「清掃員の孫が清掃員を庇うの?お似合いじゃない。」…
「親なし貧乏、おまけに祖母は清掃員。その経歴でよくうちの銀行に入れたわね。」 先輩の財前麗子の声がフロア中に響き渡った。春野すみれは26歳、五良銀行のどこにでもいる地味な行員だった。両親を早くに亡くし、祖母に育てられた。祖母は今も病院の清掃員として働いている。お金も、反論できる肩書きも、後ろ盾も何もなかった。だからすみれはただ頭を下げてやり過ごすしかなかった。 だが、その翌日、支店長も、彼女を嫌う倉田部長も、そして遠藤支店長までもが顔面蒼白になってすみれに頭を下げることになるとは、この時のすみれはまだ何も知らなかった。 すみれの朝は祖母の早起きとともに始まった。築40年のアパートは冬になると窓が凍りつき、壁が薄い。それでもすみれはこの暮らしが嫌いではなかった。 「すみれ、味噌汁だけでも飲んでいきな。今日も冷えるよ。」 78歳の祖母はそう言って湯気の立つお椀を差し出した。祖母は今も総合病院の清掃員として朝も夜も働いていた。腰は曲がり、手はあかぎれだらけだった。すみれが「もう働かないで」と何度頼んでも、祖母は決して首を縦に振らなかった。 「人様の情けで生きたくないんだよ。自分の食い扶持は自分の手で稼ぐ。それがうちの家だ。」 祖母は亡くなったすみれの父の話になると、少しだけ遠くを見る目をした。父はすみれが7つの時に亡くなっていた。銀行員だったこと以外、すみれはほとんど何も知らなかった。ただ祖母がいつもこう言うのだった。 「お前の父さんはね、この国で一番人に信頼された男だったんだよ。」 その言葉の本当の意味をすみれはまだ知らなかった。父がどんな仕事をして、どんな人間に慕われ、そしてなぜ42という若さで逝ってしまったのか。すみれが知っていたのは、すり切れた一枚の写真だけだった。スーツ姿なのに泥のついた長靴を履いたまま笑う父の姿。その写真をすみれは財布の奥にずっと大切にしまっていた。 今日も祖母に頭を下げ、すり切れたパンプスを履いて、すみれは五良銀行へと向かった。 五良銀行がすみれに与えた仕事は、誰もやりたがらない死に体企業担当だった。古立製鋼、宮下織物、竹村工業。創業100年を超える頑固で偏屈な経営者ばかりの死に体企業は、利益は小さく手間ばかりかかる。エリート行員たちは揃ってこの10社を「やっかいな貧乏くじ」と呼び、誰も担当を嫌がった。 だがすみれはこの仕事が好きだった。古立製鋼の古立会長は、初めこそ「若い娘に何が分かる」と門前払いだった。それでもすみれは3ヶ月通い続けた。ある雨の日、会長が倒れた工場の床を一緒に雑巾がけしたことで、ようやく口を聞いてくれるようになったのだ。 「お前さんは数字より先に人を見る。近頃の銀行員には珍しいな。」 会長はそう言って、煤だらけの顔をほころばせた。すみれは10社の経営者一人ひとりの元へ足を運び、話を聞き、時には工場の掃除まで手伝い、決算書には載らない信頼を少しずつ積み重ねていった。 宮下織物の宮下社長は最初の半年間、ほとんど口を開かなかった。それでもすみれが毎週欠かさず顔を出し続けると、ある日ぽつりとこう言ったのだ。「うちの織機の音、うるさくないか。」それがすみれとの最初の会話だった。竹村工業の竹村会長に至っては、すみれが初めて訪問した日に灰皿を投げてよこした。それでもすみれは翌週も来た。その翌週もまた来た。「しつこい娘だ」と会長が苦笑いしたのは4ヶ月目のことだった。 だが、そんなすみれの働き方を財前麗子は心底嫌っていた。「掃除なんて、清掃員の孫らしいわね。」彼女はいつもそう言って笑うのだった。財前は大手製菓会社の創業家の令嬢だった。ブランド物のスーツをまとい、成績よりもコネと家柄で出世してきた女だった。そんな彼女にとって、地味で貧しいすみれは格好の見下し相手だったのだろう。 その日、すみれが死に体企業から戻ると、財前は机の上に置かれた祖母のお弁当を見つけ、わざとらしく声を張り上げた。 「うわ、何これ?梅干しと漬け物だけ。さすが貧乏人の食事は違うわね。」 くすくすと囁く笑い声が上がった。すみれが黙って弁当をしまおうとすると、財前はさらに畳みかけた。 「ねえ、あなたのおばあさん、病院の掃除のおばさんなんでしょう?昨日見かけたわよ。モップ持って腰曲げて、あんな惨めな老い方だったら、恥ずかしくて死んじゃう。」 その瞬間、すみれの中で何かが軋んだ。私のことはいくらでも笑えばいい。でも、祖母を、あの誇り高い祖母を侮辱することだけは。 「祖母のことは言わないでください。」 震える声でそう言うのが精一杯だった。財前は勝ち誇ったように鼻で笑った。 「あら、清掃員の孫が清掃員を庇うの?お似合いじゃない。」 フロアに乾いた笑い声が広がっていった。誰も助けなかった。誰も止めなかった。すみれはただ唇を噛んで俯くしかなかった。 だが、その一部始終を廊下からじっと見ていた人物がいた。倉田京介部長だった。数字だけで人を測るコストカッターとして名高い男である。彼はその光景を見て、止めるでも諌めるでもなく、ただ静かに口の端を歪めただけだった。 翌朝、倉田部長からすみれに呼び出しがかかった。部長室に入ると、倉田は書類の束を無造作に投げてよこした。死に体企業との取引を来月をもって全て縮小・解消するという通達だった。 「この10社は利益率が低すぎる。君のような雑用係が上に流されて維持しているだけの無駄な取引だ。今日限り、君を担当から外す。以後、口出しは一切無用。」 「部長、お待ちください。あの企業は数字だけでは測れません。」 「黙りたまえ。」倉田はすみれを冷たく睨みつけた。「親もいない。金もない。祖母は清掃員。そんな君に経営が分かるものか。君は掃除でもしていればいい。財前君、後任は君だ。せいぜい効率的に切り捨てたまえ。」 「かしこまりました。」 財前は勝ち誇った笑みを浮かべ、深々と頭を下げた。すみれは何も言えなかった。言葉が喉の奥で固まって出てこなかった。 部長室を出たすみれは、誰にも見られないよう階段へ向かった。冷たいコンクリートの壁に背中を預け、しばらくそのまま動けなかった。悔しかった。だがそれ以上に、あの企業の経営者たちへの申し訳なさが胸を締めつけた。古立会長、宮下社長、竹村会長。みんな、五良銀行ではなく、すみれ個人を信じて付き合ってくれた人たちだ。 しかし、本当の闇はまだその姿を見せていなかった。すみれが知らないこと、倉田も財前も知らないこと、そして遠藤支店長すらまだ気づいていないことが、水面の下に静かに沈んでいたのである。 その夜、すみれはアパートの階段に座り込み、しばらく動けなかった。悔しさよりも、あの企業の経営者たちへの申し訳なさで胸が潰れそうだった。 「すみれ、こんなところで何してるんだい?」 夜勤帰りの祖母がすみれを見つけて、隣に腰を下ろした。手には病院のロッカーに置いていたのだろう、くたびれたホームバッグがぶら下がっていた。すみれは思わず、今日あったことを全部話してしまった。財前のこと、倉田部長のこと、死に体10社を切られたこと、そして祖母を「惨めな清掃員」と笑われたことも。 祖母はしばらく黙って聞いていた。それから、すみれの冷えた手を両手でそっと包んだ。 「すみれ、お前の父さんはね、その死に体の会社をたった一人で立て直した銀行員だったんだよ。潰れかけた会社に日参して、頭を下げて、一緒に汗を流して、数字じゃなく人の心で会社を救った。だから世間は父さんをこう呼んだんだ。『再建の神様』ってね。」 すみれは言葉を失った。 「父さんが亡くなった時、あの企業の社長さんたちはみんな泣いてくれた。そして誓ったんだ。『誠一さんの娘は、命に変えても守る』って。」 胸の奥で何かが音を立てて崩れた。と同時に、何か大きなものが静かに積み上がっていく感覚があった。すみれが3ヶ月通い続けた古立会長。口を開くまで半年かかった宮下社長。灰皿を投げてきた竹村会長。あの人たちは最初からすみれの父を知っていたのだ。それでも一度もそのことを口にしなかった。すみれ自身の誠実さで信頼を勝ち取らせてくれたのだ。 祖母の手のぬくもりが、暗い階段に染み渡った。すみれは静かに顔を上げた。 翌朝、五良銀行本店は経験したことのない混乱に見舞われた。始業と同時に、死に体企業10社から一斉に取引全面解消の通知が届いたのだ。古立製鋼、宮下織物、竹村工業。全社。しかもその文面には、判を押したように同じ一文が添えられていた。 「春野すみれ様を担当から外すのであれば、当社と取引を続ける理由はございません。」 支店は騒然となった。死に体企業は地味な低採算先だと思われていた。だが実際には、その10社が動かす関連会社・下請け・取引先は膨大で、五良銀行の融資残高の実に4割を支える隠れた大動脈だったのだ。それが一夜にして全て解消になった。 「支店長、大変です。10社が、10社が取引を解消すると。」 報告を受けた遠藤支店長は、椅子から立ち上がったまま顔面蒼白になって固まった。株価は寄り付きから急落した。取引先からの問い合わせが殺到し、電話は鳴りやまなかった。フロアのあちこちで怒号と悲鳴が飛び交い、普段は冷静な幹部たちまでが大騒ぎをしていた。 そして遠藤は震える声で、たった一つの名前を口にした。 「春野…春野すみれはどこだ?今すぐ彼女をここへ。」 その名前を聞いた瞬間、倉田部長の顔が青ざめた。財前も初めて背筋を凍らせた。昨日「掃除でもしていろ」と切り捨てたあの、貧乏な清掃員の孫の名前を、支店長が震えながら呼んでいた。 支店長室に呼ばれたすみれを待っていたのは、蒼白な顔の遠藤支店長と、事態を全く飲み込めていない倉田部長、そして財前だった。その時、受付から連絡が入った。死に体企業10社の経営者が揃って本店に乗り込んできたと。 先頭に立っていたのは古立製鋼の古立会長だった。杖をつきながら、しかし背筋をまっすぐに伸ばして、会長は支店長室へと入ってきた。 「支店長さん、話は単純だ。」古立会長の声は静かだが鋼のように固かった。「わしらはな、五良銀行と取引しとるんじゃない。春野すみれさんと取引しとるんだ。この娘さんは、雨の日にわしの工場の床を一緒に雑巾がけしてくれた。数字にならん話を何時間でも聞いてくれた。それを『掃除でもしていろ』だと?」 … Read more