応接室に響いた「あなたのような貧乏人がこの神聖な場所に足を踏み入れること自体、虫酸が走るわ」という義姉の一言で、凍りついた空気が一瞬で張り詰めた。その日は名門・藤堂家の遺産相続が発表される日。激しい雨が屋敷の窓を叩きつける中、私は夫の正と末席で小さくなって座っていた。義姉の彩子は「この遺産相続が終わったら、さっさと離婚して家を出ていきなさい」と私に最後通告を突きつけた。義母もしず子も、なぜか…
あなたみたいな貧乏人がこの神聖な場所に足を踏み入れること自体、虫酸が走るわ。 冷たく放たれたその一言で、重厚な応接室の空気がまるで冬の池のように張り詰めた。だがこの時、誰も知らなかった。数分後、この場にいる全員が己の愚かさを呪い、絶望の縁に突き落とされることになるということを。 今日は日本経済界にその名を轟かせる藤堂家の遺産相続が発表される日。窓の外では、まるでこの家の未来を暗示するかのように激しい雨が屋敷の窓を叩きつけていた。分厚いビロードのカーテンが引かれた応接室には、藤堂一族の重鎮たちが重苦しい顔で集まっている。正面には数ヶ月前に亡くなった先代当主、藤堂竜之助の厳かな肖像画が掲げられ、まるで生きているかのように私たち一人ひとりを厳しく見据えていた。 中央の席に座るのは、竜之助の妻でありこの家の女主人である義母のしず子。その両脇を固めるのが長男の剣一とその妻の彩子。私と夫の正は、その末席で借りてきた猫のように小さくなって座っていた。藤堂家の次男の妻。本来であれば、兄である剣一と同等の席に座るべきなのだろうが、この家ではそうはならない。なぜなら、私が藤堂家にふさわしくないからだ。 「それにしてもすごい雨ねえ。まるで嵐だわ」 かん高い声でそう言ったのは長男の嫁である義姉の彩子だった。彼女は国内でも有数の老舗呉服屋の一人娘として生まれ、不自由なく育った絵に描いたようなお嬢様だ。その整った顔立ちには、育ちの良さから来る自信と、他人を見下す傲慢さが滲み出ている。彼女の視線が舐めるように私の全身をなめ回した。 「あなた、その洋服、どこのブランド? 見たこともないわ。まさかデパートの安物じゃないでしょうね」 意地の悪い笑い声が彩子の口から漏れる。私は今日のために泣けなしのお金をはたいて、少しでも身なりを整えようと一番良い服を着てきた。もちろん、彩子が身につけているような高級ブランドのものではない。しかし、それを公衆の面前で指摘され、私は顔から火が出るような思いだった。 「申し訳ありません」 私がろうじてそれだけを口にすると、彩子はさらに畳みかけるように言った。 「本当に正木さんも、どうしてあんな女を嫁にしたのかしら? 私たちの家の品が下がるわ」 その言葉は私だけでなく、隣に座る夫のプライドも傷つけるものだった。正木が何かを言い返そうと腰を浮かせたが、私はその手をそっと握って制した。ここで騒ぎを起こせば、ますます私たちの立場が悪くなるだけだ。私はただ唇を固く結び、彩子の侮辱的な視線に耐えるしかなかった。 私の沈黙を敗北と受け取ったのだろう、彩子の攻撃はさらにエスカレートしていく。 「まあ、黙っているしかないわよね。だって事実なんだもの。あなたはこの藤堂家にとって招かれざる客。いいえ、害虫と言ってもいいくらいだわ」 害虫。あまりの言葉に私は息を飲んだ。他の親族たちも見て見ぬふりをしている。いや、むしろ面白がっているものさえいるようだ。彼らにとって、一般家庭から嫁いできた私は格好のいじめの標的なのだ。そんな中、ただ一人義母のしず子だけが微動だにせず、じっと目の前のテーブルを見つめていた。いつもなら彩子の品のない振る舞いを厳しく止めるはずの義母が、今日に限っては何も言わない。その無表情な横顔からは、何を考えているのか全く読み取ることができなかった。ただ、その静けさが嵐の前の静けさのように感じられて、私は言いようのない不安に襲われた。 彩子の私への攻撃はまだ終わらなかった。彼女は勝ち誇ったように私に最後通告を突きつけた。 「いいことを教えてあげる。この遺産相続が終わったら、さっさと正木さんと離婚してこの家から出て行きなさい。あなたのような貧乏神がいたら、藤堂家が汚れるわ」 その瞬間、応接室の重厚な扉が音を立てて開いた。入ってきたのは藤堂家の顧問弁護士である白石と名乗る初老の男だった。彼の登場で彩子の毒舌は中断されたが、私の心臓はまだ激しく高鳴っていた。弁護士は一族が揃っているのを確認すると、静かに口を開いた。 「これより、故藤堂竜之助様の遺言状を公開いたします」 その言葉を合図に、部屋の空気は再び欲望と緊張が入り混じった混沌へと変わっていく。彩子は勝利を確信した笑みを浮かべ、私を一瞥した。その目は言っていた。お前の居場所はもうない、と。私はただ祈ることしかできなかった。この悪夢のような時間が一刻も早く過ぎ去ってくれること。しかし、この先に待ち受けているのが、今日という一日をはるかに超える地獄の始まりだということ。この時の私はまだ知る由もなかった。 白石弁護士が革鞄の中から重々しく取り出したのは、厚手の紙でできた一通の封筒だった。藤堂竜之助様と達筆に記され、赤い封蝋で封印されている。それが東堂家の未来を、そして私の運命を左右する物。応接室にいる全員の視線が、まるで磁石に吸い寄せられるかのようにその一点に集中した。誰かが唾を飲み込む音がやけに大きく響く。 藤堂は戦後の日本経済を牽引してきた名門財閥の大名跡だ。金融、不動産、インフラとその事業は多岐に渡り、一族の総資産は我々一般人の想像をはるかに超えると言われている。世間からは華麗なる一族として羨望の眼差しを向けられているが、その内実は欲望と嫉妬が渦巻く見苦しい権力争いの巣窟だった。 私こと立花あずさは、そんな世界とは全く無縁のごく平凡な家庭で育った。父は町工場を営み、母はパートで家計を助ける、どこにでもある家族。そんな私が藤堂家の次男である正木と出会ったのは、大学のテニスサークルだった。彼は財閥の御曹司であることを一切表に出さず、誰にでも気さくで、太陽のように明るい人だった。私たちは自然と惹かれ合い、卒業と同時に結婚を意識するようになった。しかし、私たちの前に立ちはだかったのが家柄という分厚い壁だった。 「身の程知りなさい。あなたのような女がこの家の門をくぐるなど、恥知らずにも程があるわ」 初めて家に挨拶に伺った日、私にそう言い放ったのは義姉の彩子だった。彼女は私の経歴書をゴミでも見るかのような目で見ると、鼻で笑ってビリビリに破り捨てた。 「お父様は町工場の社長、お母様はパート。そんな家柄が、私たち藤堂家と混ざることなど絶対に許されません」 その言葉は私の両親までを侮辱する、あまりにも非情なものだった。結婚は先代の父である竜之助からも猛反対された。しかし、正木は決して諦めなかった。 「家柄なんて関係ない。俺はあずさを愛しているんだ。認めてくれるまで何度でも頭を下げる」 彼は家を継ぐ権利を放棄することさえ辞さず、必死に説得を続けてくれた。最終的に竜之助は「勝手にしろ」と吐き捨てるように、私たちの結婚は祝福とはほど遠い形でようやく認められたのだった。 結婚後の生活は想像以上に過酷なものだった。彩子からの嫌がらせは日ごとにエスカレートしていった。一族の集まりがあれば、私の服装やマナーに難癖をつけ、「だから育ちの悪い女は」と皆の前で罵る。私が手料理を振る舞えば、「こんな貧乏臭い料理、犬も食べないわ」と一口もつけずに席を立つ。夫の正はいつも私の味方でいてくれたが、藤堂家の中では長男である剣一の発言力が圧倒的に強く、次男である彼の声はいつもかき消されてしまった。そんな中で唯一、私にとって不可解な存在だったのが義母のしず子だった。彼女は藤堂家の女主人として常に威厳を保ち、感情を表に出すことはほとんどない。家柄や伝統を何よりも重んじる人だから、当然私のことも快くは思っていないだろう。しかし、彩子の私に対するいじめが度を越すと、時より「彩子さん、お控えなさい」と冷たく一言だけ釘を刺すことがあった。それは私をかばっているようにも、ただ家の体面を保とうとしているようにも聞こえ、彼女の真意はいつも謎に包まれていた。だが今日の彼女は、いつもと明らかに様子が違う。彩子の暴言にもただ沈黙を貫いている。その静けさが、私には嵐の前の不気味な静けさにしか感じられなかった。 やがて白石弁護士が咳払いを一つして、部屋の空気を引き締めた。 「それでは皆様、お静かにお願いいたします。これより遺言状を開封いたします」 彼はペーパーナイフを手に取ると、静かな手付きで封蝋に刃を当てた。封が切れる乾いた音が、静まり返った応接室に響き渡る。一族の誰もが固唾を飲んでその様子を見守っている。長男の剣一は腕を組み、自信に満ちた表情を崩さない。その隣で彩子は、すでに自分がこの家の新しい女主人になったかのような傲慢な笑みを浮かべていた。そしてその視線は、明らかに私を捉えていた。さよなら、貧乏人。彼女の唇が声には出さずにそう動くのを、私は確かに見た。 全身から血の気が引いていくのがわかる。これから読み上げられる内容は、おそらく私と正にとって絶望的なものに違いない。それでも私は顔を上げ、まっすぐに前を向いた。どんな結果になろうとも、それを受け入れる覚悟はもうできていた。いや、そう自分に言い聞かせるしかなかったのだ。 白石弁護士がゆっくりと封筒から折りたたまれた遺言状を取り出す。その瞬間、私の運命の歯車が軋みと音を立てて大きく動き始めたことを、まだ誰も知らなかった。 白石弁護士の嗄れた、しかし感情を排した声が応接室に響き渡った。 「遺言状。私が保有する藤堂ホールディングスの株式及び関連会社の全ての役員としての地位は、長男藤堂剣一に相続させる」 その一句が読み上げられた瞬間、彩子の口元が勝利を確信してにやりと歪んだ。彼女はわざとらしく大きなため息をつくと、これ見よがしに私の顔を覗き込んできた。 「剣一さん、あなた。これが家を継ぐ者とそうでない者の差よ。剣一さんはこの藤堂家の全てを受け継ぐ正当な後継者。それに比べて、あなたの旦那様はまあ、おかわいそうに」 その声は哀れみを装ってはいるが、その実、刃のように鋭い侮辱の言葉だった。続けて弁護士は淡々と読み上げる。 「現在我々一族が暮らすこの本邸、並びに軽井沢の別荘も、長男の剣一に相続させるものとする」 「ああ!」 彩子が歓喜の声をあげる。 「これで明日から私がこの家の女主人ね。ねえ、あなた、聞こえているんでしょう。これからは私の言うことは絶対よ。まずはあなたみたいな貧乏神を追い出すことから始めないと、家が汚れてしまうわ」 あまりにも人を人とも思わない物言いに、それまで黙って耐えていた夫の正の堪忍袋の緒がついにぶつりと切れた。 「いい加減にしろ、彩子さん!」 彼は椅子を蹴立てるように立ち上がると、彩子を鋭く睨みつけた。その剣幕に、さすがの彩子も一瞬怯んだ表情を見せる。 「兄さんも兄さんだ。なぜ自分の妻の暴言を黙って聞いているんだ? あずさはお前たちの奴隷じゃない。俺の大切な妻なんだぞ」 正の怒声が部屋中に響き渡る。しかし、兄である剣一は、そんな弟の姿をまるで出来の悪い子供でも見るかのように、静かに見下ろすだけだった。 「落ち着け、正。みっともないぞ」 剣一は組んでいた腕を解くと、ゆっくりと口を開いた。 「彩子の言い方は少々度が過ぎたかもしれん。だが、言っていることは事実だ。お前があのような女を嫁にしたせいで、藤堂家の品位は地に落ちた。父上がお前に何も残さなかったのも、当然の判断だろう」 … Read more