あの夜のことは、十年経った今でも夢に見る。場所は地方都市の古びた病院だった。あの日は大型の台風が直撃していて、病院にはたくさんの患者が取り残され、俺たちは交代で対応に当たっていた。俺も強志も、最後まで現場を離れることはなかった。
「おい、篠原、地下の分電盤を見てくる。お前はここで動ける患者の避難を先にやってくれ」
「一人で行く気か」
「大丈夫だ。心配するな。行ってくる」
強志は笑ってそう言った。いつものように落ち着いた顔だったけれど、その数分後に、耳を塞ぎたくなるような轟音が病院を揺らした。あの音が、今も忘れられない。
俺の名前は篠原孝。五十歳。この村に来て、もうすぐ三年になる。朝は四時半に起きる。この季節は朝焼けが山肌を赤く染める。それを見ながら黙って土を耕す。それが今の俺の全てだ。
誰も俺の素性なんて気にしない。俺も、誰にも聞かれたくない。
「おはようございます、篠原さん。今日も綺麗な畑だな」
「おはようございます」
必要最低限の挨拶だけを返す。余計なことは言わない。言えば、何かがこぼれてしまいそうだからだ。この村では、役場の紹介で農業研修生という肩書きで来たことになっている。だが実際は……いや、今はもう、ただの過去の話だ。
「今年のトマト、去年より味が濃いよな。あれ、水を絞ってるのか」
「はい。仕上げ前に水を切っています」
長谷川はそれ以上何も聞かずに笑って、畑を去っていった。この人は、空気を読むのがうまい。俺に深く入り込まない優しさが、逆に胸にしみる。畑の隅で小さく揺れているトマトの苗を見つめながら、俺は思い出していた。十年前の、あの夜のこと。真っ赤に点滅する警報ランプと、血まみれの手術室を。
思い出しちゃいけない。だが、土を触るたびに、手術で使っていたあの感覚が指先に残って離れない。俺は今、ただの百姓だ。それ以外の何者でもない。そう自分に言い聞かせながら、今朝も土を掘る。
午前十時を過ぎた頃、朝の収穫を終えた俺は、軽トラの荷台に段ボールを積んで、村の小さな食堂へ向かった。この村で日替わり定食が食えるのは、ここくらいだ。店の名前は立花食堂。母子家庭の立花さんが一人で切り盛りしている。
厨房の奥から出てきたまりさんは、エプロン姿のまま軽く額の汗を拭って、笑顔を向けてきた。
「篠原さん、今日のトマトもすっごく色がいいですね。真っ赤で、宝石みたい」
「日照りが続いたから、甘さは出てると思いますよ」
言葉に、いつものように勝手口の脇へ箱を置いた。決まったやり取り。感情を挟まないことで、心が乱れずに済む。だが、この日は視線の先に、いつもと違う人影が見えた。
カウンターの端に、少年が一人、俯いて座っていた。髪は少し跳ねていて、まだ寝癖が残っている。白いTシャツに小さな手。その手にはスプーンが握られていたが、皿の上のカレーはほとんど減っていない。少年は項垂れていた。
それが、立花ゆと。まりさんの息子だった。俺はその目に覚えがあった。昔の自分と重なるような、深くて静かな孤独。声に出せない不安や、どうにもできない寂しさが滲んでいた。思わず、足が止まった。
俺は箱の中に手を入れ、まん丸と太った真っ赤なトマトを一つ選んだ。そして、それをそっと少年の前のカウンターに置いた。
「あの、篠原さん、それ……」
何も言わず、俺は顔を上げる。その瞬間、少年と目があった。少年が不思議そうに、俺を見つめていた。問いかけるような、でも言葉にはならない眼差し。なぜ、僕にくれるの——そんな声が心の奥で聞こえた気がした。
「……食え。うまいぞ」
それだけ言って、俺は勝手口から外に出た。風が吹いていた。畑の匂いが、トマトの香りに混ざって運ばれてくる。
その日の夜、外はひっそりと静まり返っていた。遠くでカエルの鳴き声が、途切れ途切れに響いている。俺は長谷川の家の離れ、囲炉裏のある部屋で、湯飲みを手にしていた。薪のはぜる音が小さく聞こえる。囲炉裏の煙の匂いが懐かしい。都会では嗅ぐことのなかった匂いだ。
「こんな時間にすまんな。今日も世話になった」
「いえ、こちらこそ。大根の仕分け、助かりました」
長谷川とは、この村に来てから一番付き合いが長い。口数の少ない俺に、余計なことを聞かずに接してくれる。数少ない、話せる人だ。湯飲みの中で、お茶の湯気がゆっくりと揺れていた。
「今日は、ゆとを見かけただろう。あれは随分と大人しい子だ。強志が生きてたら、きっとやんちゃ坊主になってたと思うんだがな」
俺の手が、わずかに止まった。
「あの子は、何歳なんですか」
「今年で七歳だ」
「……もう、そんなになるんですね」
「ああ。月日が経つのは早いもんでな」
長谷川は言って、タバコに火をつけた。タバコの香りが、囲炉裏の煙に混ざって立ちのぼる。
「強志は、うちの村の誇りでよ。正義感が強くて、バカがつくほど真っ直ぐでな。消防団に入ってからも、いつも誰かのために動いてた。あの日も、まさか自分が……いや、すまない。老人の繰り言だ」
「……いえ」
言った後、少しだけ沈黙が落ちた。強志。その名前を、今もこうして聞くとは思っていなかった。心の奥で、あの時の約束がふと蘇る。
「あの子には、まだ父親の話はほとんどしていない。まりも話したがらないしな。それでも、不思議とわかるんだよ。あの子には、強志の血が流れてる。それがはっきりとわかる」
薪が崩れ、火が少し高くなる。俺はその赤い光を見つめながら、何も言わなかった。話せば、崩れてしまいそうだった。
まだだ。まだ、何も語る時じゃない。名乗らずにいられる限り、静かにこの村で生きていく。あの日、病院で交わした約束を守るまでは。
一週間後、セミの声が空に突き刺さるように響いていた。夏の午後、俺は畑仕事を終え、川沿いに降りてきていた。手には泥のついた鍬とバケツ。道具を洗って帰ろうと思っていた。水面がキラキラと揺れ、川風が心地よい。田舎の夏の午後らしい、のどかな時間だった。
川の向こう岸では、子供たちが遊んでいた。服を半分脱いで川に飛び込んだり、水鉄砲で打ち合ったり。笑い声が響いている。その中に、ゆとの姿があった。黒い髪が日に照らされている。石を投げて水切りをしている姿は、他の子よりどこか落ち着いて見えた。俺は声をかけずに、ただそっとその様子を眺めていた。遠くから見守るだけで、胸が少し温かくなる。
それで、良かった。だが、次の瞬間——場の空気が変わった。
「あれ? ゆとは?」
「ゆとー? どこいったのー?」
子供たちの悲鳴混じりの声。俺はすぐに顔を上げた。流れの中央に、一つだけサンダルがくるくると回っている。ゆとの姿が、どこにも見当たらない。
「ゆと! ゆと!」
俺には、ゆとの姿しか映っていなかった。視界の端で、母親のまりさんが足元の軽トラから降りてくるのが見えた。彼女は一瞬で異変を察したのか、その場にしゃがみ込み、顔を覆った。子供たちの悲鳴が聞こえる。でも、俺の耳には届いていなかった。
川の中を、俺は走っていた。流れは予想以上に速く、足元が崩れる。鮮やかな赤いTシャツ。もう一度、水面へ手を伸ばす。至近距離まであと何メートルというところだったが、劣悪な増水の中での移動は想像以上に困難を極めた。水の流れが強く、抵抗が大きい。自分の動きを過剰に感じながら、腕を振り、足を出す。水圧で指先が冷たく痺れていく。
流れの先に、赤い点が見える。あれは、あれはゆとだ。
「ゆと! 今行くぞ!」
そして手を伸ばした瞬間、ようやく背中に触れた。ぐったりとしながらも、必死に息をしたくて藻掻いている。その恐怖に張り詰めた瞳が、俺を見る。
「大丈夫だ。しっかり掴まれ」
——だが、流れが強すぎた。俺の手をすり抜けていく。濁流の底に、ゆとが吸い込まれていく。
「ゆと!」
俺は二度目のダイブに入っていた。水中で体が流され、何度も岩にぶつかった。息を限界まで止め、冷たい水の中で手を伸ばす。そして——硬い指先が、小さな手を掴んだ。重い。が、絶対に離さないと、俺の指は言っていた。
気配のない静かな部屋に、緊迫した空気が満ちていた。ゆとを陸に引き上げたはいいものの、状態は重篤だった。ぐったりとしている。目を閉じ、口は半開き。肌からはすでに熱が逃げ始めている。髪から水を滴らせたまま、両膝を少年の隣に置いたのは、夜の病院で流し続けたあの動きが、自動的に体を動かしていた。二本の指を首筋に当てる。脈が、触れない。
「嫌だ。そんな——」
俺は両手を重ね、胸の中央に置いた。ワン、ツー、スリー。力強く、テンポよく押す。心臓が止まっている。あの日、手術室で。俺の手を離れて逝った患者と同じように。絶対に、あの感覚を繰り返したくない。
「息を入れろ!」
誰かが叫んだ。口を開けさせ、人工呼吸。胸元に手を戻し、また圧をかける。ワン、ツー、スリー。ワン、ツー、スリー。自分の声だけが、世界の中に響いていた。力を入れるほど、指先に生きた感触が蘇ってくる。あの日のメスの感触とは、違う。人の命を繋ぐ感覚。
「——っ、ぅ……!」
小さな体が跳ねる。指先が震えた。もしもし、至る所から水が出てきて、ゆとが激しく咳き込んだ。呼吸を、始めた。すぅ、はぁ、と荒い呼吸が、何よりこだまのように響いた。冷たい指が、まだ震えていた。少年のみぞおちの辺りに手を添え、うつ伏せっぱなしの体を支えながら、髪に張り付く水を取り除いてやる。
「ゆと。大丈夫だ。もう大丈夫だ」
初めて声が震えた。この地に来て、はっきりと自分に流れている血を感じた。あの日、病院で叶えられなかった「救う」ことが、今、この手でできた。それだけで、俺のいた場所の意味が、少しだけ変わった。
後ろから、畑の畝を必死に駆け回ってきたような足音が聞こえた。振り返ると、目に涙をためたまりさんが、足を地震にして立ち尽くしている。
「ゆとを、連れてこよう……?」
俺はゆとを抱き上げ、病院へ担いでいった。夕日が、山の向こうに沈もうとしていた。あの日、朝日を見ながら思った雨上がりの匂いのするちぎれ雲が、ゆっくりと切れていった。
病院の処置室に向かう廊下で、まりさんが何度も頭を下げた。俺は雨に濡れた木綿のシャツを絞り、水気を切った。
「篠原さん、ありがとうございました。あの子は、あなたのおかげで——」
「かりそめです。まだ安静にしてください」
俺は手短に言い捨てて、病院の外へ出た。廊下は消毒液の匂いがして、足音が理科室みたいに響いた。視界の端で、ゆとが診察室のベッドに運ばれていくところだった。あの小さな背中が、医者に抱えられている。必死に何かを言おうと小さな口が動いているのを見て、俺は、あの少年の背中に見えた幼い自分を、ふと追いかけていた。
病院を出ると、冷たい風が火照った頬を撫でた。空はすっかり藍色に包まれ、ぽつりと星が瞬き始めている。俺はゆっくりと空を見上げた。あの日、手術室で見た赤いランプの光が、フラッシュバックのように甦る。
「……強志」
その名前を口にしたのは、何年ぶりだろう。ゆとの中に、強志の面影を見た気がした。正義感が強くて、バカがつくほど真っ直ぐで。自分の命を守ることより、誰かを助けることに必死だった、あの男の血。それが、あの子には流れている。はっきりとわかる。
あの日、病院の瓦礫の中で、俺は強志の手を握っていた。息を引き取る間際、強志は言ったんだ。
「ゆとを、頼む……。篠原、お前しか、いない……」
それが、遺言だった。あの日、病院で交わした約束。まりさんとゆとを、この手で守る。強志の無念を、絶対に無駄にしない。俺はそう心に誓った。
ズボンのポケットから、折り畳まれた古い写真を取り出した。二人の男が並ぶ、色褪せた写真。一人は若い。病院の白衣を着た俺。もう一人は、力強く笑う男。強志。この村の広報で見た瀬戸ゆとの、父親。
「……約束は、果たしたぞ、強志」
しわくちゃの写真をそっと仕舞い、俺は早足で病院の外へ向かう。ざあっと風が吹き抜けて、草木の匂いがした。強志の家とは比べものにならないくらい、深い、命の匂いがした。あの子は、まだ川に潜るのかもしれない。だが、もうあの夢は見ない。あの夜の約束が、ようやく、果たされた。今の俺にできることは、ただ真っ直ぐに生きて、あの子を真っ直ぐに育てて、土に還ってしまうことだ。
月が、夜の森を冷たく照らしていた。しかし、その光は真っ暗な闇ではなく、いちばん深い夜の青を、静かに照らしているようだった。俺は畑の先の、小さな家の明かりを目指して、歩き出した。
