穏やかな春の午後、家計簿を開いた私は、見覚えのない150万円の請求に息をのんだ。息子の新婚旅行代だった。36年間、朝5時に起きて弁当を作り、残業代を全て教育費に注いできた私。その老後の資金を、実の息子が「母さんの金は俺の金だろう」と平然と言い放ったのだ。しかも、彼らの部屋の前で偶然聞いてしまった会話には、私の退職金を狙う計画が赤裸々に語られていた。そして彼らがハワイへ飛び立った日、私は静かに…
穏やかな春の午後、定年まであと3年の私は、36年間勤めた会社から帰宅し、いつものように家計簿を開いていました。 クレジットカードの明細書を見て、思わず息をのみました。見覚えのない高額な請求が並んでいます。 150万円という数字が、まるで悪夢のように目の前で踊っていました。 震える手でスマートフォンを確認すると、息子の光一からメッセージが届いていました。 「母さん、俺たちハワイに新婚旅行行ってくるからカード使わせてもらったよ。どうせ母さんの金は俺の金みたいなもんだろ。心配しないで」 私の胸に、今まで感じたことのない感情が湧き上がりました。怒り、悲しみ、そして深い失望。 大切に育てた息子が、私の存在をただの財布としか見ていなかったのでしょうか。 長い間、朝5時に起きて弁当を作り、残業代を全て息子の教育費に当ててきた日々。その全てが否定されたような気がして、私は静かに、しかし確実に、心の中で何かが変わっていくのを感じました。 私、中村しず子は地方都市の中堅企業で事務員として働き始めてから36年。初任給は手取りで15万円にも満たない金額でしたが、コツコツと貯金を続けてきました。夫の良夫と二人三脚で、息子の光一には不自由な思いをさせないと必死でした。 「お母さん、僕も塾に行きたい」 そう言われれば、自分の服は我慢してでも月8万円の進学塾に通わせました。大学受験の際には予備校だけで年間100万円以上。それでも光一の将来のためと思えば苦になりませんでした。 しかし2年前にさやかと結婚してから、息子は少しずつ変わっていきました。以前は「母さん、いつもありがとう」と感謝の言葉をかけてくれていたのに、今では私の顔を見ることすら面倒そうです。 「お母さん、もっと若い人の感覚を理解してくださいね」 さやかの一言一言が、私たちの間に見えない壁を作っていきました。 それでも私は信じていたのです。息子の中にはまだあの優しかった光一がいるはずだと。しかし今回のクレジットカード事件で、その淡い期待も完全に打ち砕かれてしまいました。 クレジットカードの明細を詳しく調べていくうちに、私は愕然としました。今回の150万円だけではなかったのです。過去半年間、気づかないうちに少しずつ使われていた形跡がありました。最初は3万円のレストラン、次は8万円のブランドバッグ、そして15万円の時計。まるで私の反応を試すかのように、徐々に金額が大きくなっていました。そして今回の新婚旅行。総額は300万円を超えていました。 震える手で過去の書類を整理していると、さらに驚くべき事実が判明しました。光一が昨年購入した車のローンも、いつの間にか私の名義になっていたのです。月々8万円の支払い、総額400万円。契約書には確かに私の印鑑が押されていましたが、その時の記憶が全くありません。 思い返せば半年前のことでした。 「母さん、ちょっと急ぎの書類があるんだけど、判子かしてくれない?」 仕事で疲れて帰ってきた私に、光一はそう言いました。会社の研修の申し込み書なんだという言葉を信じて、内容も確認せずにハンコを渡してしまった私の愚かさ。まさか息子が母親を騙すようなことをするとは、夢にも思っていませんでした。 銀行の通帳を確認すると、さらに血の気が引きました。定期預金から100万円が引き出されていたのです。暗証番号は私の誕生日。単純すぎたことを今更ながら後悔しました。 翌日、光一たちが旅行に出発する前日の夜でした。二人の寝室の前を通りかかった時、中から聞こえてきた会話に足が止まりました。 「お母さんって本当に扱いやすいわよね」 さやかの声が聞こえてきます。その声には明らかな嘲笑が含まれていました。 「ま、昔から何でも言うこと聞いてくれたからな。母さんにとっては俺が全てみたいなもんだし」 光一の返事に、私の心臓は激しく脈打ちました。 「でももっと計画的にやらないと、今回みたいに一気に150万も使うとさすがにバレちゃうでしょう」 「大丈夫だよ。母さんは細かいこと気にしないタイプだから。それにどうせ最後は全部俺が相続することになる金だし、今使おうが後で使おうが同じことだろ」 「そうね。お母さんの年金も月15万あるらしいし、死ぬまでは確実な収入源よね」 金づる。収入源。まるで私という人間の価値を、お金でしか測っていないかのような言葉の数々。鋭い刃物で心臓を刺されたような痛みが走りました。 さらに衝撃的だったのは、次に聞こえてきた会話でした。 「次は家のローンも母さん名義で組もうと思ってるんだ。俺たちの信用情報じゃ審査通らないからさ」 「いいアイデアね。3000万円くらいの物件なら余裕でしょ。でもお父さんにはバレないようにしないとまずいんじゃない?」 「父さんは仕事人間で家のことは全部母さんに任せっきりだから大丈夫。それより母さんの通帳とか印鑑の保管場所、ちゃんと把握してる?」 「もちろんよ。タンスの奥の小箱でしょう。この前掃除を手伝うふりして確認したわ。暗証番号も誕生日でしょ。本当に無防備よね」 私は廊下で立ちすくみました。足から力が抜け、壁によりかかってやっと立っている状態でした。息子夫婦の本性を知ってしまった衝撃で、頭の中が真っ白になりました。 深夜、夫も寝静まった後、私は決意して光一のパソコンを開きました。パスワードは息子の誕生日。皮肉なことに、私が最も大切にしている記念日です。 メールの受信箱を開いて、さらなる衝撃を受けました。さやかとのやり取りがそこには残されていたのです。 「お母さんの退職金調べたら3000万円はあるみたい。定年まであと3年でしょう」 「へえ。地味な事務の割には意外とお金持ちなのね。36年も働いてるからね。でも使い道もないみたいだし。俺たちが有効活用してあげないともったいないよ」 「そうね。子供のためなら何でもする人だから、孫ができたらもっと引き出せるかも」 「いいね。孫の教育資金って言えばいくらでも出すだろうな」 私の人生を「地味な事務」の一言で片付け、必死に貯めた退職金を当然のように狙っている。朝5時に起きて弁当を作り、残業代を全て息子の教育費に当て、自分の楽しみは後回しにしてきた32年間。それが息子にとってはただの絞り取る対象でしかなかったのです。 怒りとも悲しみともつかない感情が、私の胸の奥から湧き上がってきました。もう限界でした。 メールをさらに読み進めていくと、私の知らなかった息子の二面性が次々と明らかになっていきます。特に衝撃的だったのは、夫の良夫に対する光一の態度でした。 「父さんには絶対にバレないようにしないとな。あの人は母さんと違って金には厳しいから」 さやかの返信が続きます。 「お父さん、この前『光一も独立したんだから、もう金銭的な援助は控えめにしないと』って言ってたわよ」 「チッ、余計なこと言いやがって。でも大丈夫。母さんは父さんには逆らえないから、うまく立ち回れば問題ない」 私は画面から目を離せませんでした。息子が、父親と母親を巧妙に使い分けていたなんて。 さらに恐ろしいのは、私のクレジットカードの暗証番号を変更していたことです。「母さんの誕生日だから簡単だった」という光一の言葉がメールに残されていました。「セキュリティなんて甘いもんだよ。息子を信じきってる証拠だね」 私が息子を信じていたことを、彼は「甘い」と笑っていたのです。親子の信頼関係を、ただの弱点としか見ていなかった。 メールには、光一が何度もATMを訪れ、限度額まで現金を引き出していることが自慢げに書かれていました。その文面には罪悪感など微塵も感じられません。むしろ「してやったり」という満足げな感情まで読み取れた気がします。 翌朝、食事の準備をしていると、光一とさやかがリビングで旅行の最終打ち合わせをしていました。私の姿を見ても、二人は悪びれる様子もありません。 「母さん、俺たち今日の夕方の便でハワイ行ってくるから」 … Read more