夫から味噌汁を頭からかけられた朝、私は「この人の言う通り、仕事をやめるべきなのか」と一瞬でも考えた自分が情けなかった。翌日、会社まで押しかけて退職届を勝手に突きつけられ、ロビーで上司を突き飛ばされた時も、私はただ「この人のことは最初から何も知らなかったんだな」としか思えなかった。そうして物置に一晩閉じ込められた後、私が屋根から脱出して役所で離婚届を出したのは、ただの必然だった。夫は、財布もス…

夫から味噌汁を頭からかけられた朝、私は「この人の言う通り、仕事をやめるべきなのか」と一瞬でも考えた自分が情けなかった。翌日、会社まで押しかけて退職届を勝手に突きつけられ、ロビーで上司を突き飛ばされた時も、私はただ「この人のことは最初から何も知らなかったんだな」としか思えなかった。そうして物置に一晩閉じ込められた後、私が屋根から脱出して役所で離婚届を出したのは、ただの必然だった。夫は、財布もス...

役所に駆け込んだ私は、息を整えながら受付に離婚届を差し出した。靴下だけの足裏に石が食い込んだ痛みが、まだ残っている。髪も服も乱れていたが、不思議と気持ちは澄んでいた。窓口の職員が驚いた顔をしたが、すぐに対応してくれた。書類に名前を書き、手続きはたった十分で終わった。

役所の外に出ると、青空が広がっていた。
これからどうしよう、とぼんやり考えた。財布もスマートフォンも、何ひとつ持っていなかった。

その時、目の前に一台の黒塗りの車が静かに停まった。高級車だった。後部座席のドアが音もなく開く。私は驚かなかった。むしろ「やっぱり来たか」という気持ちだった。運転席には、子供の頃から実家に仕えてくれている運転手がいた。私は迷わず車に乗り込んだ。

「お迎えに上がりました。お嬢様」

実家に戻ると、両親が玄関前に立っていた。母は私の手を包み込み、目を潤ませた。父は私の姿を見て、少しだけ眉を寄せたが「おかえり」と言った。

私は湯船に長く浸かり、物置きの埃や庭で転んだ時の土をすべて洗い流した。広むとの生活で、自分がどれほど疲れていたのか、ようやく気づいた。

翌朝、私は上司に連絡を入れた。事情を話すと、上司は無事でよかったと第一声で言ってくれた。会社に着くと、裏口で上司が待っていて、私の席も資料も何一つ変わっていなかった。
「本人が提出していない退職届なんて、受理できるわけありませんよ」

上司は、本社で新しい研究施設を設立する計画があり、私を推薦したいと言った。迷わず頷いた。研究を続けられる。それだけで、十分だった。

私には、結婚が前提で付き合っていた恋人がいた。広むという、大手企業に勤める男性だ。彼は自分が高学歴・高収入のエリートであることを頻繁に自慢していた。人に話すときは、まるで他人事のように思い出す。

出会いは仕事だった。彼が取引で私の勤務先に来た時、私は会議室を通りかかっただけだったが、彼はそれを見て気になったらしい。その日のうちに待ち伏せされて、連絡先を押し付けられた。プライドが高いだけで、本音が言えない人なんだな、と私はすぐに理解した。傲慢な発言ばかりするけれど、さほど腹は立たなかった。

入籍のタイミングも、彼の方から切り出された。結婚式はあげず、婚姻届を一緒に提出した。彼は「これからよろしくな」と満足そうに笑った。翌日から始まった新婚生活は、最初の一ヶ月は平和だった。

それが崩れたのは、ある朝だった。食卓で、彼が箸を置いて言った。
「お前、子供ができたら仕事やめるんだ?」
「やめる予定はないけど」

私は結婚前に、仕事を続けたいと伝えていた。彼も当時は特に反対していなかった。しかし彼は「専業主婦になるのが普通だろう」と主張した。話し合いは平行線だった。次の瞬間、彼は立ち上がり、味噌汁の椀を私に浴びせた。
「こんなまずい味噌汁しか作れないくせに、何を言ってるんだ?」

味噌汁はインスタントだった。味が気に入らないなら、メーカーに文句を言うべき案件だ。私は呆れて、黙って片付け、シャワーを浴びて出勤した。帰宅後は、機嫌の悪い彼と長時間過ごすのが面倒だったので、いつもより手の込んだ夕食を作った。彼は満足して、朝のことは何も言わなかった。

彼の言動はエスカレートしていった。私の仕事を辞めさせることに執着し、帰宅時間や休日の予定を細かく確認するようになった。会社の飲み会に行けば嫌な顔をされ、同僚の男性の名前が出れば機嫌が悪くなる。ある日、彼が会社に突然現れた。
「まだやめてないのかよ。とっととやめて家庭に入れ」

ロビーで怒鳴られ、腕を掴まれた。助けに入った上司を、彼は突き飛ばした。床に倒れる上司を見て、私は驚いた。彼は懐から封筒を取り出し、投げつけた。
「鈴は今日限りで退職します」

私の意思など無視した、退職届だった。私は彼を刺激しないため、それに従うふりをして家に帰った。玄関で腕を掴まれ、二階の物置に押し込まれてしまった。鍵は外側からかけられていた。

物置には元々鍵などなかった。彼が秘密裏に設置したのだ。つまり、以前から私を閉じ込めるつもりだった。私は狭い物置で、一晩過ごすことにした。恐怖で眠れないかと思ったが、私は昔から図太い。翌朝、扉を蹴って起こされ、「仕事に行くから、それまで反省してろ」と言われた。

彼が出勤した後、私は物置の窓から外を見た。二階だが、足場は安定している。私は子供の頃から木登りが得意だった。窓枠に足をかけ、屋根に移り、庭へ飛び降りた。着地は完璧だった。

その瞬間、背後で車のドアが閉まる音がした。振り返ると、忘れ物を取りに戻ったらしい広むが立っていた。彼は猛ダッシュで駆け寄り、私の髪を掴んだ。痛い思いをしながら、私は離婚届を突きつけられた。彼の名前はすでに署名されていた。
「この俺と別れたくないだろう。分かったらさっさと物置に戻れ」

数十秒、私は黙って考えた。そして、離婚届を強く握りしめた。
「ありがとう。じゃあ離婚で」

彼を振り切って、全速力で走った。道の途中で転んだが、気にしなかった。たどり着いたのは役所だった。離婚届を提出した。時間にして、十分もかからなかった。

あの日のことを思い出しながら、私は車を運転していた。横には、広むと彼の新しい妻だというケナという女性が乗っている。二人とも、無言のまま窓の外を見ている。

「この場所の名称は、昭和パークと言うんだ。両親の会社が手がけている、昭和の街並みを再現した実証実験施設でね」

私はハンドルを切りながら、目の前に広がる古い商店街を説明した。シャッターが閉まった店舗も多いが、これは再現された「昔の商店街」だ。映画のセットというよりも、もっと徹底している。実際に存在した建物を移築したり、当時の物を買い取って並べている。洗濯物は毎日入れ替えている。スタッフが干しているのだ。共同井戸は地下水を使っている。病院や郵便局もある。すべて、本物を作っている。

私たちが住んでいた家は、決して大きな家ではなかった。彼は自分の実家について何も話さなかったし、私も聞かなかった。私が実家について話さなかったのは、ただ単に興味を持たれなかったからだ。彼は、私が離婚した後、ボロアパートで惨めに暮らしていると思い込んでいた。それを嘲笑うために、見に来たらしい。

「どうして、そんな情報が入ったんだ?」と広むが尋ねた。
「行きつけの飲み屋で、お前の元同僚に会ったんだ。お前が貧乏暮らしをしているって話を聞いてな」

私は笑った。その「元同僚」は、うちの姉・里子が仕込んだ役者だ。バスやタクシーまで、すべて仕込みだった。
「全部、うちの姉の計画なんだよね。もちろん、あんたたちがここに来ることも、全部見越していた」

私は車を止めた。アパートの前には、一台のポルシェが停まっていた。サングラスをかけた女性が、すっと長い脚を車から出した。私の姉・さ子だ。

「やっと会えたわね。私の天使の鈴ちゃんを傷つけた最低野郎は、あんたね」

さ子は広むをぐるりと見回した。
「思ったより普通ね。もっと角とか生えてるかと思ったけど」
「人間だよ、一応」
「でも、あんたを監禁した男よ」
「そこは否定できないね」

さ子の視線は、ケナに向いた。
「あなたも久しぶりね。高校の卒業式以来かしら」

ケナの顔色が変わった。なんと二人は高校の同級生だった。ケナは一方的にさ子に敵対心を抱き、何かと突っかかってきていたらしい。さ子は、ケナの嘘を暴いた。
「彼女、年齢をサバ読んでるのよ。私たち、今年で四十歳になるもの」

広むは絶句した。ケナは三十歳だと言っていたのだ。彼は騙されていた。今度は二人が揉め始めた。そこでさ子が、写真が入った封筒を取り出した。私はしゃがんで、一枚拾った。

そこには、高級レストランの前で腕を組む二人の姿が写っていた。撮影日は、まだ私と広むが婚姻関係にあった時期だ。

「問題は、あんたたちが鈴との結婚中から関係を持っていたってことよ」

広むとケナは、顔から血の気が引いた。さ子の調査で、浮気の事実はすべて明らかになっていた。ホテルやレストランに行く二人の写真。ケナのSNSには、既婚者の男性から贈られた高級ブランド品の写真が、匂わせ投稿として残されていた。

「弁護士にも相談済みよ。慰謝料はしっかり請求するからね」
「待てよ。お前の実家は金持ちなんだろ! 慰謝料なんて必要ないだろう!」
「さっき自分で言ったでしょ。『親が金持ちでも、お前自身は何も偉くない』って。だから、ちゃんと支払ってもらうよ」

私は淡々と告げた。親の資産は親のもの。私は私だ。彼がその言葉で反論できないことを知っていた。

すると、広むが突然、私の前で膝をついた。
「お前、悪かった。全部、ケナに唆されたんだ。俺は本当はお前とやり直したいと思ってる」
「無理だよ」
「どうしてだ! 俺たちは夫婦だったんだぞ!」
「私、もう別に付き合ってる人がいるから」

私は、両親の紹介で出会った人のことを話した。穏やかで、人の話を最後まで聞いてくれる人。私が研究で遅くなっても、ちゃんと応援してくれる人。広むが残業を嫌ったことも、私が家事を完璧にこなさないと怒ったことも、全部を否定しなかった人だ。
「ご飯を作ってくれたら、いつも『ありがとう』って言ってくれる。インスタントの味噌汁を『まずい』って言って、頭からかけたりしない」

廣むは、地面に崩れるように座り込んだ。私はそれを見て、何も感じなかった。

その後、さ子が呼んだ車に二人は乗せられ、敷地の外へ運ばれた。あのような人たちと関わって、私の心は波立たなかった。それよりも、お腹が空いたという現実の方が勝っていた。

「今日の夕食、ビーフシチューだってお母さんが言ってた」
「嘘。楽しみ!」

私はさ子のポルシェに乗り込んだ。実は、ベンツもさ子の所有物だ。私は車の運転ができないので、移動は使用人任せだ。私たちは穏やかな夕食が待つ家へ帰った。

あれから、広むは私への強迫めいた接触を続けたが、さ子が動いた。広むの勤務先に内容証明を送り付けたのだ。浮気の事実、慰謝料の未払い、離婚後の迷惑行為などが記されたその文書は、会社中に広まった。上司からの評価は急落し、大型案件でミスを犯した彼は左遷された。その後、同期に暴行して解雇された。

今の広むは、引きこもりになったと聞いている。家の中はゴミで埋まり荒れ放題で、ある日、出火したゴミの山から助け出されて、全身に大火傷を負った。彼のその後を、私は詳しく知らない。

ケナは、両親に泣きついて慰謝料を支払ったが、両親とは縁を切られた。そんな時、高校時代にさ子に付きまとっていて、ケナに勘違いさせた男が現れた。ケナは逃げたかったが、男は強引だった。結局、彼女はその男と結婚し、仕事も辞めさせられたらしい。

あれから、私の生活は順調そのものだ。研究員としての仕事は楽しく、恋人との関係も良好だ。実家の両親は相変わらず過保護で、たまに研究室まで差し入れが届く。さ子は、いよいよ昭和パークの建設に本格的に着手した。完成したら、恋人を連れて真っ先に見学に行く予定だ。

あの結婚生活は、決して楽しいものではなかったけれど、おかげで本当に大切なものが何かを知ることができた。私は今日も、自分の好きな仕事をして、好きな人たちに囲まれながら、前へ進んでいる。

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