熱でふらふらのまま冷凍食品を食卓に並べた瞬間、義母が花瓶を掴んで私に投げつけた。「火事場の馬鹿力ってやつかしら。家事をサボっていいと思ってるの?」割れる音に耳を塞ぐ私へ、彼女は吐き捨てた。私は謝ったけれど、頭の中で何かがぷつりと切れた。同居初日から続くいびり、名前すら呼ばれない日々、友達とも会わせてもらえない生活。それでもカイトとミオさんが優しかったから耐えてきた。なのに、夕食の席でカイトが…
熱が出てふらふらのまま、私は冷凍食品を食卓に並べた。どうしても今日は台所に立っていることさえ辛かった。それなのに義母のノリコさんは、花瓶を掴むと私に向かって投げつけた。 「火事場の馬鹿力ってやつかしら。家事をサボっていいと思ってるの?」 割れた音に耳を塞ぐ私に向かって、ノリコさんは吐き捨てるように言った。私はその場で「すみません」と謝った。でも、頭の中では何かがぷつりと切れた。 私の名前はヤマダ・マナ、三十歳の会社員。夫のカイトと義父のミオさん、そして義母のノリコさんと、岐阜で四人暮らしをしている。結婚当初から義両親との同居が条件だった。私はそれを不満に思ったことはなかった。私の母も祖母や祖父と仲良く暮らしていたし、同居なんて当たり前のことだと思っていたからだ。友達が義両親との関係に悩んでいるのを聞いても、正直ピンとこなかった。私の育った環境がよほど恵まれていたのだろう。 カイトとは大学時代からの同級生で、長い付き合いだった。交際は順調だったけれど、彼の家の厳しさは付き合い始めた頃から聞いていた。門限は夜の十時。友達との遊びも制限されていて、デートと言えば夕飯を食べたらすぐにお別れだった。彼氏と旅行に行く友達を羨ましく思ったこともあったけれど、カイトが優しい人だったから乗り越えられた。 「なかなか長い間デートできなくてごめんね」 「カイトが謝ることじゃないよ。一緒にいられるだけで幸せだから」 そう言うと、カイトは嬉しそうに笑った。彼は心優しい人で、親の言うことを素直に聞いていた。大学生にもなって門限が決められているなんて、私だったら絶対に抵抗する。それなのにカイトは「大学に行かせてもらえるのは親のおかげだからね」と笑顔で言うのだった。私はその時、彼の強さと優しさに安心した。 交際は順調に続き、二十代のうちは仕事に専念して、三十歳になる今年結婚することになった。これからカイトと歩む未来に期待を膨らませていた。しかし、その期待はすぐに崩れることになる。理由は義母のノリコさんだった。 カイトが「親が厳しい」と言っていたけれど、実際に厳しかったのはノリコさんだけだった。義父のミオさんはカイトに似て穏やかな人で、すぐにそうと分かった。 「困ったことがあったら何でも言ってね」 ミオさんは優しくそう言ってくれた。ありがとうございます、と私は頭を下げた。しかし、ノリコさんは同居し始めた当日から私をいびり始めた。出会ったばかりの嫁にそこまで言うのかというほどの言葉を、何度も投げつけられた。 「あんた、呑気すぎない?今までの人生、何をやってきたの?」 「すみません。これから改善できるように頑張ります」 私は家事を始めてすぐに怒られた。ただ自分の部屋を片付けていただけなのに、急に怒られて驚いた。自分の部屋なのだから、ノリコさんに何か言われる筋合いはない。それなのに、ノリコさんは文句を言う。私は彼女が人に対してとても厳しい人なんだとすぐに感じた。カイトが厳しいと言っていたのも納得できた。 ノリコさんはその後もずっと私に絡んできた。片付けの仕方が悪いと何度も言われたので、「どうしたらいいですか」と尋ねたことがある。するとノリコさんは「自分で考えたら?」と言って、そっぽを向いてしまった。あまりにも子供じみた行動に、私は言葉を失った。そんなにネチネチ言い続けるなら、自分なりのやり方があるのかと思って尋ねたのに、最終的に「自分で考えろ」だなんて。それに、私が考えてやり始めたところで、ノリコさんは絶対に文句を言うに決まっている。私はどうしていいのか分からなくなった。 「これからどうしていけばいいんだろう」 そう呟いて、私は深く悩み込んでしまった。カイトはそんな私の異変に気づいたようだった。 「マナ、最近大丈夫か?なんか疲れてない?」 「大丈夫だよ。ちょっとゆっくり休むわ」 私の疲れは顔に出ていたらしい。毎日朝起きてから夜寝るまで、ノリコさんのことが頭から離れない。職場に嫌な人がいても、その場から離れられるけれど、カイトと結婚している限り、ノリコさんを遠ざけることはできない。彼女は同居を条件に結婚を許してくれた。家事を手伝ってほしいのだろうと思って同居したけれど、実際はそうではなかった。ノリコさんは家事を一切せずに、私に全部押し付けて、自分はのんびりしている。家族なら家事を協力して行うのが普通だと思っていたのに、この家は違った。ミオさんも仕事で遅くに帰ってくるから、実質家事ができる人は私しかいなかった。 「なかなか家のこと手伝えなくて悪いね」 「そんなことないですよ。大丈夫です」 ミオさんは何も悪くない。ノリコさんは専業主婦なのだから、いくらでも時間があるはずなのに、彼女は何もしない。私も仕事をしているのに、空いている時間はほとんど家事に費やしていた。出かけようとすると、ノリコさんはすぐに雑用を押し付けてくるから、自由に遊ぶこともできない。 「結婚って、こんなに不自由なものなのか」 私はため息をついた。カイトと一緒にいられることはもちろん幸せだ。それなのに、ノリコさんの存在があまりにも重い。私の母はどうやって義両親とうまくやっていたのだろう。よく考えてみれば、それは母も義両親も優しい人柄だったからだ。お互い家事を協力し合っていたし、ノリコさんのような癖のある人は誰もいなかった。お互いを尊重し合うからこそ、うまくいっていたんだ。私はそのことに今まで気づいていなかった。 私は最初、歩み寄ろうと頑張った。けれど、何を言っても否定的な言葉で返される。ノリコさんは私を尊重する気がまるでないし、歩み寄る気すらないようだった。関われば関わるほどストレスが溜まることが分かったので、同じ家の中でもノリコさんを極力避けるようにした。もちろん、カイトやミオさんにはバレないように。二人には心配をかけたくなかったからだ。 しかし、ノリコさんのいびりはエスカレートするばかりだった。 「本当にこの家の嫁の自覚あるの?カイトの嫁さんになったからには、私の言うことを聞いてもらうからね」 「どういうことですか?」 私が尋ねると、ノリコさんは私に言い放った。夜の八時には帰ってくること。カイト以外の人間と外で交流しないこと。そして最後に「あんたは家事だけやってればいいのよ」と言った。それは友達と交流するなと言われているようなものだった。私は反抗しそうになるのを必死に堪えた。今爆発してしまっては、カイトやミオさんに迷惑がかかる。せっかくカイトと結婚できたのに、ノリコさんによって引き離されるなんて嫌だ。私はその日、泣きながら眠った。 次の日から、私はますます飯使いのように扱われるようになった。まず、名前で呼ばれなくなった。「あんた」か「ちょっと」で、私の名前を呼ぶことはなかった。仕事から帰ってくると、家の全部の部屋を掃除するように指示された。ノリコさんは綺麗好きらしく、少しでも埃が落ちていると許せないらしい。専業主婦なんだから自分でやればいいのに、と思いながらも、私は必死にこらえた。仕事でクタクタになっているのに、家中の掃除をするのだから、さらに疲れる。掃除が終わる頃に、カイトとミオさんが帰ってきた。 「マナ、掃除してたのか。大丈夫か?」 「マナさんも仕事で疲れてるだろうから、ゆっくり休んでね」 二人の優しい言葉に、私は涙が出そうになった。ノリコさんがどんなに怖くても、この家で頑張ろうと思えるのは、カイトとミオさんがいてくれるからだ。そう思うと、明日も頑張ろうと決意できた。 次の日も、私はノリコさんに一日中家事をやらされた。 「ご飯までに掃除を終わらせといて。普通ならできるでしょ」 「わかりました」 ノリコさんの「普通」は、ノリコさんにとっての常識で、私に当てはまるものではない。他人に「普通はこうだ」と押し付けてくる人が、私は一番嫌いだ。この日は休みだったのに、家のことをしていたおかげで一日が潰れてしまった。 当たり前の日常になりすぎて、もう慣れっこになっていた。それなのに、そんな私にもついに体力の限界が訪れた。高熱を出して、倒れてしまったのだ。熱を出しても、家事をやっていないと怒られる。私はやむを得ず、夕食に冷凍食品を出すことにした。いつもはきちんと作っているけれど、今日ばかりは許してもらえるだろう。体が限界になりながらも、私はなんとか夕食を作り終えた。 そして夕食の時間、家族で食卓を囲もうとした時だった。ノリコさんが、冷凍食品が混ざっていることに気づいた。彼女は席を立ち上がると、横にあった花瓶を掴んで、私に投げつけた。 「火事場の馬鹿力が家事をサボっていいと思ってるの?」 花瓶は私に当たることはなかった。けれど「バリン」と割れた大きな音に、私は思わず耳を塞いだ。その瞬間、ノリコさんは私を「火事場の馬鹿力」と呼んだ。私はとっさに謝ったけれど、ノリコさんへの怒りを抑えることができなくなった。散々「カイトの嫁なんだから」と言っていたのに、内心では私のことを「火事場の馬鹿力」だと思って見下していたなんて。花瓶を投げられて怪我をさせられそうになったことも、私は腹が立って仕方なかった。 カイトとミオさんは、黙ってその様子を見ていた。史上最大にイライラしていた私は、二人がいても構わず、ノリコさんに言い返した。 「今まで家事もしないで、何不自由なく暮らせていたのは誰のおかげだと思いますか?私ですよね」 「急にどうしたのよ、あんた。花瓶を投げたから、気がおかしくなったのかしら」 「そうじゃないです。今までのノリコさんへの不満が溜まっていたんです。いい加減にしてください」 私がそう言っても、ノリコさんは自分が悪いとは思っていないようだった。 「今まであんたに指導してあげたのはこの私よ。どうしてそんなに反抗的な態度が取れるの?」 「お義母さんの言動は指導じゃない。ただのいびりですよ」 私が言い放つと、ノリコさんは逆上した。ノリコさんは嫁に来た時から私のことが気に食わなかったこと、私がカイトにふさわしくないことなど、文句を畳みかけてきた。けれど、カイトにふさわしいかなんて、カイト自身が決めることだ。私が言われる筋合いはない。 そこで、今まで黙っていたカイトが口を開いた。 「もう母さん、いい加減にしろよ。ずっとマナのこと苦しめてたの、知ってるんだからな」 「あら、カイトまで結婚しておかしくなったのかしら。いつ私が苦しめたって言うのよ」 カイトは、結婚直後から私がいびられていたのを知っていたと話した。私がいびられていたのは、主にカイトが仕事に行っている時間だったので、気づかれていないと思っていた。けれど、新婚当初、カイトが帰宅した時に怒鳴られているのを聞いて、おかしいと思ったらしい。さらに、自分が過去にノリコさんから門限を決められたり、やりたいことを制限されたりしたことを思い出し、嫌な予感がしたのだそうだ。 … Read more