「ただいま」——その言葉に、私は目を見開いた。夫の大輔が、何事もなかったかのように冷蔵庫を開けている。最後に彼から話しかけられたのは、いったいいつぶりだろう。嬉しさより先に、困惑が押し寄せてきた。
私の名前は半田直子。どこにでもいる専業主婦だ。大輔とは共通の知人を通じて出会い、年齢も趣味も近かったことからすぐに意気投合した。結婚後も大きな不満もなく、穏やかな日々を送っていた。
しかし、ある日岐阜の父が交通事故に遭ったと知らせが入る。以来、私は頻繁に実家と病院を往復するようになった。けれど、その間も大輔は私を気遣う言葉ひとつかけてこなかった。いつの間にか、2人の会話は必要最低限のものだけになっていた。
だからこそ、台所で突然「ただいま」と言われたことが、心底驚きだったのだ。
彼は私の反応を気にする様子もなく、こう切り出した。
「今日、母さんから連絡があってさ。父さんの介護に必要なものがあるらしくて、20万円送ってほしいんだって」
20万円。確かに大輔の父は介護が必要な状態だった。しかし、私は首をかしげずにはいられなかった。
「でも、お父さんの介護用品は、私の弟がほとんど手作りで揃えてくれてるわよ? それに、お義母さんに直接確認してみたら?」
すると大輔は、なぜか不機嫌そうな顔でこう返してきた。
「お前は俺の母さんを疑ってるのか? 介護には相手の意思を汲み取ることも必要だろう。もっと真面目に介護しろよ」
どうして私が責められなければならないのか。大輔自身は、父の介護を一度も手伝ったことがないのに。
「わかったよ。20万円は俺から母さんに渡しておくから。なお子は何も知らないふりをしておけよ。知らぬが仏って言葉もあるんだから」
そう言われて、私はしぶしぶ20万円を大輔に手渡した。
翌日、義母に会う機会があり、私は何気なく尋ねてみた。
「お義母さん、介護用品を新しく買われる予定があるんですか?」
義母は不思議そうな顔をして、こう返した。
「介護用品? 特に買う予定はないけど。大体、何を買うのも高いから、なお子さんの弟君がほとんど必要なものを作ってくれたじゃない。あの子、本当に器用ね」
何も買う予定がない? では、あの20万円はどこへ消えたのか?
私は大輔を問い詰めた。すると彼は、目を泳がせながらこう言い放った。
「20万円? 何のこと? 知らないんだけど。そんなお金もらってないよ」
信じられなかった。私は自分の目で彼にお金を渡したのに、彼はそれを知らないと言い切ったのだ。
「証拠がないなら、なお子がなくしたんだろう」
そう言い放って、大輔はそれ以上何も話そうとしなかった。普通に暮らしていれば、家の中に監視カメラを設置するなんて考えもしない。しかし、もしかすると私は、もっと早く気づくべきだったのかもしれない。
後日、私はふとしたきっかけから大輔の携帯電話の画面を目にした。そこには知らない女性とのメッセージのやり取りが表示されていた。内容は、金銭の話し合い。そして、その女性の名前欄には「トミ」と書かれていた。
さらに調査を進めると、トミは大輔の同僚で、妊娠していることがわかった。
「お前、本当に妊娠してるのか?」
大輔はトミにそう尋ねていた。
私は震えた。遊びの女にまで裏切られ、しかも20万円も騙し取られていた。私は決意した。このまま黙っているわけにはいかない。
家の中に、小型カメラを仕掛けることにしたのだ。
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