「私より仕事が大事だったんだって。それが一番辛かった」…
白意を脱いでから3年が過ぎた。丸の内医療センターの研究室で、俺はただデータを眺め、論文を読み、静かに時間を過ごしている。かつて心臓外科の魔術師と呼ばれた肩桐馬、42歳。今はもうメスを握ることもない。 あの夜のことを忘れたことはない。 若い医師が過重労働で限界を超えていた。誰もがそれを知りながら、誰も声を上げられなかった。そしてオペ中に起きた判断の連鎖が、一人の患者の命を奪った。 事故の翌日、理事長の高宮新次郎が俺を呼んだ。彼は組んだ手の上に顎を乗せ、静かに言った。 「先生、この件は個人の過失として処理します。先生に責任を引き受けていただけますか」 「部下たちは関係ないということでいいですね」 「もちろんです。先生が了承してくだされば、他の者には一切責任は及びません」 俺は少し迷った。部下たちの顔が浮かんだ。まだ若い連中だった。彼らの人生が、あの夜の一瞬で終わってしまうのは違うと思った。俺は頷いた。それだけのことだ。正しかったのか、間違っていたのかは、今でも分からない。 あの選択の結果として、俺はここにいる。 研究室のドアがノックされ、看護師の小林ゆきが顔を出す。あの頃から俺を知っている数少ない人間の一人だ。 「先生、また論文ですか。ちゃんとご飯食べてます?」 「食べてるよ」 「嘘っぽいですけど。今日、手術部に新しい麻酔科医が来るって聞きましたよ」 「知らなかった」 「三浦先生から紹介があるみたいです。優秀な方らしいですよ」 その日の午後、新しく着任した麻酔科医が手術部に来た。外科部長の三浦が俺を呼びに来る。学生時代からの付き合いだ。 「今紹介したい人間がいる。実力のある麻酔科医だ。今後、顔を合わせることも増えると思ってな」 廊下に出た俺は、そこに立っている人物を見て足が止まった。高瀬沙耶香、38歳。俺の元妻だ。 彼女も一瞬、表情が揺れた。しかしすぐに整った顔に戻り、軽く会釈した。 「よろしくお願いします」 三浦は二人を引き合わせ、職場の説明を続ける。俺は「ああ」とだけ答えた。沙耶香は三浦を見たまま、一度も俺の目を見なかった。感情を表に出さない。あの頃から変わらない。 廊下で二人きりになったのは、それから一時間後のことだった。自動販売機の前で偶然顔を合わせた。沙耶香は正面を向いたまま口を開く。 「あなたが今ここにいるって聞いてなかったわ」 「俺もだ」 「三浦先生に紹介されたの?」 「さあ、知らん」 「冷たい返事ね。あなたは医療からも、私たちからも逃げた。それが今でも腹立たしいわ」 その言葉は静かだった。怒るわけでも、泣くわけでもない。ただ俺の胸に刺さった。 「沙耶香」 「何?どうかした?」 「元気そうでよかった」 沙耶香はしばらく俺を見ていた。何かを言いかけて、やめた。 「そういうことを言う人じゃなかったでしょ、あなたは」 三年前のあの日、沙耶香は流産した。俺は病院にいなかった。そばにいてやることができなかった。理事長に呼び出され、断れないオペがあった。それを彼女に言えなかった。真実を話せば、理事長の圧力が激しくなる。病院が揺れる。部下が巻き込まれる。沈黙を選んだ俺に、沙耶香は翌月、離婚届を持ってきた。 沙耶香は歩き出す。その背中が廊下の角に消えるまで、俺はその場を動けなかった。 夕方、高宮理事長から呼び出しがあった。部屋に入ると、高宮は窓を背にして腕を組んでいた。白髪を綺麗に撫でつけ、常に余裕のある笑みを顔に貼り付けている男だ。 「片桐先生、お久しぶりですな。相変わらず静かに研究を続けておられるようで」 「呼び出したのはそれを確認するためですか」 「いや、相変わらずですね。単刀直入に申し上げましょう」 高宮は窓の外に目をやり、ゆっくりと続けた。 「先生は今、病院にとってある意味非常に重要な存在です。三年前に責任を取って現場を離れた先生がいる。それがあるから、この病院の信頼は保たれている。復帰などということになれば、あの事故の記憶が掘り返される。世間も理事会も黙ってはいない」 「私は復帰を望んでいるわけではない」 「ならば結構。ただ念のために申し上げておく。過去を蒸し返すようなことがあれば、この研究室にはいられなくなる。先生が守ろうとしたものも、全て終わりになる」 「それは分かっています」 高宮は笑顔のまま言い切った。「では、健康には気をつけてください、先生」 俺は理事長室を出て廊下を歩いた。足は自然と手術部のある塔へ向いていた。ガラス越しに手術室の明かりが見える。三年間、一度も踏み入れていない場所だ。 高宮が何を守ろうとしているのか、分かっている。三年前の事故の真相が表に出れば、病院の体制が問われる。過重労働を放置し、若い医師を消耗させ続けた組織の問題が明るみに出る。 一週間後、夜中の二時過ぎに病院が揺れた。救急搬送の連絡が入ったのは、俺がまだ研究室にいた時のことだった。 三浦が走って飛び込んできた。 「大動脈解離だ。久部政次郎、34歳。あの有名な若手企業家だ。政府関係者も騒ぎ始めている。成功率は一割もない」 「主刀は誰だ」 「それが……チームが動揺していて、誰も名乗り出ない。俺も正直、この症例は荷が重い」 廊下に出ると、担架がストレッチャーで運ばれていくのが見えた。時間がない。その時、背後から高宮の声がした。 「リスクの高い手術は避けてください。万が一のことがあれば、病院のブランドに傷がつく。最善策を取る形でご家族に説明をしてください」 「ですが、患者は今夜が峠なんですよ」 … Read more