「孫の会社に発注するから、1億の取引は中止で。」
俺の目の前で、元受け会社の新社長・島田があっさりと言い放った。悪いけどさ、会社の方針なんで。今後は孫の工場に頼むことになったから、お前のとこにはもう発注しないよ。
軽い調子で笑いながら、島田は続けた。俺の会社は10年間、誠実に納品を続けてきた。品質管理は徹底し、納期は厳守。絶対に手を抜かない。そうして築いてきた信頼を、まさかこんな一言で切り捨てられるとは思わなかった。
「まあ今までご苦労さ。じゃあ、取引終了ってことで。」
島田はまるで他人事のように笑っていた。俺の技術と誠意を、そんな軽い言葉で否定された。怒りで震えそうになる声をなんとか落ち着け、静かに島田を見据えた。
「そうですか。では、2度と納品しませんよ。」
この言葉の意味を島田が思い知るのは、少し先のことだった。
俺の名前は伊藤領、45歳。小さな精密機械部品の製造工場を経営している。妻と高校生の娘との3人家族だ。結婚して20年になるが、今でも夫婦仲は良好で、妻は工場の経理も担当してくれている。独立した頃から苦楽を共にし、忙しい時期も「大丈夫、私が支えるから」と笑ってくれた。彼女がいなければここまでやってこられなかっただろう。
元々は大学を卒業してから大手メーカーに就職した。そこで最先端の技術を学び、精密加工の腕を磨いた。だが会社の経営方針が変わり、コスト削減のために俺の得意とする精密加工は次第に軽視されるようになる。「品質よりコスト」と言われるたびに、不満が募っていった。
そんな時、取引先の技術者から声をかけられた。「その技術なら独立してやっていけるんじゃないか」という言葉がきっかけで、俺は思い切って会社を辞め、小さな工場を立ち上げた。最初は苦労の連続だった。資金は少なく、機材は中古ばかり。仕事を取るのも一苦労で、寝る間も惜しんで働いた。
だが俺は品質だけは絶対に妥協しなかった。その姿勢が徐々に評価され、やがて大手メーカーの部品供給を任されるようになった。特にある製品に関しては、俺の工場の精密加工技術がなければ成り立たないと言われるまでになった。納期は厳守、品質管理は徹底。誠実に仕事を続け、信頼を築いてきた。
さらに数年前から、俺の工場で試作していた新型部品がついに大手メーカーの目に留まった。耐久性、コスト、精度、全てにおいて従来品を上回る画期的な部品だった。大手メーカーの開発担当者から採用したいと言われたのは1週間ほど前のこと。これが決まれば売上は一気に倍増する。長年の努力が実を結んだ瞬間だった。開発には相当な時間とコストをかけてきた。試作を何度も繰り返し、細かい仕様を改良しながらようやくたどり着いた製品だ。この新型部品は特殊な加工技術が必要で、俺の工場にしか対応できない製造ラインが整っている。つまり、契約さえ決まれば今後数年間は安定した受注が見込める。従業員たちも大喜びだった。みんなこの開発のために必死に働いてくれていた。俺だけの成果じゃない。工場のみんなで掴んだチャンスだった。
仕事も家庭も順調……と言いたいところだが、今年になって悩みの種ができた。それは、うちの製品を納品している元受け会社の新社長の存在だ。元受け会社の社長が交代してから、俺への扱いが明らかに変わった。
前任の社長は堅実な経営者で、品質を何よりも重視していた。そのため俺の工場にも高い技術を求めたが、その分正当な対価を払ってくれたし、何より信頼してくれているのが伝わってきて嬉しかった。おかげでうちの工場も安定して成長することができた。
だが島田に変わってから、状況は一変した。彼は現場のことを何も分かっていないくせに、ただコストカットと利益の最大化ばかりを考えているような人物だった。彼が社長になってからというもの、俺の工場には嫌がらせのような仕打ちが次々と襲いかかってきた。
まず、今まで安定していた発注数が急減した。月に1000個納めていた部品について、突然200個に減らすと一方的に通達されたのだ。
「いや、そんな急に減らされたら、うちの生産計画が……」
俺が抗議しても、島田の答えは冷たかった。
「知らねえよ。それはそっちの都合だろうが。」
さらに嫌がらせは続く。
「お前の工場、随分儲かってるみたいだな。だったら次回から納品価格を3割下げてもらおうか。」
「申し訳ありませんが、それは難しいですね。」
「は?何が難しいんだよ。お前んとこ、うちの仕事で成り立ってんだろ。」
俺が反論すると、島田はあからさまに不機嫌な声で言う。
「確かに御社との取引は大きな比重を占めていますが、うちは品質を第一に考えています。無理な値下げは品質の低下につながります。」
「下請けのくせに口応えばっかりしやがって。今に後悔するぞ。」
俺の返答によほど腹が立ったのか、島田は顔を真っ赤にして捨て台詞を吐き去っていった。その日からさらに嫌がらせはエスカレートしていった。
「納品、1週間早めろ。」
島田から突然、そんな無茶な要求が飛んでくることもあった。
「1週間ですか?さすがに厳しいです。品質を維持するためには、これ以上の短縮は無理です。」
俺がそう答えると、島田は露骨に不機嫌な顔になる。
「品質ってうるせえな。多少悪くても、安くて早い方がいいに決まってるだろう。」
この時点で、島田が何を考えているのかが透けて見えた。彼にとって品質など二の次なのだ。さらに数日後、今度は食事の席に突然呼び出された。
「社長の俺がわざわざ来てやってるんだ。いい店で飯くらい奢れよ。」
島田は当然のようにそう言った。
「申し訳ありませんが、そういうお付き合いは遠慮します。」
「そんなだから、いつまでも下請けなんだよ。」
島田は心底馬鹿にしたように笑った。こんな嫌がらせが続く日々にうんざりしていたが、ある時からぱったり島田からの連絡が途えた。やっと嫌がらせにも飽きたのかと、俺はほっと胸を撫で下ろしていた。しかし、自分のこの考えが甘かったと、俺は思い知ることになる。
「うちの孫、すごいんだよ。起業したばっかりなのに、もう大手と取引しようとしててな。」
久しぶりに姿を現した島田は、ずっと孫の自慢話をしていた。
「へえ、それはすごいですね。」
俺が適当に返すと、島田は満足そうに頷いた。
「若い奴の方が勢いがあっていいよな。年寄りの職人は時代遅れだろう。」
この自慢話はいつまで続くんだろうとうんざりし始めた頃だった。
「ということで、孫の会社に発注するから、1億の取引は中止で。」
島田の口から、そんな言葉が続けられた。
「悪いけどさ、会社の方針なんで。今後は孫の工場で製造することになったから、お前のとこにはもう発注しないよ。」
軽い調子で笑いながら、島田は続けた。
「まあ今までご苦労さ。じゃあ、取引終了ってことで。」
「今更後悔しても遅いんだよ。俺の言うことを聞いていれば、こんなことにならなかったのにな。」
島田は俺が黙っているのは取引が中止になりショックを受けているせいだと勘違いしているのか、勝ち誇った顔で言う。
「そうですか。では、2度と納品しませんよ。」
俺は静かに島田を見据えて言った。
「ああ?……いやいや、そうか。強がってるんだな。確かお前のところ、新型部品の契約が取れそうなんだって?あれだよな。うちとの契約が切れたら、資金的にまずいんじゃないか。でもまあ、うちには関係ないことだからな。せいぜい頑張れ。」
得意げに言う島田の顔を見て、わざとこのタイミングで取引を中止させたんだと分かった。満足そうに去っていく島田の後ろ姿を、俺は醒めた気持ちで見送った。
それからわずか1ヶ月後、俺の元を思いもよらない人物が訪ねてきた。島田の会社の幹部たちだ。彼らは俺の工場の玄関で、ひどく疲れた様子で「どうかもう一度取引を再開してくれないか」と頭を下げた。島田の孫の工場が納品した部品が全く使い物にならないと、ため息混じりに言う。
俺はそれを聞いて、「そうだろうな」と思った。俺たちが何年もかけて品質を確立した部品を、実績もない駆け出しの会社がいきなり同じ品質で作れるはずがない。納品された部品は全体の半数が基準を満たしておらず、取引先のメーカーからもクレームが殺到しているそうだ。島田に報告しても「品質管理が甘いだけだろう」と取り合ってもらえないらしい。このままでは会社の存続すら危ういと思った彼らは、こうして俺に泣きついてきたというわけだ。
「いや、もう御社とは取引しませんよ。」
話を聞きながら、俺はゆっくりとコーヒーを飲み、彼らを見ながら言った。俺の言葉を聞き、幹部たちの顔が絶望に染まった。その時だった。
「ま、待ってくれ!」
突然工場の扉が開き、慌てた様子の島田が飛び込んできた。顔は青ざめ、髪も乱れ、以前の余裕は完全に消え去っていた。
「い、頼む。取引を再開してくれ。」
息を切らしながら、島田は俺の前で土下座した。
「孫の会社じゃ部品をまともに作れないんだ。納期も間に合わない。このままじゃ、うちの会社が倒産してしまう。」
「うちとの取引を中止だと言い放ったのは、そちらです。どんなに頼まれても、御社とはもう仕事はしない。」
俺は淡々と言った。
「な、なんでだ?取引してやるって言ってんだ。お前の工場も困ってるんだろう。だったら手を組めばいいじゃねえか。」
島田は突然強気な口調で言ってくる。そんなにすぐに人間性は変わらない、ということだ。この後に及んで、俺をただの下請けだと下に見ているのだ。
俺はふっと笑った。
「島田さん、あの時俺に何て言いましたっけ?」
「え?」
「『孫の会社に回すから契約終了な』でしたよね。」
島田は顔を引きつらせた。
「そう言われたから、俺は『2度と御社には納品しませんよ』と伝えたんです。その気持ちは変わりませんよ。」
島田はしばらく絶句していたが、やがて涙声で懇願し始めた。
「頼む。そんなこと言わずに。一緒に仕事をしてきた仲じゃないか。」
俺はその言葉に怒りが湧いてくるのを感じた。
「そうですよ。俺は10年間、誠実に取引をしてきました。御社とは強い信頼関係が築けていると、そう信じていました。それをたった一言で切り捨てたのは、あんたの方だろう。」
俺は自分でも信じられないくらい低い声で言った。島田は唇を震わせ、地面に膝をついた。だが俺の心は微塵も揺らがない。
「それに島田さん、うちの工場は全く困ってませんよ。」
俺はにっこりと笑いながら言ってやった。島田は顔を上げ、愕然とした表情で俺を見つめてくる。
「え?何?」
「うちはすでに、元受けを通さず直接契約を結びましたから。」
俺はポケットから1枚の契約書を取り出した。
「御社が取引を切ったことで、最終顧客の大手メーカーが直接取引を申し出てくれました。おかげで利益は以前の比じゃありませんよ。」
島田の顔が絶望に染まる。
「そ、そんな……お前の会社が倒産しようが、俺には関係ない。だ、頼む。俺が悪かった。助けてくれ。」
「いや、もう御社とは取引はしない。あんたが孫を贔屓に切った時点で、もう運命は決まってたんだよ。」
涙を流しながら土下座する島田を見下ろし、俺ははっきりと言い放った。幹部たちが息を飲むのが分かった。島田は顔を真っ赤にし、その場に崩れ落ちた。
結果、島田の会社は最も大きな契約を失い、一気に資金繰りが悪化した。そこから先は、まさに転落の一途だった。島田の孫の工場は元々技術も経験もない素人集団だ。当然まともな製品が作れるはずもなく、代わりに取引した他の中小企業からもクレームが殺到した。品質の悪さが原因で、島田の会社の信用は一気に崩れた。最終顧客を失った影響で、島田の会社にぶら下がっていた他の取引先も次々と離脱。さらに孫の会社に仕事を回し、自社ブランドの部品製造を目指していたようだが、全てが裏目に出た。孫の会社は技術力不足のため不良品を連発。結果、最終顧客である大手メーカーは激怒し、島田の会社との取引を即座に打ち切った。他の取引先からも次々に契約解除が突きつけられ、島田の会社は完全に資金繰りが破綻した。
銀行への融資の返済も滞り、差し押さえの連絡が次々と届いた。島田は焦って借金を申し込んだようだが、どこへ行っても門前払いだったそうだ。かつて彼に媚びへつらっていた幹部たちも、会社が危なくなるとさっさと逃げ出し、島田は完全に孤立した。そして島田の会社は、半年も持たずに倒産した。自宅も差し押さえられ、豪邸から一家全員が追い出されたと聞いた。島田に手を差し伸べる人間は誰もいなかった。頼れる知人も、かつての部下も、みんな離れていったそうだ。
とある公園のベンチに、ボロボロの服を身にまとった島田がうなだれて座っているのを偶然見かけたことがあった。家族からも攻め立てられ、ついにはホームレス同然の生活に落ちたという噂を聞いていたが、事実だったようだ。俺は声をかけることなく、その場を去った。
一方で、俺の工場は大きく発展を遂げた。島田が俺を切り捨てたことで、逆に大手メーカーが直接取引を持ちかけてくれた。それにより中間マージンがなくなり、利益率は倍増。「うちの工場なら安心して取引できる」と、メーカーの担当者からも信頼を寄せられるようになった。さらに俺はこの機会に設備投資を大幅に強化し、生産能力を引き上げた。最先端の機械を導入し、従業員の待遇も改善。工場内は活気に溢れ、従業員たちもみんな笑顔だ。俺の工場は、元受け会社が倒産する頃には県内でもトップクラスの部品メーカーになっていた。
そしてある日、俺の元に新たな申し出が舞い込んだ。元受けだった島田の会社の跡地を買い取らないか、という話だ。かつて島田がいり散らしていた本社ビルも工場設備も、全てが売りに出されていたのだ。俺は少し考えた後、笑って答えた。
「いいですね。うちの第2工場にしましょう。」
島田が社長していた会社の跡地に、俺の会社の看板が掲げられる。この瞬間、俺の勝利が決定的になった。島田のいた会社は完全に消滅し、俺の工場はさらに成長を遂げたのだ。俺の元には新たな大口の契約が次々と舞い込んでいた。
人生は何が起こるか分からない。しかし、誠実に努力を重ねた者が最後に勝つのだ。俺は工場の中で機械が規則正しく動く音を聞きながら、静かに微笑んだ。



