのだ」。若殿の真心のこもった言葉に、さきの目から涙が溢れた。その話を聞いた道重は「若様のご所望のままにいたしましょう」と申し出た。そして、さきを己の養女として迎え、正式に家臣の身分を整えた。

若殿はさきの手をそっと握った。かつて生ける屍となり、その手にかすかに命を託していた若殿が、今、その手を取り並び立とうというのである。死に行く男を救った旅籠の末娘は、ついにこの藩の御正室となったのである。その知らせが伝わると、故郷の菅ヶ原の里は祝いの雰囲気に包まれた。年老いた父・斧兵は、娘が御正室になったと聞いて涙を止めることができなかった。「母が生きてこの姿を見られなかったことだけが悔まれる」斧兵は亡き妻の位牌の前で、長く泣き続けた。生前、人を救えと教えた妻の教えが、娘を通してこうして実を結んだのである。ほどなくして、若殿は斧兵を城へ招いた。「岐阜へ、これまで大変ご苦労をおかけいたしました」若殿が礼に尽くすと、斧兵はただ涙を流すばかりだった。娘が運んだ一杯の粥が、一人の命だけでなく藩の運命までも変えることになろうとは、誰が思っただろうか。

月日が流れ、さきは懸命な御正室となった。農民の心を汲み取るお方として、藩中の尊敬を集めた。若殿とさきは力を合わせ、飢えて苦しむ農民のいない藩を作り上げていった。ところが、御正室となったさきの居室には、御身分には不釣り合いな品が一つ置かれていた。それは、古びた椀だった。あの瀕死の若殿に粥を運んだ、まさにその椀である。さきはその椀をいつも傍らに置き、初志の心を忘れなかった。それは、名もなき身であった頃を忘れぬ、御正室としての矜持であった。「お方様、その古い椀を未だ傍らに置いておられるのですか」若殿が尋ねると、さきはこう答えた。「この椀を見るたび、目の前の命を救いたいと願ったあの日の心を忘れずにいられるのでございます」。若殿はその言葉に満足そうに微笑んだ。人を救うのは、身分の高い手ではなく、傍らを守る温かい手である。見捨てられた若殿を救った一杯の粥が、ついに藩を救う器となったのである。誰も顧みなかった男の元へ、自らの足で粥を運んだ旅籠の末娘の物語は、こうして長く長く人々の口に語り継がれていったのだった。

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