母が私に「姉の代わりに、あの宿の主人のところへ行け」と言った日、私は21年間ずっと抱えてきたある秘密を胸の奥に隠していた。私はただ俯いて「はい」と答えた。それが、私の人生を変えるとは知らずに。…

母が私に「姉の代わりに、あの宿の主人のところへ行け」と言った日、私は21年間ずっと抱えてきたある秘密を胸の奥に隠していた。私はただ俯いて「はい」と答えた。それが、私の人生を変えるとは知らずに。...

母が姉と一緒に私の前に現れた時、私は客室の隅で床の間の花を生け替えていた。祖母から受け継いだその習慣は、私がこの山奥の宿「花の湯」で生きていくための、たった一つの拠り所だった。

「みよ、お前には悪いがな。姉の代わりに、この宿の主人のところへ行ってほしい」

母は用件だけを済ませるように、淡々とそう言った。姉はというと、窓の外を見たまま、こちらを振り返りもしない。彼女にとって私は、捨てる用事を押し付ける便利な駒でしかないのだ。21年間、ずっとそうだった。姉の失敗も、姉の責任も、すべて私が背負わされてきた。私はただ俯いて、「はい」とだけ答えた。逆らえば、この家から追い出される。そう思うと、恐怖で喉が張り付いた。

花の湯の主人、綾瀬総一郎という人は、近所でも評判の気難しい人物だと聞かされていた。何年も温泉街を放浪していたらしく、人付き合いを嫌う変わり者だという。私はその人の妻になるために、持参金として通帳を預かってきた。中には8000万円という大金が入っていた。私を買うための金だ。そう思うと、胸の奥が冷たくなった。

宿に着いた日、私は縁側に通された。そこには見事な枝振りの木が一本、植えてあった。葉はまだ青く、花は咲いていない。何の木か分からないまま、私はぼんやりとその枝を見つめていた。すると奥から、一人の男の人が現れた。総一郎さんだと思った。彼は私を見るなり、息を呑んだように立ち止まった。その目は驚きと哀しみと、そして信じられないような光を宿していた。

「すず、さん…?いや、違うな。あんたは…」

彼はそう呟いて、首を振った。私は何のことか分からず、ただ戸惑うばかりだった。彼は何も説明せず、私に一通の封筒を手渡してきた。

「これは、あんたに預けておくものだ。開けるかどうかは、あんたが決めなさい」

そう言って、彼は静かに部屋を出て行った。私は震える手で封筒を開けた。中には古びた写真と、一通の手紙が入っていた。写真には、若い女性が微笑んでいる。どこか私に似ている気がした。

「あんたが生まれるずっと前から、私はずっと待っていた。あの日、すずさんに言えなかった言葉を伝えるために。たとえどれだけの月日が流れても、私はあんたを見つけると決めていた」

手紙にはそう綴られていた。私は何度も読み返した。意味が分からなかった。ただ、涙が止まらなかった。この人は私を買ったのではなく、ずっと探していたのだ。一人の人間として。

それから数日後、両親と姉が宿に来た。彼らは私が紹介された8000万円の通帳を奪おうとしたのだ。母は食い下がった。「親にその金を渡すのが当然でしょう」と。姉も金切り声を上げた。「あんた身代わりのくせに、その金は本当なら私のものよ」と。

私は初めて、静かに首を振った。

「お母さん、お姉ちゃん。私はもう、あなたたちの身代わりでも影でもありません。このお金は、私を21年間も探し続けてくれた総一郎さんが、私のために貯めてくれたものです。あなたたちに渡すお金は、一円もありません」

以前の私は、間違いなく怯えて従っていただろう。けれど今は、違った。この宿で、私は初めて、誰かが私を私として見てくれることを知った。家族とは、こうしてお互いを温め合うものなのだと。

その時、奥から総一郎さんが出てきた。その後ろには、仲居のだえさんも、板前の藤田さんも、みんながいた。総一郎さんは両親と姉を真っ直ぐに見据えて言った。

「お引き取りください。みよさんは、身代わりなんかじゃない。私が21年間探し続けた、たった一人の人です。この人を侮辱するなら、私が許しません」

だえさんも続けた。

「あんたがた、勘違いしているようだけどね。あの縁談は、元々ここの主人のお孫さんにと願って、こちらから申し込んだ話なんだよ。誰でも良かったわけじゃない」

姉は、雷に打たれたように固まった。自分が逃げた縁談が、そもそも自分に向けられたものではなかった。その事実が、姉の最後の拠り所を砕いたようだった。父も母も、血色を失って立ち尽くしていた。

私は姉に、静かに言った。

「お姉ちゃん、私はもう、お姉ちゃんの影じゃない。これからは、私として生きていくから。お姉ちゃんも、いい加減自分の人生を生きた方がいいよ」

それは、恨みでも当て付けでもなかった。長い間姉の影で生きてきた私が、ようやく言えた別れの言葉だった。三人は何も言い返せず、すごすごと山を下りていった。私はその背中を、静かに見送った。ざまを見ろとは思わなかった。ただ、長い間縛っていた鎖がようやく解けたような、そんな静かな心地だった。

あの日々が去ってから、花の湯には穏やかな日々が戻ってきた。私は正式に、この宿の若女将として働くことになった。総一郎さんは相変わらず口数は少ないけれど、朝、私が入れたお茶を飲んで「うまい」と短く笑ってくれる。夜は、縁側に並んでただ山を眺める。言葉はなくても、同じ景色を見て同じように心を和ませる。それだけで、十分に通じ合っていた。

ある夜のことだった。私は総一郎さんと二人、縁側に座っていた。庭の木は、いつの間にか枝先に淡い紅色の蕾をつけ始めていた。私は、ずっと心に溜めていた言葉を口にした。

「私、ずっと自分のことが嫌いでした。誰かの身代わりで、影で、いてもいなくても同じような人間だと思っていました。でも、あなたはそんな私を21年も探してくれた。私が私だから選んでくれた。それがどれだけ嬉しかったか」

総一郎さんは黙って、私の話を聞いていた。

「あの8000万円は、私自身のためには使いません。この宿を守るために、そして昔の私みたいに居場所がなくて寂しい思いをしている人がここへ来た時、温かく迎えてあげられるように。そのために使わせてください」

私の言葉を聞いて、総一郎さんはふっと微笑んだ。そして、珍しくたくさんの言葉で、こう言ってくれた。

「あんたは、すずさんにそっくりだよ。手つきだけじゃない。その心根だ。すずさんも、いつも自分より人のことを考えていた。みよさん。俺とこの宿を、いや、俺のこれからの人生を、一緒に温めてくれないか。今度は身代わりの嫁じゃなく、俺の本当の妻として」

それは、もう一度のプロポーズのようだった。私は涙をこらえて、深く頷いた。

「はい。喜んで」

私たちはそっと手を重ねた。総一郎さんの大きくて温かい手。私の小さなけれど、人を温められる手。二つの手が重なると、まるであの日の幼い約束が、今ようやく果たされたような気がした。

それから、私たちはあの大金をどう使うかを話し合った。まず宿で一番古くなっていた奥の一室を、丁寧に直した。そしてその部屋に、小さな名前をつけた。「木漏れの間」。木漏れ日のように柔らかな光が差し込む部屋という意味だ。疲れた人が何も気兼ねなく、ゆっくりと心を休められるように。昔の私のように、居場所をなくして俯いている誰かのために。

その部屋の床の間には、私があの古い手ぬぐいと祖母の写真を飾らせてもらった。この宿を心から愛した一人の人がいた。その人の思いが、今もこの場所に息づいている。それを訪れる人にそっと感じてもらえたら、そう願った。

大女将のだえさんは、仏壇の前に座ると、祖母の写真に静かに語りかけた。

「すずちゃん、あんたのお孫さんは、こんなにいい娘に育ったよ。あんたが『この手は、あんたを一番幸せなところへ連れていってくれる』って、いつも言ってた。あの手はね、ちゃんとここにたどり着いたよ」

私はその隣で、静かに手を合わせた。

「おばあちゃん、私、やっとあなたの言っていた意味が分かったよ。この手は、ちゃんと私を一番幸せなところへ連れてきてくれた。ありがとう」

あの日、祖母が私の手を握ってくれた時の温もり。総一郎さんが21年間、守り続けてくれた約束。そうやってたくさんの人から受け取った温もりを、私は今度は次の誰かへと手渡している。それが、たまらなく幸せだった。

それから二年の月日が流れた。花の湯は今では、小さな宿ながら遠くからわざわざ足を運んでくれる常連さんの絶えない宿になった。私の細やかなおもてなしが、少しずつ評判を呼んでいるのだと、総一郎さんは照れ臭そうに教えてくれる。かつて気難しかったあのお客さんも、今では季節ごとに顔を見せてくれる大切な常連さんの一人だ。だえさんは腰もすっかり良くなって、今日もきびきびと仲居さんたちを指導している。

そして、この春。私たちの元に、小さな新しい命がやってきた。生まれたのは、女の子だった。抱っこすると、まだふにゃふにゃで頼りないけれど、その小さな手が私の指をぎゅっと握りしめる。その温もりに、私は何度でも泣きそうになった。この子には、私が味わったような寂しい思いを、決してさせない。誰かの身代わりにも、影にもさせない。あなたはあなたのままで、一番大切な子なんだよ。私はそう心に誓った。

私たちは、その子に「すず」と名付けた。私を一番幸せなところへ導いてくれた、あの祖母の名前だ。だえさんはその名を聞くと、しわだらけの顔をくしゃくしゃにして喜んでくれた。

「すずちゃんが、帰ってきたねぇ」

そう言って、何度も何度もつぶやいた。

実家の家族とは、あれからほとんど会っていない。ただ一度だけ、父が一人でふらりと宿を訪ねてきたことがあった。孫の顔を一目見たかったのだという。父は縁側で娘をぎこちなく抱きながら、ぽつりと呟いた。

「みよ、すまなかったな。お前は、ちゃんと幸せになったんだな」

その目には、涙が滲んでいた。私はもう、父を恨んではいなかった。ただ、「うん、私、幸せだよ」と笑って答えた。姉はというと、今もあちこちを転々としているらしい。いつかあの人も、自分の足で立てる日が来ればいい。私はただ、静かにそう願っている。

季節がひと巡りするたびに、思う。あのお見合いの日、姉が逃げ出さなかったら。私があの席で立ち上がらなかったら。私は今もあの家で、下を向いたまま生きていたのだろう。人生は本当に分からない。どん底だと思ったあの日が、一番温かい場所へと続く道の始まりだったのだから。

ある夕暮れ。私は娘を抱いて、庭の木の下に立っていた。枝には、たわわに黄色く熟した実がなっている。この実で、だえさんが毎年「のどのいい蜂蜜漬け」を作ってくれるのだ。それを旅のお客さんにお出しするのが、この宿のささやかな名物になっていた。木のそばでは、総一郎さんがまだ細い若い苗木を一本、植えていた。

「この娘が大きくなる頃には、あの小さな苗木もきっと立派な花を咲かせるだろう。その花の下で、私たちはまた笑い合っているだろうか」

そう思うと、私の胸は幸せではち切れそうになった。娘の小さな手をそっと握る。柔らかくて温かい、小さな手。ふと耳の奥に、祖母のあの優しい声が蘇る。あの日、私の手に託してくれた温もり。それは長い歳月を巡り巡って、私をこの一番温かい場所へ連れてきてくれた。そして今、その温もりはこの腕の中の小さな命へと、静かに受け継がれていく。

私はもう、俯かない。私はこの場所で、この人たちと生きていく。長い、長い冬を超えて、私はようやく私だけの温かい春にたどり着いたのだ。夕日が木の実を金色に照らしていた。宿の方から、総一郎さんが私を呼ぶ声がする。私は娘を抱いて、温かい明りのともる我が家へと、歩き出した。

Thumbnail