「母さん、早くこれにサインしてもらえませんか?」夕食後、何年も相談事なんてしなかった息子夫婦が、満面の笑顔で登記申請書を差し出してきた。36年ローンを完済した、夫との思い出が詰まったこの土地を、今すぐ名義変更しろという。優しい口調の裏で、嫁が電話でこう言うのを聞いてしまった。「あの土地売れば5000万は硬いって不動産屋が言ってたわ」息子には私が知らない800万円の借金があることも、全て調べた…
夕食後、私はお茶を手にしながら、36年間の保育士生活を思い出して穏やかな気持ちでいた。そこへ、珍しく息子の高弘と嫁の直子が二人そろってやって来た。 「母さん、早くこれにサインしてもらえませんか?」 差し出されたのは登記申請書だった。最初は何かの相談かと思った。しかし、その笑顔の奥に潜む冷たさに、私は心臓が凍りつく思いがした。 「母さん、これからの生活のことも考えて、土地の名義を変更してほしいんだ」 高弘の言葉は優しげだったが、不穏なものを感じずにはいられなかった。夫と二人で36年ローンを組んで手に入れた、思い出深い土地。それを突然名義変更しろというのだ。 「お母さん、手続きは簡単ですから、ここにサインするだけでいいんです」 直子の声には、当然のことだと言わんばかりの響きがあった。私は書類を手に取りながら、たくさんの記憶を蘇らせていた。 高弘が大学に進学する時、私は必死で教育費を工面した。保育士の給料では到底足りず、夜のバイトも掛け持ちした。4年間で1200万円。息子が結婚して家を建てる時も「頭金が足りない」という一言で、退職金の一部800万円を迷わず渡した。孫が生まれてからは、毎週のように通い、朝5時に起きて弁当を作り、保育士として培った経験を生かして孫たちの成長を見守ってきた。 しかし、今目の前にいる息子夫婦の態度は、あの頃とはまるで違っていた。 「土地なんて持っていても仕方ないでしょう。母さん、もう年なんだし」 高弘の言葉に、私は心臓をわしづかみにされたような痛みを感じた。 「そうですよ。管理も大変ですし、今のうちに整理した方がいいですよ」 冷たい口調の直子に、私は自分がまるで不要な荷物のように扱われているのを感じた。 「認知症になる前に、きちんと整理しておいた方がいいですよ」 直子の言葉に、私は息を飲んだ。私はまだ68歳で、頭もしっかりしている。近所の子供たちに慕われているのに。 「母さん、施設に入ることになったら土地は売却しないといけないでしょう。今のうちに僕たちに任せてくれれば、面倒な手続きも全部やるから」 高弘の口調は優しかったが、その目は私を見ていなかった。 「この土地のこと、覚えていますか?」 私は静かに尋ねた。二人は顔を見合わせ、困ったような表情を浮かべた。 「お父さんと私が結婚して3年目、やっとこの土地を見つけたんです。当時はまだ何もない場所でしたが、将来性を信じて36年ローンを組みました。毎月の返済は本当に大変でした。お父さんは朝から晩まで働き、私も保育士として必死に働きました」 思い出話を始めた私に、直子がイライラしたように髪をかき上げた。 「お母さん、昔話はいいですから。今は書類の話をしているんです」 その時、直子の携帯電話が鳴った。彼女は席を立ち、リビングの隅で声を潜めて電話に出た。しかし、私の耳にははっきりと聞こえてきた。 「うん、今説得してるところ。あの土地売れば5000万は硬いって不動産屋が言ってたわ。早くサインさせないと」 私の心臓が激しく鼓動を始めた。5000万円。彼らは最初から土地の価値を調べていたのだ。電話を切った直子は、何事もなかったかのように微笑んだ。 「お母さん、どうされました?顔色が悪いですよ」 「いいえ、大丈夫です。ところで、名義変更した後はどうするつもりなんですか?」 私の質問に、高弘と直子は一瞬目を合わせた。 「もちろん母さんが住み続けられるようにするよ。ただ名義だけは僕たちにしておいた方が、将来的に安心だと思って」 嘘だと直感した。二人の態度、視線、全てが私を騙そうとしていることを物語っていた。 「お母さん、私たちを信用していないんですか?家族じゃないですか?」 直子の言葉に、私は苦笑を禁じえなかった。家族。確かにそうだ。でも、家族だからこそ、もっと大切にしてほしかった。 「ところで、最近孫たちの顔を見ていませんが、元気にしていますか?」 話題を変えた私に、高弘が露骨に嫌な顔をした。 「母さん、今はその話じゃないだろう。早くサインしてよ」 「そうですよ。子供たちは塾で忙しいんです。おばあちゃんに会う時間なんてありません」 直子の冷たい言葉に、私は深く傷ついた。以前は毎週のように「おばあちゃん、おばあちゃん」と懐いてくれた孫たち。それが今では、会う時間すらないというのだ。 「わかりました。少し考える時間をください」 私の返答に、二人の表情が一変した。 「考える時間?何を考えるんですか?」 「そうだよ、母さん。家族なんだから、そんなに警戒しなくてもいいじゃないか」 必死に説得しようとする二人を見ていると、悲しみよりも怒りが込み上げてきた。夜も更けてきた頃、ついに高弘が本音を表し始めた。 「母さん、はっきり言うけど、この土地を持っていても仕方ないでしょう。税金だってバカにならないし、管理も大変だ。僕たちに任せてくれれば、全部うまくやるから」 「うまくやるって、何をですか?」 「決まってるじゃないですか?売却して、そのお金で老後の資金にすればいいんです」 直子があっさりと本音を口にした。 「でも、私はここに住み続けたいのです」 「お母さん、現実を見てください。一人でこんな広い土地と家を管理できますか?もう若くないんですから」 「そうだよ、母さん。僕たちだって心配してるんだ。一人暮らしは危険だし」 「心配?本当に心配しているなら、なぜ最近は顔も見せないのでしょうか?なぜ孫たちに合わせてくれないのでしょうか?」 「もう遅いですし、今日は帰ります」 「でも母さん、よく考えてください。これは母さんのためでもあるんだから」 高弘と直子は、最後まで自分たちの正当性を主張しながら帰って行った。玄関のドアが閉まると、私は深いため息をついた。42年間必死に育ててきた息子。その息子が、今私の全てを奪おうとしている。 リビングに戻り、壁に飾られた家族写真を見つめた。幸せそうに笑う若い頃の私たち家族。あの頃は、まさかこんな日が来るとは思ってもいなかった。でも、私は決めた。このまま黙って騙されるわけにはいかない。息子夫婦が私を騙し、財産だけを狙っているなら、それ相応の対応をしなければならない。 翌日、私は鏡の前で自分の顔をじっくりと見つめた。68歳。確かによくはないが、まだまだしっかりしている。保育士として培った観察力と判断力は、今も健在だ。 … Read more