「私としてみない?」――見合いの席で、上目遣いにそう言われた瞬間、俺の頭は真っ白になった。7年ぶりに本社へ戻り、隣に住む美しい未亡人・千砂子さんに紹介されて仕方なく受けた見合い。まさか、その相手が彼女だとは思わなかった。だが、彼女にはずっと好きな人がいると聞いていた。なのに、なぜ俺にプロポーズを?…

俺は長瀬徹、42歳。長い独身生活が続き、恋愛からは遠ざかっていた。いつの間にか結婚願望も薄れ、このまま枯れた人生を歩んでいくのかと思っていた。 そんな俺の前に、一人の美しい未亡人が現れた。彼女こそ、俺の人生を大きく変える存在になるとは、この時は知る由もなかった。 7年ぶりに本社へ戻る俺を、空港まで迎えに来てくれたのは同期の哲也だった。入社当初から切磋琢磨してきた、20年の付き合いになる親友だ。 「徹也、久しぶりだな。わざわざ休みなのにありがとう」 「ああ、いいってことよ。それより徹、どうしたんだ、この腹は」 哲也は呆れたように俺の腹をつまんだ。 「ちょっと会わないうちに貫禄つきすぎだろう」 「いや、面目ない。食べすぎ飲みすぎがたたってな」 「しっかりしろよ。お前まだ独身なんだから。のんびりしてないで、そろそろ相手を見つけないと」 42歳になっても独身でいることに焦りもない俺を見て、哲也はため息をついた。 「結婚はもう無理だろうなって、半分諦めてる」 「それより徹也はすごいな。7年経っても体型維持してて」 「これでも一応努力してんだよ。走ったり、飯に気を使ったりって」 「料理は嫁さんが作ってくれるんだろ?」 「まあ、俺の話は置いといて。よし、行くか」 哲也の車で向かった先は、俺がこれから住むアパートだった。7年前、転勤する前に住んでいたアパートにはもう戻れない。あそこには、当時付き合っていた彼女と住んでいたからだ。 転勤が決まった日、一緒に来てほしいと勇気を振り絞ってプロポーズした。だが彼女は首を横に振った。結局、そのまま別れてしまった。今頃きっと、誰かと結婚して幸せな家庭を築いているだろう。 一方、俺は浮いた話も一切なく、仕事だけしていたらあっという間に42歳になっていた。独身の寂しさは否めないが、今更出会いがあるとも思えない。何より、こんな腹の出た中年に興味を持つ者なんていないだろう。 アパートに着くと、哲也が鍵と引っ越しの挨拶用の菓子折りをくれた。 「ほら、引っ越しの挨拶の時に渡せ。買う暇なかっただろう」 「徹也、ありがとな。俺、お前と結婚したかったよ」 「ああ、バカ言ってないで早く降りろ。明日から仕事なんだぞ」 俺は哲也に押し出されるように車から降りて、すぐに隣の部屋へ引っ越しの挨拶に向かった。 「すみません。隣に引っ越してきました」 インターホンに向かって話している途中でドアが開く。この時は、まさかその先に出会いが待っているなんて思ってもいなかった。 「はーい」 中から出てきたのは、大人の色が漂う美しい女性だった。 「あ、初めまして。今日から隣に住みます、長瀬徹です」 上ずる声で挨拶すると、彼女はなぜか意味ありげに微笑んだ。 「原田千砂子です。私も最近引っ越してきたばかりなの。よろしくね」 うっとりするような上品な笑顔に、急激に心拍数が上がる。 「あ、そうなんですか。偶然ですね」 「そうね。せっかくだから、偶然ついでにお茶でもいかが? 今ちょうどコーヒーを入れようと思っていたところなの」 「え、いいんですか? じゃあお言葉に甘えてお邪魔します」 緊張しながら部屋に上がると、千砂子さんはとても気さくな女性だった。初対面だというのに全く壁を作らず、それでいて絶妙な距離感で人に気を使わせない。俺は一瞬のうちに、彼女の人柄に心を掴まれた。 お茶を飲みながら話しているうちに、彼女が45歳で俺より3歳年上だと分かった。 「45歳、全然見えないです。年下だと思ってました」 「あら、嬉しい。でも長瀬さんも年の割には若く見えるわよね」 「なんていうか、針があって鋭そうな感じってことですか? この腹とか」 俺が腹をポンと叩いて見せると、千砂子さんはたまらず吹き出した。 「そうね。確かに。でもいいんじゃない? 大らかで優しく見えるし。私は好きよ」 彼女の思いやり溢れる言葉が、俺を優しく包み込む。素敵な人だな。何年かぶりに、誰かに恋する気持ちを思い出しつつあった。 「あの、千砂子さんは一人でお住まいですか?」 勇気を振り絞って尋ねると、彼女は笑顔で答えた。 「え、恋人とかはいないわ。10年前に旦那をなくしてから、ずっと一人よ」 予想もしていなかった返答に驚いて、俺はとっさに頭を下げた。 「すみません。余計なことを」 「いいのよ。謝らないで。もう10年も前のことだから。寂しくないって言ったら嘘になるけど、一人でいるのには慣れたわ」 「そうですか」 「それに安心して。恋ならちゃんとしてるから」 またしても予想外の答えに、思わず言葉を失った。千砂子さんには、思いを寄せている人がいる。始まりかけた俺の淡い想いは、あっけなく崩れ去った。 … Read more

25 August 2026

「おめでとう。この度、あんたの首が決定した」——新社長は、私をクビにすることをまるで祝うかのように、ニヤニヤと拍手をした。理由はただ一つ、「自分の娘をデザイナーとして雇い入れるから」だ。私が5年間、信念を持って作り上げてきたデザインも、会社への貢献も、すべて無視して。「あんたみたいなじいさんの枯れた感性は、もう通用しないんだよ」と。私は何も言い返さず、静かに退職を受け入れた。そして翌日、彼は…

「おめでとう。この度あんたの首が決定した」 新社長はそう言って、私に向かって嫌味ったらしく拍手をした。引退した前社長の代わりにやってきた高田社長。初対面の時から私を「年寄り」呼ばわりしていた男だ。まさかここまで露骨に、私を追い出すための行動に出るとは思わなかった。 「俺の娘が近日中に帰国して、この会社に入社することになってるんだ。社長の娘だ。それ相応のポストを用意してやらんことには、さすがに格好がつかないだろう」 私はアパレルブランドを展開する会社でデザイナーをしている。服を作ることが好きで、この業界で長く経験を積み、様々な会社を渡り歩いてきた。今の会社は規模こそ大きくないが、ここ数年の業績は安定していて、新店舗展開の計画も着々と進んでいた。 そんな中、私をこの会社へ誘ってくれた前社長が病状の悪化で退任することになった。後任としてやってきたのが、この高田社長だ。前社長が丸く柔らかい空気をまとう人だったのに対し、高田社長は真逆。その貫禄のある体から滲み出すのは、周囲を威圧する傲慢さだ。 就任挨拶の場で、彼は早くもとんでもないことを言い放った。 「お前らが今この会社で呑気に働いていられるのも、俺のおかげだ。お前ら全員、俺に感謝しろ」 社員たちは困惑し、顔を見合わせる。しかし高田社長は鼻で笑い、吐き捨てるように続けた。 「どうやらここの社員は、前社長とよく似た性質の人間ばかりのようだな。どいつもこいつも平和ボケした顔しやがって。いいか?俺が来たからには、しっかり働いてもらうからな」 初日からこの不穏さ。私は思わずため息をつきそうになった。だが、納期は待ってくれない。私はデザイナー室の最年長として、明るく声をかけた。 「さあ、皆さん。仕事をしましょう。新店舗用のデザインが上がった人は、私の方まで提出してくださいね」 すると、それまで頼りなさそうだった部下たちが、見る見るうちに引き締まった様子へと変わり、テキパキと手元を動かし始めた。私も負けていられないと、目の前の仕事へ向き合った。 しかし、それから数日後。高田社長がデザイナー室の視察に現れた。彼はおざなりに周囲を眺めると、やがて変な生き物でも見たかのように首を止め、私をじろじろと睨みつけてきた。 「おい、一人だけ年行ってる。そこのじいさん」 「私のことでしょうか?」 首をかしげて手元の作業を止めた私に、高田社長は馬鹿にしたように見上げてくる。 「そう。そこのあんたよ。この場にじじいなんて一人しかいないだろうが。あんた本当にデザイナーなのか?ここの清掃員とかじゃなくて」 完全に見下した物言い。不快感を覚えながらも、私は冷静に答えた。 「ええ。小野と申します。前社長に声をかけていただき、デザイナーとして5年ほどこちらで務めております」 「はっ、本気か?こんなじいさんがデザイナーとか名乗ってていいのか?自分たちが着る服をデザインしてるのがこんなじいさんだって知ったら、客も嫌がるってもんだろう。服が先行臭くなるじゃないか」 うちのアパレルのターゲット層は、主に30代から40代のミドル世代だ。確かに私の年齢はその層と合致しているとは言いがたいかもしれない。だが、それにしても、社長自らが客を「客」と呼び捨てにしていると知られた方が、よほど嫌がられると思うのだが。 何も言い返せずに黙っていると、高田社長は興味を失ったように肩をすくめ、つまらなそうにその場を去っていった。 周囲にいた部下たちが、私より先に怒りをあらわにする。 「何ですかあの言いよう!小野さんに向かってじいさんだなんて、失礼にも程があるわ!」 「私は大丈夫ですよ。私たちが気にすべきは、お客様のことですから」 私たちの会社の信念は、日々忙しく過ごされるお客様一人ひとりに、そっと寄り添える服作り。より消費させる商品ではなく、お客様のクローゼットや記憶にいつまでも残していただける商品作り。前社長のその考えに惹かれて、私はここへの入社を決めたのだ。 高田社長のことは気がかりだが、デザイナーが不真面目に仕事をしていれば、それはお客様にも伝わるもの。どうにかこれ以上の軋轢が生まれませんようにと願うばかりだった。 だが、そんな願いも虚しく、高田社長の言動は日に日にひどくなっていく。社員たちを「仕事が遅い」「レベルが低い」とあざ笑う。それにうんざりして、自ら会社を去る者もちらほら出てきた。一方で、高田社長に媚びを売って、自分だけ取り入ろうとする者も現れ、車内の雰囲気は悪化の一途を辿っていた。 幸いデザイナー室にはまだ退職者は出ていなかった。だが、私たちがしているのは応急処置に過ぎない。これは誰かが辞めるのも時間の問題かもしれないと、私は危惧していた。 そんなある日、私は高田社長に社長室へ呼び出された。何の用だろうかと警戒しながら入室すると、彼は落ちた獲物でも見るかのような顔をして、口を開いた。 「俺には娘がいるんだが、その子は今海外でファッションの勉強をしてるんだ。親の俺が言うのもなんだが、才能のある子でね。あちらでもデザイナーとして早くも認められているという話だ」 「それは素晴らしいですね」 話の趣旨が分からないまま、私はそう相槌を打った。すると、高田社長はにやりと笑って続けた。 「そう。本当に素晴らしい娘なんだ。でな、この話には続きがあるんだが……」 そう言っていかにも意味ありげに言葉を切った彼は、困惑する私の視線を存分に受けて、やがて楽しそうに頬を歪ませた。 「おめでとう。この度、あんたの首が決定した」 パチパチと乾いた音が社長室に響く。彼は含み笑いながら、私に向かって拍手をしている。 「実はな、俺の娘が近日中に帰国し、この会社にデザイナーとして入社することになってるんだ。社長の娘だ。それ相応のポストを用意してやらんことには、さすがに格がつかないだろう」 「……わかりました。それでは、私はこの会社を退職いたします」 「おお、やっと分かってくれたか。ああ、清掃員でならまた雇ってやってもいいから、その時は遠慮せず連絡してきなさい」 私は静かな口調で告げ、最後まで嘲笑の言葉を吐いてくる社長を背に、会社を立ち去った。 翌日。デザイナー室の部下たちは、私の退職を知って騒然とした。 「俺、小野さんがここを辞めるんなら、一緒に辞めます!」 「私も!あんなバカ社長の下では働けません!」 「皆さん、落ち着いてください。皆さんのお気持ちはありがたく感じています。ですが、どうか軽率なことはせず、自分自身がどうしたいのか、よく考えてくださいね。他でもない、自分のことですから」 そう言うと、彼らはしんと肩を落とした。 退職日当日。高田社長が珍しくデザイナー室へ顔を出した。その横には、見慣れない女性が立っている。顔が高田社長とよく似ているので、きっと彼の娘だろう。 「今日は俺の娘を紹介する。来月からこのデザイナー室への配属となる。娘も日本で早く働きたいからと、急遽帰国してくれた。我が娘ながら、その熱意には敬服する。みんなも見習うように」 紹介の後、彼の娘が一歩前に出た。 「どうぞよろしく。つまらない自己紹介より、早速私の仕事ぶりを見ていただいた方が早いかと思って、今日は私のポートフォリオを持参しました」 娘は自信満々に、こちらにポートフォリオを渡してくる。だが、それを見た私たちは一様に困惑してしまった。 なんというか、全てにおいて素人くさい。とても海外留学までして勉強したとは思えない出来だ。これならまだ専門学校に通う学生の方がよほどいいデザインを書く。確か海外の賞でも認められているという話だったのに、一体これはどういうことだ。 高田社長とその娘だけは、やたら鼻高々な様子で笑い合っている。 「ほら、お前の才能にみんな黙ってしまったぞ」 「まあ、パパったら褒めすぎ。でも私も時々、自分の才能が怖くなるのよね」 … Read more

25 August 2026

父は有名な医者だった。だが、その名前を世間に残さず、全国を渡り歩いて診断だけをして、何も受け取らずに消えていった。私はそんな父を「利用された可哀想な人」だと思っていた。先日、診療所に突然現れた見知らぬ老人が、倒れる間際に私の手首を掴んでこう言った。「先生、あんたのお父さんと…」。そして、父が30年間預けていた木箱を渡された。中には父の治療記録と手紙。私は、父が何のために力を隠し、私に「普通の…

老人の手が突然、俺の手首を掴んだ。驚くほど強い力だった。 「先生、あんたのお父さんと…」 最後まで聞き取れなかった。意識は再び沈み、機械の音だけが処置室に残った。 俺の名前は神楽優。39歳。この山奥の白峰診療所で、ただの医者として暮らしている。5年前まで都内の大学病院で働き、「診断の神様」と呼ばれていた時期もある。その地位を捨ててここへ来た理由を、誰にも話したことはない。 俺が生まれた神楽家は、代々この国の片隅で医者をしてきた家系だった。ただし、ただの医者ではない。人によっては「神視」と呼ぶ力が、時々現れる。人の体の中の異変が、黒い影のように浮かんで見える力だ。俺は6歳の時、それが見えた。近所のおじさんの腹を指さして「ここに悪いものがある」と言ってしまった。おじさんは半月後に胃を痛め始めた。村の連中の俺を見る目は、それから変わった。「化け物」と影で呼ばれているのも、子供心に分かった。 その時、父が俺をかばった。「優馬には何の力もない。見えているのはこの私だ」と、父は自分が能力者だと名乗り出た。母は俺の手を握って言った。「優馬、あなたは普通のお医者さんになりなさい。力じゃなく、勉強で。手と目と耳で」 俺は頷いた。父も母ももういない。俺はその約束だけを胸に、医学部で人より何倍も勉強した。神視に頼らずに「診断の神様」と呼ばれるところまで行った。それでいいと思っていた。父が背負ってくれたものを、もう一度引っ張り出す必要はない。そう決めていた。 昼休み、診療所の方が騒がしくなった。 「先生、表で人が倒れています」 玄関先の砂利の上に、白髪の男性が倒れていた。見覚えのない顔だ。駆け寄って脈を取る。早い。そして弱い。 「神楽先生…」 掠れた声が俺の名を呼んだ。この老人は俺を知っているのか。処置室に運び込み、胸に聴診器を当てた瞬間、奇妙な感覚が走った。 見えた。胸の奥、心臓の少し裏側に、黒い影。モヤのような、しかし輪郭のはっきりした塊。俺は息を止めた。封じてきたはずの感覚が、何の前触れもなく開いた。見えたものを見えなかったことにする。今までずっとそうしてきた。心電図の波形、聴診器の音。神視で見えた場所と、医学の所見がぴたりと重なる。偶然じゃない。分かっていて、それでも俺は医学の順番で診ようとした。力ではない。あくまで医学だ。 処置を終え、ヘリを呼んで搬送の準備をした時、男性の手が再び俺の手首を掴んだ。搬送員が男性を運び出す時、鞄の名札が見えた。「工藤」と書かれていた。聞いたことのない名前のはずなのに、心の奥がわずかに揺れた。 工藤が中核病院から戻ってきたのは10日後のことだった。どうしてもここへ戻りたいと言って譲らないと、岩代医師が苦渋の連絡を寄越してきた。 「先生、あの時は本当にすみませんでした」 「無理をしないでください。まだ歩くのもしんどいでしょう」 「いや、ここにだけは自分の足で来たかったんです」 工藤は俺の顔をじっと見つめ、突然目を細めた。そして、涙が一筋こぼれた。 「やっと…神楽宗介先生の息子さんに会えました」 俺は手を止めた。何も言えなかった。 「私はお父様と長いお付き合いをさせていただいた者です。あの方に何度も命を救われた一人です」 工藤は震える手で黒い旅鞄を開け、古びた木箱を取り出した。丁寧に布で包まれている。俺の前にそっと置くと、深く頭を下げた。 「これをお預かりしていました。宗介先生から、もう30年も前のことです。息子が自分の意思で医者として歩み始めたと、はっきり分かった時だけ渡して欲しいと」 蓋を開けると、上に一枚の白黒写真があった。7つか8つの俺が、父の白衣の裾を握って診療所の前に立っている。裏に父の字で「優馬 6歳 春」と書かれていた。その下に、分厚い診療記録の束と一通の手紙。記録はどれも父の几帳面な字で書かれている。青森、長野、四国、九州。全国の医者と患者の名前、難しい病名、そして治療。数えれば200人を超える患者の記録だった。 「先生はね、自分の名前をほとんど残さなかったんです。診断だけして、地元の先生に治療を任せて、また別の場所へ。何のお礼も受け取らず」 「父はいつもそうだったんですか?」 「ええ、ずっとそうでした」 その週、来客が続いた。最初に来たのは岩代医師だった。俺の恩師であり、工藤の搬送先の責任者でもある。 「工藤さんの診断、見せてもらったよ。しっかり読み切って、あの状態から戻していた。君以外には無理だったな」 「運が良かっただけです」 「運で人は助からんなあ。もう一度考えてくれ。君のような医者がこんな山奥にいていい人間じゃない。大学に戻ってこい。困っている患者が何百人といる」 俺はすぐに頷けなかった。「逃げているのかもしれない。自分でも分からないんです」 岩代はそれ以上押してこなかった。「答えは急がなくていい」と言い残して去っていった。 翌日、今度は黒塗りの車が上がってきた。大手医療法人の理事長、佐藤だった。丁寧なスーツに磨き上げた革靴。 「神楽先生、単刀直入に申し上げます。うちへ来てください。年俸は専属チーム、望むものは全てご用意します」 「お断りします」 「即答ですか?理由を伺っても?」 「私はここの患者を見ています。それだけです」 佐藤は薄く笑った。「お父様の宗介先生のことは、私もよく存じております。気の毒な方でした。権力者に都合よく使われて、何も残らず亡くなった」 俺は何も言わなかった。「私は先生には同じ道を歩んで欲しくないのですよ」 俺は黙って湯のみを置いた。「お引き取りください。父のことは私が考えます」 佐藤が帰った後、診療所の裏で山を眺めていると、裕子が立っていた。 「先生、さっき集落の佐々木さんが来ていました。胸が苦しいと」 患者の古いカルテを開いた瞬間、あの感覚が来た。カルテの一行の数字の並びの上に、黒い影が滲んで見えた。 「裕子さん、佐々木さんにもう一度来てもらってくれ。明日でいい。腹部のエコをやる」 「胸ではなくお腹ですか?」 「ああ、そうだ」 裕子は不思議そうな顔をしたが、頷いた。 その夜遅く、裕子に呼び止められた。 「先生、昼間あのカルテをご覧になった時、先生は『見えた』んですね」 「何のことだ?」 「分かりません。私には何も。ただ、先生が何かを見たような目をなさっていたので」 … Read more

25 August 2026

«És apenas um fardo para esta família», foi o que a minha irmã me disse enquanto o marido dela vasculhava o meu quarto. Eu estava a viver com os meus pais para cuidar do meu pai depois do AVC…

«És apenas um fardo para esta família», cuspiu a minha irmã, enquanto abria a minha porta sem bater e inspecionava o meu armário. «Ninguém te quer aqui», acrescentou o marido dela, como se fosse um facto banal, tão natural como o tiquetaquear do relógio da cozinha. Na manhã seguinte, arrumei as malas em silêncio, não … Read more

25 August 2026

結婚式の席に着いた途端、目に飛び込んできたのは、自分の名前が書かれたはずの席札に刻まれた「鼻水垂れ男」という言葉だった。義理の父が、顔合わせの日に私が花粉症で鼻をかんでいたことを笑いものにしたのだ。周囲からは嘲笑が溢れ、隣の妻は怒りで声を震わせながら言った。「ねえ、あなた。こんな人非人がやってるような下品な会社は潰す。」私は、愚かな義父に隠していた本当の身分を明かすことを決意した。彼の世界が…

テーブルに置かれた名札を見た瞬間、俺は自分の目を疑った。そこには「鼻水垂れ男」と書かれていたのだ。 きっとこれは、初めての両家顔合わせの時に俺が花粉症で鼻をかんでいたことを揶揄したものだろう。つまり、仕掛けたのは柴原夫妻に違いない。 あまりの出来事に俺は呆然とするしかなかった。そんな俺の傷ついた心をさらにえぐったのは、柴原を始めとする香織さんの一族の笑い声だ。中には涙を流しながら大笑いしている者までいる。 他人を侮辱しておいて、一体何がそんなにおかしいというのだろう。 俺の名前は宮京介。今年で45歳になる。どこにでもいるようなおっさんだ。 俺には10歳年下の弟がいる。名前は正也。俺たちは両親を交通事故で早くに亡くしてから、兄弟二人三脚でどうにかやってきた。年が離れているぶん、俺は兄であると同時に父親のような存在でもあった。喧嘩も数えきれないほどしたが、すぐに仲直りしたものだ。いや、兄弟で力を合わせなければ生きていくことすら難しい時もあったのだ。 反抗期を過ぎた頃には、正也は立派な青年になっていた。弱い立場の人には優しく、理不尽な権力には立ち向かう。それは俺が幼い頃から教えてきたことだった。そんな俺の教えを守り続けた正也は、誰からも好かれる大人に成長した。国家試験に合格した正也は、長年の夢だった弁護士になった。 それから10数年の月日が流れた。その間に正也は立派な弁護士に成長し、俺は高校時代から付き合っていたエミと結婚した。エミは温厚な性格で、俺の心をいつも癒してくれる存在だ。 ある日、正也から連絡が来た。話したいことがあるという。俺は正也を自宅に招き、エミが作ってくれたディナーを囲みながら話を聞くことにした。 正也は緊張した面持ちで「兄ちゃん、俺、結婚しようと思うんだ」と言った。その言葉を聞いた瞬間、嬉しさのあまり俺の目から涙が溢れ出た。急に泣き出した俺を見て、正也はどうしていいのか分からずあたふたしていた。そんな俺たち兄弟の様子に、エミは微笑みながら「ちょっとしっかりしてよ」と俺の背中を軽く叩いた。 何日か後、正也は結婚相手の香織さんを紹介してくれた。話を聞くと、彼女は椎名銀行の頭取の娘だという。椎名銀行は日本ではそこそこ名の知れた銀行で、性格もきっちりしている香織さんなら正也を任せても安心だと思った。俺は目の前で愛し合う二人を心から祝福しようと決めた。 それから間もなく、両家の顔合わせが行われた。その日は花粉症の症状がひどく、俺は鼻をかんでばかりいた。香織さんの両親である椎名銀行の頭取・柴原とその妻が苦笑いしていたのをぼんやりと覚えている。 顔合わせの後、正也と香織さんは無事に入籍した。そして入籍から数ヶ月経った今日、俺は正也たちの結婚式にエミと共に出席していた。大事な弟の晴れ舞台になぜか緊張している俺を、エミは冗談を言っては笑わせてくれている。本当にできた妻だ。 会場に到着し、受付を済ませて席を探す。しかしなかなか見つからない。二人でキョロキョロしていると、式場のスタッフが席表を見ながら誘導してくれた。ようやく席に座れると思った次の瞬間、俺は自分の目を疑った。俺が座る席のテーブルに置かれた名札に「鼻水垂れ男」と書かれていたのだ。 そうか、これは顔合わせの時に俺が鼻ばかりかんでいたのを揶揄したものだ。つまり犯人は柴原夫妻だ。俺は呆然とするばかりだった。 そんな俺の心をさらに傷つけたのは、柴原を始めとする香織さん側の一族の笑い声だった。信じられないことに、涙を流しながら大笑いしている者までいる。 エミはうろたえている俺に「大丈夫」と優しく声をかけてくれた。俺はその言葉でなんとか気を取り直し、グラスを手に取って柴原の元へ向かった。 「これは一体どういうことですか?説明してください」 俺は声を少しだけ荒げた。柴原はニヤニヤと笑いながら言った。 「どういうことって?その札に書いてあるまんまだよ。顔合わせの時にあんたが鼻水を垂らしてたのは事実なんだから、何も間違ったことなんて書いてないだろ」 「確かに私はあの時花粉症で鼻をかんでいました。でも、だからと言ってこんな華やかな席でわざわざ言いふらす必要はないでしょう」 だが柴原は聞く耳を持たない。気持ちの悪い笑みを浮かべるばかりだ。しかも立ちが悪いのは柴原だけではない。奴の妻も周りの親族たちも、完全に見下した目で俺を見ているのだ。 俺は何か悪いことをしたわけではない。それなのに、どうしてこんな屈辱的な思いをしなければならないのか。心は不満でいっぱいになった。しかし、今日は正也の結婚式だ。弟の晴れ舞台に泥を塗るような真似だけは絶対にしたくない。そう思うと、俺はいつも以上に我慢強くなれた。 俺が必死に耐えているのをいいことに、柴原は俺たち兄弟に関するありもしないことをベラベラと喋り始めた。俺たちに両親がいないことを、面白くもないジョークを交えて話すその姿は、下品としか言いようがない。兄弟二人三脚で頑張ってきた俺たちの努力を、こけにされているように感じた。 一生懸命生きてきた人間を馬鹿にできる権利なんて、この世の誰にもない。それは子供でも分かるくらい簡単なことだ。しかし残念ながら、そのことを柴原もそしてこいつの親族一同も、ちっとも知らないらしい。 柴原の俺に対する攻撃は止めどなく続いた。 「弁護士の弟はともかく、あんたはどっかの聞いたこともない会社の窓際サラリーマンなんだろ。はっきり言って、うちの一族は超一流だから不釣り合いなんだよね。親戚付き合いは遠慮させてもらうから、そのつもりでな」 俺はその言葉に呆れて声も出ない。 「あ、言っとくけど、貧乏だからって金の無心とかしないでくれよ。いくら銀行の頭取だからって、こっちはあんたみたいな貧乏人に貸す金なんて一円もないから」 俺は金に困ったことなんて一度もない。こいつが勝手に俺を貧乏だと決めつけているだけだ。柴原は凄まじい偏見の持ち主らしい。 俺はふと隣のエミを見た。いつも笑顔を絶やさない彼女の顔は、いつになく厳しいものになっていた。俺の視線に気づいたエミは「もうこの人たちとは何を話しても無駄ね」と呟いた。そして、これまで見たことのないような厳しい表情で俺に言った。 「ねえ、あなた。こんな人非人がやってるような下品な会社は潰す」 「だな」 俺は短く答えて頷いた。それを聞いた柴原はまだ俺たちのことを嘲笑っている。 「おいおい、あんたのところの嫁さん、頭大丈夫か?俺は椎名銀行の頭取だぞ。ちょっとやそっとで潰せるようなその辺の弱小企業とは訳が違うんだよ」 こいつはかなり勘違いしているようだ。別に椎名銀行は日本の中央銀行でも何でもない。そんな存在がこの世から消えたところで、この国の経済に影響はないだろう。なくなったらなくなったで、利用者たちは別の銀行を使うだけだ。そう思った俺は思わずフッと吹き出してしまった。柴原は面食らったような顔をしている。 とにかく今日はこれ以上揉め事を起こしたくない。そう考えた俺は、柴原が何か言ってくる前に自分の席に戻った。そして正也たちの結婚式を見届けた。 式の間、俺は柴原から受けた仕打ちのせいで、居心地の悪い思いをずっとしていた。 それから数日後の休日のことだ。俺はエミと自宅でのんびりしていた。すると家のインターホンが鳴った。モニターに映っていたのは、あの柴原だった。柴原は、モニター越しでも分かるくらいうろたえた様子で言った。 「おい、一体どういうことだ。今すぐ説明してくれ」 説明して欲しいのはこちらの方だ。俺は柴原が何を言っているのかさっぱり分からない。仕方なく、俺とエミは柴原を家に上げることにした。 リビングに通された柴原の顔色は真っ青だった。血の気が引いたような顔色だ。 柴原は俺たち夫婦にこう言った。 「支店の人間も含めて、うちの銀行員たちが全員、あの最大手のチェダーバンクに引き抜かれたとさっき報告を受けたんだ。どうやら『宮』って人間が関わっているらしいとも聞かされた。もしかして…あんたの仕業なのか?」 「その推測は少しだけ間違ってますね。今回の件に関与しているのは私だけではありません。ここにいる妻も関わっています」 「銀行員を全員引き抜かれたら、うちは銀行として機能しなくなってしまうじゃないか。というか、こんなことが本当にできるなんて…そもそもあんたら一体何者なんだ!」 俺は柴原の疑問に丁寧に答えてやることにした。 「だって私は、チェダーバンクの頭取ですから」 その言葉に目を丸くする柴原に対し、俺はさらに続けた。 「ちなみに妻はチェダーバンクの副頭取です。まあ、金融業界に生きる人間なら、私たちの顔と名前くらいはご存知ですよね」 そう、俺たちはチェダーバンクのトップとナンバー2なのだ。チェダーバンクは日本で最も大きな銀行で、組織としての規模は柴原が務める椎名銀行など比べ物にならないほど大きい。俺たちの素性を何ひとつ知らなかったらしい柴原は、まさに開いた口が塞がらない状態だった。俺たちは結構メディアにも取り上げられ、その道では有名人だったりするのだが、こいつは勉強不足だったらしい。 エミはそんな柴原に対して言った。 「この間の結婚式での、うちの夫に対する振る舞いは決して許すことなんてできませんから。それで今回、こういう行動を取らせていただきました」 柴原は「あわわわわ…」と言葉にならない声をあげている。どうやら自分が窮地に立たされていることをようやく悟ったらしい。 柴原はエミが出してくれたお茶を一気に飲み干した。あまりの勢いに噎せてしまっている。バカなやつだ。俺はこの情けない男をじっと観察した。 … Read more

25 August 2026

Eu sabia que algo estava errado quando o meu cartão de segurança, que me deixava entrar naquele edifício há quase vinte anos, piscou a vermelho. Ainda assim, entrei com calma. Horas depois, o novo…

Mia Bennett sentiu que o dia ia correr mal antes sequer de atravessar a porta do enorme edifício principal da Northbridge Dynamics. O cartão de segurança, que reconhecia o seu rosto há quase duas décadas, piscou a vermelho em vez de verde, e um jovem segurança pediu desculpa, envergonhado, dizendo que o acesso dela tinha … Read more

25 August 2026

Na manhã em que o meu filho me deixou num lar de idosos, disse apenas: “Aqui estás melhor tratado.” Eu tinha 69 anos, tinha trabalhado a vida inteira e ainda acreditava que ele nunca me…

Naquela manhã fria de segunda-feira, o meu filho deixou-me à porta do lar de idosos e limitou-se a dizer: “Aqui estás melhor tratado. ” Tirou a minha mala do porta-bagagem, pousou-a junto à entrada e foi-se embora antes de eu sequer perceber o que estava a acontecer. Eu tinha 69 anos, tinha trabalhado a vida … Read more

25 August 2026

„Zaplať a jdi až potom,“ odsekla mi tchyně u pokladny, když pokladní oznámila, že jejich nákup stojí 875 eur. Pět let jsem stála vzadu, platila jejich útraty a poslouchala, že jsem součást rodiny….

U pokladny luxusního supermarketu se zastavilo pípání skeneru. Mladá pokladní se podívala na displej a oznámila částku 875 eur. V tu chvíli obě ženy přede mnou najednou zjistily, že zapomněly peněženky. Helga, moje tchyně, předstírala, že zoufale prohledává svou koženou kabelku. Sophie, moje švagrová, přikyvovala s naprostým klidem a tvrdila, že si taky nevzala kabelku. … Read more

25 August 2026

「1週間で新システムを1人で作れ。出来なければ首だ。」…

「全くできてないじゃないか。どうせサボってばかりいたんだろう。」 新社長の小方は、私が何日も会社に泊まり込み、食事も睡眠も削って開発を続けてきたことを一切見ようとしなかった。疲労は限界を超えていた。 「新システムを1週間で1人で作るなんて無茶なんです。お願いします、理解してください。」 「うるさい。言い訳するな。お前が無能なだけだろ。もういい、お前は首だ。」 システム開発の難しさを微塵も理解しようとしない小方の声が頭に響く。そうか、もうこの会社に私は必要ないのか。エンジニアとしてシステムを完成させられなかった悔しさを胸に、私はその場を去った。 ところが、その直後だった。社内が騒然とし始めたのだ。 「全部のデータが破損したって表示される。どういうことなんだ!」 「お前、どうにかしろよ!」 私を呼び止めた小方社長が、慌てて命令してきた。首にしておいて、困ったら頼る。なんて都合のいい言い分だろう。そんな相手の命令に従う必要なんてあるのだろうか。私は覚悟を決めた。 私は幼い頃からゲームが好きだった。休日はいつもパソコンに向かい、好きなゲームを徹底的に遊び尽くす。そんな私がプログラミングの世界に足を踏み入れたのは中学生の頃だ。友人が手渡してきたプログラミングゲームがきっかけだった。 「ちょっと今までのジャンルと違うんだけど、なんかはまっちゃったんだよね。やってみてよ。」 最初は乗り気ではなかった。だが、マイナスから入った分、衝撃は大きかった。プログラミングという世界は奥深く、ダンジョンに挑むような気持ちで夢中になった。高校卒業後はシステム系の専門学校に入学し、プログラミング漬けの毎日を送った。1つのシステムを作り上げることは決して楽ではない。トラブルが発生すれば芋づる式に不具合が起き、頭を抱えることも多かった。それでも、完成し、どんな状況にも対応できるようになった時の達成感は、やめられないものだった。 就職先として内定をもらったのは、ゲームメーカーの車内SEだった。この世界に導いてくれた友人に感謝し、気を引き締めて仕事に取り組んだ。SEチームは多くの人数で構成され、各自がチームを組みながらシステムの調整を行っている。休みのタイミングで不具合が起きても対処できるよう、連携を取っていた。そんな私たちの頑張りを評価して応援してくれていた前社長が、健康上の都合で交代することになった。ショックは大きかった。 新しく就任した小方社長は、挨拶もそこそこにこう言った。 「ここってあれだろ? パソコン使ってタイピングしてるだけだろ。」 その言葉は、何人ものSEの耳に入っていた。 「経費の無駄なんじゃないか。タイピングとか俺でもできる。こんな人数がいる意味がわからない。」 言い返せば今後の扱いが悪くなることは明らかだったため、皆、聞こえないふりをした。だが小方社長の態度は、悪びれることなく一切変わらなかった。 そんなある日、私は突然、子会社への出向を命じられた。 「商品の開発も行っている重要な子会社だ。システムが古くなっているから、最新のセキュリティで新しいシステムを作って欲しい。」 「新システムを急いで作れ。これは、私1人でということでしょうか?」 「当たり前だろう。みんなで仲良く仕事できるなんて思うな。1週間で作れよ。」 私は小方社長がプログラミングについて全くの無知であることを知っていた。しかし、それでも絶望するような答えが返ってきた。 「1週間では無理です。チームを組むか、期限を延ばすかしていただかないと…」 「文句言う前に手を動かしたらどうだ? 人は増やさないし、期限も伸ばさない。1週間後までに1人で新システムを作れ。」 私は昔から頼まれたら断れない性格だった。自分から反論したのは驚きだったが、好きなプログラミングを馬鹿にされているように感じて、言葉が出たのだ。周囲の社員たちは心配そうな顔で私を見つめていた。 「1人で新しいシステムを作れだなんて信じられない。」 「困ったことがあったら言ってくれ。なんとか駆けつけられるようにするから。」 「ありがとう。助かるよ。」 私は小方社長以外の職場の人たちに恵まれていると痛感しながら、子会社に出向した。子会社の人たちは温かく迎え入れてくれた。しかし、私のようなSEは誰もおらず、作業量は想像を遥かに超えるものだった。旧システムの構造を分析し、課題を洗い出し、新システムの構造を考える。頭がいくつあっても足りないような作業に、毎日追われた。修行時間から終業時間までが一瞬で過ぎ去り、終業後もサービス残業が続く。コーヒーを差し入れてくれたり、ねぎらいの言葉をかけてくれる人たちもいた。その気持ちは嬉しかったが、睡眠時間が1時間程度になると、体力的にも精神的にも限界を迎え始めた。 同期に連絡を取ったこともあった。すぐに駆けつけようとしてくれたが、小方社長が目を光らせていたらしい。 「俺がこっそり子会社に行こうとしたら、急に声かけられてさ、『この仕事を終わらせろ』って。SEと全く関係ない仕事なのに、終わらせなかったら首だって言われて、全く動けないんだ。」 「同期は何も悪くない。ありがとう、生きていてくれよ。」 この言葉に私ははっとさせられた。最近は仕事第一で、食事はデスクのそばにあるものを流し込み、睡眠は気づいたら寝落ちしているものをカウントしていた。 「来てやったぞ。進捗はどうだ?」 タイミング悪く、小方社長がやってきた。カレンダーを見ると、出向を命じられてから1週間が経過していた。 「1週間経ったぞ。ゆっくりする時間があるくらいなんだから、新システムは完成しているんだろうな。」 同期からの連絡を見ている姿を、サボっていると勘違いされたことに気づいて青ざめた。進捗はどれだけ頑張っても4割といったところだった。 「おい、全くできてないじゃないか。一体どういうことだ。」 「ですから、1人で1週間で仕上げるというのは至難の技なんです。システムのいいところは取り入れて、悪いところは改善して反映させないと意味がないため…」 「言い訳なんて聞いてないんだよ。もういいわ。あとはこっちでやるから、もう来なくていい。」 それが、私への首の宣告だと理解するのに時間がかかった。数日、まともに眠れていなかったから、思考力も低下していた。 「聞いてんのか? 首だって言ってんだよ。今月末までに引き継ぎをまとめろ。」 「分かりました。」 私は何も考える隙がないまま返答し、その日は会社を後にした。この時の記憶は完全に抜け落ちている。「分かりました」と言ったことだけは覚えているが、どうやって帰ったのか、何を考えていたのかが思い出せない。子会社の部長が帰らせてくれたらしい。悔しいという感情すらなかった。それだけ追い込まれていたのだと思う。 引き継ぎを作成し、最終出勤日を迎えた。もうここでやることは何もない。会社を後にしようとした時、小方社長の叫び声が聞こえてきた。 「おい、これはどうなっているんだ?」 様子が変だった。小方社長だけでなく、他の社員たちもパソコンを操作しては首をかしげている。 「パソコンが起動しない。何か変な文字が出てきている。」 私が確認したところ、社内のパソコンは典型的なウイルスに感染していた。機密データを抜き取るウイルスだ。発生源を特定すると、それは社長室、つまり小方社長のパソコンだった。 「全部のデータが破損したって表示される。どういうことなんだ? お前、どうにかしろよ。」 … Read more

25 August 2026

「ホームセンターの方が優秀だろ。底辺企業と話す時間は1秒もない。」…

ホームセンターの方が優秀だろう。底辺企業と話す時間は1秒もない。 取引先の部長が、俺の会社と俺を「底辺」と切り捨てた。大口取引先という立場を笠に着て、俺たちを馬鹿にして笑っている。 だが、この部長は知らない。さっき自分がゴミ箱に捨てたボルトに、どれほどの価値があるのかを。そして、この後に自分がどんな結末を迎えるのかを。 部長が捨てたのはボルトではない。自分自身のキャリアだった。 俺の名前は小池。35歳だ。 複雑な家庭環境のせいで、俺の心は歪んでいった。中学に入ると地元の不良グループに入り込み、勉強もせずに遊び回っていた。 転機が訪れたのは高校2年の春。母が病気で倒れた時だ。 病室のベッドで横たわる、痩せ細った母の姿を見た瞬間、俺は心の底から後悔した。そして、不良から足を洗った。 大学進学は無理だったので、高卒で働くことを決意したが、元不良の俺を雇ってくれる会社はどこにもなかった。 卒業が迫った2月。スーパーで手にした求人誌に、地元の会社の募集を見つけた。 「これだ。」 応募すると、すぐに面接の連絡が来た。 面接でそう言ったのは、会社のトップである横沢社長だった。隣には社長夫人の治美さんが座り、笑顔で俺を見ていた。 「学歴は関係ないわ。やる気と学ぶ気持ちがあるなら、それで十分よ。」 「はい、頑張ります。」 俺の熱意を買ってくれたのか、即採用が決まった。高校卒業後、俺は横沢社長の下で働くことになった。 最初に任された仕事は、ボルトの検品だった。1本ずつ手に取り、ねじ山の制度を目で確かめる作業だ。 「簡単な仕事のように見えるけど、きっと大切な作業だ。自分にできることを精一杯やろう。」 俺は独学でボルトのことを勉強し、穴が開くんじゃないかというくらい、隅々までチェックした。 荒れていた頃の俺には、誇れるものが何もなかった。このボルトを丁寧に磨く時間は、俺の人生で初めて自分を信じられる瞬間だった。 ある日、工場エリアにやってきた横沢社長が、俺の様子を見て笑いながら言った。 「ちゃんとボルトの顔を見てるな。明日から製造ラインに入れ。お前なら任せられる。」 そして現在に至るまで、俺はボルトの製造ラインを担当している。今では製造ラインの主任も任されていた。 「よし、今日も1日無事故で頑張ろう。」 俺の声かけに、部下たちが元気よく返事をした。 俺が35歳の誕生日を迎えた直後のある日のこと。 休憩室で昼食を食べていると、向かいに座った横沢社長がため息を漏らした。 「最近、取引先の担当窓口の人が変わったんだ。伊藤部長という人で、かなりの曲者でね。」 横沢社長から話を聞いた俺は、思わず眉を寄せた。 資材調達部のトップである伊藤部長は、初対面から横沢社長や我が社を見下していた。 中小企業の我が社が、大口取引先の伊藤部長の会社に逆らえないと分かっているのだろう。伊藤部長はこちらを馬鹿にしつつ、納期の短縮や発注の削減、値下げ交渉を繰り返しているらしい。 さらに伊藤部長は、横沢社長に接待を強制的に要求した。 「仕方ないから飲み会を開催して色々話したんだが、我が社の安定した収益でそこに稼いでいることが気に入らないらしい。」 「それはひどいですね。」 「相手は大口の取引先だ。強く出ることはできん。」 社長が再びため息をつく。この時は、大変そうだなくらいにしか思っていなかった。まさか伊藤部長の身勝手な振る舞いが、我が社最大のピンチを招くとは想像もしていなかった。 ある日のこと。俺が事務所で書類仕事を片付けていると、近くの席で作業していた治美さんが突然声をあげた。 「何ですって?」 「どうしたんですか?」 「伊藤さんから、発注数を減らすってメールが来たのよ。」 治美さんは社長秘書として働いていた。横沢社長が伊藤部長の対応に苦慮していると知り、窓口業務の分担を申し出たのだ。 「これじゃ、我が社の売上が減ってしまうわ。」 治美さんは伊藤部長に理由を尋ねたが、「コスト削減」と言い張られ、結局受け入れるしかなかった。 我が社の売上はじわじわと減少。伊藤部長の傲慢な振る舞いは社員にも悪影響をもたらした。 「あんな人の言いなりになるなんて、社長たちは何を考えてるんだ?」 「売上も落ちてるらしいぞ。この会社もうおしまいかもな。」 社員の不満の矛先は、社長夫妻にも向かい始めた。 社内に嫌な空気が流れ始め、2人の顔から笑顔が消えた。なんとかしなければと思いつつ、ただの主任である俺にはどうすることもできない。 悩んでいる間に、最悪の事態が訪れた。 社長が亡くなってしまったのだ。 知らない間に病が社長の体を蝕んでいたらしい。判明した時にはすでに手遅れで、あっという間にこの世を去ってしまった。 葬儀の際、治美さんは真っ赤になった目で俺に言った。 「悲しんでる暇はないわ。会社を存続させないと。」 「俺も手伝います。社長と治美さんには、返しきれない恩がありますから。」 「小池君、ありがとう。頼らせてもらうわね。」 … Read more

25 August 2026