Ich stand im Flur meines Elternhauses und hörte meinen Vater zu meinem Verlobten sagen: „Liebe gewinnt keine Wahlen, Markus. Camille ist die bessere Investition.“ Und statt mich zu verteidigen,…

Mit klopfendem Herzen schlich ich mich an die schweren Eichentüren des Arbeitszimmers meines Vaters. Ich wollte ihm nur die Stoffmuster für mein Hochzeitskleid zeigen. Stattdessen hörte ich die Worte, die meine ganze Zukunft zerstörten. Mein Vater Julian Pierce, ein Immobilienmagnat aus Atlanta, dem Statussymbole mehr bedeuteten als seine Kinder, redete gerade mit meinem Verlobten Markus. … Read more

2 September 2026

Nach vier Jahren harter Arbeit stand ich endlich vor meinem Sohn und meiner Schwiegertochter in der wunderschön renovierten Scheune, die ich für sie gebaut hatte. Ich hatte mein ganzes Herzblut…

Vier Jahre hatte ich in diese Scheune gesteckt. Vier Jahre Arbeit, Herzblut und Ersparnisse. Als die schweren Türen aufschwangen und das Morgenlicht den Raum flutete, erwartete ich Staunen. Ich erwartete eine Umarmung. Stattdessen trat meine Schwiegertochter Vanessa ein, ließ ihren Blick über die handgeschlagenen Balken und die Eichendielen schweifen, verschränkte die Arme und seufzte. „Es … Read more

2 September 2026

Mein Bruder hat den Esstisch nie verlassen, ohne vorher meine Hand zu drücken. Gestern Abend ist er wortlos aufgestanden, mitten im Satz, und hat die Tür hinter sich zugezogen. Es war nicht der…

Es begann nicht mit einem lauten Streit, sondern mit einer Stille, die schwerer wurde als jedes Wort. Du weißt, wovon ich spreche. Die Gespräche wurden kürzer, die Umarmungen seltener, das Lachen klang gezwungen, wenn es überhaupt noch da war. Etwas hatte sich zwischen die Menschen geschoben, die du am meisten liebst. Etwas Unsichtbares, das niemand … Read more

2 September 2026

“Moje setkání s ním mělo začít výpovědí. Já, obyčejná kuchařka v kuchyni tokijského magnáta, jsem si v noci tajně nabrala porci jídla, které mělo skončit v koši. Seděla jsem na zemi ve spíži, když…

Vůně česneku a bazalky byla její štít. V té nablýskané, sterilní kuchyni tokijského sídla Kenshina Tanaky si Naomi mohla namlouvat, že je někde jinde, kdekoli jinde. Teplo ze sporáku bylo důvěrně známou útěchou, rytmické dopadání nože meditací. Dnešní večeře mělo být bohaté boloňské ragú s čerstvými pappardelle, jídlo objednané před dvěma dny a záhy zapomenuté. … Read more

2 September 2026

A 42 anni, sposato e padre di due figli, credevo di conoscermi perfettamente. Poi un martedì mattina, su un lettino da visita, un medico mi toccò per controllare un piccolo nodulo e il mio corpo…

Quel martedì mattina, sdraiato su un lettino da visita, il semplice contatto di dita guantate sulla mia pelle è bastato a far vacillare tutto ciò che pensavo solido. A 42 anni, sposato da otto con Laura e padre di due bambini, credevo di conoscermi fino in fondo. Invece, un piccolo nodulo all’inguine mi aveva portato … Read more

2 September 2026

„Takže utrácíš internetové peníze, které ještě nemáš? Takhle zodpovědní dospělí neplánují rodinné dovolené.“ Pět let mě moje matka vyřazovala z každoroční dovolené v Mountain Peak Resort, místě,…

Když moje matka zvedla telefon, věděla jsem přesně, co se chystá říct. „Rande, doufáme, že je to jen fáze, než přijdeš na to, co chceš dělat,“ prohlásila u večeře na Den díkůvzdání. Seděla jsem s rozbušeným srdcem, prsty zaťaté do vidličky, a přesto jsem dokázala odpovědět klidně. Jenže ona mě už dávno odepsala. Jmenuji se … Read more

2 September 2026

Hedvábí mých šatů mělo barvu výzvy, ale v tu chvíli jsem si připadala jen jako zajatec. Bylo to večírek, který jsem sama organizovala, dokud jsem nezaslechla v servisní chodbě rozhovor, který jsem…

Hedvábí jejích šatů mělo barvu výzvy, nemožně sytě červenou na teplé hnědé pleti, drzý výkřik v sále plném decentních zlatých a zdvořilých šampaňských tónů. Bylo jí osmnáct a právě řídila ten nejexkluzivnější charitativní galavečer v Tokiu. Byla architektkou té nádhery, neviditelnou rukou, která vedla křišťálové skleničky ke správným rtům, tichým hlasem v uchu cateringové firmy, … Read more

2 September 2026

Podávala jsem mu rozvodové papíry s klidnou rukou a suchýma očima. Muž, kterému jsem dala jedenáct let života, jen zvedl hlavu a zeptal se: „Co to je?” Pak přišlo šest týdnů po rozvodu zjištění,…

Neutekly jí slzy, když mu podávala obálku. To ji samotnou překvapilo. Celou dobu předpokládala, že se rozpadne. Že se jí ruce budou třást tak silně, že papíry spadnou dřív, než si je vůbec stihne převzít. Ale když nastal ten okamžik, když Marlena stála ve dveřích pracovny, kterou sdíleli jedenáct let, a držela tu obálku, měla … Read more

2 September 2026

「お前が買った車で事故った。修理代を払え。お前の名義だからな。親子だろ。払うのが当然だ。」そう言って父は、私の口座から勝手に引き落としていた。結婚して3ヶ月。私は夫に隠れて、スーパーで見切り品だけを買い漁る日々を送っていた。だが、その日、夫は一枚の漆黒のカードを私に手渡した。その男が、実は私の人生を根底から覆すような秘密を抱えているとも知らずに。私は決意した。もう、あの家族の道具にはならない…

母からの電話は、いつものように一方的だった。お父さんが新しい車を買った。今からローンは組めないから、あなたが支払うことになった。頭が真っ白になった。毎日の節約で、ようやく少しだけ未来を考えられるほどの蓄えができていた。それが、たった一本の電話で消えた。絶望という言葉では足りない。私は床にへたり込み、天井を見上げた。 スーパー行ってくるね。私は精一杯自然な声を出した。すると、はるきがゆっくりと近づいてきて、私の頭をポンポンと撫でた。あ、これ使っていいよ。そう言って差し出されたのは、漆黒のカード。中央に小さく金色のロゴが刻まれている。ずっしりと重く、金属製であることがすぐに分かった。私はもう、あの家に縛られたくない。その言葉を口にした瞬間、胸の中で何かが軽くなった。 私の名前はり子。在宅でデザイナーをしている34歳だ。元々は出版社に通勤していたが、私なりの事情で在宅勤務へ切り替えてから3年が経つ。仕事部屋を出て、廊下を渡り、奥の和室のふすまに手をかける。引いた瞬間、低い鳴き声が一斉に重なって耳に届いた。茶色い短毛が真っ先に駆け寄ってくる。後ろから白黒の若い猫、黒、そして縞柄が次々と足元に擦り寄る。最後に、奥の窓辺で眠っていた灰色の老猫が立ち上がって近づいてきた。合わせて六匹。全員、私が引き取って育てている子たちだ。この子たちは、本当は私の猫ではない。全員、実家で飼われていた猫たちだ。実家で飼えなくなった子が、定期的に我が家へ流れてくる。送り付けられると言った方が近いかもしれない。私が在宅勤務に切り替えたのも、増え続ける猫たちを世話するためだった。 私には本当の両親がいない。生まれた母親は、私を産んですぐに施設に置き去りにしたらしい。私は、そのまま小谷家の養子に迎えられた。両親は若くして結婚した同級生同士。すぐに子供を望んだものの、なかなか恵まれなかった。35歳までに子供ができなければ養子を迎えようと決めていたという。そのタイミングと、施設に預けられた私の存在がちょうど重なった。迎えられた私は6年間、可愛がられて過ごした。ところが、私が小学校に上がる年、母の妊娠が判明した。長年諦めていた自然妊娠だった。妹ができると聞いた時、私は飛び上がって喜んだ。自分が養子であることなど、まだ知るよしもなかった。 妹のメイが生まれた日、父方の祖母が家にやってきた。祖母は当時、軽い認知症の症状が出始めていたらしい。悪気はなかったのだと、私は今でも思いたい。それでも彼女が口にした言葉は、6歳の私の頭の中に今でも鮮明に残っている。 「本当の子供が生まれたんだから、り子はどうするんだい?施設に返すのかい?」 母さん、なんてこと言うんだ?父が慌てて遮ったが、祖母は止まらなかった。だって、本当の子じゃないんだから、もう必要ないだろう。他の子供のいない家にやればいい。生まれたばかりの妹を抱いた母が、無言で目を伏せた。祖母はその翌年、呆気なく逝ってしまった。けれど、6歳の時に植えつけられたその記憶は、長い年月をかけて私と両親の距離を広げていく。 両親は何があっても私を「小谷家の子」だと言ってくれた。表向きは変わらず接してくれたように思う。それでも、子供の目はごまかせない。42歳でようやく授かった実の娘に注がれる両親のまなざしは、私に向けられるものとは明らかに違っていた。養子ではないと分かっていても、私は両親が好きだった。だからこそ、彼らを悲しませたくなかった。怒らせないようにしよう。手のかからない娘でいよう。そう決めて、今日まで生きてきた。 猫たちが食事を終え、それぞれの寝床に散らばっていくのを見届けて、私は仕事部屋へ戻った。デスクの隅には、茶色いくまのぬいぐるみが置いてある。茶色い耳をしていたから、私は「ちゃみ」と名付けた。5歳の誕生日に両親から送られた、私にとって唯一の宝物だ。この子にはちょっとした仕掛けがついている。背中の側面から出ている細い紐を引っ張ると、自分の声を録音できる仕組みになっていた。両親が仕事で家を開ける時間も、私はちゃみを抱いて過ごした。寝る時もちゃみと一緒だ。まるでちゃみと会話をしているかのような気持ちになった。 メイは成長するにつれ、いわゆる「いいとこ取り」の美少女になっていった。母は大学時代にミスコンに出場するほどの美人だった。父は180cmを超える、穏やかな甘い顔立ちをしている。二人の血を引いたメイは、明らかに両親に似ていた。一方、養子である私は両親に似ても似つかなかった。大きな二重まぶたの母とは異なる地味な顔。高身長の父とは違って、身長は伸び悩んだ。メイが美しく成長すればするほど、私と妹の差は周囲の目にも明らかになる。小学校3年生の頃、クラスメートにこう言われた。「お前さ、妹と全然似てないよな。もらいっ子なんだろ。」笑いながらの言葉だったが、反論できなかった。事実だったからだ。 決定的だったのは、夜中にトイレに起きた時のことだ。リビングの明かりに気づいて、廊下で足を止めた。両親の声が、ふすまの隙間から聞こえてくる。『り子にはあまりお金をかけたくないから、大学も諦めてもらいましょう。』『私たちにはメイちゃんの将来の方が大切だもの。』『昔ばあちゃんが言ってた話じゃないけど、施設に返すことはできないのかな。』呼吸が止まった。大学を諦めることは構わない。それよりも、「施設に返す」と考えられていたことが辛かった。私は足音を立てないようにして自分の部屋へ戻った。布団に潜り込み、ちゃみを抱きしめて紐を引く。「お父さんも母さんも、私のこと、もういらないんだって。」声に出すと、涙が止まらなくなった。 思えば、両親は元々、無責任な側面も持っていた。その昔、捨てられた子犬を引き取ってきたことがある。私は嬉しくて献身的に世話をした。しかし、子犬が成犬になった途端、両親の態度は変わった。「もう可愛くなくなったわね。保健所に返そう。」ある日学校から帰ると、犬はもういなかった。私は理解した。この人たちは、命を「可愛い時期」だけ消費する人なのだと。メイはそんな両親の感性をまっすぐに受け継いでいた。子猫が欲しいと言い出したメイに、両親はすぐに血統書付きの子猫を買い与えた。最初の数ヶ月は可愛がっていたが、成長してくると興味を失う。「私、もうこの子いらない。お姉ちゃんが面倒見てね。」言われるままに、その猫の世話は全部私が引き受けた。しばらくしてメイは別の品種の子猫を欲しがり、両親はまた買い与えた。同じことが繰り返された。 私は猫たちが両親の機嫌で処分されないように、自分の費用で世話をする方法を考え始めた。通学路の途中にある回収所へ、近所から出る新聞紙や段ボールを拾い集めて持ち込むようになった。スーパーの裏手で、賞味期限間近の見切り品が値下げされる時間帯も覚えた。学校から配られたプリントの裏には、毎月の収支を書き留めた。1円単位で記録し、猫たちのフード代だけは何があっても削らないと決めた。中学に上がってからは「部活で遅くなる」という嘘を使うように。本当は帰宅部だった。部活費用を出してもらえないと分かっていたからだ。放課後は学校に残って勉強し、外が暗くなってから公園のベンチへ移動して参考書を広げた。学校行事でお金がかかりそうな時は、体調が悪いと申告して欠席した。修学旅行にも行かなかった。メイの私立中学校では海外研修旅行が組まれ、両親は日程を合わせて同じ国へ海外旅行に行った。私は4日間、給食だけでやり過ごしたのを覚えている。 高校の進路は一人で決めた。公立高校への推薦入学を目指して、必死に内申点を稼ぐ。制服のない高校を選び、私服を着回して乗り切る計画を立てた。放課後は22時まで飲食店でアルバイトをした。時給900円。教科書代も定期代も文房具も、全てそこから捻出する。大学進学も奨学金を借りて自力で行くと決め、同時に家を出る決意も固めた。入居審査のために両親に保証人を頼むと、母は言った。「保証人なんて嫌よ。しかも、本当の子供でもないのに。養子縁組を解消したらどうだ?お互いのためにも。」予想はしていた。それでも、面と向かって言われると頬の内側がじんと痺れる。私は何度か頷いて、その場を離れた。結局、入居手続きには保証会社を使った。養子縁組の解消は、その後、私から父に手続きを提案した。父は面倒そうに目をそらした。「書類が面倒だ。そんなことに時間をかけたくない。」 大学を出て出版社に就職した頃から、両親の連絡が増え始めた。私が安定した収入を得ていることを、彼らはきちんと把握していたのだ。「メイが学校に進学するんだけど、私立だから学費が高いの。制服代はあんたが買ってあげて。」それを皮切りに、金の無心が始まった。電化製品の買い換え、メイの習い事の月謝、家族旅行の費用の補填。理由は次々と変わったが、要求は途切れなかった。60歳が近づき、思うように働けなくなったこともあったらしい。そしてメイもまた、両親と同じ感覚を共有していた。ある日、メイから電話が入った。「あ、り子。今度、着払いで猫を送るから。好きでしょ。よかったら育ててやって。」猫を宅配する?そんなことしたら捕まっちゃうわよ。「へえ。じゃあ、取りに来てよ。」私は仕事を中断して大急ぎで実家へ向かった。玄関先には、無造作にダンボール箱が置かれていた。蓋を開けると、3匹の猫が身を寄せ合って怯えていた。「子猫のうちは可愛かったのに、やっぱり大きくなるとダメね。」そのセリフを、メイは笑顔で口にした。私は涙をこらえながら3匹を車に乗せて持ち帰った。同じことがその後も何度も繰り返されている。家を出て16年。私は34歳になり、メイは28歳になった。それでも、家との関係は変わらない。子供だと認めていないと言いながら金を要求してくる両親。姉だと認めていないのに面倒を押し付けてくるメイ。 仕事部屋の椅子の上で、私はちゃみの紐を引いた。そのタイミングで、デスクの上のスマホが鳴った。画面には「メイ」と表示されていた。電話を取りたくない。ただ、出なければ何時間でも鳴り続けることを、私は知っている。息を吐いて、応答ボタンに指を伸ばす。「やっと出た。どうせ暇なんだから、さっさと出なさいよ。」飛んできたのは、いつも通りのメイの辛辣な口調だ。「頼みがあって欲しいんだけど。」また猫だろうか。私が身構えていると、メイは思いがけない単語を口にした。「私の代わりにお見合いに行ってくれない?」 メイは繁華街にある有名な高級クラブで働いている。金持ちの結婚相手を探すための、いわば婚活の舞台だ。その中の高額な金を落とす太客に対しては、さすがのメイも逆らえないようだ。「後からプロフィールを見たら、その人、中卒の低学歴だったのよ。信じられる?今時、中卒なんて考えられないでしょう。」だったら、さっさとお断りすればいいじゃない。「それができたら苦労しないわよ。店に来なくなったらどうするの?」そして、とんでもないことを言い出した。「だからね、お客様には『私の姉の方が彼を気に入ったみたいで』って言ってあるから。私はモテない姉のためになくなく身を引く、優しい妹を演出したってわけ。私の代わりとしては役不足だけど、背に腹は変えられないわ。そういうことでよろしく。」反論する暇もなく、電話は一方的に切られた。直後、スマホに一通のメッセージが届いた。お見合いの日程とレストランの店名と住所。末尾には「もしすっぽかしたりしたら、一生恨むから。」と添えられていた。 私はソファーに腰を落とし、両手で顔を覆った。猫を押し付けられる覚悟はしていた。それなのに押し付けられたのは、面識のない男性とのお見合いだった。それでも、何も知らずに待っているであろう相手のことを思うと、すっぽかすこともできない。会って事情を説明し、頭を下げて帰ろう。そう自分に言い聞かせて、私は週末のスケジュールを開けた。 約束の日。場所は、私の家から車で30分ほど離れた、上品なフレンチレストランだった。シャンデリアの光が控えめに揺れ、ジャズピアノの音色が低く響いていた。駐車場の車内で、私は再度メイから届いたメッセージを開いた。お見合い相手の男性の写真が添付されている。爽やかな笑みを浮かべた青年だ。切れ長の目と、よく整った輪郭。メイが見た目で騒いだのも頷ける顔立ちだった。なおさら申し訳なくなる。相手は当然、メイの美貌を期待して待っているはずだ。私は深く息を吐いて、運転席のドアを開けた。窓側のテーブルに、写真の男性と思しき人物が座っていた。私が近づくと、男性は気配を察してこちらへ顔を向けた。そしてすぐに立ち上がる。写真よりも背が高くて驚いた。180cmをゆうに超えているだろう。「ご足労いただきありがとうございます。高崎はるきと申します。」深く頭を下げる仕草が、写真の印象よりもずっと実直に見えた。「ごめんなさい。今日は妹が来る予定だったんですよね。私は姉のり子さんですね。お話は先輩の佐田から伺っています。」 はるきは私に椅子を進めてくれた。すぐ帰るつもりだったのに、なぜか私は席についてしまう。「佐田っていうのは、今回の見合いを段取りしてくれた人なんですけど、学生時代からお世話になってる先輩で、断りきれずに今日を迎えてしまいまして。」はるきはワインを口に含み、苦笑した。「すみません。ちゃんと事情を聞かないまま来てしまって。」正直な人だと思った。こちらの顔色を伺うでもなく、取り繕おうでもなく、自分の状況を素直に話してくれている。「私も急に姉を頼まれてしまって。」少しずつ肩の力が抜けていく。ランチコースが運ばれてくる頃には、互いの仕事の話に移っていた。はるきはエンジニアだという。「座ってばかりの地味な仕事をしてて、女性との出会いもないって言ったら、佐田さんが見合いでもしてみろって。」「座ってばかりなのは私も同じです。在宅勤務なので、ひどい時は1日中、一歩も家から出ないんですよ。」「ああ、僕と全く同じだ。」はるきは声を立てて笑った。気がつけば、コーヒーが3杯目になっている。「今日は来てよかったです。」ぽつりとはるきが言った。横顔をそっと窺うと、頬がほんの少し赤くなっている。私の鼓動が勝手に跳ねた。「あの、また連絡してもいいですか?」私は迷うことなく頷いた。 その日から、はるきと会う回数が増えていった。最初は月に1度のランチから始まり、徐々に映画や美術館にも足を運ぶように。互いに在宅勤務だったため、平日の昼間にカフェなどで仕事を終わらせてから、そのまま夕方に合流するパターンも定着した。会うようにはなったが、私たちはまだ恋人ではない。気の合う友達といったところか。私の家族のこと、養子であること、両親や妹との確執。そういった重い話題は、私からも切り出さなかった。切り出せば、関係が壊れてしまう気がしたからだ。はるきはそんな私の沈黙を責めなかった。半年ほどの月日が緩やかに流れた。 3月、私は35歳の誕生日を迎えた。その日、はるきからディナーの誘いが入る。初めて会ったレストランと同じ場所を、彼は予約してくれていた。窓際の席で、はるきは小さな包みを差し出した。中身は、押し花を閉じ込めたガラスのペーパーウェイト。仕事中、デスクの上にずっと置けるようにと選んでくれたのだという。「り子さん。半年、一緒に過ごしてくれてありがとうございました。」姿勢を正したはるきに、私の心拍が早まる。これでもう会えないと言われるのではないか。そんな不安が頭をよぎった。「これからは、友人ではなくて恋人として隣にいてもいいですか?」返事の代わりに、私は深く頷く。帰りのタクシーで、私の手を初めて握ったはるき。冷たい外気とは対象的に、彼の手のひらは暖かかった。交際が始まったことを、私は一応メイにも報告した。返ってきたメッセージは想像通りだった。「低学歴と親なしでお似合いね。良かったじゃない。」私は読んだだけで返信はしなかった。 交際は穏やかに続いている。ある日の夕方、仕事を終えてキッチンで夕飯の支度をしていた私のスマホに、メイからの着信が入った。「あ、り子。まだあの低学歴と付き合ってるの?」私の返答を待たずにメイは話を続けた。「聞いてよ。あのお見合いね。お客様が私の気持ちを確かめるために企んだものだったんだって。私がイケメンになびかなかったから、お客様も喜んじゃってさ。彼、お金持ちだし、もしかしたら彼と結婚するかも。」要するに、自慢話だ。はるきも私も、メイと客の駆け引きに利用されただけだった。腹の底がじりじりと熱くなる。それでも私は声を平らかに保った。「そう。よかったわね。」「あ、それと、実家の猫が子供を産んだのよ。まだ1歳なのに信じられる?子猫は可愛いけど、小さすぎるのは育てられない。そっちに送っていい?」「え、生まれたの?」「昨日かな?よくわかんないけど。声が小さくなった気がするわ。」 その瞬間、私は火を消してエプロンを脱いだ。車のキーを握り、玄関へ走る。「今から行く。」そう言って通話を終わらせる。子猫の鳴き声が小さくなったということは、衰弱している可能性が高い。実家へ着くと、玄関先に古びたダンボール箱が置かれていた。蓋を覗き込んで、私は息を飲む。3匹の子猫が、互いの体に寄りかかるようにして横たわっていた。毛皮の下に骨の形が浮き出ている。目はまだ開き切っておらず、呼吸も浅い。「母猫はその辺にいるんじゃない?」リビングのソファーに寝そべったまま、メイはネイルを眺めていた。「出産した猫なんてもう可愛くないから、どうでもいいわ。」私はダンボールを抱え、家の裏手へ回った。庭の物置きの影に、痩せた母猫がうずくまっている。私の気配に気づくと、母猫はゆっくり顔を上げ、か細い声で鳴いた。明らかに子を探している鳴き声だ。「ごめんね、待たせて。一緒に行こう。」私はキャリーケースを持ってきて、母猫を迎え入れた。玄関先に戻ると、メイが待ち構えていた。「ああ、それと。今は、この子がいるからね。よろしく。」腕には、別の品種の子猫が抱かれている。おそらく母猫を捨てて、すぐに新しい子を買い与えてもらったのだろう。そこへ母が玄関から顔を出した。「あら、それ、捨てようと思ったのよ。持って帰るの、助かるわ。それより、あんた、付き合ってる人がいるんだってね。結婚するなら、結納金よこしなさいよ。」「やだ。ママったら、相手の人、低学歴の貧乏人なのよ。お金取ったらかわいそうじゃない?」「関係ないわよ。育てた恩を返してもらわないとね。り子、分かった。結婚するなら、お金は忘れずにね。」「式には呼ばないで。親なんて紹介されたら恥ずかしいもの。」私は無言で後部座席の扉を閉め、運転席に乗り込んだ。エンジンをかけ、逃げるようにその場を後にした。 自宅へ戻ってからは、無我夢中だった。子猫たちは想像以上に衰弱している。ゆたぽんで毛布を温め、ペット用の哺乳瓶でミルクを与え、母猫の母乳へそっと寄り添わせた。そのタイミングで、スマホに着信。はるきからの電話だった。「ごめん、はるき。今日は行けない。猫の世話をしなくちゃいけなくて。」電話を切り、また子猫たちの元へ戻った。それから30分も経たないうちに、家のインターホンが鳴った。モニターを見て、私は思わず息を吸い込む。はるきが立っている。ドアを開けると、心配そうなはるきが尋ねてきた。「何か手伝えることは?」戸惑う私を玄関先に残して、はるきは靴を脱いで上がり込んだ。「相当弱ってるな。よし、病院へ行こう。」3匹の子猫をタオルで包み、親猫と一緒に病院へ向かった。そこで皮下点滴の処置や栄養剤の投与をしてもらい、猫たちはなんとか一命を取り止めた。そのままはるきも一緒に私の家に戻り、明け方まで一緒に猫たちを温め続けてくれた。彼は一度も嫌な顔をすることなく、猫の世話をしてくれた。朝の光が窓から差し込む頃、子猫たちのうち2匹が母猫の母乳をしっかり飲み始める。私は畳に座り込み、ようやく肩の力を抜いた。「ごめんね、はるき。仕事もあるのに。」「僕は平気だよ。それより、り子は少し寝た方がいい。」その柔らかい声に、私の涙腺はあっさり崩れた。 子猫たちが安定してから、私ははるきに全てを話した。自分は養子であること。祖母の言葉で「本当の子ではない」と知ったこと。両親がメイにだけ金をかけ、私には施設に返すという選択肢を真剣に検討していたこと。中学から自力で生活費を捻出してきたこと。家を出てからも金の無心が続いていること。そして、メイから押し付けられる猫たちのこと。途中で何度も声が詰まった。それでも、はるきは黙って耳を傾けてくれた。「それで、この子たちも、飼い主に捨てられるところだったの。」最後にそう絞り出すと、はるきは私の手をそっと握った。しばらくそのまま、何も言わずにいてくれた。やがて、はるきが口を開く。「り子、これからは僕が一緒にいるよ。僕と家族になってくれませんか?」その言葉は、私がこれまでの人生で初めて耳にしたものだった。私ははるきの手を握り返し、深く頷いた。 入籍の前には、はるきが両親に私を紹介したいと言ってくれた。約束の日、向かった先は、郊外の高台に佇む霊園だった。はるきは手桶に水を汲み、私を一つの墓石の前へ案内した。「ここに、僕の両親が眠ってるんだ。」私は息を飲んだ。「父は僕が10歳の時に病気で他界して、母はその3年後を追いかけるようにしていった。2人とも、まだ40代だったんだ。両親が亡くなった後、父方の親戚に引き取られたんだけど、居心地が良くなくてさ。中学を卒業すると同時に家を出て、そこからは独力で生きてきた。」初めて聞く話に、私は耳を傾ける。「だからね、誰かと家族を作りたいなって、ずっと思ってたんだ。本当だよ。り子に出会えてよかった。」私は花束を抱えたまま、その場に立ち尽くす。養子の私と、両親を失ったはるき。血の繋がりというものに、それぞれ違う形で取り残されてきた2人だ。はるきは線香に火をつけ、仏前の香炉に立てた。そして、墓石に向かって深く頭を下げる。「父さん、母さん。これから一緒に生きていく、り子さんです。」私もしゃがみ込み、手を合わせながら、二人に初めての挨拶をした。私とはるきは、その月のうちに婚姻届を提出した。 入籍を済ませた翌日、私ははるきと相談して、実家への報告に行くことを決めた。家を出る前に電話を入れ、訪問する日を伝えた。母は「ふん」とだけつき、メイは鼻で笑い、父は電話の向こうで咳をしていた。実家のインターホンを鳴らしてから、私たちは玄関先で5分ほど待たされた。ようやくドアを開けたのは、寝起きの母。リビングへ通されると、ソファーにメイが座っていた。「あ、来たんだ。」挨拶もない。はるきは構わず丁寧に頭を下げた。「初めまして、高崎はると申します。本日は結婚のご報告に伺いました。」メイの視線がはるきの頭から足先までを撫でた。そして、口の端を歪ませる。「ふーん。イケメンなのにもったいないわね。はるきさん、持てなかったでしょう。」侮辱の含まれた言葉だ。それでも、はるきは嫌な顔を一つせず穏やかに対応する。奥の和室から父が姿を表したのは、それから10分以上経ってからだ。パジャマのまま寝癖もそのままに、リビングへ入ってくる。父はソファーに腰を下ろし、テーブルに置かれた新聞へ手を伸ばした。はるきに視線を寄越すこともなければ、挨拶もない。まるで私たちなど存在しないかのような態度だ。「お父さん、改めてご挨拶を。」「ああ、聞いてるよ。」新聞の向こうから、興味のなさそうな声が返ってきた。母がキッチンから戻ってきて、はるきをじろじろと値踏みするように眺める。そして、聞こえよがしに言った。「中卒ね。」「で、仕事は何?」その問いは、私を心配して発せられたものではない。彼らが知りたいのは、はるきが自分たちにとって利用価値のある人間かどうか。それだけだ。「はい。現在は独立して、エンジニアの仕事をしています。」「独立って、ただのフリーランスじゃん。はい、貧乏確定。」メイが膝を叩いて笑う。「何でもいいわ。結納のお金だけ置いていってね。」聞き間違いかと思った。結婚の挨拶に来た娘の夫に向かって、開口一番に金の話だなんて。私が口を開きかけた瞬間、はるきは懐から1つの封筒を取り出した。豪華な水引のついた白い封筒だ。母の目が明らかに輝いた。それまで奥歯に物が挟まったように新聞を眺めていた父まで、視線を上げる。「あら、話が分かるじゃない。もういいわ。結婚でも何でも、勝手になさい。」封筒を素早く受け取って、母は中身を確認しようとテーブルの隅へ運んだ。「では、僕たちはこれで。」はるきは丁寧に頭を下げ、立ち上がった。帰り際、玄関先でメイが背後から声を投げかけてきた。「結婚しても、実家への援助、忘れないでね。」私は振り向かなかった。はるきも振り向かず、ドアを後ろ手に閉めた。 しばらく無言の帰りの車内。はるきはハンドルを握りながら、開いた左手で私の右手を包み込んでいる。赤信号で停車した時、私はようやく口を開く。「ごめんね、はるき。気を悪くしたでしょ。」「そんなことないよ。」はるきは私の方へ顔を向けた。「り子、今までよく頑張ったね。」その一言で、私のこらえていたものが崩壊した。涙が頬を伝って、膝に落ちる。「大丈夫だよ、り子。これから先は、何も心配しなくていいから。」信号が青に変わる。はるきは私の手をもう一度握り直してから、ゆっくりとアクセルを踏んだ。 入籍を機に、私たちは2人と猫たちのために新しいマンションを借りた。3LDKの間取りで、それぞれの仕事部屋と猫たちの部屋を確保した。家には10匹の猫がいる。猫たちのフード代は、人間2人の食費を上回る。それでも、削るところを間違えるわけにはいかなかった。毎月家計簿を1円単位でつける。中学時代からの習慣が、今になって役立っていた。贅沢はできなかったが、不思議と毎日が楽しかった。はるきは私が作る質素な和食を「美味しい」と言って、残さず食べてくれる。新婚生活が3ヶ月を過ぎたある日の昼下がり、リビングのテーブルに置いてあったスマホが振動し始めた。画面には「母」の文字。無視したかったが、何度も鳴り続けるのは目に見えている。私は息を吐いて、応答ボタンを押した。「ああ、り子?報告なんだけど。」嫌な予感しかしない。「お父さんが新しい車買ったのよ。今からじゃローン組めないから、あなたが支払うことになったの。よく知ってる車屋さんだから、一括ならいいって言ってくれてるのよ。あなたの口座から引き落とされるように手続きしたみたいだから、支払いお願いね。」頭の中が真っ白になった。母は昔から、私の口座をいつでも引き出せる状態にしていた。家を出る時に手を打っておかなかった、私自身の落ち度でもある。「ちょっと待って。いくらの車なの?」「さあ、300万くらいかしらね。それくらい出しなさいよ。ケチケチしないで。」電話は一方的に切られた。私はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。毎日の節約で、ようやく少しだけ未来を考えられるほどの蓄えはできていた。その全てが、たった1本の電話で消えてしまった。絶望という言葉でも足りない。床にへたり込んで、私は天井を見上げる。はるきに悟られたくなかった。彼は私のために頑張っているのに、結婚してわずか3ヶ月でこんな迷惑をかけたくない。私は深呼吸をして、いつもの笑顔を作り直した。通帳をネットバンキングで確認すると、確かに引き落としは済まされていた。残高はもう、数千円しか残っていない。次の給料日まで、まだ10日以上ある。人間2人と猫10匹の食費を、どう乗り切ればいいだろう。頭の中で最低限の買い物リストを組み立てた。財布の中身は、小銭を含めて3500円ほど。これで今晩の夕飯と猫たちの3日分のフードを揃えなければならない。エコバッグを2つ手に取り、玄関へ向かおうとした時、廊下の向こうからはるきが顔を出す。「どこか行くの?」「スーパー行ってくるね。」私は精一杯自然な声を出した。はるきはゆっくりと近づいてきて、私の頭をポンポンと撫でた。そして、何も言わずに私の体をそっと抱きしめた。「はるき?」「やっぱり出会えたのが、り子で良かったな。」彼を見上げると、笑っている。ただ、その瞳の奥には、私の知らない感情が揺れていた。「スーパーに行くんだろ?猫たちは俺が見てるから。あ、これ使っていいよ。」はるきは財布から1枚のカードを取り出して、私の手のひらに乗せた。漆黒のカード。中央に小さく金色のロゴが刻まれている。ずっしりと重く、金属製であることがすぐに分かった。ブラックカード。名前だけは知っていた。所持者は限られた富裕層に限定され、招待制でしか発行されないと言われているカードだ。頭が追いつかない。「り子はとことん頑張らないと納得しないと思ったから、黙ってたんだ。」はるきは私を抱きしめたまま、自分のことを話し始めた。中卒で社会に出てから、彼が辿ってきた道。独学で身につけた技術と、その技術で得てきたもの。今彼が手にしている立場と、抱えている責任。そして、なぜそれらを私に告げてこなかったのか。その理由。それは、私が想像していたフリーランスのエンジニアという像とは、かけ離れていた。私が両親やメイから侮辱されている間、はるきは何も言わずに頭を下げ続けてくれた。それは私のためでもあり、自分の素性を隠し通すためでもあったのだろう。「言っただろう。これから先は、何も心配しなくていいって。」彼はもう一度私を抱きしめる。温かい胸の中で、私は涙腺が緩むのを感じた。「り子の作った親子丼が食べたいな。」「分かった。お肉買ってくるね。」彼に微笑みながら、私は手のひらのブラックカードを財布の中へしまう。玄関を出て、自転車のサドルにまたがった。スーパーへ向かう道の途中で、私は声に出して呟いていた。「私はもう、あの家に縛られたくない。」風が私の頬を撫でる。言葉にした瞬間、胸の中で何かが軽くなった。その夜、私ははるきのリクエスト通り親子丼を作った。「うん。うまい。」「よかった。」はるきはいつものように嬉しそうに食べてくれた。私は箸を動かしながら、彼の食べる横顔を眺めた。この光景を、誰にも壊されたくないと強く思った。「はるき、私、決めた。」はるきは箸を止めて、私の目を見る。私の言葉の先をもう察しているような顔だった。「僕は、何があってもり子の味方だよ。」私は深く頷いた。もう削られるのも、下げすまされるのも終わりにする。私は私の人生を歩く。あの家族と決別する時が、ようやく訪れたのだ。 決意を新たにしたその翌日。はるきは朝から外出していた。夕方、玄関のドアが開く音がした。「ただいま」というはるきの声に続いて、もう1つ低い男性の声が聞こえてきた。廊下に出てみると、はるきの隣に1人の男性が立っている。40歳前後だろうか。スーツを丁寧に着こなした、落ち着いた雰囲気の人物だった。「り子、紹介するよ。彼は弁護士の長瀬さん。仕事のことで相談してるんだ。り子の力にもなってくれるんじゃないかと思って、今日は来てもらった。」長瀬さんをリビングへ案内する。そして、彼がソファーに腰を下ろしたその瞬間、部屋の隅で寝ていた茶色い猫がすっと立ち上がった。そして長瀬さんの足元へ駆け寄り、ズボンの裾に頭を擦りつけ始める。それを見た他の猫たちも、次々と長瀬さんの周囲に集まってきた。動物は正直だ。人間性の良し悪しを、その嗅覚で見抜くと言われている。警戒心の強い母猫まで、長瀬さんの膝の辺りに頬を寄せていた。そんな光景は、滅多に見られるものではない。猫たちのこの様子を見るだけで、私は長瀬さんへの信頼を固めていた。はるきが選んだ人で、猫たちが警戒しない人。それ以上の保証はないと思った。 長瀬さんは手帳とペンを取り出し、私の話を聞く姿勢を作ってくれた。私はこれまでの経緯を、順を追って話した。途中、何度か言葉に詰まってしまう。それでも長瀬さんは一度も話を遮らずに、丁寧にメモを取り続けてくれた。一通り話を得た時、長瀬さんは手帳を閉じて、深く息を吐いた。「お話を聞かせていただき、ありがとうございました。お話の内容を整理させていただくと、養子縁組の解消と、過去の対応に対する慰謝料請求がご希望の柱になるかと思います。」「その上で、何か証拠になりそうなものはお手元にありますか?」そこでふと、押入れにしまってある古いダンボール箱の存在を思い出した。「あの、日記みたいなものなら、たくさんあるんですけど。」私は席を立って、寝室の押入れからダンボール箱を運んできた。年代別にゴムで縛られた紙の山が入っている。新聞の折り込みチラシ、スーパーの広告、地域のちらしの余白。どれも紙としては最も安価な部類だ。「日記と言っても、立派なものではないんです。ちょっとした記録みたいなもので。その日は何があったか、何を食べたか、何を感じたか。ノートも満足に買ってもらえなかったので、チラシの裏に書いてました。」そう言って、一番上の束を長瀬さんへ差し出した。長瀬さんはゴムを外し、上から数枚を手に取る。最初の1枚に視線を落とした瞬間、彼の眉がはっきりと寄った。裏面には、私の手書きの文字がびっしりと並んでいる。小学校3年生の、まだ拙い字で書かれた1ページだ。「今日、お母さんになんでまだいるのと言われた。晩御飯はメイちゃんとお父さんとお母さんだけ。私の分はなかった。ちゃみだけが私の味方。」長瀬さんは何枚かを丁寧にめくった。時間が進むにつれて、私の字は整い、書かれる内容もより具体的になっていく。「修学旅行に行けなかった。両親とメイは私に黙って海外旅行に行った。4日間給食だけで過ごした。」「メイがまた猫を捨てた。今度の子はまだ目も開いていない。」長瀬さんは何度か呼吸を整えるように肩を動かす。「り子さん、今までよく頑張りましたね。」彼の声は少し詰まっていた。私は深く目を伏せる。「はるきにも同じことを言われました。でも、当時の私は頑張ってるつもりはなかったんです。生きるのに必死で。」長瀬さんは何も言わずに私を見ていた。「もしかしたら、私を産んですぐに施設に置いた本当の母親も、苦しかったのかなって思うんです。会ったこともない母親の顔を、私は時々想像する。本当にどうでもいい子供だったら、もっと違う方法で処分する選択肢もあったはずだ。それをせずに、施設に置き去りにした。推測でしかないけれど、もしかすると彼女の精一杯の選択だったのかもしれない。」そう信じたかった。長瀬さんはしばらく考え込むように手帳のページを撫でる。「なるほど。り子さん、これらは大切に保管しておいてください。もしかすると、戦いの場面で活躍してくれるかもしれません。」彼は紙の束を丁寧に揃え直しながら、慎重な表情でそう口にした。「役に立つんでしょうか?」「ええ、一見するとただの古い紙の束のように見えます。ですが、見る人が見れば、これは非常に価値のある記録です。」それ以上、彼は詳しい説明を加えなかった。そして、もう1枚のページの隅にあった「ちゃみ」という単語を指で示した。「あの、この日記に何度か出てくる『ちゃみ』っていうのは、何ですか?」私は頬がほんのりと熱くなるのを感じた。「この年になって恥ずかしい話なのですが、隠すこともないので。子供の頃、両親から送られたくまのぬいぐるみです。茶色い耳をしていたから、ちゃみと名付けて、ずっと大切にしてました。実は、今でも手放せずにいるんです。内蔵の録音テープも、いっぱいになるたびに交換してました。昔はよく、自分の声を録音して、会話をしているような気持ちになってたんです。」私は仕事部屋へ向かい、デスクの隅で今日も静かに佇んでいるちゃみを手に取った。リビングへ戻り、長瀬さんの前のテーブルにそっと置いた。「年季は入ってますが、今でもちゃんと録音できるんですよ。」そう言いながら、私はちゃみの紐を引っ張った。ちゃみの中で、機械が起動するかすかな音がする。長瀬さんは私の手の中のちゃみをじっと見つめていた。そして、ゆっくりと顔を上げる。「過去のテープもお持ちですか?」「はい、全部保管してます。」私はもう一度寝室へ向かった。押入れの奥から、もう1つのダンボール箱を取り出す。中には、年代別にラベルを貼ったカセットテープが、きちんと並んでいた。「大事なものかと思いますが、お借りしてもいいですか?必ずお返しします。」彼の口調には、はっきりとした熱がこもっている。「構いませんよ。役に立つかどうか分かりませんが。」「いえ、これは、本当に大事なものになる可能性があります。」私は首をかしげながらも、チラシのダンボールとテープのダンボール、そしてちゃみ本体を長瀬さんの手に委ねた。 長瀬さんが帰った後、私ははるきと2人で夕食を取った。ブラックカードを受け取った日から1週間が経つが、私はまだ一度も使えていない。本当に困るまで使わないと決めていた。それでも、財布の中にあのカードがあるという事実は、私の心の安定剤になっている。それから数日後、長瀬さんから連絡が入った。チラシとテープを精査した結果、戦える材料は十分に揃ったとのことだ。具体的な手順について、長瀬さんは何度か我が家を尋ねてきた。一つずつ丁寧に確認しながら、戦略を組み立てていく。作業を進める中で、私の心は少しずつ冷静になっていった。あの家族への怒りが消えたわけではない。その怒りを冷静に管理する力が、長瀬さんとの会話の中で育っていったのだ。 1週間ほど経ったある日の朝、仕事部屋でメールを返信していた私のスマホが突然鳴った。画面には「父」の文字。父から直接かかってくるのは、年に数回もない。嫌な予感が胸の中で広がる。応答ボタンを押すと、いきなり怒鳴り声が耳に飛び込んできた。「お前の買った車で事故った。修理の請求が来ている。俺は払えないから、お前が払え。分かったな。」「え?買ったばかりでしょ。」つい先月、母からの一方的な電話で300万円を引き落とされたばかりの車だ。「単独事故だ。少しガードレールにぶつけただけだ。お前が買った車だろ。だったら、修理代もお前に払う義務があるんだよ。」「待って。まだ、私は何も…」「いいな。」一方的に通話を切られる。すぐ近くにいたはるきも、通話の内容を聞いていた。彼は私の肩に手を置き、顔を覗き込んできた。「り子、こんなのおかしいよ。」はるきはその場で、長瀬さんに電話をかけてくれた。電話を終えたはるきは、いつもと変わらぬ声で話しかけてきた。「長瀬さんも一緒に、一度ご実家に行こうって。向こうに『修理代の件で伺います』ってメッセージを入れておいて。日時は向こうに決めさせていい。それで、こっちは3人で行く。」私はスマホを開き、震える指で父にメッセージを送る。返信は思ったよりも早く届いた。「来週の日曜、午後2時を守れ。」たったそれだけの、命令口調の文面。私はスマホを閉じて、はるきの方を向いた。「大丈夫だよ、り子。僕がついてるから。」その言葉に、私は深く息を吐く。これからの戦いは、感情だけでは終わらない。法律と証拠と覚悟を持って挑む戦いだ。 指定された日曜日。午後1時、長瀬さんが我が家に到着。私たちは長瀬さんの運転する車に乗り込み、実家へ向かう。実家に着くと、庭先に1台の車が止まっていた。父が先月、私の口座から300万円を引き落として購入したばかりの、新しい乗用車だ。その車を目にした瞬間、私の足が止まる。想像していた以上に、車はボコボコだった。フロントバンパーが大きく潰れ、ヘッドライトの片方が陥没している。ボンネットには深い擦り傷が走り、左前のフェンダーは波打つように歪んでいた。塗装も剥がれ、下地の金属が剥き出しになっている箇所がいくつもある。「ガードレールに少しぶつけただけ」だと父は言っていた。だが、ぶつけたではなく、突っ込んだのではないか。この車のために、私のいざという時のための預金が全て吸い上げられた。それが、たった数週間でこのあり様だ。ふらついた私の体を、はるきが後ろから支えてくれた。玄関のインターホンを押す。しばらく待ってから、扉が開いた。顔を出したのは母だ。「あら、来たの。さっさと車直してちょうだい。あれじゃ、どこにも行けないのよ。」私の顔を見た瞬間に出た言葉が、それだった。そして、母の視線はすぐに私の後ろの2人へ移る。リビングでは、いつもは私などに関心を示さない父が、すでにテーブルについていた。普段なら人が来ても新聞から顔を上げない父。それなのに、今日は両肘をテーブルにつき、こちらを睨むようにして待ち構えていた。私たちが入っていくと、父は長瀬さんに視線を止める。「こっちの人は?」「弁護士の長瀬さんです。」はるきが私の代わりに答えてくれた。その瞬間、父の表情が露骨に苛立ったものへ変わる。「弁護士?大げさだな。そんなことに金を使うなら、こっちに回せ。」母もキッチンから戻ってきて、私とはるきと長瀬さんを順番に見回した。そして、芝居がかった表情で口角を歪めた。「まあ、無能と低学歴じゃしょうがないわよね。」そんな嫌みも、今日の私には届かない。父はテーブルの上に2枚の書類を並べた。1枚は自動車修理工場が発行した見積もり書。もう1枚は、道路管理者からのガードレール修理費用の請求書。「修理代が30万、ガードレールが20万、合わせて50万だ。お前の名義の車なんだから、お前に払う義務があるだろうなあ。弁護士の先生。」父は当然のように言い切り、最後の問いかけを長瀬さんに向けた。長瀬さんはしばらく書類を眺めてから、顔を上げた。「確かに、名義ということで、一定の責任問題に巻き込まれる可能性はあります。」「だろう。」父は得意げに鼻を鳴らした。ところが、長瀬さんはまだ言葉を続ける。「ですが、今回の車両事故について、実際の使用者、管理者、運転者はお父様です。また、事故当時の運転者もお父様ですね。」「だったら、なんだ?」「少なくとも、修理費用については、り子さんのみが負担すべきという話にはなりません。」父の顔から笑みが消える。代わりに浮かんだのは、苛立ちと若干の動揺だった。「は、でも、り子の名義だ。それに、俺は父親だぞ。娘が負担して当然だろ。」母も身を乗り出してきた。「そうよ。今まで、何でも名義人が全て支払いをしてきたでしょ。り子。そうよね。それが、我が家のルールだもの。今更変更するなんて、おかしいわ。」「我が家のルール」という言葉に、私は心の中で嘲笑する。そのルールは、私を都合よく利用するためだけに作られたものだ。話し合いは平行線のまま進んだ。長瀬さんが法理で説得しても、両親は「親子だから」「我が家だから」と繰り返すばかり。ここに論理は存在しない。私はバッグの中に手を入れた。あらかじめ用意してきた封筒を取り出す。中には、ちょうど50万円の現金が入っている。「分かった。50万を払えばいいんでしょ。これで、この車の件は終わりにして。」私が封筒をテーブルの上に置くと、両親の目がぎらりと輝いた。それまでの剣幕な表情が一瞬で消え、下唇を舐めるような仕草さえする。「いいんですか?り子さん。」長瀬さんはこちらを見て、小さく問いかける。「私は娘ですから。いいんです。」そう言いながら、私は両親を盗み見た。彼らの顔はすでに、金が入るという喜びで歪んでいる。「そりゃそうよ。18歳までこの家にいて、娘として養われたんだもんね。恩を返すのは当然。」「こっちは血も繋がってないのに、面倒見てきたんだから。」「そうだぞ。り子、家族っていいな。ははは。」私は両親の笑い声が一段落するのを待ってから、ゆっくりと口を開いた。「そうね。家族だものね。それじゃあ、私からもお願いがあるの。」両親の笑いが、わずかに止まった。「新しい仕事をするから、事務所を借りるのよ。保証人になってくれないかしら。はるきには頼めないから、お父さんかお母さん、どちらかお願いします。」数秒の沈黙がリビングに落ちる。昔、一人暮らしをするために部屋を借りようとした時、両親に保証人を断られたことが鮮明に蘇る。両親は2人して、困惑した表情を浮かべている。あの時と同じだ。そして、2人はほぼ同時に口を開いた。「ちょ、ちょっと、冗談じゃない。」「メイならまだしも、血のつながらないこの人に、なんてなるものですか?」「やはり、あの時と同じだ。」その時、長瀬さんがゆっくりと口を開く。彼の声はいつものように穏やかで、それでいて鋭かった。「50万受け取ったのに。」「それとこれとは別よ。50万は名義人の責任だもの。家族とか、関係ないわ。」矛盾だらけの主張だ。つい先ほど「娘として養われた恩を返すのは当然」と語っていたのに、今度は「家族とか関係ない」と切り捨てる。彼らの中で、私という存在は、便利な時には家族になり、要求に答えないと他人になるのだ。「もう、めんどくさいわね。こっちは、あなたと親子の縁を切ったっていいのよ。」「やっぱり、あの時、施設に返しておけばよかったな。」そのセリフを、彼らは笑いながら吐いた。母はまだ上機嫌に話し続けた。「正直、もうあなたは本当に必要ないのよね。メイが結婚することになったから。お相手は、あなたの先輩の佐田さんよ。とても優秀で、お金持ちだって言うじゃない。あなたとは大違い。」はるきは口の端に、うっすらと何かを察したような笑みを浮かべている。「せっかく来てくれる有望なお相手さんに、こんな50万出させるわけにいかないからね。弁護士さんというわけだ。私たちはり子との養子縁組は解消するからな。こっちで勝手に手続きやって。面倒だから。」両親は何の躊躇もなく、その言葉を口にした。彼らにとって、私との関係を切ることは、不要な家具をゴミに出す程度の感覚なのだろう。長瀬さんは静かに頷いた。「わかりました。では、今回のお話や状況を踏まえて、家庭裁判所へ申し立てを行います。」「はいはい。さあさあ、これからメイと佐田さんが来るんだから、他人はもう帰って。」母は立ち上がり、玄関を指差した。私は長瀬さんと顔を見合わせる。彼はそっと目配せをする。「ここで言うべきことは、もうない。」という合図だった。はるきも席を立った。私は最後にもう一度、両親を見る。彼らはすでに、私の存在をきれいに視界から消していた。それでいい。私も、彼らを視界から消した。 実家を出ると、午後の日差しが目に飛び込んでくる。車に乗り込み、シートベルトを締めた瞬間、思わず「よし」と声が出た。車が動き出してしばらくしてから、はるきが口を開く。「り子、新しい事務所の保証人が必要って、本当?」私は助手席で思わず吹き出した。先ほどまでの緊張が、その瞬間に一気に解けていくのを感じる。「まさか、後部座席の長瀬さんも、肩を揺らして笑った。」「だと思いました。」「でも、あながち嘘じゃないわ。将来的に、何かあるかもしれないもの。」私ははるきの横顔を見ながら答えた。「50万円を奪われ、養子縁組を一方的に解消すると言われた。それなのに、私たちの車内には、解放感に近い空気が満ちている。」「そうだ。長瀬さん。来週、り子のお誕生日会をするんです。よかったら来ませんか?僕が料理を作るんで。」「え、はるきさんの料理ですか?」「はるきのは斬新だけど、美味しいのよ。」「それは楽しみですね。最近気に入ってるワインを持って伺います。」3人で笑い合いながら、車は街路樹の並ぶ道を走った。金を奪われ、縁も切られたのに、なぜこんなに笑えるのか。それは、私たちが求めていた幸せが、手の届くところまで来ていることを意味していた。 帰宅後、はるきのスマホが小さく震えた。通知を確認した彼が、軽く眉を上げる。「佐田さんからメッセージだ。あら、なんて。本当に結婚したみたい。今度、新婚旅行でラスベガスに行くって。」「すごいわね。佐田さんって、そんなにお金持ちなの?」はるきは画面を消して、ふっと笑った。「さあ。」いつものはるきらしくない、歯切れの悪さがあった。私には、その理由が分かっている。分かっていたからこそ、何も問わない方が、お互いにとって都合が良かった。 3月の桜の頃、私は36歳の誕生日を迎えた。その日、我が家はいつもと違う様相を見せていた。朝からはるきはキッチンに立ちっぱなしで、何かをことこと煮込んでいる。午後3時を回った頃、玄関のチャイムが鳴った。扉を開けると、長瀬さんが両手いっぱいに紙袋を抱えて立っていた。「お誕生日おめでとうございます。」長瀬さんから差し出されたのは、リボンのかかった小さな包み。中を開けると、ふわふわの三毛猫のぬいぐるみが入っている。「あ、可愛い。」「実は買う時にすごく恥ずかしくて、ぬいぐるみのコーナーを行ったり来たりしてました。」私は思わず吹き出す。スーツで決めた長瀬さんがぬいぐるみコーナーでうろうろする姿を想像すると、何とも言えない可愛らしさがあった。彼はもう1つの紙袋を差し出した。中身は、ふかふかの猫用ベッドだった。「猫ちゃんたちにもプレゼントを。これから寒くなる時期に、ちょうどいいかと思って。」長瀬さん、ついに目頭が熱くなった。人から、猫たちまで気にかけてもらえる経験を、私はずっと知らずに生きてきた。ダイニングテーブルには、はるきが朝から仕込んでいた料理が並んでいた。色とりどりのカプレーゼ、焼き目の美しい鶏のローストとローズマリーの香り、彩り豊かなサラダ、そして私の好物である煮魚。フランス料理と和食を混ぜたような、不思議なメニューだ。それでも、どれも見るからに丁寧に作られている。長瀬さんが持参してくれたワインを開け、3人で乾杯した。食事が一段落した頃、はるきは一度席を立ち、寝室から小さな箱を持ってきた。箱の表面には、上品なクリーム色のリボンが結ばれている。「これ、僕から。」リボンをほどくと、中には小さな指輪が納められていた。シンプルなプラチナの輪に、小さな石が控えめに輝いている。「結婚指輪は薬指にあるからさ、これは小指にはめて欲しいんだ。」はるきは私の左手を取り、指輪を私の小指へ通してくれた。「小指の指輪には、『願い』とか『守る』って意味があるんだって。これからのり子の毎日が、ずっと健やかでありますように。そういう願いを込めたよ。」「ありがとう。」それ以上の言葉が出てこなかった。代わりに、頬を伝う涙が止まらない。「あ、ごめん。泣かせるつもりじゃなかったんだけど。」慌てたはるきの声に、私は首を横に振った。泣いているのは、胸の中の温かい何かが溢れて止まらなくなったからだ。長瀬さんがテーブルの向こうで、目頭を抑えているのが見えた。夜が更けるまで、私たちはゆっくりと食事を続けた。猫たちは長瀬さんからもらった新しいベッドの上で、気持ち良さそうに丸まっている。窓の外では、街路樹の桜がぼんやりとした街灯の光に照らされていた。幸せという言葉を、私は心の中で噛みしめる。ずっと、私は誰かの幸せを羨むばかりだった。それが今、自分の中に確かな形で存在している。戦いはまだ完全には終わっていない。それでも、私たちの元には確実に春が訪れていた。 そして4月、桜が満開を迎えた水曜日の朝、私のスマホが鳴り始めた。時計はまだ午前6時を回ったばかりだ。画面には「母」の文字。ブロックしておくのを忘れていた。私は息を吐いて、無視のままサイドテーブルに戻す。着信音はすぐに止んだ。そして、また鳴り始める。それを繰り返している。隣で寝ていたはるきが目を開けた。「電源、切っちゃっていいよ。」「うん。そうする。」私は端末を手に取り、長押しして電源を落とす。画面が暗くなる瞬間、なぜか小さな笑いがこぼれた。電話が鳴り続けることは予想していたから、電源は明日まで切っておく。仕事用には別の番号を契約してあるので、業務に支障はない。はるきの番号も、自分の住所も、彼らには教えていない。彼らが直接連絡を仕掛けてくることは、物理的に不可能だ。「佐田さんから僕にも連絡が来るかもしれないけど、こっちも問題ないよ。じゃあ、今日も普通の1日にしましょう。」私たちはいつも通りに朝食を取り、猫たちに餌を分け、それぞれの仕事部屋に入る。翌日の昼過ぎ、リビングのソファーで私ははるきと並んで座っていた。仕事の合間のコーヒーブレイク。猫たちが私たちの間に潜り込んできて、それぞれの体温を分けている。「電源、入れてみようかな。」「うん。そろそろ反応を見てもいいんじゃない?」私は端末を手に取り、電源を入れた。ロック画面が起動した瞬間、通知バナーが滝のように流れ落ちる。「すご。うわ、何件?」「100件近い。」はるきはソファーの上で吹き出した。着信履歴を確認すると、母、父、メイの3人で交互にかけてきていた。ところが、夕方からの着信はぱったり止んでいる。ちょうどその時、新しい着信が画面に表示された。メイの文字。私ははるきを見て苦笑しながら、応答ボタンを押した。「なんで出ないのよ。こっちは大変なことになってるの。今すぐ来なさい。」応答した瞬間、悲鳴に近い声が耳に飛び込んできた。これまでのメイの電話はいつも一方的で偉そうだった。それなのに、今日は明らかに余裕を失っている。私が返事をする前に、電話は一方的に切られた。「行こうか。」「うん。」キッチンへ向かい、猫たちの皿に少し多めの餌を分けた。水入れも全て新しいものに交換。留守中、彼らが快適に過ごせるように念入りに整える。はるきはその間に、長瀬さんと連絡を取っていた。 長瀬さんとの待ち合わせ場所は、実家から数km離れたコンビニの駐車場だ。私たちが近づくと、長瀬さんが何やら大きなものを抱えていた。彼は少し気まずそうな顔で、頭を下げる。その腕の中で、見慣れた茶色い毛並みが揺れている。ちゃみだった。「似合いますね。」はるきが口の端を持ち上げて笑うと、長瀬さんは慌てたように首を振った。「こ、これは、り子さんから借りたもので。今日は使う場面があるので、念のため。」スーツでビシッと決めた40代の弁護士が、年季の入ったくまのぬいぐるみを大事に抱えている図は、何度見てもおかしい。それでも、長瀬さんの目は真剣だ。今日が最後の戦いだということを、彼も理解していた。 実家の前に着くと、玄関の前でメイが仁王立ちしていた。久しぶりに見る彼女は、メイクが完全には決まっておらず、髪も乱れている。普段ならありえない姿だ。私たちの車を見つけた瞬間、メイはすごい剣幕で駆け寄ってきた。「昨日から電気もガスも使えないの。水も出ない。私たちが昨夜、どんなに辛い思いをしたか分かってる?」メイの声は明らかに枯れている。メイの後ろから、もう1人の男性が姿を表した。初めて会うが、写真で顔は知っている。はるきの先輩だという、佐田孝介だ。シャツの襟は乱れ、目の下にはくっきりとした隈が刻まれていた。「おい、はるき。お前の嫁、何考えてるんだ?中卒貧乏の嫁は頭おかしいな。」はるきを見下す口調。それでも、はるきは表情を一切変えず、佐田の顔をじっと見つめ返していた。家の中からは、両親も出てきた。「り子、どういうことか説明しなさい。」父は、その後ろから苛立ちを抑えきれない様子でこちらを睨んでいる。「いいけど。ここで説明するの?」私は周囲を見回した。通りすがりのご近所さんや、洗濯物を干していた向かいの奥さんが、何事かとこちらを見ている。母は舌打ちして、渋々私たちを家の中へ招き入れた。リビングは、メイの言うように一切の電気が通っていなかった。冷蔵庫の運転音もなく、エアコンも止まっている。「り子、どういうこと?光熱費の支払いはあなたの役目よね。未払いの請求書が来てたけど、まさか支払ってないの?」母は未だに、私を避難する立場でいられると 思っているらしい。「昨日は大変だったんだから。水も出ないから、トイレも流せないし。ご近所さんに水を借りまくって、変な顔されたわよ。」ご近所さんの「変な顔」が想像できた。電気、ガス、水道、全てのライフラインが同時に止まる家など、滅多にない。近隣からは、よほど経済的に行き詰まった家族だと思われたことだろう。私は、ぎゃあぎゃあと騒ぐ彼らを無表情で見つめていた。ふと、ある違和感に気づく。「もしかして、メイと佐田さんも、この家に住んでるの?」メイが罰が悪そうに視線をそらした。「俺は、仕事ができなくて偉い目にあったんだぞ。はるき、どう責任を取る?俺から社長に行って、お前を首にしてもらってもいいんだからな。」はるきは正面から佐田を見つめ、表情一つ変えない。彼らが一通り喚き終えるのを、私は待った。その間、私の中ではこれから話すべきことが、前もって整理されていく。何度も長瀬さんと打ち合わせを重ねてきた。今日の流れは、最初から決まっていた。「言いたいことはそれだけ?じゃあ、私から話をさせていただきます。」リビングが、ふっと静まり返った。4人の視線が一斉に私へ集まる。「電気もガスも水道も使えないのは、私がそれらを先月で解約したからよ。4月になって月が変わったから、使えなくなった。それだけのこと。」その瞬間、4人の顔から表情が抜け落ちた。「何言ってるの?」「言葉通りの意味よ。3月末日付けで、全て解約手続きを済ませた。4月1日からは、契約が存在しない状態。電気もガスも水道も、来るわけがないでしょ。」説明しながら、両親の顔色がみるみる変わっていくのを観察する。「ふざけるな。非常識にもほどがある。」「どうして、私が住んでもいない家の光熱費を払わなきゃいけないの?家族でもない、他人のために。」「非常識はどっちかしら?あんた、名義なんだから、あんたが払う。それが常識よ。」「はい。私の名義なので、私が解約しました。使いたいなら、自分たちで契約したらいいじゃないですか。」論理的に押し返すと、母は言葉に詰まった。「ちなみに、この家も途中から私の名義にされたの、知ってるから。家を出たのに、ある日突然、家賃の請求の電話が私のところに来て、驚いたわ。」父はソファーの肘掛けを、母はキッチンタオルの端を、それぞれ手でいじり始める。そして、私から目をそらした。家賃契約の名義変更を、両親は私に無断で行っていたのだ。私の身分証明書や印鑑を勝手に使ったのだろう。不正な手続きであることは明らかだ。私はそれを理不尽に感じながらも、必死に働いて家賃を支払い続けてきた。「その賃貸契約も、今月で解約になる。早めに出ていくことをお勧めします。」その瞬間、4人は揃って爆発した。「勝手なことをするな!」「住んでもいない家の家賃を、どうして私が払わなくちゃいけないの?」「家族だからに決まってるだろう。そんなことも分からないのか?」私は見上げた。彼らの怒鳴り声に、少しだけ顎が上がる。それでも、私は1mmも視線をぶらさなかった。「佐田さんって、かなり収入がいいって聞きましたけど。新婚旅行もベガスでしょ。家族なら、佐田さんがなんとかしたらどうですか?」佐田は反論の言葉を探しているようだったが、出てこない。メイがその隣で、かん高い声を上げた。「そりゃそうよ。あんたの低学歴貧乏旦那とは違うの。こー介、こんな狭くて古い家なんてもういいから。私たちみんなで住める家、買いましょう。」両親もそれに乗っかろうとしている。「そうね。こー介さんなら、大きな家もすぐ買えるでしょ。」期待を込めた3人の視線が、佐田に集まる。その時、はるきが初めて口を開いた。「それは無理だと思います。」リビングの空気が、一瞬で凍る。はるきは両親とメイの顔を見て、最後に佐田の顔を見る。「佐田さんは、もうすぐ無職になりますから。」「お前みたいな低学歴が、誰に口を聞いてるんだ?」佐田は虚勢を張ったが、声が上ずっていた。はるきは答える代わりに、長瀬さんへ視線を向ける。長瀬さんが頷き、書類鞄から1冊のファイルを取り出した。「佐田孝介さん。HR企画から、ある従業員の不正調査のご依頼を受けていました。それが、あなたです。」佐田の顔から血の気が引いていく。「あなたが在宅勤務であげてきたエンジニアリングの成果物を精査したところ、いくつかの異変が見つかりました。書き手の癖や特徴が、全く一定でない。」リビングは、長瀬さんの声だけが響く静かな空間になっている。「あなたは自分の業務を、安価で雇った複数のアルバイトに肩代わりさせていましたね。SNSで募集をかけて、素性の知れない学生に機密情報を渡していたと、調査の結果判明しました。情報漏洩にもつながる、あってはならない行為です。」加えて、長瀬さんはさらに踏み込んだ。「他人に業務をさせている間、あなたは何をしていましたか?ラスベガス旅行、ブランド品の購入、特定のクラブでの飲食代の使用。全て会社の経費から落とされていますね。架空出張も、複数回確認されています。」佐田の顔は、もう真っ青を通り越して土色になっている。「ちなみに、経理部長も同じく調査の方針です。あなたのお仲間ですね。」「そ、そんなのおかしいだろう。お前が、何の権限があって調べるんだ?」「あなたは社長の弱みを握ってるんじゃないですか?だから、社長からは動きがないと思っている。」「社長からも、相談がありました。そして、HR企画に入社できたのも、中学時代の後輩であるはるきさんの紹介ですね。」「だからなんだ。実力主義なんだから、入社してしまえば…」「はるきは、呆れるように首を振った。」「昔から強引な人だとは思ってたけど、もっと男気があると思ってました。だから、期待して入社していただいたんですけどね。残念です。」「なんだ、はるきのくせに。」「HR企画は、僕が作った会社です。」リビングが、再び凍りつく。「はるきさんは、HR企画のCEOにあられます。私は、顧問弁護士をさせていただいています。」佐田の足元が、ぐらりと揺れた。床に膝をつき、両手で頭を抱える。はるきは見下ろしながら、淡々と話を続けた。「僕は中卒で、親もいない。絶望してたけど、両親は僕に未来を残してくれたんです。16歳になった時に、両親の生命保険を受け取りました。それを元手に、僕はプログラミングを学んだんですよ。」はるきの言葉に、メイと両親が呆然と固まる。「3年間みっちり学んで、19歳で起業しました。それが、HR企画の始まりです。」その話を、私は知っていた。ブラックカードを受け取ったあの日、はるきが私に話してくれたのだ。佐田にCEOであることを告げていないのも、彼なりの配慮だったという。「経理部長や社長、その他幹部で、臨時の役員会議を行います。出席、よろしくお願いしますね。佐田さん。」床に膝をついたまま、佐田はもう何も言えない様子だ。メイが、信じられないという顔ではるきを見つめる。「どういうこと?こー介はセレブじゃないの?」その問いに、長瀬さんは穏やかに口を開いた。「メイさん。佐田さんが、あなたのお店で使っていた金額、ご存知ですか?」メイの視線が、ぐらりと揺れる。「3年間で、合計2800万円。全てHR企画の経費から落とされていました。備品購入、出張費、交際費。それぞれの名目で偽装されていますが、領収書の店舗名と日時から、全てあなたのお店だと特定済みです。ええ、ラスベガス旅行も同様です。航空券、ホテル、現地での飲食代、カジノでの有効費。合計700万円が、架空の海外プロジェクトの視察費として計上されていました。」佐田は床に膝をついたまま、頭を抱えている。長瀬さんは書類のページを1枚めくった。「佐田さんは在宅勤務を許可されたエンジニアです。ところが、勤怠記録を精査したところ、ログイン時刻と実作業時間に、説明できない乖離が見られました。業務時間中、別の人物に仕事をさせ、佐田さんは自宅にすらいなかったらしい。メイさんの店でも、彼が平日昼間から飲んでいる姿が、複数の従業員に目撃されているという。会社員でありながら、会社の経費を私的に流用し、本来の業務はアルバイトに丸投げ。これだけでも、懲戒解雇に加えて、横領罪と背任罪での刑事告訴の対象です。」メイの顔色は、もう完全に失われていた。自分が結婚した相手が、セレブどころか犯罪者の入り口に立っている人物だったのだ。両親も同様に呆然としていた。だが、メイは突然立ち上がり、はるきに向かって両手を合わせて見せた。「あ、はるきさん。あの日、お見合いに行けなくて、ごめんなさい。はるきさん、絶対に私に会いたいと思ってましたよね。こんな姉が来てしまって。何を言い出すかと思えば、見事な手のひら返しだ。」「今からでも遅くないですよね。はるきさん、お互い結婚して、一緒になりませんか?だって、本来、結ばれるべきは、私たちだったんですから。」メイの言葉に、あきれを通り越して、唖然とすらなった。長瀬さんも同じ気持ちだったのだろう。首を振りながら、わずかに眉を潜めている。両親に至っては、目を輝かせて「そうだ、そうだ」と乗っかろうとしていた。たった今、HR企画のCEOだと判明したはるきに、メイを乗り換えさせようとしている。彼らの中で、私という存在は、すでに捨てる側に分類されているらしい。はるきは静かに口を開いた。「そうだね。本当にあの日は、運命の日だった。り子に会えた、運命の日だよ。あの場に来たのがメイさん。君じゃなくて、本当に良かった。」メイの表情が、瞬時に歪んだ。両親も、目を丸くして驚いている。「は?私より、り子がいいって言うの?何それ?低学歴って目もおかしいの?」「僕は、心の目で見てるからね。り子と出会わせてくれて、ありがとう。感謝するよ、メイさん。」メイはその言葉に発奮して、足を踏み鳴らす。佐田はもはや反論する気力もなく、床に座り込んだままだ。それでも、くじけないのが両親だった。「メイはもう結婚したんだから、佐田さんとどうにか生きていきなさい。り子は、親子だ。これからも面倒見てくれるわよね。」「そうだぞ。り子。俺たちが育てた恩は、忘れてないだろう。」「そうね。家を出るまで、お世話になったわ。」母の顔が、ほんの一瞬、安心に緩む。「だから、家を出てから18年、あなたたちに恩を返してきたつもりよ。覚えてる?私、先月で36歳になったのだから。これで、終わり。」その言葉の意味を、両親はじわじわと咀嚼する。そして、やっと顔を歪めた。「そ、そんなこと言わないで。親子でしょ。助け合って生きていきましょう。」その瞬間、長瀬さんが進み出た。「ちなみに。前回こちらに来た時、ご両親からのお申し出を受けて、養子縁組の手続きを進めた結果、先日、裁判所にて正式に受理されました。もう、お2人とり子さんの間には、親子関係は存在しません。」「そんな、養子縁組は簡単に解消されないはずよ。」「そうですね。よほどの事由がなければ、受理されないでしょう。ですが、今回、ご両親からの申し出に加えて、揺るぎない証拠が複数提出されました。そのため、家庭裁判所も、解消は妥当であると判断したのです。」「証拠って、何よ?」長瀬さんは、抱えていたちゃみをテーブルの上にそっと置いた。「まず、こちらのくまのぬいぐるみ。り子さんが幼少期から持っていたものです。このぬいぐるみには、紐を引くと録音が始まる仕組みが内蔵されています。」両親の顔色が変わり始めた。「り子さんは、嫌なことがあるたびに、無意識にこの紐を引っ張っていました。ぬいぐるみに話しかけることで、自分の気持ちを整理していたんでしょう。そして、ぬいぐるみには、り子さんの声と一緒に、周囲の音も全て録音されていました。」母の表情が凍りついた。「お2人がり子さんに発した暴言、メイさんがり子さんを侮辱した言葉。全て、過去のテープに録音されていたんです。」「嘘。」「施設に返したい。本当の子じゃないから、必要ない。大学なんて行かせない。あなたたちが私に投げつけてきた言葉、覚えてる?私は、全部覚えてるわ。」そこで長瀬さんは、もう1つのダンボール箱を取り出す。中には、私が書き溜めてきたチラシの裏の日記が納められている。「これは、り子さんが幼少から書き続けていた日記です。ここにも、当時のご家族の言葉が、鮮明に綴られていました。」「日記なんて、偽造かもしれないでしょ。」その瞬間、長瀬さんの口元に、確信の笑みが浮かんだ。「いいえ。り子さんの日記は、チラシの裏に書かれているんです。そのチラシ1枚1枚の印刷された年月日、特売の有効期限、地域の発行数。それらを精査した結果、それぞれの日記が書かれた時期は、第三者にも証明可能なんです。そう、日記の偽造は、新品を当時のチラシに書かない限り、不可能です。30年前のチラシを、今から偽造することは、現実的にできません。」加えて、長瀬さんは私の口座から不正に引き出された金額の振り込み履歴、母が私の名義で勝手に契約した家賃の証拠、車購入時の手続きの不正など、複数の書類をテーブルに広げた。全て、彼が前に集めてくれた証拠だ。「これらの内容は、家庭裁判所も認めるほどの、ひどい実態だった。養子縁組の判断は、もはや覆ることがない。」「お世話になった18年分、きっちり返しました。これからは、他人として生きていきましょう。」「待って、り、俺たちを見捨てるな。」「さようなら。」私は深く頭を下げ、背を向けた。はるきと長瀬さんも続く。背後で母の絶望の叫び声が響いたが、私は一度も振り返らなかった。玄関を出ると、4月の柔らかい日差しが私たちを迎えてくれた。桜の花びらが、ひらひらと舞っている。「り子、お疲れ様。」「うん。ありがとう。」私は深く息を吸い込んだ。肺の中に、桜の香りが混じった春の空気が満ちていく。長かった戦いは、ようやく終わった。 実家との決別から、半年が経った。その半年で、4人の人生はそれぞれ別の方向へ転がり落ちていったという。佐田は4月末日付けでHR企画を懲戒解雇された。加えて、長瀬さんが告げた通り、横領罪と背任罪での刑事告訴も実行されたらしい。3年間で会社の経費から流用した総額は、最終的に5200万円を超えていた。当然、佐田には全額の返済命令が下った。だが、家族や親戚に頼っても、返しきれる金額ではない。彼は実家にも見放され、自己破産の道を歩む結末となった。裁判所からは、就労に関する制限もつけられたという。表だったIT業界では、もう生きていけない身となった。メイと佐田の結婚生活も、わずか4ヶ月で終わった。佐田がセレブではなく、財産も一切残らないと知った瞬間のメイの手のひら返しは、見事だった。慰謝料を請求しようにも、相手には払う能力がない。そもそも、メイ自身も佐田の口座から散々金を引き出していた可能性があり、調査次第では共犯扱いになる立場だった。メイは離婚を強行し、すぐに高級クラブの仕事へ復帰しようとした。ところが、業界では佐田の事件の噂が一気に広まっていたという。犯罪者の元妻、会社の経費を巻き上げていたキャスト。というレッテルは、思いの外重かった。どの店からも採用を断られ続けたメイは、最終的に地方の小さなスナックで働き始めた。昔のような華やかな生活は、もう戻ってこない。両親には、私が起こした損害賠償請求の判決が下った。長年の不正な口座操作、無断での名義変更、車購入時の詐欺的手続き、家賃の名義不正利用。録音された暴言や、チラシ裏の日記、振り込み履歴を基に、長瀬さんが組み立ててくれた請求は、ほぼ全面的に認められた。慰謝料と返還金を合わせて、両親が私に支払うべき金額は、1800万円を超える。両親にはその金額を支払う能力がなかった。不動産は私名義になっていた家賃契約も解消され、もはや住み続けることができない。2人は地方の親戚の家に身を寄せることになった。老後の蓄えも、ほぼ尽きていた。70歳近くなった両親が、これから自力で生活を立て直すのは、現実的に困難だった。4人それぞれの末路を、私は長瀬さんから事務的な報告で受け取った。かわいそうとも、ざまあみろとも思わない。ただ、淡々と受け止めただけであった。 それから1年。私のお腹の中には、新しい命が宿っていた。予定日は、桜の散る頃。はるきはエコー写真を肌身離さず持ち歩いている。家の中では、10匹の猫たちがいつものように好き勝手に過ごしていた。子猫だった3匹も、すっかり立派な成猫になっている。最も小さかった子は、今では一番の食いしん坊に成長していた。ある春の朝、私は仕事部屋のデスクで、出産前最後の構成データを送り終えた。リビングへ向かうと、はるきがエプロン姿でキッチンに立っている。「親子丼でいい?」「もちろん。」いつの間にか、親子丼は得意料理になった。デスクの隅では、年季の入ったくまのぬいぐるみが、今日も座っている。ちゃみの紐が、この先引かれることはないだろう。私はもう、誰かに聞いてもらわなくても、自分の幸せを自分で抱えていけるからだ。私は、本当に幸せだ。血の繋がりではなく、選んで結ばれた家族ができた。これからも、私は、私たちの人生を歩いていく。

2 September 2026

「おい、どうした、君?」――その声で、雪の駅舎で死にかけていた12歳の俺の人生は変わった。医者の先生は、金も保険証もない俺を黙って治療し、「生きて、誰かを救う人になれ」と言った。それから15年。俺はドクターヘリの救急救命士になった。そして今朝の無線が告げた。患者名、早坂誠一郎。78歳。先生が雪の路上で倒れた。心臓が止まった。機内で俺は圧迫を続けながら心の中で叫んだ――「先生、今度は俺の番です…

午前10時12分、出動要請のブザーが鳴った。俺は非番のファスナーを上げながら立ち上がった。窓の外には真冬の空が広がっていた。よく晴れた、飛ぶには申し分のない朝だった。 無線の声が続けて現場の情報を読み上げていく。山合の集落、最寄りの病院まで車で1時間以上。そして患者の名前。 「患者名、早坂誠一郎さん。地元診療所の医師です。至急の搬送を要請します」 その瞬間、ヘリポートへ走り出そうとしていた俺の足が止まった。 誠一郎。聞き間違いであってくれと思った。けれど無線はもう一度はっきりとその名前を繰り返した。 忘れるはずのない名前だった。15年前、真冬の無人駅で死にかけていた俺を拾い上げてくれた人。金も保険証も持たない子供を黙って治療してくれた人。そして俺の人生を変えるたった一言をくれた人。 隣で立ち上がった三雲先生が叫んだ。 「何してる?走るよ」 俺は震えそうになる手で色材バッグの持ち手を握り直し、屋上のヘリポートへ走った。 この日の空が、15年前のあの雪の夜と俺のこれからを1本の線で繋ぐことになるなんて。駆け出したこの時の俺はまだ何も分かっていなかった。 俺の名前は高瀬悠人。27歳。県のドクターヘリに乗る救急救命士だ。出動要請が入れば医師と看護師を乗せて空へ飛び、倒れた人の元へ誰よりも早く駆けつける。現場で命をつなぎ、病院へ運ぶ。それが俺の仕事だ。 どうして俺がこの仕事を選んだのか。それを話すには、15年前の冬まで遡らなければならない。雪の降る無人駅にたった1人で捨てられた、12歳の俺のところまで。 母は1人で俺を育ててくれた。決して裕福な家ではなかったけれど、母は明るい人だった。夜遅くまでミシンを踏んで、それでも朝には必ず味噌汁の匂いで俺を起こしてくれた。今でもよく覚えているのは母の手だ。張り仕事のせいで指先はいつも荒れていた。赤切れだらけのゴツゴツした手。それなのにその手はいつも温かかった。 「悠人の手はあったかいね」 俺の手を握るたび、母は嬉しそうにそう言った。 「あったかい手はね、人を安心させる手なんだよ。母さんはこの手が大好き」 この言葉が、後の俺の一生を支えることになる。 母との暮らしが突然終わったのは、俺が9歳の秋だった。母は心臓の病気で倒れ、そのまま帰らぬ人になった。朝いつものように行ってきますと手を振って仕事へ出て、夕方には冷たくなっていた。 母を亡くした俺を引き取ったのは、母の姉夫婦だった。車で2時間ほど離れた町に住む夫婦で、俺より2つ上の息子がいた。 引き取られる日、伯母はこう言った。 「かわいそうに。これからはうちの子になればいいからね」 その言葉を信じた俺がバカだった。 田川の家での扱いは最初の日で決まった。食事は皆と同じ食卓につけたのは最初だけで、やがて俺の分だけ後から台所で食べるようになった。茶碗に軽く1杯の飯と、残り物のおかずが少し。育ち盛りには到底足りなかった。 従兄の詩太が新しいゲームを買ってもらう横で、俺は穴の開いた靴下を自分で繕った。風呂はいつも最後の冷めた残り湯だった。部屋は物置を片付けた三畳の板の間で、冬は吐く息が白かった。 伯父は俺と目を合わせない人だった。何か気に入らないことがあると舌打ちだけが飛んできた。 「面倒を見てやってるだけありがたいと思え」 口を開けばそれだった。 後になって知ったことだが、母が俺に残してくれたわずかな保険金と俺に支給されていた遺族年金は全て伯母が管理していた。そのお金がどこへ消えていたのか、従兄の新しい自転車や家族3人だけで出かける外食が何よりも答えだった。ただ毎日腹が減っていた。 6年生の冬、俺は風邪で倒れた。熱は38度を超えていた。家に着くと薬も出されないまま物置の間に布団を敷いて寝かされた。 「大げさなのよ。あんたは寝てれば治るんだから」 隣の部屋からはテレビの音と3人の笑い声が聞こえていた。同じ屋根の下に、こんな遠い場所があるのか。俺は熱で霞む頭で考えていた。 風邪はこじれてなかなか治らなかった。そしてあの日が来た。1月の半ばのことだった。 朝から伯母の様子がおかしかった。俺の数少ない着替えを古いボストンバッグに詰め、母の写真が1枚だけ入ったお守り袋をその上に放り込んだ。 「おばさん、どこか行くの?」 「いいから乗りなさい」 熱の下がりきらない体で、俺は車の後部座席に乗せられた。雪が散らつき始めていた。1時間ほど走った頃、車は小さな駅の前で止まった。古い木造の駅舎。ホームが1本あるだけの、駅員もいない無人駅。駅の名前は雪沢と言った。 伯父が後部座席のドアを開け、俺のバッグを雪の上に下ろした。 「もう面倒は見られない。ここまでだ」 言われている意味が分からなかった。呆然と立ち尽くす俺に、伯母は車の窓から1000円札を1枚差し出した。 「電車でもバスでも、どこへでも行けるでしょ。あんたももう12歳なんだから、1人でなんとかしなさい」 「待って。俺、どこに行けばいいの?」 「知らないわよ。どこでも行けばいいじゃない」 窓が閉まった。車はUターンして来た道を戻っていった。テールランプが雪の向こうに小さくなって見えなくなった。 俺は札を握りしめたまましばらくその場に立っていた。追いかけようとは思わなかった。追いかけたところであの家に俺の居場所はない。それだけは分かっていた。 雪が本降りになってきた。駅舎の中は外と変わらないくらい寒かった。時刻表を見ると、次の電車は2時間以上先だった。切符も買えない駅で、俺は初めて母が死んだ日よりもはっきりと思った。俺はこの世界のどこにも行くところがないんだ。 日が暮れ始めると、寒さは刃物みたいになった。持っている服を全部着込んでも震えは止まらなかった。バッグから母のお守り袋を出して両手で握った。木のベンチに腰を下ろした。体の震えが止まらなかった。寒いからなのか、熱のせいなのか、それとも怖いからなのか。もう区別がつかなかった。 膝を抱えて俺は母の手を思い出そうとした。あの温かい手。あったかい手はね、人を安心させる手なんだよ。母の声が遠くで聞こえた気がした。 「母さん」 心の中で叫んだ。返事はなかった。 どのくらい時間が経ったのか分からない。気がつくと、俺はベンチから崩れ落ちて駅舎の床に倒れていた。体が芯まで冷えているのに、頬だけが焼けるように暑かった。このまま眠ったら多分もう起きられない。子供ながらにどこかでそう思った。それでもいいかとも思った。そうしたら母さんに会えるかもしれない。 遠くで車の音がした。夢だと思ったけれど、音は近づいてきて止まった。ドアの開く音。雪を踏む足音。駅舎の引き戸がガラガラと開いて、冷たい風と一緒に誰かが入ってきた。 「おい、どうした、君?」 低い落ち着いた声だった。白髪交じりの男の人が俺の顔を覗き込んでいた。60歳を過ぎたくらいだろうか。その人は俺の額に手を当て、それから手首を取ってじっと何かを数えるように黙った。 「ひどい熱だ。車から毛布を持ってきなさい」 駅の外に止まった車から、小柄なおばあさんが毛布を抱えてかけてきた。2人は俺を毛布でくるむと、そのまま車の後部座席に運び込んだ。車の中はストーブみたいに温かかった。 … Read more

2 September 2026