倉庫で夏祭りの準備をしている時も、始終「雑用係」と笑われていた。新しい女医さんが来て、挨拶された時も、「この人はただの便利な男ですから」と会長に紹介され、彼女の目が一瞬、同情で揺れた。 三日後、祭りの最中にトラックが歩道へ突っ込んだ。会長も含め、大勢が倒れた。医者は一人しかいない。彼女は「私一人じゃ…」と唇を噛んでいた。その時、俺は十年前に捨てたあの感覚が手に蘇るのを感じた。…
倉庫の中は蒸し暑く、埃っぽい空気が肌に張り付いていた。俺はダンボールを抱え上げて奥の棚へ押し込む。祭りの準備だ。 「おい、田中。そっちの机もこっちに運んでくれや」 夏で焼けた顔に麦わら帽子の宮本会長が、入り口から声をかけてくる。 「はい、すぐ運びます」 一人で持つには少し重い机だが、文句は言わない。こういう仕事はいつも俺の役目だ。俺の名前は田中良平。四十五歳。母と二人暮らしで、町内会では何でも屋兼記録係だ。住民たちからすれば、働きもせずに母親の世話になっている頼りない中年男に見えていることだろう。否定する気も、訂正する気もない。もう十年以上、そう見られて生きてきた。 「田中はええな。お袋さんに飯作ってもらえて、外で稼がんでええんやから」 役員たちの笑い声が倉庫に響く。俺は軽く頭を下げるだけだ。反論するだけ無駄なことを、俺はもう知っている。 その日の夕方、町内会館で診療所に赴任してきた新しい医師の歓迎会が開かれた。俺は端の方で議事録のノートを開いていた。戸が静かに開き、一人の女性が入ってきた。白いブラウスにベージュのスカート。背筋を伸ばして、丁寧にお辞儀をする。 「朝倉千恵と申します。未熟者ですが、町の皆様の健康を支えられるよう精一杯努めます。よろしくお願いいたします」 三十五歳、独身、東京の病院から来たという。広間が大きな拍手で包まれた。 挨拶が終わり、料理と酒が運ばれてくる。俺は挨拶の様子を記録に取っていると、千恵が一人ひとりに挨拶して回っていた。 「初めまして。朝倉と申します」 「田中良平です。町内会で議事録などを担当しています」 「議事録ですか? それは大切なお仕事ですね」 言葉は丁寧だったが、彼女の目はすぐに次の人へ向いていた。 「先生、田中はね、雑用係なんですよ。便利な男でね」 横から宮本会長が口を挟んだ。千恵は曖昧に微笑んで、軽く会釈をする。それで終わりだった。 家に帰ると、玄関の明かりがついていた。古い木造二階建て。母と俺の二人暮らしだ。 「ただいま」 「お帰り。遅かったね」 母の和子がエプロンで手を拭きながら出てくる。白髪は増えたが、背筋は今でも真っ直ぐだ。若い頃は産婆として町で長く働いてきた。居間に入ると、座卓の上に何かが置かれていた。古い革のケースだ。中から年期の入った聴診器が顔を覗かせている。チューブの黒色は、ところどころ白く擦り切れていた。母はそれを手に取り、柔らかい布で丁寧に磨き始める。 「母さん、まだそれ大事に持ってるんだな」 「ええ、これはね、私の宝物だから」 「誰かにもらったって前に言ってたか」 「そうね、古い知り合いからもらったの」 母はそれ以上は語らなかった。この聴診器のことを、母は昔から何も話してくれない。ただ、年に何度か取り出しては磨いている。 「今日、新しい女の先生にお会いしたの。買い物の帰りに」 「朝倉先生か」 「ええ、お若くて綺麗な方ね」 母の手がふと止まった。聴診器を持ったまま、物思いに耽っている。 「母さん?」 「いえ、なんでもないのよ」 母は微笑んで、また聴診器を磨き始めた。その夜、布団の中で天井を見上げる。診療所では、医師が一人足りず、千恵が夜遅くまで奮闘していると聞く。俺にできることは、診療所の裏で重いダンボールを運んだり、壊れた椅子を直したりすることくらいだ。 七月の終わり、夏祭りの準備が本格化した。町内会館の前には櫓の骨組みが組まれている。俺は朝から汗だくで釘を打っていた。 「おい、田中。そっちの角もうちょい締めとけよ」 「はい、分かりました」 会長は日陰の椅子に座って麦茶を飲んでいる。動いているのは俺ともう数人だけだ。その時、通り向こうの診療所の前で、買い物袋を下げた母が誰かと話しているのが見えた。千恵が少し頭を下げる。母も会釈を返した。二人は数秒、何か言葉を交わしたようだった。その瞬間、母の表情がわずかに変わったのが、櫓の上からでも分かった。驚いたような、それでいて懐かしいものを見たような顔だった。 夕方、母が帰ってきてから俺は何気なく聞いた。 「昼間、診療所の前で朝倉先生と話してたな」 「ええ、少しだけね」 「何か知り合いだったのか?」 「いいえ、今日初めてちゃんとお話したの」 母はそう言って台所に立った。背中越しに、座卓の上に超音波検査の画像を見ていた。 明日は祭り当日だ。朝から雲一つない晴天だった。焼きそばの匂い、たこ焼きの匂い、子供たちの歓声。俺は櫓の足元で最後の点検をしていた。 「田中、夕方の太鼓の時には、若いのを前に出してマイクを持たせろよ」 「はい、声をかけておきます」 「お前は裏で進行を見ててくれ。慣れてるからな」 「分かりました。裏方は任せてください」 午後二時を回った頃だった。町の北側の交差点の方角から、鈍い衝撃音のような響きが届いた。続いて人の悲鳴。誰かが走りながら叫んでいる。 「トラックが! トラックが歩道に突っ込んで、人が倒れてる!」 その場の空気が一瞬で凍り付いた。俺はとっさに駆け出していた。現場はひどい有様だった。横転した大型トラックの脇に、何人もの人が倒れている。祭り見物に来ていた家族連れだ。泣き叫ぶ子供、動かない大人、怪我をした通行人。町の救急体制は手薄で、隣町から救急車が来るには時間がかかる。俺は近くの男に叫んだ。 「診療所へ走れ! 朝倉先生に伝えてくれ。重傷者が複数だと、受け入れの準備を頼む!」 … Read more