「パートのおばさんに、大事な取引先なんて任せられるわけないだろう。」風部長は朝礼の場で、そう言い放った。十二年勤めた法城商事で、私はその日も変わらず伝票の山と向き合っていた。三年前、母が倒れてから契約社員になった。給料は下がったが、後悔はしていない。父の形見の手帳を、彼は無造作に取り上げた。「こんな落書き、必要ないよな。」その瞬間、体が冷たくなった。隣で専務の顔色が変わったのを、私は見逃さな…
「パートのおばさんに、大事な取引先なんて任せられるわけないだろう。」 風部長は、大勢の前でそう言い放った。私はただ「わかりました」とだけ答えた。もう期待するだけ無駄だと分かっていたからだ。隣にいた専務の顔だけが、なぜか真っ青になっていた。部長はまだ知らない。明日の朝、二十八億円の取引が、この手帳と共に消えることを。 父の形見のこの手帳には、まだ誰も知らない真実が眠っていた。二十四時間後、取引先の日山会長が法城商事に現れる。その時、部長は自分が誰を見下したのかを思い知る。そして、静かな逆転劇が始まろうとしていた。 法城商事に、宮下さやという契約社員がいる。席を置いてもう十二年が経つ。かつては誰よりも早く数字を残す営業だった。だが三年前、母の容態が急変し、正社員を続けることは難しくなった。私は自分から契約社員への転換を申し出た。給料は下がったが、後悔はしていない。 半年前、風が新部長として着任した。中途採用のエリートで、数字しか見ない人だった。着任早々、担当の割り振りを次々と変えていく。私が長年守ってきた日山物産との取引も、その対象になった。 「パートに大事な取引先なんて任せられるわけないだろう。」 朝礼の場で、風部長はそう言い放った。周りの視線が一斉に私へ集まる。机の上に置いていた手帳を、彼は無造作に取り上げた。 「こんな落書き、必要ないよな。」 父の形見のこの手帳を、彼はそう呼んだ。私は何も言い返さず、ただ頭を下げた。「わかりました」と。声は震えなかった。だが机に戻ってから、指先の震えは止まらなかった。同期だった同僚は誰も目を合わせようとしない。唯一、後輩の田中舞だけが、悔しそうに私を見ていた。 母は脳梗塞で倒れ、麻痺が残った。介護と仕事を両立できるのは契約社員しかない。それでも会社をやめようとは思わなかった。父がこの会社で長く営業していたからだ。手帳には父の代からの取引先の記録が残っている。風部長がそれを取り上げた瞬間、体が冷たくなった。それでも表情は変えない。 「大丈夫ですか?」 昼休み、田中舞がそっと声をかけてきた。 「平気だよ。」 そう答えたが、本当は平気ではなかった。この日から、静かな逆転の歯車が回り始める。 数日後、日山物産の担当は高橋竜太という若手社員に引き継がれた。入社四年目、口が達者で風部長のお気に入りだった。 「パートのやり方より、僕の方が効率的にやりますよ。」 高橋は周りに聞こえるよう、わざと大きな声で言った。その言葉に誰も異を唱えなかった。引き継ぎの資料は、手帳の写しすら渡されていない。私が持っていた情報は頭の中にしかなかったからだ。それでも、聞かれなければ答えないと決めていた。 専務の藤田だけが、ふと表情を曇らせる。 「日山さんは担当者を軽く扱うことを嫌う方だぞ。」 藤田がそう口にしかけると、風は笑って遮った。 「今時、そんな時代錯誤な話ないでしょう。」 藤田はそれ以上何も言わなかった。私はいつも通り資料整理の仕事に戻る。 「本当に大丈夫なんですか?」 舞が心配そうに聞いてきた。 「大丈夫。心配しないで。」 そう答える私の顔は、驚くほど穏やかだった。 「宮下さん、何か知ってるんじゃないですか?」 私は答えず、ただ微笑んだ。 高橋の意気込みとは裏腹に、車内の空気はどこか重い。風部長は上機嫌で高橋の肩を叩いた。 「これで数字はもっと伸びるぞ。」 その夜、私は帰り道に母の見舞いへ寄った。 「今日はどうだった?」 母がベッドの上からいつものように聞いてくる。 「変わりないよ。」 私は嘘をついた。母を心配させたくなかったからだ。帰り道、鞄の中を探ったが、そこに手帳はなかった。手放したことを今更ながら実感する。それでも不安はなかった。日山物産がどんな会社か、私が一番よく知っていたからだ。 翌朝、高橋は自信満々な顔でオフィスを出ていった。名刺を片手に、日山物産本社のロビーへ足を踏み入れる。迎えたのは、日山会長の秘書を長く務める楠木だった。 「本日は宮下様はいらっしゃらないのですか?」 楠木は開口一番そう尋ねた。 「担当が変わりまして、これからは私が」 高橋は胸を張って名乗った。 「そうですか。」 それだけ言うと、楠木は会議室へ案内した。資料の説明中、楠木はほとんど相槌を打たなかった。 「日山は担当者との積み重ねを大切にする会社です。帰り際に楠木がぽつりと漏らしたのは、その一言だった。」 高橋は意味を深く考えず、笑顔で会社を後にした。オフィスに戻ると、風に開口一番こう報告する。 「特に問題ありませんでした。」 風は満足に頷いた。だが藤田だけは、報告の一部に引っかかりを覚えていた。 「宮下がいないことを、向こうは何か言っていたか?」 藤田がそう尋ねると、高橋は言葉を濁す。 「少し驚かれていたぐらいで」 その返答に、藤田の眉間の皺が深くなった。藤田は昔日山会長と何度も酒を酌み交わした仲だ。あの会社が担当者の変更をどう受け止めるか、知りすぎるほど知っている。 一方、私は自分の席でいつも通り伝票の束と向き合っていた。それでも表情を一つ変えず、手を動かし続けた。心の中では静かに一つの数字を数えていた。日山物産との契約更新まで、あと二十四時間しかない。 「気にしすぎだよ、藤田さん。」 風は書類から目も上げずに言った。 「日山物産ほどの取引先だ。担当が誰でも変わらんだろう。」 その言葉に、藤田は何も言い返せなかった。かつて自分が日山を推薦したことを、風は知らない。藤田は自席に戻り、拳を握ったまましばらく動けずにいた。 … Read more