「本当に内定式に来るなんて驚きだわ。あなたみたいな中卒が内定をもらったことなんて、うちでは前例がないのよ」—…

「学歴不問」を掲げる上場企業に、中卒の妹が内定を勝ち取った。今日はその内定式だ。俺が身長を合わせてやったスーツは、妹にぴったりだった。自信に満ちた笑顔で家を出たはずの妹が、しかし1時間も経たずに帰ってきた。 「中卒低学歴は入室禁止だって、受付で入れてもらえなかった」 俺は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。内定式に参加するために会社へ向かったはずの妹が、入室すら許されなかったという。そんな馬鹿な話があるはずがない。俺はすぐに、傷つけた会社の社長へ電話で宣戦布告した。 俺の名前は三島裕斗、30歳。中学校を卒業してすぐ、俺たちは両親を亡くした。妹の冬花と二人、祖母に引き取られることになった。祖母は高齢だったが、俺たちをしっかり育てようと頑張ってくれた。だから俺は少しでも家計の負担を減らすために定時制の高校に進み、昼間は工事現場で働くことを選んだ。 妹には普通の生活を送ってほしいと思った。両親を失ったことで辛い思いをさせてしまったから、少なくとも金銭面では苦労をかけたくなかった。一方で、妹の冬花も俺に負担をかけないようにしてくれていたようだ。彼女は高校進学をせず、独学で国家資格を取ると言い出した。 俺は最初その決断に反対したが、冬花は本気だった。「勉強は学校に行かなくてもできる。私は自分でやる」と言い張る彼女に、俺は少し驚いたけれど、冬花ならできるかもしれないと思わせる自信があった。彼女は本当に優秀だった。 その結果、冬花は国家資格を取得し、上場企業から内定をもらうまでになった。「学歴不問」を掲げるその会社で、冬花は実力で認められたのだ。中卒での応募者はほとんどいないと聞いていたが、彼女は挑戦し、勝ち取った。その姿を見て、俺は誇らしく思った。 今日はその内定式。冬花は新しいスーツを身にまとい、少し緊張しているようだった。俺が身長を合わせてやったそのスーツは、彼女にぴったりだった。「行ってこい」「行ってきます」。玄関の扉が閉まると、静寂が広がった。俺は少しの不安と大きな期待を胸に、妹の成功を祈る気持ちでいっぱいだった。 冬花が家を出てからまだ1時間も経たない頃、玄関のドアが開き、彼女が戻ってきた。その姿を見て、俺はすぐに異変に気づく。出ていく時には自信に満ちた笑顔を浮かべていたはずが、今はまるで別人のように暗い表情をしていた。「どうしたんだ?何かあったのか?」 何が起きたのか心配で声をかけると、冬花は一瞬口を閉ざしたまま俯いた。俺がもう一度「大丈夫か」と促すと、やっと彼女は口を開いた。「中卒低学歴は入室禁止だって、受付で入れてもらえなかった」 俺は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。内定式に参加するために会社へ向かったはずの冬花が、入室すら許されなかった。そんな馬鹿な話があるはずがない。俺は彼女の言葉を反芻しながら、詳細を聞くことにした。 冬花は内定式の会場に到着し、受付に社員証を提示したという。そこで何の問題もなく通されるはずだったが、受付の女性は一瞬眉を潜めた。彼女は「少し待つように」と言い、冬花をロビーの一角で待たせたのだ。「その時もう嫌な予感がしたんだ。なんかすごく不自然だったから」 しばらくして現れたのは、人事部主任の金子さおりという女性社員。彼女は冬花を見るなりため息をつき、皮肉な笑みを浮かべていたという。「あなたが中卒で応募してきたって子ね。本当に内定式に来るなんて驚きだわ」 そう言うと、金子は冬花を冷たく見下すような視線で一瞥したという。その瞬間、冬花は全身が固まったように感じた。会社の代表として対応すべき人事部主任が、まさかこんな態度を取るとは想像すらしていなかっただろう。冬花の期待は一気に砕け散り、胸の中で不安と怒りが交錯したに違いない。 その場で事情を聞こうとしたが、金子の態度はさらに冷淡なものに変わる。彼女が言うには、冬花の内定は実質的には無効だという話だった。「あなたみたいな中卒が内定をもらったことなんて、うちでは前例がないの。学歴不問なんて募集要綱に書いたのは、あくまでも形式的なもの。実際にうちの内定をもらえる人間はほとんどが高学歴者よ」 彼女の言葉に、冬花は反論したい気持ちを抱いたが、冷静になれなかったという。金子は続けて、冬花の内定は形だけのもので、会社の名目上の採用枠に過ぎないと伝えた。「学歴不問」と掲げることで会社としての姿勢を示しているに過ぎず、本当に採用するつもりなどなかったのだと。 「でも私は正式に内定をもらいました。それが形だけなんて…」 「正式な内定なんかじゃないのよ。あなたみたいな中卒者が内定をもらうわけがないでしょ。うちの会社はエリートが集まる場所なのよ。そんなことも知らずに、あなた本当にうちの内定がもらえたと思っていたの?」 その後、金子は冬花に対し、内定式に参加することは許されないと言い放った。理由はただ一つ、彼女が中卒だからというだけだ。どれだけの努力を重ねてきたかなんて関係ない。学歴がなければ認められない。それがこの会社の実態だった。 「中卒がここで何か得られると思ったら大間違いよ。あなたの席なんて最初から用意されてないの」 冬花はその言葉を聞いて、もう何も言い返せなかった。ただ呆然と立ち尽くし、そこで自分の夢が砕け散ったことを痛感したという。すぐにその場を後にし、家へと戻ってきた。 俺はその話を聞いて、怒りが込み上げてくるのを抑えられなかった。妹がどれだけの努力をしてきたかを知っているだけに、その不当な扱いに我慢ができない。だが、ただ感情的になっても解決はしない。俺は冷静に次に何をすべきかを考えた。まずは状況を整理し、妹が受けた不当な扱いに対してしっかりと反撃する準備を整えなければならない。 冬花に内定式の案内を確認させてもらい、そこに記載されている問い合わせ先の電話番号を探し出した。迷わずその番号へ電話を入れる。だが、ただの一般の問い合わせで簡単に解決できる問題ではない。俺は少し考え、取引先の重要な顧客を装うことにした。こうすれば対応が一気に上層部まで進むだろうと踏んだのだ。 電話が繋がると、対応に出たのは受付らしき人物だった。俺は冷静に、しかし自信の秘めた演技で緊急の事態であることを伝えた。「今すぐ社長に取り次いでくれ。緊急の事案なんだ」 少し戸惑った様子だったが、俺の声から緊張感が伝わったのか、対応者はすぐに上司へ取り継ぐと言い出した。しばらくして、電話の向こうから落ち着いた、しかし少し戸惑ったような声が聞こえてきた。「はい、社長のです。緊急の要件というのは?」 俺はその声を聞いて瞬間的に冷静さを保ちながらも、態度を一変させる。これからが本番だ。冬花を侮辱したその会社の代表者である社長に、俺は妹のために一撃を食らわせる。 「社長、中卒への内定は不当なものだと聞いたが、それでいいんだな。こちらも手を打たせてもらうぞ。そっちがそのつもりなら、全員潰すようにする。会社も潰すから、そのつもりでいろ」 言葉を吐き捨てるように告げた。社長は驚いて何か言おうとしたが、俺はそのまま強引に電話を切る。こちらに反論する余地を与えず、宣戦布告だけをつきつけて終わらせた。社長は何が起きたのかまるで理解していないだろう。おそらくただのいたずら電話だと考えるかもしれないが、それで構わない。今は俺の一方的な宣告が相手に不安と動揺を与えれば十分だ。 電話を切った俺は深く息を吐きながら、自分を落ち着かせた。これだけで終わるつもりはない。これから本格的に行動を起こすための準備を進めなければならない。だが、まずは妹を安心させることが先だ。俺は冬花の元に戻り、彼女の目をまっすぐ見据えていった。「敵は俺が取る。お兄ちゃんに任せとけ」 妹を見守る兄として、ここで黙っているわけにはいかない。冬花のために、そして彼女の努力を無駄にしないために、俺は行動する。冷静に、しかし確実にこの会社に報いを与えるために、根回しを始める。俺の中で、すでにいくつかの計画が浮かび上がっていた。 冬花が内定式で屈辱を受けてからというもの、会社側は彼女に対してさらにひどい扱いを行う。入社までの1ヶ月のプレ入社期間中、内定自体は取り消されなかったものの、それは単なる形式だけのものであり、実質的に冬花は会社の一員として認められていなかった。会社は冬花を一目につかない場所に追いやり、彼女を資料倉庫へ配属。その倉庫は社内でもほとんど誰も足を踏み入れないような場所で、会社の重要な業務に直接関わることは一切ない。ただ埃の積もった古い資料を整理するだけの無意味な作業を繰り返す日々だ。 その配属を命じたのは、内定式で冬花を門前払いした張本人、金子さおり。彼女は内定式での対応と同じように、冷酷で冬花を見下す態度を崩さなかった。しかも金子は他の社員たちに、あえて冬花との接触を避けるように命じているらしい。冬花は会社の中で完全に孤立し、誰とも話すことなく、ひたすら黙々と意味のない作業を続けさせられていた。 「今日も資料の整理だよ。何度も同じ箱を開けては閉じるだけの作業ばかり」 帰ってきた冬花の疲れた声を聞く。俺の怒りは募っていく。彼女の努力が全く無視され、ただ学歴がないという理由だけでこんな扱いを受けるなんて許せない。金子は冬花を呼び出しては暴言を言うことを繰り返していたという。まるで彼女の存在を会社にとってのお荷物とでも思っているかのような口ぶりだった。 「中卒がこの会社にいるなんて考えただけで笑えるわ。あなたここにいても何の役にも立たないでしょ。正直、私たちの足を引っ張るだけなんだから、やめてくれればみんな助かるんだけど」 そんな言葉を投げかけられても、冬花は必死に耐え続けた。やめるという選択肢を彼女は一切考えなかった。自分がここで引き下がれば、金子たちの思う壺だと思っているのだろう。だからこそ俺は何度も「そんな会社行く必要はない」と伝えたが、彼女は黙って出社を続けた。「私がやめたら彼らが勝ちになってしまう。それだけは絶対に嫌なの」 冬花の強い意思に、俺も何も言えなくなった。彼女がここまで決意を固めている以上、俺は背中を押すしかない。しかし、その会社に行く度、彼女がどれだけ傷ついているかを知るたびに、俺の中での怒りはさらに膨れ上がっていく。 金子は冬花をますますひどく扱うようになり、わざと無駄な作業を押し付けることもあった。古い資料を何度も整理させられ、埃だらけの倉庫に長時間閉じ込められる日々。しかも金子はその度に暴言を言い放っていた。 「あなた何度も同じ仕事をやらされてるけど、それが中卒の実力ってやつ。普通はもっと効率よくやれるものよ。まあ、私たちみたいにちゃんと学校に通った人間には理解できないかもしれないけど」 どんな言葉を聞くたびに、冬花はどれだけの屈辱を感じたのだろう。だが彼女は決して弱音を吐かなかった。むしろ黙々とその作業をこなし続ける姿に、俺は妹としてだけでなく人としての彼女の強さを感じずにはいられなかった。しかし、だからこそこの状況を放置しておくわけにはいかない。 冬花一人で耐え抜いているが、俺は彼女を見ているだけではいられない。何度も計画を練り直し、どうすればこの状況を打破できるのかを考えていた。このまま黙っていれば、金子やその上司たちは調子に乗り続けるだけだ。彼らにとって冬花のような存在はただの邪魔者であり、無視していれば問題は解決すると考えているのだろう。しかし、俺はそれを許すつもりはない。 「あなた、なんでまだやめないの?自分がここにいることがどれだけ迷惑か分かってるの?中卒なんて笑われるだけなのに、何がしたいの?」 そんな言葉を日常的に浴びせられているにも関わらず、冬花はそれに負けることなく耐え続けている。だが俺は、このまま彼女をこんな状況に置いておくことはできない。妹がここまで耐えている以上、俺も全力で彼女を守るつもりだ。いち早く計画の準備を整えなければ。 冬花のプレ入社期間が3週間目を迎えようとしていた頃、ついに俺の復讐の準備が整った。その日の朝、俺は珍しくスーツに袖を通す。普段は作業服が多い俺にとって、スーツを着るのは特別な時だ。俺は冬花と共に家を出た。彼女は少し驚いた様子だったが、何も聞かずについてきた。 会社に到着すると、俺たちは表玄関を堂々と通る。いつも裏口から入るように指示されていた冬花にとって、これが初めての表玄関からの入社だった。彼女は少し緊張した様子だったが、俺はそんな彼女に微笑みかけ励ました。「今日は俺が一緒だから大丈夫だ。もうあのひどい扱いは終わる」 冬花は小さく頷いた。俺たちはそのまま会社の社長室へと向かう。今日は事前に社長の秘書とのアポを取ってある。内定式の日とは違い、今日は堂々と俺自身の名前でアポイントを取り付けた。 「三島さんですね。今日はどういったご要件で?」 俺は彼の言葉を遮り、部屋に入った。部屋には他にも数人が同席している。金子を筆頭に人事部の主要メンバーも揃っている。そして、今日俺たちをここに導いてくれた人々。それはこの会社の大株主たちだ。 実を言うと、俺は定時制高校を卒業後、少しずつ投資を始め、やがて投資家として成功を収めている。家族を支えるために蓄えていた資金を元手に株式投資の世界に足を踏み入れ、数年のうちにそれなりの財を築いた。俺はその投資家コミュニティの中で多くの繋がりを持っている。そしてその繋がりを利用して、冬花の会社の大株主たちに接触し、今回の冬花への不当な扱いについて告発したのだ。 その結果、緊急の株主総会が開かれ、今日はその決定を社長に伝えに来た。俺は冬花の不当な扱いを、株主としてではなく、兄として、そして正義のために問いただすつもりだ。 俺はゆっくりと話を始めた。「社長、今日はある重要な話をしに来ました。私の妹である三島冬花が、この会社でどれほどひどい扱いを受けてきたか、あなたはご存知ですか?」 社長は一瞬戸惑った様子で周りの人々を見渡す。人事部主任の金子は目をそらし、他のメンバーたちも居心地の悪そうな顔をしていた。 「内定式の日、彼女は門前払いされました。そしてその後も資料倉庫で意味のない作業を強制され続けました。しかも彼女のことを会社の中で存在しないものとして扱い、隔離するような対応を続けてきた。これは許されることではありません」 社長は驚いた表情を隠せない。明らかに何が起きているのか理解していないようだ。「待ってください。そんなことが本当にあったのですか?それは何かの誤解では?」 俺はその言葉を一笑した。「誤解?誤解だと?あなたは今まで何を見ていたんですか?金子主任が彼女にどれだけひどい扱いをしていたか、あなたが知らないわけがない。そもそも学歴不問という触れ込みで彼女を採用したはずです。ですが実際にはそれを完全に無視し、彼女を中卒というだけで排除してきた。それがこの会社のやり方ですか?」 … Read more

5 September 2026

高級寿司屋で一人酒を楽しんでいた俺の前に、5年前に俺を人生のどん底に突き落とした元同僚が現れた。彼は泥酔して俺に言い放った。「お前は負け組だろ。俺は明日、業界最大手と10億の契約を結ぶ勝ち組だからな」。俺は何も言わず、ただ静かに名刺を差し出した。「え、営業部長…?」。彼は顔色を変えた。その契約、俺が白紙にしてやったんだよ。あの日、俺を罠にかけて会社から追い出した男が、まさか俺の担当案件で契約…

高級寿司屋のカウンターで俺は酒を味わっていた。目標達成のご褒美というわけではないが、景気付けに来たかった店だ。一等地にある超高級寿司店で、俺は店のおすすめを聞きながら寿司と酒を楽しんでいた。 「おい、もしかして菊口か?」 店に入ってきた客に名前を呼ばれ、俺はゆっくりと声の主の方を向いた。そこにいたのは、かつての同僚、安罪だった。俺の人生をめちゃくちゃにした、あの安罪が。 「何が『よう』だよ。お前、こんなところで何飲み食いしてるんだよ」 安罪は多少酔っているようで、声は大きく、俺には忘れられない本性をむき出しにして一方的に話しかけてくる。 「ばーか、お前のためにある言葉だな。ここ、とんでもなく高い店だぞ。お前は会社から転がり落ちた人間だろうが。それなのにこんなところに」 「ま、たまにはいいだろう」 「たまには? ああ、あれか。最後の晩餐ってやつか。社会から完全におさらばしようとして」 安罪は自分で言ったことに大笑いしていたが、その内容はぞっとするほど配慮のないものだった。ああ、そういうやつだったな。俺はそう思うと同時に、そんな人間を友人だと思っていた時期があったことを思い出した。 「ああ、そうそう。俺は今、社長なんだよ。コンサル会社の」 いつの間にか俺の隣に腰を下ろした安罪は、身を乗り出して嫌味な笑顔を振りまいた。 「お前がいなくなってからトントン拍子に出世してな。あの会社じゃ俺にふさわしい仕事がなくなってさ。色々資格も取ってたんで、独立でもするかってな」 「さすがだな、安罪」 「ま、当然だけどな。今なんて、そこら中から助け求められてすげえ忙しくて大変なんだよ。お前みたいな人間には分からない世界だろうけどさ」 安罪は上機嫌で自分の会社と自分の自慢を続けていた。コンサル業界では新顔の会社だが、優秀な人材を集めて評判は高い。自らの経営手腕への評価も高く、同業者から一目置かれる存在にもなった。安罪に教えを乞うようなコンサルタントもいるのだそうだ。 「そういうの、雲の上の人って言うのかな?」 「ああ、そうだな」 気分良さそうに話す安罪に、俺は気のない返事を続けた。安罪を恨む気持ちはあるが、不思議なもので、それがうまく表に出せない。その代わりなのか、安罪の喜びそうな言葉が口からすりと出ていた。 「ま、俺は勝ち組だからな。明日なんて、業界最大手のIT企業と契約するんだよ。額は10億だから、そこそこなんだけどな」 「へえ、そりゃすごいな」 「俺にはそんなの楽勝だけどな。勝ち組で、勝ち運にも恵まれてるからな」 「そうか。けど、その運ももう続かないかな」 安罪がIT企業と契約をすると言った時、俺は目が覚めた。まさか、という驚きもあったが、自分にとって最高のチャンスがやってきた。上の空でいられなくなった。 一方、安罪は水を刺されて不満な顔に変わる。 「はあ? 何言ってんだよ。俺の成功が妬ましいからって適当なこと言ってんじゃねえぞ」 「本当は明日伝える予定だったけどな。その契約は、もうここで白紙だ」 「あ? なんでお前がそんなこと?」 「狂ってないよ。ほら、これ」 俺は自分の名刺を安罪に握らせた。 「え、営業部長? って、おい、お前」 「そうなんだよ。俺は今、お前が明日契約しようと思ってる会社で営業部長してるんだよ」 安罪は俺を捨て駒だと見ていたが、それは当然、大間違いだった。少し前になるが、最終面接がうまくいったんだ。人間不信になり、食べていくだけの日々を過ごした数年。もうこのままでいいとすら投げやりになっていた時期に、俺は今の会社に拾ってもらった。 救いの手を差し伸べてくれたのは大学時代の同期。その同期は俺の過去の人間性を考え、俺を再起させようと必死に動いてくれていた。同期は高校の先輩がIT企業を立ち上げたと知り、無理を承知でその先輩に俺を紹介してくれた。 そして、その先輩でありIT企業の社長は、ありがたいことに俺に興味を持ってくれた。会社を解雇された身である俺を、社長は真っさらな目で見て、本気で向き合い、どうして俺が解雇されたのか、社長はそれすらも俺から引き出している。 社長もできた人で、俺のことを分かった上で雇ってくれた。全てを知って、社長は俺を雇い入れ、立場を与えて仕事をさせてくれた。初めは裏方として会社生活のリハビリ。慣れたところで営業へ配置換えされ、俺はそこから間を取り戻して自由に泳ぎ回るようになった。いつの間にやら肩書きは立派になり、今は営業部長。営業に関する全ての指揮権と決定権を持たされ、責任は重大だ。 「俺はな、周りに助けてもらって仕事に戻ったんだ。それでこういう店に来るのは、趣味で息抜きだ」 「あ、ああ。そうなのか」 「ああ、分かってくれたところでもう一度言うけど、契約は白紙だからな」 俺の話を聞きながら、名刺を持った形のまま、安罪は引きつった顔で固まっていた。俺はそんな安罪に追い打ちをかけ、明日の契約はなくなったと念を押した。 「なあ、聞いてるか?」 「あ、ああ。なあ、あんな言い方しないでさ」 安罪の答えは小さく、明らかに声が震えていた。しかし、粘る根性は残っていたのか、俺に体を寄せると肩を組んできた。 「昔の話は終わりにしようぜ。水に流して、俺とお前、中いい友達じゃん。ほら、だからそれをまた業界が変わっても続けて」 「悪いけど、断る」 「そんなお前、感情に振り回されすぎだろ。仕事の話だろ? だったら市場は分けて考えないとダメだろう」 「市場? そんなのないよ。あのな、俺は最初から会社と営業部の判断として、安罪の会社との契約はなしと決めてるんだよ」 「はあ? どうして」 「お前の会社、調べさせてもらったんだよ。隅から隅まで」 … Read more

5 September 2026

朝の6時半、診療所の裏を開けたら、まだ霧が山の中腹に残ってた。湿った空気が白い襟元にひやりと触れて、俺は深く息を吸い込んだ。44歳の医師、佐藤相馬。長野の山合の小さな診療所で、たった800人の集落の健康を守って12年になる。そんな俺の机の上に、ある日届いたのは東京からの分厚い封筒だった。「日本総合診療医学会…

朝の6時半、診療所の裏を開けると霧がまだ山の中腹に残っていた。湿った空気が白い襟元にひやりと触れる。俺は深く息を吸い込み、肺の奥まで山の匂いを入れた。俺の名前は佐藤相馬。44歳。長野の山部にある小さな診療所で医師をしている。医師は俺一人、看護師が二人、事務が一人、それだけの体制でこの谷間の集落約800人の健康を守っている。 裏戸の前にすでに人影があった。風呂敷包みを抱えて立っている。近所に住む牧野よしさんだ。 「先生、こんなに早くにすまんね。」 「よしさん、もう来てたんですか?中で待っててくれればよかったのに。」 「いや、開くまではご迷惑かと思ってんね。」 俺は苦笑して鍵を開け、彼女を待合室に通した。風呂敷包みの中身は多分野菜の漬け物だろう。よしさんは月に一度の血圧の薬をもらいに来るたび、必ず何かを持ってくる。断っても聞かないから、最近は素直に受け取るようにしていた。 俺がこの診療所に来てもう12年になる。来た当初、患者は一日に3人ということもあった。住民は新しい若い医者を警戒し、何かあれば隣町の大きな病院へ車で1時間かけて通っていた。俺は焦らなかった。ただ来てくれた一人一人の話を最後まで聞いた。膝の痛みの話から始まり、孫の進学の話、亡くなった夫の話、畑の収穫量の話まで、静かに話を聞いた。そうしているうちに患者が増えた。今では一日に30人を超える日もある。 「先生、最近よう眠れんでね。」 「眠れないって、夜中に目が覚めるんですか?それとも寝つきが悪いんですか?」 「夜中にね、2時頃にパッと目が覚めて、それから朝まで。」 「お一人で暮らしているとね、夜の静けさが気になりますよね。眠れない時は何を考えてます?」 「死んだ亭主のことばっかりさ。」 俺はカルテに何も書かず、よしさんの霜の降りた手をじっと見た。この人が眠れないのは薬で済む話ではない。 「よしさん、また来週、物の出来具合の話聞かせに来てくださいよ。眠れない夜の話も一緒に。」 「先生は商売がうまいね。」 よしさんが帰った後、看護師の宮下さんが出勤してきた。彼女はこの診療所で俺より長く働いている。 「先生、今日の午後の往診、3件入っていますからね。」 「田島さんのとこも入ってますか?」 「入れときました。先週、足のむくみが気になるって言ってましたから。」 「助かります。」 午前の診療はいつも通りに過ぎていった。腰痛、風邪、慢性疾患の管理、子供の予防接種。昼休みに事務の岡村さんが封筒を診察机の上に置いた。 「先生、これ、書留で届いてましたよ。」 「あ、ありがとう。」 差出人を見て俺は一瞬手を止めた。日本総合診療医学会と書かれている。封を切ると厚みのある書面が二つ折りで入っていた。『第38回日本総合診療医学会総会におけるご講演のお願い』。冒頭の一行を読んで、俺は背もたれに体を預けた。書面には丁寧な文面でこう続いていた。『先生が長年取り組んでこられた山部における地域医療の実践、及び高齢者を中心とした包括的ケアの取り組みについて、全国の医師に是非お話しいただきたい。』 数年前、俺はこの地域で一つの仕組みを作った。医師一人では限界があるから、地域の民生委員、薬局、訪問介護、消防団までを巻き込んで、一人暮らしの人の見守り網を編んだのだ。誰かが急に来なくなれば誰かが気づき、誰かが俺に連絡を入れる。小さな仕組みだったが、これで救えた命が何人かあった。それがいつの間にか医療雑誌で紹介され、他の地方の医師から問い合わせが来るようになり、ついには学会の目に留まったらしい。 講演の予定は来月の末、会場は東京。聴衆は全国の医師約1500人。俺はもう一度書面を読み返し、それから窓の外を見た。裏庭の柿の木にまだ青い実がついている。宮下さんが昼食のおにぎりを持って入ってきた。 「先生、それ何ですか?随分大きい封筒ですけど。」 「学会から講演の依頼です。」 「学会?あの東京の?」 「ええ、東京です。」 宮下さんは目を丸くしてしばらく俺の顔を見ていた。 「先生、引き受けるんですか?」 「迷ってます。私の話なんか聞いて面白いものでもないでしょう。」 「何言ってるんですか?先生がやってきたこと、全国の先生方が知りたがってるってことでしょ。これは行かなきゃいけませんよ。」 「行ったらその日は診療所が休みになるでしょう。」 「それが気になってるんですか?一日くらいいいじゃないですか。みんな喜びますよ。先生のこと自慢できるって。」 俺は曖昧に頷いた。本当のところ迷っていたのは別の理由だった。俺が大学病院を辞めたのは32歳の時だ。心臓血管外科にいて、教授からは将来は准教授もと言われていた。論文を書き、学会で発表し、夜中まで手術に立ち合い、同期との競争に明け暮れていた。ある日、40代の患者を手術で救えなかったことがあった。医学的には最善を尽くしたが、彼は手術の前夜、俺にこう言ったのだ。 「先生、俺あんたに見取られるなら本望だよ。」 その言葉がずっと耳に残った。俺は彼のことを患者番号でしか覚えていなかった。彼の家族のことも仕事のことも何ひとつ知らなかった。それなのに彼は俺を信頼してくれていた。俺はその信頼に何で答えたのだろう。手術の技術だけで答えたつもりになっていたのではないか。 一年悩んで辞表を出した。教授は引き止めなかった。ただ「お前は向こうに行くな」と笑った。向こうというのは都会のことだ。俺は都会ではなく、もっと向こう、地方の小さな診療所を選んだ。あれから12年、東京の学会に呼ばれるなど考えたこともなかった。あの頃の同期は今は皆、大学の准教授や大病院の部長だろう。彼らの前で俺は何を話すのか。 翌朝、診察を終えた俺は軽トラックで山道を登っていった。舗装が途切れ砂利道に変わる辺りから車体がガタガタと揺れる。田島さんの家は集落から15分ほど離れた斜面の中腹にある。車を止めると田島さんは縁側に座って待っていた。膝に大きな猫を乗せ、日向ぼっこをしている。 「先生、わざわざすまんねえ。」 「いいんですよ。俺も仕事ですから。足見せてもらえますか?」 俺は縁側に腰を下ろし、彼女の足首を両手で包んだ。ふくらはぎを軽く押すと指の跡がしばらく残った。塩分を控えるよう何度も話してきた相手だ。それでも漬け物はこの土地の人にとって命の次に大事なものだった。 「漬け物を減らせましたか?」 「うん。半分にしたよ。本当だよ、先生。」 「半分ね。じゃあもう半分の半分にしてみましょうか。その方が来年の春も畑に出られますよ。」 「先生は意地悪だね。」 そう言って笑った田島さんの目じりに深いしわが寄った。診察を終え、俺は何気なく聞いた。 「田島さん、もし私がね、来月一日だけ東京に行くって言ったらどう思います?」 「東京?何しに?」 「学会というところでちょっと話をしてくれと言われたんですよ。」 「ふう。それは先生のやってることが偉いってことかね。」 「俺は曖昧に笑った。」 「先生さ、言ってきな。私らみたいなのがこんな山ん中で生きてられるのは先生のおかげだって、みんな言ってるよ。それを東京のお医者さんたちに教えてやんなよ。」 … Read more

5 September 2026

夫の退院祝いのはずが、突然離婚届を突きつけられた私。夫は私の浮気を疑い、義両親の前で証拠写真を見せつけてきた。でも私も黙ってはいなかった。私は反撃する準備をしていたの。あなただって立派な浮気をしているでしょ? そして今からその愛人宅に行くわ。夫も義両親も唖然としたわね。これから本当の地獄を見せるのは、夫の方なんだから。私は静かに車を走らせた。さあ、これからどうなるのか、見届けてみて。

父さん、母さん、聞いてくれ。実はマナが浮気してたんだ。俺はどうしても許せなくて、昨日離婚届を出してきた。 今日は夫の弘樹と義両親が私の退院祝いをしてくれる予定だった。だが、夫の一言で空気は一変する。何も知らない義両親は混乱しているようだ。そこで夫は封筒から数枚の写真を取り出し、義両親の前に並べて事情を説明する。 「実は証拠写真もあるんだ。マナは俺に隠れて、こそこそと浮気を繰り返していた。絶対に許せない」 確かに私と男性が会話しているシーンが映っている。何も知らなければ、三回現場に見えるだろう。 「マナ、三日だけ時間をやる。その間に家から出て行く準備をしろ。それで俺たちは終わりだ」 「いや、三日もいらない。一分あれば十分よ。実は入院前から新居を探していたの。というわけで、今から新居に行くわね」 「お前が新居? なんだその冗談? 意味が分からないぞ」 私は内心でため息をついた。何も知らずに得意げな態度を見せている夫。滑稽に思えたが、ここで感情を挟むのは得策ではない。私は今日のために準備をしてきた。 「必ず後悔させてやるわ」 「冗談なんかじゃない。ちなみに最初から分かってたけど、私に無断で離婚届を出すこともね。そんな戯れ事を信じると思うか。頭でも打ったのか」 夫は一瞬動揺したようだったが、すぐに取り繕うように鼻で笑った。私は夫のその薄っぺらい自信に、長年抑え込んできた怒りを抑えながら冷静に手を次へ進めた。スマホをポケットから取り出し、画面を見せる。 「これを見て」 夫は最初は興味なさそうにしていたが、画面を見た瞬間顔色が一変した。そこに映し出されていたのは、夫が実家の机で離婚届に記入している姿だった。音声も鮮明で、紙をめくる音やペンを走らせる音まで拾われていた。 「実は入院する前から家中に監視カメラを設置していたの」 「お前、正気か? そんなことしてたのか。頭おかしいんじゃないのか」 「監視カメラを設置したのは、あなたが何をしているのか知るため。理由がなければこんなことしないわ」 「侵害だ。お前がやってることは犯罪だろう」 「弘樹、落ち着け。まず話を聞こうじゃないか」 義父が低い声で夫を制した。義母も戸惑った様子で私を見つめる。 「マナさん、一体どうしてそんなことを?」 私は軽く頷き、視線を夫から両親に移した。 「理由は簡単です。弘樹が私を家政婦のように扱い、いびってきたからです」 その言葉に義母は驚いた顔をして夫の方を向いた。 「弘樹、それは本当なの?」 「そんなことあるわけないだろう。こいつの勘違いだ。俺がいつそんなことをしたって言うんだ」 夫は焦りながら言い訳を始めた。私は一度深呼吸して冷静に話を続けた。 「私が入院した理由をお母さんたちは聞いていませんでしたね。実は過労とストレスによるものでした。弘樹が私に過剰な家事を押し付けてきたことが原因です」 「弘樹がそんなことをするなんて私には信じられないわ。普段の弘樹を見ていたら、そんなことをするとは思えない」 義母は顔を曇らせながら首を横に振った。義父も腕を組み、険しい顔で私を見つめた。 「マナさん、俺たちには弘樹がそんな風に見えたことはないんだ。少なくとも俺たちが知っている弘樹は、家族を大事にする息子だよ」 私は心の中でため息をつきながら静かに答えた。 「お父さんとお母さんがそうおっしゃるのも分かります。弘樹はいつも義両親の前ではいい夫を演じていますから。でもそれが本当の姿ではありません。私はずっと弘樹の本性を見てきました」 「父さん、母さん、聞いてくれ。こいつの話を信じちゃいけない。全部こいつの妄想だ。俺がそんなひどいことをするはずがないだろう」 夫は義両親に向き直り、慌てた様子で否定を始めた。義母はまだ半信半疑の様子で、 「でも、マナさんの話にも筋が通っているわ」 と呟いた。夫はさらに声を荒げて私を非難し始めた。 「こいつは自分が浮気してたのを隠すためにこんなことをしてるんだ。俺を悪者にして自分を守ろうとしてるんだよ」 「弘樹、証拠があるかどうかはともかく、マナさんがここまで言うにはそれなりの理由があるはずだ。俺たちが信じられないというだけで終わらせていい問題じゃない」 義父がそう言うと、夫はさらに声を荒げた。 「まあいい。居場所が見つかったんだろう。だったら今すぐ出ていけばいい」 追い詰められた夫は急に話題をそらすように私に向き直り、声を荒げた。その突然の発言に義母が驚いた表情で夫を見た。 「弘樹、何を言ってるの? そんな乱暴なことを」 「母さん、これ以上家にこいつを置いておく理由なんてないだろう。居場所があるって言うならさっさと出ていけばいいんだ」 「今日は新居には行かないわ。別の用事があるから」 私は冷静に言い放った。夫は苛立ちを隠そうともせず、不満げに睨みつけてきた。 「別の用事だ。なんだそれ? 荷物をまとめるのに忙しいとか言うんじゃないだろうな」 「弘樹の愛人に行くつもりよ」 私は一瞬も目をそらさずに答えた。リビングは瞬時に凍りついた。義母は手を口に当て、目を丸くしている。義父は厳しい表情を浮かべながら、私と夫を交互に見つめていた。 「何だと?」 義父の低い声が室内に響いた。夫は驚いたように目を見開いたが、すぐに嘲笑に変えた。 … Read more

5 September 2026

父が銀座の高級料理店で、見た目だけで見下された夜のことを話してくれたのは、三ヶ月前のことだった。 「予約は早川さんでしょ。お会計は80万円。貧乏人がどう払うのかしら」 女将は私たちの靴と鞄を値踏みするように見て、そう言った。支店長の男は「お安いご一行様、楽しんでってね」と鼻で笑った。父は何も言わなかった。ただ、私の手を軽く握っただけ。…

銀座の高級料理店「火用亭」は、一見さんお断りの看板を掲げ、常連客の会計で成り立つ店だ。年間売上は8億円。芸能人や政界の名刺が帳場の引き出しに詰まっている。 九月の夜七時。重い扉の前で、女将の神谷(51歳)が笑いをこらえるように肩を震わせた。隣に座るのは関東第一銀行銀座支店長の西村(44歳)。今夜も常連客としてグラスを揺らしている。 「おや、ご夫婦でドアを間違えたんじゃないの?予約は早川さんでしょ。お会計は80万円。貧乏人がどう払うのかしらね」 扉が開き、早川明(62歳)と娘の玲奈(29歳)が静かに一歩ずつ店内へ入ってきた。明のジャケットは袖の肘が薄く色褪せ、玲奈のスーツは光沢がなくバッグの角も擦れていた。それでも親子の姿勢だけは揃い、帳場の明かりをまっすぐ見ていた。 予約帳には「早川」の姓だけが残り、肩書きの欄は二人とも空白のままだった。 「あれが予約帳の早川様ね」 女将は電卓を叩き、親子の靴と鞄を上から下へ値踏みするように見た。 「お二人様、こちらへ。安いお部屋ですけど我慢なさるわよね」 個室へ向かう廊下で、西村がグラスを持ったまま鼻で笑った。 「お安いご一行様、楽しんでってね」 玲奈の指がバッグの持ち手を強く握り、明が娘の手に軽く触れた。 「父さん、まだだよ」 食事を運んできたのは仲居の杉浦(23歳)。女将と違い、杉浦は客の服装で態度を変えない真面目さが持ち味だった。玲奈は品書きの控えを頼んだ。 「失礼ですが、銘柄の控えはお品ごとにお願いします。父の秘書として後で報告する決まりなんです」 杉浦は一瞬だけ目を見開き、すぐに深く頷いた。 「かしこまりました」 指定の品書きは運ばれたが、二本注文した酒の瓶は運ばれてこなかった。それでも時計が夜九時を過ぎた頃、呼び出しのベルが鳴った。 帳場には80万円の会計伝票が握られていた。 「合計80万円よ。内訳は未提供の高級酒二本分と量の上乗せね」 玲奈は伝票の角を抑え、指がわずかに白くなった。 「内訳の控えをください。未注文の酒はありません。瓶の管理番号と出庫記録も見せてください」 「払えないなら警察よ。その言葉、忘れちゃった?」 女将が電話に手を伸ばした時、廊下の奥から杉浦が駆け寄ってきた。 「お待ちください。そのお酒、お席では出てきませんでした」 女将は振り向きもせずに言い放った。 「この店の会計は私が決める。黙って座っていなさい。余計なことを言うなら今月のシフトに響くわよ」 杉浦の足が止まり、玲奈がゆっくりと小さく首を振った。 西村が立ち上がり、名刺入れを指で弾いた。 「私は関東第一銀行の銀座支店長です。言うことを聞けば手続きはスムーズですよ」 「支店長が架空請求の共犯ですか」 帳場が静まり、女将の眉が釣り上がった。 「身元が分からない人間に銀行は信用しない」 「私は名刺を出さなかっただけです。あなたは銀行の看板を出しました」 西村の喉が鳴り、グラスの縁を強く握った。玲奈はバッグのポケットで小さなランプを押し、録音が始まっていた。 「私は東海エレクトロニクス代表取締役会長の早川明です。こちらは娘で執行役員の玲奈。会社の預金の一部を別ルートで動かす予告と、借入条件の見直し予告を同時に出します」 西村の手から名刺入れが落ちた。女将の声が裏返る。 「嘘…あのジャケット、貧乏な親子じゃ…」 「名刺も肩書きも出さなかったのは、現場の本音を聞くためです。答えは十分いただきました」 明は静かに続けた。 「直すなら今です。直さないなら、明日はこちらの番です」 翌朝、市場の調査員が火用亭を訪れ、帳簿と伝票の突合を始めた。同じ頃、銀行本部の検査担当が銀座支店に送金記録の写しを取りに来た。東海の給与振り込み先が変わる連絡が本部から入り、西村は手すりを握りしめた。 午後二時、本部の会議室で福田常務と早川親子が座った。ガラス越しの控室には女将と西村が並んで座らされていた。 会議室では昨夜の録音が流れ始めた。80万円の台詞と警察の言葉が終わると、福田が書類を置いた。 「これは私的な冗談ですか?銀行の看板を個人のおもちゃにしたつもりですか?」 西村は「あの親子が挑発した」と叫び、女将は「煽ったのはあんたでしょ」と反論した。二人の声が重なり、玲奈が一枚の紙を机の上に滑らせた。 「東海エレクトロニクス代表取締役会長、早川明。同じく執行役員、早川玲奈です」 西村は床に落ちた名刺より先に女将を睨み、唇だけで「黙れ」と形を作った。女将は黙らなかった。 「黙れないわよ。笑い声が一番大きかったのはあんたでしょ」 「煽ったのはお前の方だ」 福田が卓を軽く叩いた。 「東海の大口取引先が昨夜の席で何を聞いたか分かったかね。身元確認のつもり?見た目で危ない客を見分けるのが女将の仕事?」 明が静かに手を上げた。 「私たちは服を選びました。あなた方が決めつけただけです」 西村は支店長の職を解かれ、聴職調査委員会へ回された。女将は女将を解任され、板場には二枚目の伝票を回す新しいルールが敷かれた。火用亭の金利は0. 3%上がり、仕入れは現金引き渡しだけになった。 … Read more

5 September 2026

Na festa de promoção do meu marido, ele levantou a taça e anunciou a toda a família que me sustentava há dois anos e que o mínimo que eu podia fazer era cozinhar, porque era a única coisa que eu…

Na festa de promoção do meu marido, ele chamou-me de inútil em frente a toda a família dele. Nesse momento, percebi algo que ele nunca tinha entendido sobre mim. Ele achava que era o bem-sucedido porque o nome dele estava numa carta de promoção, enquanto eu era apenas a esposa que ficava em casa a … Read more

5 September 2026

「また左遷か…」と工場長は言ったが、それだけじゃなかった。私は上司に嵌められて、トラブル続きのブラック工場に飛ばされた。だが私は黙って屈する男じゃない。高校時代に培ったシステム開発の腕で、隠された真相を暴き出そうとした。すると、全然関係ないはずの部長が突然怒鳴り込んできて、「契約違反だ。訴えてやる」と言い放ったんだ。あいつは私のことを何も知らない。私は自然な笑みを浮かべて、「ご自由に」とだけ…

工場長が肩を落とし、「もうだめだ」とこぼした。トラブル続きのこの工場に、俺は上司のはめで飛ばされてきた。月100時間の残業を記録するブラック工場。だが、そこには隠された理由があった。 俺の名前は間、35歳。高卒で営業部の係長になったが、村松部長の赴任で全てが変わった。彼は副社長の大学時代の後輩で、コネ入社だった。だがプライドが高く、自分のミスを指摘されたことで俺への嫌がらせを開始。会議で開発部の部長に「村松君か。困るよ君」と言われたことで逆恨みし、「お前のせいで恥をかいた」と仕事を押し付けてきた。 嫌がらせはエスカレートし、俺を孤立させ、ミスを擦り付け、残業100時間を強要。ついに副社長を通じて俺を自動車部品工場へ左遷させた。部長は笑いながら「工場のライン仕事でもやってろ。お前にはちょうどいい底辺の仕事だ」と言い放った。 工場で出会った高山工場長は憔悴していた。「制御システムのトラブルでラインが日に何度も止まる」。俺は画面を覗き込むと、意外な可能性を見出した。「これならなんとかできるかもしれません」。高卒で営業部に配属されたが、実は高校時代パソコン部で自作システムを作り、ロボットを動かしていた経験がある。俺の最も得意とするのはシステム開発だ。 試作システムを完成させた俺は、それが単なる工場のトラブルではなく、本社の権力闘争に繋がる大きな発見へと導かれることになる。工場のシステムを調べるうち、俺をはめた村松部長が隠していた重大な不正が浮かび上がってきたのだ。 俺は工場で黙々と作業を続けながら、蓄積されたデータの異常に気づいた。特許技術を持つシステムのエラーは人為的なものである可能性が高い。そして、その背後には村松部長と副社長の癒着があった。俺は証拠を集め、本社に報告する準備を進める。 一方、そんな俺の前に島岡部長という男が現れる。彼もまた高圧的な態度で俺に特許使用契約の継続を迫ってきた。「契約を解除したら訴えてやる」。だが俺が対応した結果、島岡部長は自らの非を認めざるを得なくなり、最終的に契約は中止。彼は責任を問われ、自主退職に追い込まれた。 そして、本社では俺をはめた村松部長と副社長の不正が明るみに出た。彼らは工場のシステムをわざと故障させ、損失を出させることで、外部業者から利益を得ていたのだ。証拠が揃い、村松部長は辞職。副社長も責任を取って更迭された。 俺は工場から戻り、営業部に復帰した。部下たちが待っていた。「係長、おかえりなさい」。俺は昔取った記念塚というわけではないが、あの頃の俺には戻らない。今度こそ、誰もはめられない立場で働いていく。

5 September 2026

「俺は時期社長として決めたからな。この工場との契約は終了するってよ」 そう言って得意先の社長の息子は、俺の工場を侮辱し、契約を一方的に打ち切ると宣言した。 勝手に決めつけ、好き放題言ってくれたな。 だがな、終わるのはあんたの方だ。 その言葉を聞いた瞬間、俺の中で張っていた糸がプツンと切れた。俺は深呼吸を一つし、まっすぐ彼を見て口を開いた。…

俺は時期社長として決めたからな。この工場との契約は終了するってよ。 得意先の社長の息子にそう宣言されて、俺の頭は一瞬フリーズした。契約終了だと?突然そんなことを言われても、借金まみれで危ないところにお金を借りている工場とは付き合ってられないんだよ。危ない人たちにうちの会社まで目をつけられたらたまらないからな。 勝手に決めつけ、好き放題言われて、開いた口が塞がらない。いくら否定しても、彼は俺の言うことを信じようとはしなかった。うちとの取引がなくなれば、こんな工場は終わりだろうな。まあ、せいぜい頑張ってよ。最後に侮辱して、彼は帰ろうとする。 去っていく背中を眺め、俺の中で張っていた糸がプツンと切れた。先代からの付き合いを考えて多めに見てきたが、もう見放してもバチは当たらないだろう。契約を終了して終わるのがどっちか、試してやろうじゃないか。 俺の名前は元也。高城町で工場の社長をしている。俺の実家は、俺が幼い頃から貧しい家庭だった。父親が幼い頃に亡くなり、母さんが一人で働きながら俺を育ててくれたからだ。母さんは俺に不自由をさせたくないと、大学進学もしていいと言ってくれていた。しかし俺は早く働いて母さんを助けたいという思いがあり、高校を卒業後、すぐに就職する道を選んだ。親戚の紹介を受けて、この町に工員として入社した。 俺は周りの人たちに早く一人前の姿を見せたいと、必死に仕事に熱中した。がむしゃらに仕事を頑張っていたこともあってか、社長にすごく可愛がってもらえるようになり、何かあると気にかけてくれ、いつも俺を応援してくれた。そして俺も、一社員のことを気にかけてくれる社長のことを尊敬し、恩に報いるようさらに精進した。その結果、次第に社長から仕事ぶりを評価してもらえるようになった。いつしか「将来はお前に会社をついでもらおうかな」と言われるように。笑いながらそう言っていたため、俺は全く本気にはしていなかった。 ところが、そんなある日、社長が病に倒れて、仕事に復帰できなくなってしまった。そして病床の社長に、「後継がいないから」と、工場をついでくれと頼まれたのだ。本当にそんなことを言われると思わなかったため、すごく驚いたし、戸惑いもした。しかし、尊敬する社長と大好きな工場のため、工場を継ぐことを決意。それから俺は社長の期待に答えるため、さらに必死に頑張った。他の社員たちも俺が社長になることに賛成してくれて、社長になってからも不慣れな俺をいつも支えてくれた。そのおかげもあり、なんとか現在もこの工場を守り続けることができている。 また、取引先にも恵まれていたと思う。特に工場の大口取引先である大手部品メーカーには大変助けられた。この会社とは長年取引を続けており、良好な関係を築いている。先代社長の頃からの付き合いだったが、俺が社長になってからも変わらずに取引してくれていた。突然社長になった俺の相談にも乗ってくれるなど、本当によくしてくれていた。だからこそ、これからも期待を裏切らないよう、真摯に向き合って仕事をこなしている。 そんな時、その大手部品メーカーから、社長が引退し、長男の若松周一さんが後を継ぐとの案内が届いた。社長に息子がいることは知っていたが、実際に会ったこともなければ面識もない。どんな人なのかも、社長からは何も聞いていなかった。そんな俺に、社員が大手部品メーカーの社員から周一さんについての噂を聞いたと教えてくれた。何でも、父親の前ではいい顔をしているけど、下の人間にはすごく冷たい人らしくて、あんまり評判が良くないらしい。社員たちも、社長の後を周一さんが継ぐことになって、不安を抱いているそうだ。そんな話を聞いて、俺も今後うまくやっていけるのだろうかと不安になってしまった。 それから数日後の昼過ぎ、午後の作業を始めたばかりのところに見知らぬ男性が工場を尋ねてきた。どうやらこの人が大手部品メーカーの時期社長である周一さんのようだ。周一さんは、たまたま近くを通りかかったから来たという。突然のことに驚きながらも、俺は挨拶をした。すると周一さんは不機嫌そうにそう言うと、俺を上から下まで見定めるように見る。あまり感じがいいとは言えない視線に、俺も少し戸惑ってしまった。 周一さんは時期社長として工場を見たいというので、俺が案内をすることに。ここでいつも製品の製造を行っています。へえ、ここでね。周一さんは工場内を見渡し、少しバカにしたように鼻で笑っている。俺はなぜだかわからず周一さんを見る。すると俺の視線から気持ちを察したようで、周一さんは笑いながら口を開いた。いや、随分と薄汚い工場だなと思ってさ。まあ、工場ですからね。綺麗ではないですね。 初対面で取引のある工場に、いくら何でも薄汚いは失礼だと少し気分が悪くなったが、俺は愛想笑いでごまかしてこらえる。しかし、周一さんの失礼な発言はこれだけでは終わらなかった。本ぼうですぐにでも壊れそうだな。まあ、あなたにはお似合いの工場ですね。俺をちらりと見ながら、周一さんはそう言ってきた。俺のことも工場のことも馬鹿にしているのだと確信する。確かに綺麗で大きな工場ではないが、どうしてそこまで言われないといけないのか。それに気がつけば、周一さんはため口で話してきていた。やはり噂で聞いた通りの人のようだ。この日はそれだけ言って、忙しいからと周一さんは足早に帰ってしまった。 帰った後も周一さんの言葉を思い出し、気分が悪くなる。まだ社長の交代は少し先だが、今後うまくやっていけるのか不安が大きくなるばかりであったが、その日の夕方、社長から俺の元に電話がかかってきた。元也さん、今日、息子がそちらに挨拶に行ったと聞きました。急な訪問をいただき、ありがとうございました。いえいえ、近くを通りかかったと言って来ていただいて…。もっとたくさん色々な話をして盛り上がったと言って喜んでましたよ。これからいい関係を築けそうだと言ってました。 俺は社長の言葉に耳を疑ってしまった。色々な話をしたわけでもなければ、盛り上がったわけでもない。ただ暴言を吐かれて、俺は不快な思いをしていたのに、社長から聞く話は全然違っている。やはり社長の前ではいい息子を演じているのだろうと思ってしまった。言っていることが違うのにはますます不審感を抱いてしまうが、その一方で、周一さんの言葉を俺が気にしなければいいのかもしれないと感じた。きっと父親の前で良い息子を演じる周一さんなら、長い付き合いのうちの工場を邪険に扱うことはないだろうと思ったからだ。社長も、周一さんが俺と仲良くなったという嘘を聞いて喜んでいるようだったし、俺の口からそれは嘘だなんていうことはできない。そんなことをしても、退任する社長を不安にさせるだけだ。今までよくしてもらった恩もあるのだから、社長のためにもこれから頑張って周一さんと良い関係を作っていこうと思った。しかし、そう簡単にはいかなかった。 それからも周一さんは、近くを通りかかったからと言って、何度かうちに足を運んだ。正直、何の用事があるのかと思ってしまうほどだ。しかも、周一さんは来るたびに一方的に好き勝手に暴言を吐いて帰っていく。決して俺といい関係を築こうとしている人の対応だとは思えない。それでも俺は、社長のため、そして取引のためにと、周一さんの暴言を黙って聞いているしかできなかった。 そんなある日、事件が起きてしまう。この日も周一さんが暇を潰すかのようにうちの工場にやってきた。はあ、相変わらずきったない工場だなあ。ここに来ると元気がなくなるわ。今日も周一さんの暴言を黙って聞かなければいけないのかと、俺も元気をなくしてしまう。すると周一さんは、何か思い出したかのように「ずっと言いたかったんだけど」と言って口を開いた。この工場って、ドラマとかでよく見かける、危ないところに借金して返済に迫られている貧乏工場とそっくりだよな。ここも危ないところに借金して大変なんだろうなって思ってたんだよ。 突然何を言い出すのかと思えば、そんなことを言って、勝手に借金をしていると決めつけられた。これには俺も黙っていることができず、やんわり否定する。そんなうちは、そんなところに借金なんて知っていませんよ。そうかな。どう見たって今にも潰れそうだし。本当は借金とか来てるんでしょ。俺が否定をしても、周一さんは自分の勝手な考えを本当なんだろうと言ってくる。怪しいから、俺この工場を見張ってたんだよ。どういうことですか?見張ってたって?取り立てに来られてないか、ちゃんと俺がチェックしようと思ってさ。先週の金曜日、いかにも悪そうな人が来てたじゃないか。その日だけじゃない。別の日も来客があったし。 用もないのにうちの工場に来ていた理由はそれだったのかと呆れてしまう。先週の金曜日に来てたのは取引先の方です。人の見た目を悪く言うようなことはやめてください。ふうん。どうせうちとの取引くらいしかないくせに、下手な嘘つかなくていいから。周一さんの次々と出る言葉に、俺は驚きが止まらない。勝手な妄想でどんどんうちの工場を貶めていく。しまいには取引先の方の見た目に文句をつけるなんて、どんどん腹が立ってきた。まあでももういいよ。俺は時期社長として決めたから。決めたって、何をですか?こんなおんぼろ工場との契約を終了することだよ。契約を終了ですか?突然そんなことを言われましても。 周一さんの突然の言葉に驚き、俺も口調が思わず強くなってしまう。こんな汚いところで作ってゴミのついたものを納品されたら困るし。そんなことは絶対にありません。今までもそんなこと一度もありませんよね。それに危ない人たちにうちの会社まで目をつけられたらたまらないからな。勝手に決めつけ、好き放題に言う周一さんに、開いた口が塞がらない。うちとの取引がなくなれば、こんな工場は終わりだろうな。まあ、せいぜい頑張ってよ。周一さんは最後に侮辱して帰ろうとした。去っていく背中を眺め、俺の中で張っていた糸がプツンと切れる。 その瞬間、ついに我慢ができなくなり、深呼吸した後、まっすぐ周一さんを見て口を開いた。終わるのはあんたの方だ。うちの最新技術は他社に譲ると、社長に今すぐ伝えろ。怒りに思わず声が強まってしまい、周一さんも一瞬驚いた表情をして振り返った。しかし、すぐに周一さんはいつもの馬鹿にしたような見下した表情になる。何をバカなこと言ってるんだ。さすが嘘つきは言うことがおかしくて面白いよ。すると、ちょうどその時、周一さんのスマホが鳴った。お疲れ様です、父さん。どうやら相手は周一さんの父親である社長のようだ。周一さんはいつもとは全然違う愛想のいい感じで電話に出た。どうやら仕事のことで話があったらしく、周一さんは「できる男」といった風体で真剣に仕事の話を始めた。いつもこんな感じで社長と接しているのかと思うと、自分との対応の差に怖くも思ってしまうほどだ。 ひとしきり話した後、周一さんが俺を見てにやりと笑った。父さん、僕からも取引先についてお話がありまして。そうして切り出し、社長に対して俺の工場との取引を終わらせる許可を求めた。何と言うか、こんなおんぼろ工場より何倍もいい工場ですよ。俺の方をチラチラと見て笑いながら話し、社長にはうちの代わりとなる最先端の工場を見つけてあると話す。ところが、次の瞬間。何を言っているんだ!いい加減にしろ!電話越しにも聞こえる社長の怒声が響いた。それに驚いた顔をした周一さんだったが、その後、何やら社長の話を聞くにつれて、周一さんの顔が青ざめていく。先ほどまでの優越感に満ちた笑顔はどこへやら、今は下を向き始めてしまった。 そして電話を切った周一さんが、ぼそぼそと聞いたこともないような小さな声で話し始めた。まさか、こんなおんぼろ工場が…。周一さんはそれだけ言うと言葉を失い、顔を俯かせたまま上げない。俺には聞こえていなくても、電話越しに周一さんが社長に何を言われたかは検討がついていた。俺はこの工場で研究を重ね、特許技術をいくつも作り出していた。特に最新の技術は蓄電池に関するもので、小型で安価でありながら、蓄電容量は大幅にアップを可能にするというものだ。それは従来のものとは比べ物にならないほど性能を向上させられる。その技術を、長年の付き合いのある周一さんの会社が独占的に利用できる契約となっていた。その技術のおかげで、俺の工場は周一さんの会社の経営を支える柱となっている。どうやら時期社長となるにも関わらず、そのことを周一さんは知らなかったようだ。 周一さんはうなだれたように俯いていた顔を上げて、謝罪を始める。本当に申し訳ございませんでした。先ほどのお話は忘れてください。忘れてください、だと?忘れることなんてできませんよ。契約を終了すると言ったのは周一さんです。軽い謝罪で簡単に許されると思っている周一さんに驚くも、俺ははっきりと拒否する。いや、まさかそんな技術があったなんて知らなくて。まあ、確かにうちはおんぼろ工場ですからね。それは事実なので、契約終了で結構ですよ。いや、その、ですから…。言葉に詰まっている周一さんへの攻撃を、俺はもう止められない。それに、周一さんは代わりの工場を見つけてあると言っていましたもんね。残念ですが、そちらでお取引をされればいいと思いますよ。そんな、周一さんが代わりになるといった工場も、工場の綺麗さなどの見た目から判断しただけなのだろう。事実を述べる俺に何も言い返せないのか、いつもの勢いを全く感じられない。 もう用はないので、お帰りください。俺はそれだけ言ってその場を立ち去ろうとすると、周一さんに腕を掴まれ、泣きつかれるようにして土下座をされる。本当に申し訳ございませんでした。今までのひどい発言も全て謝罪します。もう、何を言われてもそちらと取引するつもりはありませんよ。今まで父といい付き合いをしていたって言ってたじゃないですか。長い付き合いなんですよね。そうですね。こちらもこんなことになってしまい、残念ですよ。周一さんが必死に土下座をして謝罪をしてきたが、何を言われても俺は顔色を変えず、淡々と突き離す。これには周一さんも、もうどうすることもできないと感じたのか、膝をついたまま脱力してしまった。ずっとここにいられても困ると思い、俺は社員たちと工場の外に周一さんを追い出した。 その後、俺は周一さんの発言を侮辱行為として、契約を正式に打ち切った。そして代わりに、周一さんの会社のライバル社と契約を交わす。周一さんが勝手に取り立てだと勘違いしていた方は、うちと契約をして欲しいと言ってきている会社だった。以前から契約をして欲しいという会社はあったが、周一さんの会社と長い付き合いをしていることは有名で、いつも断っていた。しかし、社長が周一さんに変わるということが業界内で噂され、これを機に契約をお願いに来る会社が増えていたのだ。いつもはあまり話も聞かずに断っていたが、周一さんの態度に悩んでいた俺は、いつかこんなこともあろうかと、条件など詳しい話を聞いていた。周一さんの会社とは価格を変更することなくずっと取引をしていたため、他のどの会社も周一さんの会社より好条件だった。社長にお世話になったこともあり、それでも取引を続けようとは思っていたが、もう周一さんと仕事をしていく気にはなれなかったのだ。 俺が新しく契約したライバル社は、契約後、株価が急上昇し、業績も飛躍的に向上。対照的に、周一さんの会社は業績が急激に悪化してしまった。うちの工場が支えていたのだから、こうなってしまうのも当然だろう。社長は今回の件を機に、周一さんのことをしっかり問い詰めたそうだ。そして、他の社員からも周一さんの話を聞いたそうで、社長の前だけ良い息子を演じていたことがバレてしまったらしいと風の噂で聞いた。社長は周一さんに激怒し、「時期社長にはさせない」と決めたそうだ。その後の行方は誰も知らないとライバル社の担当者から伝え聞いたが、まあ、俺にはもう関係ないことだ。 そんな人のことを気にする余裕はない。俺には目の前の仕事があり、守らなければいけない会社がある。俺は今回の件で、改めて謙虚な姿勢が大切だと身にしみた。周りの人たちに支えてもらえている環境にも感謝し、地道にこの工場のために仕事をしていこうと改めて決意している。 *** こいつ、俺の小魚じゃ要らないからな。 自分が社長を務める工務店の得意先、大手企業の担当と偶然バーで出会った俺は、彼の取り巻きたちにそう紹介された。やだ、ウケる。取り巻きたちの反応にご満悦な様子を見せる担当は、「なあ、小魚社長、もっと仕事が欲しいなら、この100万のシャンパン奢ってくれよ」そう言いながら彼がバーのメニュー表を指さした。さらに取り巻きに下卑た顔で話を振る。「なあ、お前らも飲みたいだろ。100万のシャンパン。飲みたい、飲みたい。小魚社長さん、俺らも飲みたい!」ついでに酔っ払っているのか、彼の言葉に周囲もわーと騒ぎ始めた。 お店や他の客への迷惑も考えない姿に、俺は呆れてしまう。それでこの場が収まるのであれば、彼らの言う通り払ってやってもいいのだが。俺は薄く笑みを浮かべる。「別に構いませんよ。ですが…」俺の言葉に、顔を真っ赤にして怒り出した担当だったが、数日後、俺の正体を理解し、担当と彼の会社は地獄を見るはめに陥るのだった。 俺の名前は岡井了介。祖父の代から続く工務店の社長をしている。社長と言っても小さな店で、仕事は主にハウスメーカーの下請けだ。苦学して社会人となってからしばらくは、他の工務店などの営業として働いていたのだが、1年前に父から実家の工務店を受け継いだ。ちなみに父は今も現役で働いているのだが、父はどちらかといえば職人肌で、もっと現場に出たいという人だ。それまでは社長業との兼ね合いもあり、現場仕事は減らしていたらしいのだが、晴れて俺に社長の座を譲ってからは、毎日それこそ鬼のように現場を駆け回っている。そんな父の姿を見ながら、俺は心機一転、社長として今日も自分の仕事に励むのであった。 とある日、見慣れてはいるがあまり会いたくはない人物が工務店を訪れた。祖父の代から付き合いのある得意先の大手ハウスメーカーの担当である。名前は平松さん。なんと彼は、その大手ハウスメーカーの社長の息子でもあった。彼は高そうなスーツとピカピカに磨かれた靴で今日もばっちり決めていたが、古くて小汚いこの工務店においては、いささか場違いな存在でもある。「どうも。もう本当に、ここはいつ来ても埃っぽいな。ねえ、了介社長。ここ、ただでさえ狭くて古くて汚いんだから、たまには掃除でもしたらどう?」自慢のブランドが汚れたのが気に入らないらしく、平松さんはこれ見せがしにハンカチで靴を磨くと、ため息混じりでそう言った。 もちろん、言われなくても掃除は毎日しているのだが、建設に直接関わる大工や現場監督もしょっちゅう出入りするため、どうしても土埃りは溜まってしまう。汚れるのが嫌なら、そんなにピカピカとした靴を履いてこなければいいのにと内心思いながらも、彼がこの工務店や俺のことを馬鹿にするのはいつものことなので、笑顔を浮かべてさらりと本題に入った。「これは失礼しました。以後気をつけますね。ところで平松さん、今日は?」「ああ、ああ、今日はこの件でな。納期が早まったから、一応連絡しといてやるよ」そう言って平松さんは鞄の中から書類を取り出すと、ほとんど投げるようにして俺と渡してくる。しかし、その書面を見て俺は思わず声をあげた。「平松さん、これは、さすがに納期が当初より1週間も早いだなんて。工期もきついのに」「ああ?うるさい」すると俺の抗議を面倒くさそうに遮り、平松さんが嫌味な仕草で肩をすくめる。「仕方ないだろうが、それが先方の要望なんだから。休みなしで行けば余裕で間に合うだろ」当たり前の顔してひどいことを言う彼に、俺は呆けに取られてしまう。 そもそも、彼の父が社長を務める大手からの発注は、不当な金額のものや無理なスケジュールが組まれている案件が多いのだ。それでもこちらの足元を見ているかのような依頼を受けるのはなぜかと言えば、話は祖父の代に遡る。祖父がこの工務店を始めた際、大手ハウスメーカーの当時の社長であった平松さんの祖父がその仕事ぶりを気に入ってくれ、この工務店へ優先的に仕事を回してくれたのである。祖父はもう亡くなってはいるが、最後までそのことを大変恩義に思っており、息子、つまり俺の父や孫の俺にも「恩義に報いるように」とよく言い聞かせていた。そのこともあり、どんなに無茶な依頼であっても、父も俺もできるだけ求められた仕事はこなしてきたつもりだ。だが、それが帰って会社側の要求をエスカレートさせたのか。担当がこの平松さんになって以降、回ってくる仕事内容が特に酷くなっているのだった。 人を人とも思っていないような平松さんの発言に、無言ながらも俺が納得していないのは伝わったのだろう。彼は一度睨むようにして俺を見やると、口の端を吊り上げてせせら笑った。「了介さんよ、あんたはいいから黙ってうちからの依頼をこなせばいいんだよ。というか、こんなパッとしない工務店、うちからの発注がなければすぐにでも潰れるだろう。仕事を回してもらえることに感謝しないと」そして平松さんは「あんたはせいぜい俺のご機嫌取りをしてください」と締めくくり、話は終わりとばかりに立ち上がると、さっさと帰って行ってしまう。彼の鳴らす近所迷惑な車のエンジン音に、俺はため息をつきながら、仕方なく工事スケジュールの組み直しを検討するのだった。 平松さんに振り回されながら忙しく過ごしていたある日のこと。俺は高級ホテルのバーで一人グラスを傾けていた。先ほどまで一緒に飲んでいた相手がいたのだが、急な用事ができてしまい、早々に帰って行ってしまったのである。それに合わせて俺も帰ろうかと思ったものの、明日は工務店も休みだ。このところバタバタしていてゆっくりする機会もなかったから、あと1杯だけ飲んでいこうと、久しぶりに一人でくつろいでいた。その矢先だ。洗練されたバーの雰囲気にそぐわない、騒がしい集団がどやどやと入転してくる。俺は思わず眉を寄せて集団を見やった。すると、その中心になんとあの平松さんの姿を見つけてしまったのである。彼の他には2人の男性、そして3人の女性がいたが見た感じ、その誰もが平松さんにあからさまな媚を売っていて、彼が何かを言うたびに大げさなほどキャッキャと盛り上がっていた。 せっかくのひと時だったが、ここで見つかっては絶対に面倒なことになる。俺はそう思い、今のうちに席を立つべく、さっさと立ち上がろうとした。しかし、こういうことには目ざとい平松さんが、そんな俺の後ろ姿を見つけてしまったらしい。「誰かと思えば、そこにいるのは了介社長じゃないですか」店の迷惑も何のその、バー全体に響き渡るような声で平松さんが俺を呼んだ。気づかなかったふりをして帰ってしまいたい気持ちは十分にあったが、こんな大声で呼ばれてしまえばさすがに無視するわけにもいかない。俺はせいぜい愛想笑いを浮かべつつ振り返り、「ああ、これは平松さん」などとしじらしく挨拶する。すると彼は、まるで子犬でも呼ぶようにしてちょいちょいと手で招く。仕方なく近づいてきた俺を、連れの女性たちに紹介した。「こいつ、俺の小魚じゃあないからな」そのあんまりな紹介に、瞬間、彼の隣に座っていた女性が甲高い笑い声をあげる。「え、何それ?でも信吾さん、さっきこの人のこと社長って呼んでたでしょ?それにこんないいスーツ着てるし」「へ、初めまして。社長さんはどんな会社を経営してらっしゃるの?」 しかし、その女性が上目遣いで俺を見てくれるものだから、おざなりにされた平松さんはと言えば、嫉妬深げに俺のことを睨んでふんと鼻を鳴らした。「まあ確かに、あんなボロい工務店でも社長は社長だよな。でも実際は、俺の親父の会社の下請けでなんとか食いついてる。肩書きだけの社長だけどな」そうだ。あんた、今日から“社長”って名前にしろよ。「あ、はあ」「そしたらみんなに“社長”って呼んでもらえるぜ」平松さんが笑えば、周囲の男女もそれに追従するように笑った。「やだ、信吾さんたらウケる」お気に入りの女性に褒められたためか、平松さんは得意げに胸を張り、ニヤニヤと嫌な笑いを浮かべてさらに言い募る。「ってことで、こいつ、俺に頭が上がんねえのよ。だから“小魚社長”」あんたもなんだよ。そんなスーツなんか着ちゃって。「ああ、こういうホテルのバーにでも憧れてた口か。はっ、貧乏人はこれだから」その目が、俺を完全に見下すようにして細められた。「なあ、小魚社長くん、もっと仕事が欲しいなら、この100万のシャンパン奢ってくれよ」そう言いながら、彼がバーのメニュー表を指さした。そして、平松さんは隣の女性に顔で話を振る。「なあ、お前らも飲みたいだろ?100万のシャンパン」「飲みたい、飲みたい。小魚社長さん、俺らも飲みたい!」すでに酔っ払っているのか、平松さんの言葉に周囲もわーと騒ぎ始めた。 そのうるささに俺は呆れてしまう。それでこの場が収まるのであれば、彼らの言う通り払ってやってもいいのだが。俺は薄く笑みを浮かべながらも、静かに口を開いた。「皆さんがどうしてもおっしゃるのなら、ここで奢ることも吝かではありません。ですが…」俺の冷静な視線に、平松さんがわずかにタジロぐ。そんな彼をまっすぐに見ながら、俺は続けた。「“小魚社長”というその呼び方はお控えください。私はあなたの“小魚社長”ではないので」撥ねるようにされて、ポカンと口を開けていた平松さんだが、やがてその顔を真っ赤にさせて立ち上がる。「お前、高が下請けの癖して、そんな口聞いていいと思ってんのか?いいか?俺が親父に一言言えば、あんなボロ工務店なんてすぐに吹っ飛ばせるんだぞ」そうして、彼は俺の胸ぐらを強く掴んでくる。さすがにこれには周囲も慌てて、そのうち店員が割って入ってくれた。「他のお客様のご迷惑になりますので」「そうそう。ねえ、別のとこで飲み直そうよ、信吾さん」「あ、俺、いいとこ知ってますよ」周囲の言葉に、平松さんはちっと舌打ちを落とし、俺の胸ぐらを掴んでいたその手をようやく話す。だが、怒りは収まらない様子で、彼は俺を睨みつけながら「覚えてろよ」とお決まりの文句を口にしたのだった。 そんなバーでの騒動から数日経った頃、俺は平松さんに呼び出されて、彼の会社を訪れていた。応接室には、先に平松さんと、それから彼の父であるこの会社の社長が二人して俺を待ち構えていた。しかし、二人ともどこか顔色がさえない。そして俺が席に着いた瞬間、平松さんが1枚の書類を俺に見せてきた。「どういうことだ?」差し出されたその書面には、「今後この会社とは取引しない」という旨が記載されていた。見覚えのあるそれに、俺は感情をなくして返す。「ですから、書面通りの意味です。今月で当社との契約は打ち切りということで」実はその書類は、俺が平松さんに宛てたものだった。すると、その横でイライラした様子を見せていた平松社長が、たまらず割って入ってくる。「銀行から受けられる予定だった100億の融資が白紙になったんだぞ!これは一体どういうことなんだ!」その融資の件も把握している。この会社は近々事業拡大をする予定であり、そのため大手銀行と高額の融資契約を交わしていた。だが、平松社長の弁では、その契約がどうやら白紙撤回されてしまったようである。「なぜかは知らんが、銀行が提示してきた契約内容には、お前のとこの工務店への継続的な発注が必須となっていたんだ。それを、お前がこんなことをするから!」 察するに、うちの工務店との契約が切れるのであれば融資はできないと言われたのであろう。父の言葉に、息子も焦ったようにして身を乗り出す。「なんでだ?なぜあんな大手の銀行が、お前のボロ工務店にこだわる?」「信吾、そんなことは後でいい。とりあえず今は契約継続が先だ。お前のとこだって、うちから仕事が来なくなったら困るだろうが。今なら何も言わず元に戻してやるから、さっさとこれを破棄しろ」平松社長が、俺を脅すかのごとく、対面からずいっと迫ってくる。そして息子も負けじと俺を睨んできた。「そうだ。なんだよ。この前のこと怒ってんのか?じゃあ、お前がうちと契約を続けるのなら、謝ってやる。だからお前は黙って俺たちの言うことを聞いてればいいんだ」そんな2人の言葉に、俺は失笑を禁じなかった。 俺は昔から、父の開発した家作りの技術はもっと高く評価されていいと考えていた。そこで、実家の工務店を継ぐと決まってから、俺は父の元で勉強する傍ら、地道な営業を重ねていたのである。こうしてその取り組みが実り、このところ複数の大口取引が立て続けに決まったのだった。ちなみに、この前バーにいたのも、取引先の担当との打ち合わせをした帰りだった。残念ながら、相手は車内でトラブルがあったようで戻ることとなり、だから一人で飲んでいたのであるが。 ごく小さなため息を漏らした俺は、あくまで淡々と答える。「私の意思は変わりません。御社からの不当な金額や無茶なスケジュールでの発注を、これ以上受ける理由もないので、書面通り契約は終了にします」見もない俺の返答に、目の前の親子はぐっと息をつまらせた。やがて、平松社長が声を上げる。「この恩知らずが!おい、わしの父がいなかったら、あんな工務店などとっくに潰れておったくせに!くそう、うちと契約したいという工務店なら、他にいくらでもあるんだぞ!」祖父の昔話には、当時の社長と一緒に酒を酌み交わしたという思い出もよく出てきていた。父も俺も、そのように平松親子と確かな絆を結ぶことへ密かに憧れていた時期もあるけれど…。「父ちゃん、ごめんな」俺は心の中でそう呟く。「今までお世話になりました。立ち上がって彼ら親子に一礼し、俺はそれ以上何も言わず、ただ静かに退出したのだった。 それから数ヶ月が経った。あれから平松親子の会社がどうなったかと言えば、結局融資は白紙になったままで、事業拡大も頓挫してしまったのだという。また、それどころか、彼らの手がける物件はどれも急激に質が落ちたと噂になり、業績は下がり続ける一方だとか。そのニュースを聞きながら、俺は当然だと思った。父の職人としての技術を生かした、高断熱・高気密の家作りは、そう簡単に真似できるものではない。融資先の銀行がうちの工務店との継続契約を条件に入れたのも、その技術を銀行側が高く買ってくれていたからだ。平松親子は知らなかったのだろうが、実はその大手銀行とうちは、それこそ祖父の代から続く長い付き合いなのである。 その後、俺は一度だけ平松親子と話す機会があった。業績悪化で追い詰められた2人が、この工務店へと押しかけてきて、取引再開を持ちかけてきたからだ。だが、それほどになっても彼らの高飛車な様子は全く変わらず、またそのしつこさにうんざりしてしまった俺は、「次からは警察を呼ぶ」と告げて、なんとか彼らを追い出したのである。 一方、おかげ様で、複数の取引先に父の技術は高く評価され、業界外にも広く認知されるようになった。そして工務店にも注文がひっきりなしに入り、今はありがたくも嬉しい悲鳴をあげている。俺は思う。もちろん過去は大切だけれど、そこに立ち止まってばかりいては成長がないのもまた事実。「まさしく恩義こそ、自信」。俺はこれからもその信念を胸に、日々の仕事へと励んでいこうと誓ったのだった。

5 September 2026

ママ友に「お客様なんだから、お菓子を全部ただにしなさい」と笑顔で脅された。スーパーのパート中、彼女は商品を次々と床に叩きつけながら叫んだ。「私の旦那はヤクザの組長よ。抵抗したければ、あなたも旦那を呼びなさいよ」──私はためらわず、夫を呼ぶことにした。すると、やってきたのは組長の夫だけじゃなかった。彼女が顔色を変えてこう呟いたんだ。「なんで……あんたの旦那がここにいるのよ。」その答えを知った瞬…

「お客様なんだから、ちゃんとこっちの要望を聞きなさいよ。一丁前に口応えするなんて生意気だわ。悪いと思っているのなら、お菓子を全部ただにしなさい。」 そう言ってママ友の黒川照美さんは、私に無理難題を吹っかけてきた。照美さんは普段から気の強い人として知られている。しかし、私の働くスーパーにやってきた彼女は、いつにも増して横暴な態度を取っていた。店にイチャモンをつけて商品を散らかすので、私が意を決して注意すると、信じられないことに彼女は私を脅してきたのだ。 「店に迷惑をかけるのが嫌なら、旦那でも呼んで抵抗したら?まあ、ヤクザをやっている私の旦那と比べたら大したことないでしょうけどね。」 私は照美さんの要求を改めて確認したが、激昂した彼女に殴られ、気絶してしまった。その後、スーパーにやってきた夫を前にして、照美さんは悲惨な目に遭ってしまうのである。 私の名前は白崎千佳。夫と娘の親子3人で暮らしている。今年から娘が小学校に入学したのを機に、私はスーパーでパートを始めることにした。田舎のスーパーなので、店内はそれほど広くない。平日はお昼を過ぎた時間帯になると、客は片手で数えられるほどになる。従業員たちはそれを利用して、交代で昼食を兼ねた休憩を取っていた。パートの私が休憩に入るのは、正社員の人たちが終わってからである。なので、レジに立ちながら正社員の人たちが戻ってくるのを待つのがいつもの流れだった。 普段ならパートは2、3人いるのだが、他の人が体調不良で休んでしまったので、その日は私1人しかいなかった。今は客が誰もいないので、少し離れた場所にある選挙コーナーのBGMが鮮明に聞こえてくる。暇を持て余していた私は、夕飯の献立を考えながらぼんやりとしていた。 その時、入口の方から声が聞こえてきた。 「何よこの店。誰もいないの?私がわざわざ来てやったっていうのに、出迎えもないの?従業員の怠慢じゃないの?」 続けて何かが崩れ落ちる音が聞こえた。気になった私は早歩きで入口の方へ向かった。 「あら、白崎さんじゃないの?あなたここで働いていたのね。知らなかったわ。」 そこにいたのはママ友の黒川照美さんだった。見れば、彼女の足元には綺麗に積まれていたはずのもやしの袋が散乱している。 「黒川さん、何かあったんですか?」私が問いかけると、照美さんは怒り混じりに答えた。 「何かあったどころじゃないわよ。従業員はいないし、品揃えは悪いし、最悪よ。これじゃ買い物客が泣くのも無理はないわね。こんなつまらないものを売っているくらいだし。」 そう言って照美さんは近くにあったニンニクを床に叩きつけた。先ほど聞こえた音も、おそらく同じように彼女が八つ当たりして散らかした音だろう。 照美さんには私の娘と同い年の息子がいる。ゆえに何度か顔を合わせているのだが、彼女に対してあまりいい印象はない。照美さんは普段から性格のきつい人として知られている。ママ友たちの間で何かしらの提案が出されると、彼女は決まって不満の声をあげるのだ。 「ママ友同士の飲み会だなんて時間の無駄よ。参加できない人がいるんだったら、そもそも開催する目的が成立しないじゃないの。」 「でも一応ママ友同士で親睦を深める機会になりますし、色々な情報が入手できるという点ではメリットがありますよ。」 「あんたたちみたいに生活レベルの低い人たちからの情報なんかいらないわよ。私が言いたいのは、貴重な時間がもったいないってことなの。そこを履き違えないでちょうだい。」 そんな彼女だが、口調はきついものの、実際に手を上げてきたという話は聞いていない。にもかかわらず、今日はいつにも増して乱暴な態度を取り、商品を粗末に扱っているのだ。まるでタガが外れたかのようだ。一瞬酔っ払っているのではと思ったのだが、それにしては顔が赤くない。 本来なら関わりたくないのだが、他の従業員がいない以上、私が対応するしかないだろう。私は不審に思いつつも、意を決して照美さんに声をかけた。 「あの、黒川さん。何があったか知りませんが、それ以上商品に当たらないでください。迷惑ですよ。」 「これを言うなら、ふてぶてしい態度を取っているこの店の方が迷惑だわ。お菓子を全部ただにしなさい。本当に悪いと思っているのなら、それくらい誠意を見せてくれないと。」 「無理を言わないでください。いくらママ友とはいえ、そんな非常識な要求に答えるつもりはありませんよ。」 私がそう言うと、照美さんはニヤニヤと笑い出した。 「できないっていうのなら、旦那でも呼べば?私も旦那を呼ぶから。それなら簡単に話が終わるわよ。私としてもその方が助かるからね。」 私は心の中で首をかしげたが、照美さんはすぐにその理由を話してくれた。 「私の旦那の直樹さんはね、ヤクザをやっているのよ。それもただの組員なんかじゃないわ。組長よ。組長。驚いたでしょ。」 ちょうどその時、店に数人の客がやってきた。散らかった店内を見て困惑する客を、照美さんが睨みつけて威嚇する。 「あんたたち、何しに来たのよ。ここに旦那の組のヤクザを呼んでもいいのよ。あんたたちみたいな一般人が束になったって、黒川組に敵いやしないんだから。」 それを聞いた途端、客は雲の子を散らすように逃げていってしまった。 その状況を目の当たりにして、私は判断に迷った。もちろん彼女の要求に従って夫を呼び出すつもりは毛頭ない。店長に連絡するべきか、それとも警察に連絡するべきだろうか。いや、このような場合は先に警察へ通報するのが賢明だろう。仮に店長が来たところで、ヤクザを盾にされている以上、事態を収束できないことは目に見えている。 照美さんが客に気を取られている隙を狙って、私はスマホを取りに向かおうとした。ところが運悪く、照美さんに気づかれてしまった。 「ちょっと白崎さん、どこへ行くつもり?私から逃げようって言うの?私は客なんだから、ちゃんと接客しなさいよ。」 私は短くため息をつくと、照美さんの方を向いて言った。 「もう一度お聞きしますけど、本当に旦那を呼んでもいいんですか?その場合、困ることになるのは黒川さんの方になりますよ。それでもいいんですね。」 すると照美さんは顔を真っ赤にして怒り出した。 「あんた、どこまで私を馬鹿にすれば気が済むのよ。立場の低い人間が口応えしないでちょうだい。」 言うが早いか、照美さんは私の顔を殴ってきたのだ。その衝撃で床に倒れた私は、打ち所が悪かったのだろう。そのまま気を失ってしまった。 「千佳、大丈夫か?」 しばらくして私を呼ぶ声に気づいて目を開けると、そこには私の夫である白崎慧がいた。 「あ、あれ?慧さん?気がつくと、私は夫に抱き起こされていた。周囲を見回すも、照美さんの姿はどこにもない。」 「なぜ、どうして慧さんがここにいるの?」 「組員から知らせを受けたんだ。店でヤクザを傘に着ているやつが暴れているってね。それで心配になってきてみたら、千佳が倒れていたんだよ。」 実は私の夫はヤクザ・白崎組の組長なのだ。夫婦で娘の教育方針を考えた結果、横暴な人間に育って欲しくないという要望が一致したので、普段はヤクザであることを隠して生活している。夫の話によれば、先ほど帰った客の中に白崎組の組員が含まれていたそうだ。 「このご時世だから千佳のことが心配でね、定期的に様子を見に行くよう組員たちに頼んでおいたんだ。」 「そうだったの。ありがとう。心配してくれて。」 「一体何があったんだい?」 私は夫にここで起きた出来事を説明した。話を進めるうちに、夫の表情がみるみる険しくなっていく。 「そうか。よりにもよって黒川組とはな。」 「慧さん、黒川組を知っているの?」 その時私が問いかけたタイミングで、照美さんがトイレの方からやってきた。 「あら、白崎さん起きたの?急に動かなくなるから、どうしたのかと思ったわ。」 夫は素早く立ち上がると、呑気に声をかけてきた照美さんの胸ぐらを掴み上げた。 「お前、俺に来て欲しかったんだよな。お望み通り来てやったぞ。それなら誠意を見せるのが礼儀ってもんだろう。お前もさっさと旦那呼びやがれ。」 突然の出来事に照美さんは泡を食って取り乱していた。 … Read more

5 September 2026

「医師の妻としてふさわしい服を教えてあげる」――初対面の挨拶で、義姉は私を底辺と呼び、研修目的の看護師と決めつけた。母子家庭育ちの私を、一族の前で見下し続けた。 それでも夫は「俺が守る」と言ってくれた。結婚後も義姉の嫌がらせは続き、つい我慢の限界で言い返してしまった。 そして迎えた食事会の日。店の前で義姉がヒステリックに叫ぶ――「底辺とは絶対一緒に食べたくない!」…

義姉の弓は私を見下すように言った。「医師の妻としてふさわしい服を教えてあげる。」彼女にとって私は底辺の存在なのだろう。私の名前はみ咲。総合病院で看護師として働いている。夫の蒼太とは5年前、この病院で出会った。当時研修をしていた蒼太。多忙な彼を気遣ううちに距離が縮まり、付き合うことになった。互いに忙しく、なかなか会えない日もあったが、付き合って5年の今年プロポーズされたのだ。 蒼太の家って医師家系だよね。私のことを受け入れてもらえるかな?今日は彼の実家への挨拶に行く日。不安でつい弱気になってしまう。「俺の選んだ人なんだから自信持ってよ。何か言われたら俺が助けるからさ。」頼もしい言葉に少し安心する。 義父は医院長、義兄も後継の意思。義母と義兄の奥さんは専業主婦をしている。さらに蒼太のおじやおばも医師という典型的な医師一家だ。一方、父を早くになくした私は母子家庭で育った。早く自立して母を助けたいと思い、看護師を目指すことに。奨学金制度を利用し、国立大学へ進学した。育ててくれた母親に感謝はしているが、家の格が違うと言われるのではと心配だった。 厳格な両親だと聞いていたので、蒼太の家に着いた頃には私は緊張でガチガチになっていた。しかも婚約者を連れて行くと言ったからなのか、義両親だけでなく義兄夫婦や他の親族も勢揃いしている。それぞれ自己紹介され、私は深々と頭を下げた。 「それでみ咲さんは何をしている方なの?」緊張で冷や汗を書いていると義母に質問された。「看護師をやっています。蒼太さんが研修をしている時に出会って」私が話しているにも関わらず、義兄の奥さんである弓が口を挟んでくる。「看護師?もしかして玉の輿狙い?」少しバカにするような口調で言われ、慌てて首を振った。「まさか。そんなことありません。」必死で弁明するが「研修狙いの看護師もいるからな。」蒼太の叔父がぼそっと言うと不穏な空気になる。 「ご家族は。お父様は何のお仕事をされているの?」弓に聞かれて私はつい小声になってしまう。「父は早くに亡くなっていて。」そう言うと「やっぱり」と言わんばかりの表情をする。「母子家庭ってこと?いるのよね。お金目当てに医師と結婚する女って。」大げさにため息をつく弓を見て言葉を失ってしまう。私を心配した蒼太が少し苛立った様子で大きな声を出した。「姉さん、初対面で失礼じゃないですか?み咲はお母さんに迷惑をかけたくないって学費も自分で用意して国立大学に入ったんです。それに彼女の一生懸命な看護師を俺は見たことがありません。」あまりの褒めように思わず顔が赤くなってしまう。弓は「ごめんなさいね」と言って微笑んだが、目は笑っていなかった。 私は母子家庭であることを恁じていないし、蒼太との結婚も当然金目当てではない。言い返せないが情けなくて泣きそうになってしまう。すると厳格な義父が口を開いた。「国立大学に進むなんてすごいじゃないか。うちの息子2人はあまり頭が良くなくてね。まあ、金を積んでなんとかしたというわけだよ。」真顔で言われたが義父なりのジョークだとすぐに分かった。蒼太も義兄も学生時代から成績は常にトップだと聞いている。「そうなんだよ。俺も兄貴も親のスネかじりでさ。」義父と蒼太のやり取りに緊張していた場が和んだ。 「スネかじりといえば弓スネかじりだけどな。」義兄はちらりと弓を見ると冷たく言った。弓は有名なお嬢様学校を卒業しているという。頭が良くなくても金を出せば入学できると言われている学校だ。実家がお金持ちで、義兄との結婚は見合いだったらしい。義兄の発言が気に食わなかったのだろう。弓は義兄の顔を睨みつけ「失礼なこと言わないで。家柄で言ったら私の方が上じゃない。母子家庭のこと比べないでちょうだい。」そう言って今度は私をきつく睨みつけ始めた。 蒼太から義兄夫婦は仲が悪いと聞いていた。高飛車な弓に義兄がうんざりしているという。しかもなぜか弓は義兄の浮気を疑ってヒステリックを起こしているとか。診療所で働いている事務の誰かが愛人ではないかと疑っては義兄を責めているのだ。義父が院長を務める診療所はそんなに大きい規模ではない。そのため事務だって3人くらいしかいないはずだ。確かに3人とも綺麗で若いが「兄貴は職員に手を出すようなマヌケじゃない」と蒼太は言っている。業務連絡で事務とメールしていたのを勝手に勘違いしたようだ。 まさか初対面の挨拶で夫婦喧嘩を間の当たりにするとは思わなかった。私が慌てていると義母が助け舟を出してくれる。「やめなさい。いい争いなんて何もないわ。」義母に窘められ義兄と弓は大人しくなる。そして私の方を向くと義母が静かに言った。「今日みたいに周りから嫌な言葉を言われることもあると思う。み咲さんは医師一家に嫁ぐ覚悟はある?」義母から投げかけられた質問に私は強く頷いた。 蒼太と付き合ってから先輩看護師に嫉妬されたことは多々ある。それに蒼太も「看護師と付き合うなんて」と同僚にからかわれたことがあった。それでも私たちは負けなかったし、逆に絆が深くなったものだ。「俺はみ咲との結婚しか考えられないから見守っていて欲しいんだ。」反論する人は誰もおらず「結婚おめでとう」と祝福してくれた。厳格な両親のことだからきっと祝福されないだろうと思っていた。しかし予想に反して義父も義母も優しく受け入れてくれたのだ。ただ1人、弓だけは納得できない表情をしていたのが気になっていた。 こうして無事に結婚挨拶も終え、入籍した。結婚したからと言って蒼太との関係性が変わったわけではない。1つ変わったことといえば、頻繁に弓から誘いが来ることだ。「明日買い物へ行きましょう。医師の妻としてふさわしい服装を教えてあげる。」弓はよく医師の妻という言葉を使っていた。初対面で馬鹿にしてきたくせに、よく買い物なんかに誘えるなと最初の頃は驚いてしまった。しかし彼女の様子を見たところ、どうやら私より優位に立ちたいらしい。私の給料では買えないような服を次々に買っては見せびらかしてくる。今日もブティックに行くと弓は大量のブランド服を買い込んでいた。その量に「お兄さんて稼いでいるんだな」と感心してしまう。 「前から言っているけど看護師やめたら?忙しい医師の夫を支えるのは妻の役目よ。」買い物後にお茶をしていると弓が口を開いた。またかと私はうんざりする。会うたびに専業主婦になれと言ってくるのだ。「私は栄養のことを考えているからレトルトなんて使ったことないわ。床には誇りなんて1つも落ちていない。あなたは医師の嫁としてちゃんとしているの?」確かにレトルトカレーが続く時もあるし、誇りが溜まっていることもある。自分でも不安になったことがあり、その時に蒼太に聞いてみた。私は看護師をやめて専業主婦になるべきなのかと。すると蒼太は真面目な顔をしてこう言ってくれた。「看護師はやめないでほしい。生き生きと働いている姿に俺は惚れたんだから。」誰よりも患者さんに優しく接している私を見て一目惚れしたのだと蒼太は以前言っていた。 蒼太の言葉を思い出した私は「私は看護師をやめるつもりはありません。蒼太さんも理解してくれています。」そう言うと弓が鼻で笑う。「本気?あなたみたいな育ちの悪い女なんてきっとすぐに飽きられて浮気されるわよ。頭がいいことしか取り柄がないじゃない。」弓は突然ストレートに見下してきた。家のことを馬鹿にするなんて許せない。腹が立った私は思ったことをぶちまけた。「じゃあお姉さんの取り柄は実家がお金持ちなことくらいですかね。お兄さんとも不仲ですし、浮気される心配をする前に信じる努力をしたらどうですか?」言いすぎたかなと思った時にはすでに遅い。弓は顔を真っ赤にして怒っており、まるで赤鬼だ。「なんて失礼なの?あなたみたいな子にふさわしくないわ。」弓はそう言うと怒って帰ってしまった。 このことの顛末を蒼太に話すとケラケラ笑い出す。「あの嫌味な姉さんによく言ったじゃん。まあ時間が経てば落ち着くでしょ。」やってしまったと後悔していたが、それもそうかと思った。むしろ買い物やお茶の誘いがなくなって嬉しいくらいだ。「そういえば弓さんってどのブティックに入っても偉そうなの。お得意様なのかな?」買い物好きだからじゃない、と蒼太は軽く流したがなんだか気になる。 「もしもし。聞きたいことがあるんだけど。」私は1人の友人に電話をかけた。次に弓と会うのは数ヶ月先の正月だろうと思っていたが、義母から食事会をしないかと翌日連絡が来た。義父が今年古希なので、古希を高級寿司店でお祝いしようというお誘いだったのだ。弓に会うのは憂鬱だったが義父のお祝いはしたい。きっともう忘れているだろうと私は食事会を楽しみにしていた。 店の前で待っていると義兄夫婦がやってくる。私を見つけた義姉は険しい表情でスタスタと歩み寄ってきた。「どうしてきたのよ。あなたはこの家にふさわしくないって言ったじゃない。」激しく詰め寄る弓を義兄と蒼太が慌てて止めに入る。「あんたが言ったこと忘れてないんだからね。母子家庭育ちの貧乏人のくせに生意気なこと言って」弓はどんどんヒートアップしていく。「母子家庭育ちのあんたみたいな人間を底辺って言うのよ。底辺とは絶対一緒に食べたくないわ。さっさと帰れ。」店の前でギャーギャーと騒ぐ弓に義兄は頭を抱えていた。するとその時、冷たい声が響き渡る。「じゃあ、あなたが帰ってちょうだい。」この冷たい声の主は義母だった。まさか義母が見ていたとは思わなかったのだろう。弓は小さくつくと後ろを振り返った。「お店の前で騒ぐなんて恥ずかしくて仕方ないわ。」義母の言葉に義兄が頷く。 「み咲さんが失礼なことを言っていたので反論していただけです。私はこんなにも夫を支えているのに。」ヒステリックモードに突入したのだろう。またもや声が大きくなってくる。「そもそも蒼太さんがこんな底辺な女を連れてくるのが悪いわ。今からでも離婚しなさい。」もう言っていることがむちゃくちゃだ。当然蒼太は呆れた顔をしている。「頼むからこれ以上ヒステリックにならないでくれよ。」「そもそもあなたが悪いのよ。私の学歴を馬鹿にするから。」ついには義兄と弓の喧嘩が始まってしまった。すると義母が再び止めに入る。「本当は後日改めて聞く予定だったけど、あなたがこんなに騒ぐならここで聞くことにするわ。弓さん、隠し事があるわよね。」義母の言葉に言い合いをしていた声がぴたりと止まる。「隠し事って何のことですか?」弓は平静を装っているが、声は少し震えていた。「み咲さんが教えてくれたの。あなたの浪費癖について。」弓の顔はさっと青ざめる。 「いつもお姉さんが言っている百貨店がありますよね。私の友人がそこで働いているんです。」なぜ弓がこんなにブランド服を買えるのか疑問で仕方なかった。最初は義兄は随分心が広いんだなと思っていたのだ。しかし不仲な妻に高額な買い物を自由にさせるだろうか。そう考えた時、違和感を持ったのである。実家が金持ちだから両親からお小遣いをもらっている可能性も考えた。だが弓は義兄の元に嫁いでからは1度も実家を頼ったことないと自慢げに言っていたのだ。友人の話によると、義兄はお金に無頓着で給料も貯金も弓任せだとか。だからこそ弓は好き放題にお金を使っていたのだろう。友人に聞いたところ、弓は店の常連客で1日に何十万も買って帰ることもあるという。ただあまりにも態度がでかいため店員からは煙たがられているらしい。 「それにお姉さん、家族カードでキャッシングしていませんか?」これは単なる予想であり、証拠はなかった。しかし予想は的中したようで弓はさらに真っ青になる。「どうしてそれを」金遣いの荒い彼女のことなので借り入れもしていると思った。お金の大切さも分からない上に、外で散財するだなんて。「これぞ医師の妻として恥ずかしいと思わないの?」義母に浪費癖を指摘された弓は何も言えずに黙り込んでしまう。 「職員にも随分態度がでかいらしいね。苦情が来ているよ。」無言で話を聞いていた義父も我慢できなくなったのか言い出した。弓は義父たちがいない時間を見計らって診療所に顔を出すと「掃除が行き届いていない」だのと文句をつけては怒鳴り散らしているのだ。特に浮気を疑っている事務3人への態度はひどく「夫に色目を使うならやめろ」と迫っているらしい。実情を聞いた義父はこのままでは職員が辞めてしまうと危機を感じていたのだ。 お金を使い込まれていたと聞いた義兄は怒り狂っていた。「いくら借りたのか全て話せ。」弓は謝罪もせずただ震えているだけ。義兄はその態度を見て堪忍袋の緒が切れたようだ。「お前みたいな態度がでかい女。離婚だ。今まで使い込んだ金は返せ。」まさか離婚を言い渡されると思っていなかった弓は必死で「離婚したくない」と懇願している。しかし義両親も義兄も蒼太も、誰も弓の言葉には耳を傾けない。すると私の方を見て猫撫で声を出した。「同じ嫁の立場であるみ咲ちゃんなら私の気持ち分かってくれるよね。」何を今更言うのかと笑ってしまう。「底辺女に助けてもらうんですか?家柄で人を見下す態度をしてきたのはあなたですよ。お金持ちのご実家に助けてもらってください。」きっぱり言い捨てると弓はがっくりと項垂れた。 こうして義兄と弓は離婚することに。弓は離婚届を出してもまだごねていたが、ご両親が引き取りに来たらしく、実家へ強制送還されていた。これまで使い込んできた金額は数百万を超えており、「返せない」と実家に泣きついた弓。両親にお金は払ってもらったものの、「旦那の金を使い込んだ女」だと近所で噂になっているようだ。新しい男と再婚するのは難しいに違いない。両親は「外に出すのが恥ずかしい」としばらく家から出ないようきつく言っているという。もちろん現金もクレジットカードも没収。大好きな買い物でストレス発散ができない弓は実質的に幽閉状態になっていると聞いた。 なぜ裕福な家庭育ちにも関わらず私より優位に立とうとしたのか、最後までよくわからなかった。義兄曰く、弓には学歴コンプレックスがあったという。私が蒼太と結婚してから「国立大学卒業の賢い嫁が来た」と親族の間で持て囃されたのが気に入らなかったようだ。お金持ちだからと言って幸せになるわけではないと弓の姿を見てよくわかった。 そして義母にはある疑問をぶつけてみたのだ。「なんで私との結婚を許してくれたんですか?医師一家に嫁ぐ女性って家柄が大切なんじゃないのかなって。」おずおずと聞く私に義母は笑顔で答えてくれた。「実は私も昔、研修だったお父さんと出会って結婚したのよ。子供が生まれる前は看護師だったの。」看護師だった義母は親族から結婚を猛反対されて大変だったとか。息子たちには同じ苦労をさせたくないと、長男にはいい家柄のお嬢様を見合いで出会わせた。だが弓と結婚した長男は全然幸せそうではなく、むしろ結婚生活に疲れているように見えたという。だからこそ次男には好きな相手と一緒になって欲しいと最初から認めるつもりだったらしい。「まさか次男が連れてくるのが看護師だなんて驚いちゃった。やっぱり血は争えないわね。」私と義母はクスクスと笑い合った。 それから私は看護師として義父の診療所で働くように。弓の嫌みにも負けなかった私の強さを気に入ったと義父が雇ってくれた。以前よりも給料は上がったし、大好きな家族の近くで働けるのはとても幸せだ。

5 September 2026