「ごめん、待った。今から行くよ。今日は一日中一緒だよ。」
クローゼットの奥から、余裕たっぷりに浮かれた夫の声が漏れてくる。相手は同じマンションの白亜に住む副社長の由希さん。私はとっくに知っている。愚かな男。私が何も知らないと信じ込んでいるのだから。
彼らの不貞の決定的な証拠は、とっくに相手の夫である大葉さんに送り付けてある。そこから始まった私たちの静かな復讐計画は、今日、最終局面を迎える。
絶対ゴルフと大嘘をつき、花束混じりで部屋を出ていく三彦。私はベランダから非常階段へ消える姿を見届け、スマホで最後のメッセージを送る。
「802号室に侵入、計画を実行してください。」
返信はない。それが地獄の幕開けの合図だった。
数分後、上の階からドタという激しい足音と、家具が倒される破壊音が響き渡る。それに続き、うわあという悲鳴のような夫の高い声。そして私は見てしまった。ベランダの窓越しに、白い肌、生まれたままの姿。つまり全裸の夫が、宙を舞う姿を。
直後、ズガーン。駐車場の高級車に叩きつけられたのだろう。鉄と肉が潰れるおましい強音が、マンション中に響き渡った。
私は夫の葬儀で、涙を流した。周りは悲しみに暮れる遺族を演じる私を見て、気の毒そうにうなずく。しかし、心の中は平静だった。あの日、ベランダから見た光景――夫が叫びながら落下していく姿――は、私の中の何かを完全に凍らせてしまった。
葬儀の後、私は遺産相続の手続きを進めた。夫の遺書は見つからなかったが、法律上、妻である私に全ての遺産が相続される。夫は社長の座を狙っていたが、最後の最後までその夢は叶わなかった。
私はその遺産を使って、小さなカフェを開いた。かつての会社での経験、スケジュール管理の能力、細やかな気配りは、今や自分の店で存分に活かされている。常連客が増え、穏やかな日々が戻ってきた。
ある日、店の常連である老婦人が私に話しかけてきた。「あなた、昔、何かあった人ね。目が違うわ。」
私は微笑みを返した。「いいえ、ただの普通の女ですよ。」
しかし、夜になると、私はあの日のことを思い出す。夫が宙を舞う瞬間、そして、あの夫の浮気相手の反応を。
私はあの日、警察に証言した。夫の浮気を知っていたこと、そして、彼が自殺した可能性が高いと。警察は事件性なしと判断し、私は疑われることなく、新たな人生を始めることができた。
あの日に戻れるなら、私は同じことをするだろう。あの男は、私の人生を壊した。彼が私に与えた苦しみの代償は、あれだけでは足りない。
今、私は店のカウンター越しに、窓の外の風景を眺める。あの日と同じように、空は青く、雲はゆっくりと流れていく。私はそっと、カップの中のコーヒーを一口飲んだ。



