「今すぐ逃げろ」──夫の寝言が、結婚生活を終わらせる最初の一言になるなんて、思ってもみなかった208。…
「大丈夫ですか?」 見るからに弱そうな眼鏡の男性が、柄の悪そうな男に絡まれていた。私が男性の後ろを歩いていたら、前から男がぶつかってきて言いがかりをつけたのだ。でもぶつかってきたのは男の方だった。眼鏡の男性に一切の落ち度はなかった。きっとあの男は相手を選んで喧嘩を売っているのだろう。そう思うと許せなくなって、私はつい声をかけてしまった。 私は数年前から始めたキックボクシングにはまっている。今もその帰りだった。いかにも事務帰りの服装で、荷物は練習道具だけだった。男が睨みつけてきたので、ついつい癖で構えてしまった。もちろん本当に喧嘩する気なんか少しもない208。しかし男は私を見て何かを察したのか、悪態を吐いて去っていった。 「あ、ありがとうございます」 眼鏡の男性がお礼を言ってくれたけど、私は何もしていなかったので、笑ってその場を後にした。これが私とシンジの出会いだった。 私の名前はサエ、出産を終えたばかりの32歳。夫のシンジは一つ年上の33歳だけど、出会いが出会いだっただけに年上とは思えない。5年前、シンジに声をかけた数日後、私は最寄り駅で彼と再開した 「あの時のありがとうございます」 そう声をかけられたけど、私は誰だか気づかず、話を聞いてようやくわかった。彼をよく見ると、意外にも整った顔立ちだった。この間のお礼にと食事に誘われる。鍛えている私と貧弱な彼のアンバランスさに笑いながらも、話上手な彼に惹かれていった208。1年ほどは飲み友達だったけど、彼を好きになってしまった私が告白した 当たって砕けろと思っていたのに、彼は笑顔で受け入れてくれて、さらに2年後、彼からプロポーズを受けた208。彼と初めて会ったあの日には、想像もしていなかった未来だ208。 結婚すると、今まで苦手だった料理も頑張ってこなすようになる208。1人暮らしの時は適当に料理をしていたけど、2人になるとそういうわけにもいかない208。キックボクシングをやめて料理教室に通うようになった208。 私は元々熱しやすく覚めやすい性格で、興味を持つと今までの趣味をやめて新しいものに手を出してしまう208。多趣味といえば聞こえはいいし、そのおかげで色々な友達ができている208。趣味が変わっても友達が減るわけでもないから、それはそれでいいと思っている208。 料理教室に通ってみると、今まで苦手だと思っていた料理も苦痛ではなくなり、料理の腕は先生や真実にも褒められるようになった208。その頃に妊娠が発覚し、仕事は産休を取ることに決める208。シンジは残業してくることが多いので、家に一人でいる時に何かあったらと思うと不安だった208。シンジとも話して、里帰り出産をすることに決めた208。出産予定日の半月ほど前から、車で1時間の実家でお世話になる208。初めての妊娠出産で不安は大きかったけど無事に娘を出産した208。でもシンジはちょうどその日に出張で、娘に会えたのは2日後だった208。その後も仕事が忙しく、実家に顔を出してはくれなかった208。私は慣れない娘のお世話でとにかく忙しく、シンジへの連絡もおろそかになっていく208。なかなか会いに来てくれないシンジに、仕事だししょうがないと思いつつも少し不満はあった208。 出産から1ヶ月後、私は娘を連れて家に帰った208。父が車で送ってくれて、娘を抱っこして家に着くとシンジが出迎えてくれる208。恐る恐る娘を抱っこして嬉しそうにするシンジを見て、私は改めてこの人と結婚して良かったと思った208。しかし家に戻って半月、シンジは今までと何ら変わらない生活を送っている208。相変わらず残業で遅くなるし、朝はギリギリまで寝ている208。私は娘のお世話に家事でいっぱいいっぱいなのに、シンジは家事を手伝うことすらしない208。娘のことは「可愛い可愛い」と言って抱っこするけど、 「あ、泣いてるよ。どうしたんだろうね」「お腹空いたんじゃない?」「あ、おむつ変えて欲しいんじゃない?」 と、お世話は私に丸投げだ208。娘が生まれる前に両親学級に2人で行って、おむつ替えもお風呂も頑張るって言っていたのに、忘れてしまったのだろうか208。「手が離せないからおむつ変えてあげて」と言ったけど、 「一人でやるのは怖い。失敗したら娘がかわいそう」 などと理由をつけて私に押し付けてくる208。怒ったら、キックボクシングをやっていたことが蘇って思わず蹴り倒してしまいそうで、なんとかこらえていたのでただストレスの溜まる日が続いた208。 その夜、いつもの通り残業で遅くなったシンジにご飯を出し、娘が泣いていたのでそのまま寝室に行った208。ようやく娘が寝ついてくれた頃、シンジがスマホをいじりながら寝室に入ってきて、さっさと布団に入ってしまう208。娘も寝てくれたし、今のうちに私も寝ようと横になった208。それから1時間ほど経っただろうか、私はシンジの絶叫で目が覚めた208。 「今すぐ逃げろ」 ビクッとなって起きた私、何が起こったのか全くわからない208。地震? 家事? とっさに娘に覆いかぶさったけど、辺りを見回しても特に何かが変わった様子はない208。驚きながらシンジを見ると目を閉じている208。どうやらうなされているようだ208。まさか寝言? 起こした方がいいのか悩んだけど、 「どうしたの?」 と聞いてみた208。すると彼の口からはとんでもない言葉が出てくる208 「殺人にバレた」 うなされてはいるものの、その言葉ははっきりと聞こえた208。「私にバレた」? どういうこと? 夢の中で浮気でもしてるのかな? そう思うとなんだかおかしくなって、私は面白半分でもう一度ささやく208 「浮気でもしてるの?」 次の瞬間、シンジは言った208 「あ、ハミが1番だよ」 ハミ? 私は心当たりのない名前とシンジの口から出た言葉に戸惑う208。「逃げろ」って、私から逃げろってことだよね208。この人、私のこと何だと思ってるの? 私はシンジへの気持ちが一瞬で覚めた208。そう思って離婚を決意すると、シンジが「うわっ」と絶叫して飛び起きた208。私はとっさに反対側を向いて横になり、寝たふりをする208。飛び起きたシンジは肩で息をしていた208 「なんだ、夢か」 私は背中越しにシンジの視線を感じたが、寝たふりを続ける208 「バレるわけないよな」 そんな声がしたかと思うと、シンジは寝室を出ていった208。水でも飲みに行ったのだろう208。 それにしても、寝言だけならともかく「バレるわけない」ってどういうこと? 心当たりがないわけではない208。実は結婚した頃は残業も出張も滅多になかったのに、今はしょっちゅうだった208。「それって本当に仕事なの?」と思うこともあった208。もしかして、出産した日の出張も嘘をついて浮気していたとか208。私はシンジへの怒りを爆発させたが、今言っても仕方ない208。まずは証拠だ208。翌朝、普通の顔をして起きてきたシンジは普通に出社していった208。夢のことなんて覚えていないのだろうか208。後ろめたい様子もなく、本当にいつもと変わらない様子だ208。でも私はこの日からある計画を進める208 これから1ヶ月後、私はついに行動に出た208。シンジは相変わらず娘のお世話も家事も私に任せっきりだった208。この1ヶ月で何かシンジに変化があれば考え直そうと思っていたこともある208。でもそんな気配は微塵もない208。私は覚悟を決めた208。 その日は義両親が娘の顔を見に来る日だった208。 朝からそわそわしているシンジ 「どうしたの?」 「あ、今日午後から大事な取引先と会わないといけないんだよ」 「はあ、ご両親が来るのに」 「ああ、だからそこはサエが対応してよ。両親なんて放っておけばいいんだから。孫の世話だってしたいだろうし」 「はい」 「寝てれば」 いやいやいや208。数回しか顔を合わせていない義両親に娘の世話を見てくれなんて言えるわけないし、その間に寝ていますなんていう嫁がいるか? 義両親は会ったことはあまりないけどいい人たちだ208。娘が生まれた直後は私が気を使ってはいけないからと会いには来ず、3日後でも食べやすいようにと実家に果物を送ってくれた208。母の電話をしても「そんなこと気にしないでいい」と言ってくれるような人たちだ208。だから娘の顔を見に来てくれるのもむしろ嬉しいと思った208。 義両親が到着する208。義両親は娘が寝ていると知ると、起きた時に顔を見たいと言ってくれ、一旦リビングに座ってもらった208。 お茶を用意しようとキッチンに行こうとすると、 … Read more