「ただいま」って言ったら、あの日から、俺の家に、好きな人とその娘さんが住んでるんだ。35歳の独身で、恋愛経験ゼロの俺に、人生で1番の奇跡が起きた。納品先の事務さんだった、あなさんが、会社の倒産で家を失って、野宿生活を送っているのを、母と2人で拾ったんだ。「まさか、まきおさんに、こんな姿を見られてしまうなんて」って、初めて見せた彼女の弱った顔に、俺は何もできなかった。それなのに、俺の母は言った…

「ただいま」って言ったら、あの日から、俺の家に、好きな人とその娘さんが住んでるんだ。35歳の独身で、恋愛経験ゼロの俺に、人生で1番の奇跡が起きた。納品先の事務さんだった、あなさんが、会社の倒産で家を失って、野宿生活を送っているのを、母と2人で拾ったんだ。「まさか、まきおさんに、こんな姿を見られてしまうなんて」って、初めて見せた彼女の弱った顔に、俺は何もできなかった。それなのに、俺の母は言った...

納品先の事務さんに会うのが、俺の唯一の楽しみだった。俺は35歳。実家で母と2人暮らしの独身だ。恋愛経験もなく、毎日仕事と家の往復だけの人生。そんな俺にとって、取引先のまるまる工業で働くあなさんに会う時間だけが、ひときわ輝いて見えた。

「今日は真夏並みに暑くなるそうなので、こまめに水分補給をして頑張ってくださいね」

そう言って笑うあなさんは、30歳のシングルマザーで、仕事もできて愛想もいい。いつも明るく笑う、文句の付け所のない女性だった。俺はその笑顔に癇されながら、長年、何も伝えられずにいた。

だから、彼女との別れは突然訪れた。

の会社の部品を納品に行くと、社長が神妙な顔で言った。「まるまる工業が倒産した」。あまりにも突然のことだった。経営状況がかなり悪かったらしいという話だが、俺には信じられなかった。あなさんは大丈夫だろうか。幼いあい子ちゃんを抱えて、どこでどうしているだろうか。個人的な連絡先も、住んでいる場所も知らない。こうなることなら、あの日スーパーで会った時に、連絡先を交換しておけばよかった。俺は後悔したが、もう遅かった

それから2ヶ月が経ち、季節は真夏になっていた。日曜日の夕方、母と久しぶりに外食をして、駅前の蕎麦屋から家に向かって歩いていた時だった。母がぽつりとこぼす。「この年になっても、休日に息子と2人で食事なんて。嬉しいんだか悲しいんだか。せめてデートする相手がいればいいんだけどね」。「会社に合とかないの?」「うちは町場だよ。そんなのないよ」。情けなくなって、俺は適当に流しながら歩き続けた。すると近所の公演を通りかかった時、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「ママ、暑い」。「ごめんね」。思わず立ち止まる俺に、母が不思議そうに問う。「どうしたの?」「聞き覚えのある声がして」。俺は構わず公園の中へ足を踏み入れた。すると、ベンチに座っているあなさんとあい子ちゃんが目に入った。驚いた。2人はすっかり変わり果てていた。着ている服は汚れ、髪は乱れ、顔色は悪く、げっそりと痩せていた。手にはスーツケース。あい子ちゃんは大きなリュックを背負っている。「あなさん、どうしてこんな所に?」あなは俺の顔を見て、みじめそうにうつむいた。「まさか、まおさんにこんな姿を見られてしまうなんて。情けないです」。母が後ろから追いかけてきて、2人を見てすぐに事情を悟ったらしい「あなたたち、うちに来なさい」。母は勝手にそう言い出した「社で暮らしていたんですが、会社が潰れて、そこからも追い出されてしまって」「なら、なおさらだ」。母はきっぱりと言った

家に着くと、母は2人にそうめを作ってやり、風呂に入らせ、着替えを貸してやった。2人はよほど空腹だったのか、そうめをあっという間に平らげた。落ち着いてから、あなはぽつりぽつりと話し始めた 「社長が副業に手を出して、会社の資金を使い込んでいたんです。その副業が失敗して、夜逃げしました」。社員にも何の知らせもなく、突然の倒産だったという。「それから、私たちには行く当てがなくて」。元夫は離婚届けを置いて不倫相手と失踪したきり。両親は早くになくし、頼れるのは5歳年上の兄だけだが、その兄は酒とギャンブルで借金を抱え、会うたびに金を借りたいと言ってくる人だった。「だから頼ることもできなくて。。社を追い出されてからは、ホテルやネットカフェを点々として、ゆうべは公園や橋の下で野塾していました」。貯金も尽きて、仕事も子連れでは見つからなかった。「あい子には、辛い思いをさせてばかりで」。母は目に涙を浮かべて聞いていた。「シングルマザーで子供を育てるだけでも大変なのに、この暑さの中の野塾だなんて」。「でも、もう心配しなくていいわ。生活が落ち着くまで、ずっとここにいなさい」。母は続けた「私も、ダメ夫と別れてから、1人でまきおを育ててきたんだよ。その時、助けてくれた人がいたの。中学の同級生だった、えみ子って人に」「えみ子さんって、まさか」「そう、あなたの会社の社長よ」。母は夫をなくしたばかりのえみ子に、しばらく家に止めてもらい、さらに交場の事務として雇ってもらったという「だから、私も同じように困っている人がいたら、手を差し伸べてあげなきゃって、ずっと思っていたの」。あなの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。「お母さん」「よく頑張ったわね」。母は自分の娘のように、あなをしっかりと抱きしめた

その日を境に、俺の毎日は一変した。朝起きると、台所には母とあなが並んで立っている。「まきおさん、おはようございます」「あなさん、おはようございます」。あなと一緒に暮らしているなんて、何日経っても信じられなかった。食卓には、母とあなが作った焼き魚、卵焼き、味噌汁が並ぶ。「うーん、今日の朝ご飯も美味しいです」。あなの作った卵焼きを食べて、俺は思わず感動した。母が笑う「あなさんが来てから、食欲がすごいわね」。朝食を終えると、俺は仕事へ。、あなはあい子ちゃんを保育園に連れて行く。社を追い出されてから、あい子ちゃんは保育園に通えていなかったのだが、あまりにかわいそうだということで、俺と母が月を出して再び通わせることにした。あなは申し訳なさそうにしていたが、あい子ちゃんのことを思って、受け入れてくれた

そしてあなは10時ごろ、パートとしてうちの交場にやってくるようになった。社長のえみ子さんに事情を話すと、「うちで働きなさい」と言ってくれたのだという。事務として働き始めたあなは、即戦力として大活躍をした。仕事ができる人だとは知っていたが、ここまでとは思っていなかった。俺が仕事を終えて家に帰ると、あなとあい子ちゃんが明るく出迎えてくれる「まきおさん、お帰りなさい」「お帰りなさい。今日もお仕事お疲れ様です」。笑顔の2人に迎えられると、まるで天国にいるように癇される。以前は仕事後に飲みに行くこともあったが、今はまっすぐ家に帰るようにしている。それくらい、みんなで食べる夕食の時間が、本当に楽しくて幸せだったんだ

4人で賑やかに食事をするというのが、母子家庭で育った俺にとっては初めてで、とても新鮮だった。あなは優しくて、料理も上手で、娘のことを1番に考えている。母親としても、本当に素晴らしい女性だ。俺は、彼女への気持ちを確信した。でも、そんなことを本人に伝える勇気はなかった。女性とまともに付き合ったこともなければ、告白すらしたことがない。そんなモヤモヤしたまま、月日は流れていった

ある休日のことだった。俺たちは4人でファミレスに出かけ、帰り道、家の前に見たことのない男性が立っているのを見つけた。小柄で、俺と同い年ぐらいの男。しかし、なぜかその男を見て、あなが驚いた顔をしている「お兄ちゃん」。え、お兄ちゃん?「おお、久しぶりじゃねえか」。あなの兄だった。探偵に頼んで、俺たちの居所を突き止めたという「あけなから金を借りようと思ってな」。「久しぶりに会ったのに、結局お金」。あなが呆きれた様子で言う。「仕方ねえだろ。あなくらいしか、金を貸してくれるやつがいないんだから」「どうしてそんなにお金がいるの?」「今度こそ、ちゃんと人生をやり直そうと思ってな。だから、その先行投資だと思って、金を貸して欲しいんだ」「だったら、探偵に使ったお金をそれに使えばよかったでしょ」「ガタガタうるせえな。妹なんだから、兄に金くらい貸せよ」。むちゃくちゃな言い分にあなは困り果てていた。「お兄ちゃんにお金を貸すなんて、無理よ。私だって、最近勤め先が倒産しちゃったのよ」。必死で説明するあなだが、兄は聞く耳を持たない「お前の苦労話なんてどうでもいいから、さっさと金を出せよ」。そう言って、兄はあなの腕を強引に掴んだ。「ちょっと、やめて」「ママ」。あい子ちゃんが2人を引き離そうとする。「子供が邪魔すんな」。兄はあい子にまで手を出そうとした。その瞬間、俺の輪袋の線が切れた「いい加減にしてください。あなた、それでもあなさんのお兄さんですか?あなさんは離婚してから、たった1人で働きながら、あい子ちゃんを育ててきたんですよ。会社が倒産してからも、必死で頑張ってきたのに」。俺は兄の前に立ちはだかった「これ以上、彼女に辛い思いをさせないでください」「ふん、お前がかばってやるってのか?探偵から話は聞いてるよ。ここの家の1人息子だろ」。あなが隙を見て、兄の手を振り払うと、母があなとあい子ちゃんを呼び寄せた。「あんた、あけなの何なんだ?彼氏か?」「彼氏ではない」。でも、彼女のことは大切に思っています」。兄は嘲笑した「彼氏でもない部外者なら、そこをどけよ。俺は、あけなに用があるんだ」「どきません」。俺は兄をまっすぐに見つめた「僕が、あなさんたちを守るので」。「ふん。痛い目見ないとわかんねえみたいだな」。2人が睨み合っていると、母が近づいてきて、突然、兄に向かって説教を始めた「あんたね、あなさんのお兄さんなら、彼女を見習ってしっかりしなさい」。見てごらんなさい。あんたの妹も、その娘も、今にも泣きそうだよ。いい年して、妹からお金を借りるなんて、情けないんだよ」。兄は顔を真っ赤にして震えている「う、うるせえ」。そう言って、兄はなぜか俺の胸倉を掴んできた。しかし俺は喧嘩もしたことがない。こんな小柄な男でも、勝てるわけがない。殴られるのを覚悟して目をつぶると、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。揉め事だと思った近所の人が、通報してくれたらしい。兄はその場から連れて行かれた

警察での事情聴取が終わり、家に戻ったのは夜遅い時間になってしまった。母は相当疲れていたのか、すぐに眠ってしまった。リビングには、俺とあなさんの2人きりが残った。「さっきは本当にごめんなさい」。あなは深く頭を下げた「まおさんにも、お母さんにも、ご迷惑をおかけしてしまいました」「そんな謝らないでくださいよ」。悪いのは、あなさんじゃなくて、お兄さんの方じゃないですか?」「これからも、僕が、あなさんのことを守るので。安心してください」。”夫さんは、どうしてそこまで親切にしてくださるんですか?” そう聞かれ、あなに見つめられた瞬間、俺は覚悟を決めた「あなさんのことが好きだからです」。俺はついに、思いを伝えてしまった「一緒に暮らすようになってから、この気持ちに気がついたんですけど、僕はきっと、もっと前から、あなさんのことが好きだったんです」。部品を納品するたびに、あなさんの笑顔を見て癒されていました。「優しくて、あい子ちゃんのことを大事にしていて、仕事もできて、本当に素敵な人だなって思ってます」。あなさんの作ってくれる卵焼きも大好きです」。すると、あなも気持ちを伝えてくれた「まきおさんの方が、素敵な方だと思います」。優しくて穏やかで、あい子のことも大切にしてくれるし、お母さんのことも大事にしている。「前の夫よりも、ずっと素敵な男性です」。でも、私はバつきですし、困った兄もいます」。”それでも、こんな私でいいんですか?”「そんなの関係ありません」。僕だって、今まで恋愛経験もなくて、かっこよくもない。 収入がいいわけでもありません」。「そうでしょうか」。えへへ、さっきの、まきおさんは、とてもかっこよかったですよ」。そう言われ、俺は顔を真っ赤にした「私を守ってくれた時、すごくかっこいいと思いました」。それに、私もいつも、まきおさんの笑顔に癒されてましたよ。「納品に来てくれる、まきおさんとおしゃべりするのが、私にとっての癒しでしたから」。あなの頬も赤く染まっている。「だから私も、まきおさんのことが好きです」。俺は頭を下げながら、手を差し出した「改めて言います。僕と、結婚を前提に、お付き合いをしてください」。あなは、その手を優しく包んでくれた「こちらこそ、よろしくお願いします」。まるで、夢を見ているかのような一時だった

翌日、俺はすぐに母とあい子ちゃんに、恋人になったことを報告した。母は目を輝かせて喜んだ「あなさん、ありがとうね」。まきおは、このままずっと1人身なのかと心配だったのよ」。あい子ちゃんも、なんとなく話は理解できたみたいで、嬉しそうにしていた「まきおさんのこと、パパって呼んでもいいの?”「え、それは嬉しいけど、まだ…」「パパだ!パパだ!」。突然パパと呼ばれるのは、なんだか恥ずかしかったけど、嬉しかった

付き合い始めて1年が経った頃、俺たちは結婚した。結婚式には、社長のえみ子さんを始め、会社のみんなも出席してくれた。今でも、同じ交場で共働きをしながら、幸せに暮らしている。そして実は、現在、あなさんのお腹の中には、新しい命が宿っている。医師の診察によると、男の子らしい「あなさん、あまり無理しちゃだめだからね」「うん、私も、いっぱいお手伝いするね」。家族が増えるから、そろそろ家もリフォームするか。そう話すと、あなも満足そうに笑った 大黒柱としての重圧を感じることもあるが、俺がそんな立場になれたことを、嬉しく思っている。これからも家族みんなで協力し合って、幸せな家庭を築いていけるといいな

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