高級レストラン「レストラン神崎」に野菜を納品しに来た農家の俺。しかし、オーナーの神崎さんから突然、取引打ち切りを宣告された。
「悪いが今日持ってきた野菜は一切受け取れない。いや、むしろこれから先も必要なくなった。1000万円分の野菜。もういらねえから」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。1000万円分というのは、ざっくり計算した年間の卸し金額に相当する。つまり、取引そのものを断ち切られたということだ。
「そ、そんな急に取引停止なんて困りますよ」
俺は思わず声を荒げてしまう。このレストランとの契約を前提に、今年は作付けも増やしていたし、設備投資もしていた。あまりに唐突すぎる話に頭が真っ白になる。
でも神崎さんは、むしろ面白がるように口元を歪ませた。
「困る?知らないね。ビジネスっていうのはそういうもんだ。こっちが必要ないと判断したら、早いうちに切るのが鉄則だろ」
その傲慢な物言いに、俺は胸が苦しくなる。どれだけ手をかけて育ててきた野菜か。何度も何度も試行錯誤して、美味しいと言われたくて努力してきたのに、あまりにもあっさり否定されると言葉が出ない。
すると、その時、外国人のVIPがレストランに入ってきた。どうやらレストランと取引を結びに来たようだが、すり寄るオーナーをよそに、彼は俺を見て言うのだった。
「君ほどの人が、なぜこんなところに?」
それを聞き、目を白黒とさせるオーナー。だって、俺の正体は?
俺の名前は吉川蒼太。のどかな田舎で農業を営んでいる。朝は日の出と共に起き、畑に出て作物の様子をじっくりと観察するのが日課だ。土の状態を確かめ、少しでも乾いていれば水やりの量を変えたり、害虫を見つければすぐさま対策をしたり。表舞台には立たない地味な仕事だけれど、この積み重ねこそが美味しい野菜を生む金なんだと信じている。
しかし、俺の毎日はただ黙々と土をいじるだけじゃない。週に数度、収穫した野菜をトラックに積んで、高級レストラン「レストラン神崎」へ卸しに行く機会がある。そこの料理長が、仙台オーナーの頃から大切に育んできた取引であり、ありがたいことに俺の作物をかなりの量引き取ってくれているんだ。
実際、「レストラン神崎」は、文前からして特別感が漂っている。レンガ作りの落ち着いた外観に、柔らかな照明がともるエントランス。俺みたいな農家が気軽に足を踏み入れていいのかと戸惑うほど高級感に満ち溢れている。
だが、そこで働く水沢さんは、いつも俺の姿を見つけると笑顔で迎えてくれる。彼女はシェフとしての腕前が抜群で、店の看板メニューをいくつも手掛けているらしい。俺から見れば、すごい人かどうかは分からない。ただ、彼女の料理を口にした人たちは、皆一様に絶賛しているみたいだ。俺自身、野菜を下ろしているだけで料理の一端を担いでいるようで、なんとなく誇らしい気持ちになる。
「レストラン神崎」には、仙台オーナーの代から質のいい素材を徹底的に追求するポリシーがあったと聞く。俺が配達を始めた当初は、仙台オーナーが「若いのに頑張ってるじゃないか」と声をかけてくれたり、水沢さんも「このキュウリすごく瑞々しくていいわね。どうやって育ててるの?」なんて興味津々に尋ねてくれたりして、いつも温かく迎えてもらっていた。
それに、水沢さんは俺の野菜をとても丁寧に扱ってくれた。「このトマトは酸味が爽やかだからサラダに使いたいな」「ナスは焼き加減が大事だから、ちょうどいい仕上がりになるか挑戦してみるわ」など、彼女なりの創作アイデアをどんどん聞かせてくれるんだ。その度に、俺も「よし、次に持ってくる野菜はもっといい状態で収穫しよう」と気合いが入る。
だからこそ、最近少しずつ変わってきた店の空気に、俺も気がかりを覚えている。仙台が退き、新しく二代目オーナーに就任したのが神崎さんだ。水沢さんとは幼馴染みという話をちらりと耳にしていて、神崎さん自身も「昔からずっと彼女の料理センスは抜群だと思ってた」と何度か話しているのを聞いたことがある。
ただ、俺と神崎さんが顔を合わせると、どうにも雰囲気が良くない。彼は洗練されたスーツ姿で店の経営方針を矢継ぎ早に打ち出しているみたいだが、その態度にどこか違和感を感じるんだ。以前は俺が納品に行っても仙台オーナーが気さくに声をかけてくれたものだけど、今の神崎さんは、まるで「業者にかまっている暇はない」と言わんばかりにさっさと通りすぎてしまう。
水沢さんが俺にこっそり教えてくれたところによると、神崎さんは海外への事業拡大を見据えているらしい。しかも、相当なスピードでコスト削減を進めようとしていて、既存の契約や仕入れルートにも容赦なくメスを入れかねないとか。
「吉川さん、ここだけの話なんだけど、神崎君がやたらと海外の話をしていて、実はそこに多額の投資をしようとしているみたいなの。だから今のレストランの運営費をかなり削りたがっていて」
配達作業を終えた裏口で、水沢さんにそう打ち明けられ、俺は少し気遅れしながらも聞き返した。
「ということは、もしかして仕入れ先の見直しもあるかもしれないってことですか?」
「え、実はちょっとだけそんな話を耳にして。今すぐどこというわけではないと思うんだけどね」
彼女が言葉を濁しながら心配そうにこちらを見る。その視線を受け止めた俺は、思わずため息が出そうになった。ここのレストランは俺の野菜を多く買い取ってくれている大事な取引先だ。もし関係が断たれたら、経営的にも大打撃だ。
俺が苦い顔をしていると、水沢さんが「大丈夫だよ」と柔らかく微笑んで見せた。
「川さんのところの野菜がどれだけ人気なのか、私が一番よく知ってるんだから。正直、うちのレストランは吉川さんの野菜で持ってるようなものだよ。だから神崎君が何か言っても、私が止めるから心配しないで」
俺を安心させようとしてくれているのが伝わってきて、思わず胸が温かくなる。
「いや、ありがとうございます。でもすみませんね。何から何まで」
俺がそう返すと、水沢さんは首を振って笑みを深めた。
「全然。吉川さんだってうちのレストランを支えてくれてるし、私も美味しい野菜のおかげで新しいレシピがどんどん思い浮かぶからね。むしろ感謝してるんだよ」
「そう言ってもらえると助かります」
「だから、あんまり落ち込まないで。もし彼が仕入れを見直すとか言い出しても、私も黙ってないからさ」
彼女は言葉の端々こそ砕けているものの、まっすぐこちらを見つめる視線は頼もしかった。シェフとして一流だと噂されるだけのことはあるし、何よりあの二代目オーナーに食材や調理法についても堂々と意見を言っていると聞く。どうやらそこには、幼馴染みならではの遠慮のなさがあるらしい。
「神崎君とは昔から一緒に育ってきて、親の経営する店を見てきた仲なんだ。確かにやり方が強引な時もあるし、海外進出っていう夢に熱くなりすぎちゃうところもあるけど、本当は悪い人じゃないと思うよ。まあ、私から見ても、もうちょっと穏やかになればいいのにって思うことはあるけどね」
そう言いながら、水沢さんは少し苦笑した。子供の頃からそばにいた神崎さんのことを、彼女なりに色々感じ取っているんだろう。俺も「なるほど」と相槌を打ちながら、どこか羨ましいような気持ちを抱く。
「私も神崎君が海外店舗を夢見る気持ちは理解してるんだ。元々、世界中の人にうちの料理を楽しんで欲しいって言い続けてたから。だけど、だからと言って大切なものを犠牲にするのは違うよね。レストランって、お客様に美味しいって思ってもらうのが一番大事だからさ」
「はい。俺も野菜を育てる時は、美味しいかどうかを基準にしてます」
「それだよ、それ」と、水沢さんは軽く指を刺してくる。「でしょ?その美味しいかどうかが、結局は人を喜ばせる根本だよね。だからコスト削減は必要でも、素材の質を落としたら意味がない。私はシェフだからかもしれないけど、素材の味が最高だと自然に美味しくなるんだ」
「水沢さんは本当に料理が好きなんですね」
「そりゃ、ずっとこれで生きてきたからね。ああ、変な意味じゃなくてさ」
彼女はそう言いながら照れくさそうに笑った。冗談めかしてはいるが、その瞳には確かな自信が伺える。料理人としての誇りというか、自分の腕を信じているからこそ言える言葉なんだろう。俺はそんな彼女を見て胸が熱くなる。こういう人に出会えたからこそ、俺は頑張って野菜を作り続けていられるんだと思う。
それは、ある日の朝だった。俺はいつも通りトラックの荷台に新鮮な野菜をぎっしり積んで、「レストラン神崎」へ納品に向かった。空は晴れ渡り、秋の日差しが少しだけ肌を温める。最高の収穫日和だと感じながら、ハンドルを握る手にも自然と力が入る。つい先日、水沢さんが「この季節のオクラ、すごく瑞々しくて美味しいわよね。是非サラダに使いたい」と言っていたのを思い出して、俺は少しでも状態のいいものを届けようと一生懸命育ててきた。
なのに、いつもは俺が到着すると裏口で待っていてくれるはずの水沢さんの姿が見えない。代わりに、レストランの入り口付近で慌ててそわそわしている店員たちが目に入った。嫌な胸騒ぎがして、急いで荷台から野菜のコンテナを下ろして店に入ろうとすると、すぐさまあの威圧的な声が聞こえてきた。
「はあ?その値段でOK出したのか。ダメだ。もっと安く交渉しろ」
神崎さん、二代目オーナーだ。いつもピリピリしている彼だけど、その日はいつにも増して険しい顔をしていた。俺が戸惑いながらも近づくと、彼はコンテナの野菜に目もくれず、鼻で笑うように唇を歪めて言い放つ。
「悪いが今日持ってきた野菜は一切受け取れない。いや、むしろこれから先も必要なくなった。1000万円分の野菜。もういらねえから」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。1000万円分というのは、ざっくり計算した年間の卸し金額に相当する。つまり、取引そのものを断ち切られたということだ。
「そ、そんな急に取引停止なんて困りますよ」
俺は思わず声を荒げてしまう。このレストランとの契約を前提に、今年は作付けも増やしていたし、設備投資もしていた。あまりに唐突すぎる話に頭が真っ白になる。
でも神崎さんは、むしろ面白がるように口元を歪ませた。
「困る?知らないね。ビジネスっていうのはそういうもんだ。こっちが必要ないと判断したら、早いうちに切るのが鉄則だろ」
その傲慢な物言いに、俺は胸が苦しくなる。どれだけ手をかけて育ててきた野菜か。何度も何度も試行錯誤して、美味しいと言われたくて努力してきたのに、あまりにもあっさり否定されると言葉が出ない。
すると、奥から駆けつけてきたのが水沢さんだ。彼女は俺と神崎さんの間に割って入り、懸命な形で訴える。
「神崎君、どういうつもり?こんな急に仕入れを切るなんて。うちのメニューはどうなるの?うちのレストランには吉川さんの野菜が必要なのよ」
「おいおい、あずさ、何向きになってるんだ?高が農家だろ。そいつの肩を持ちすぎじゃないか。ああ、分かった。お前ら随分仲良さげに話してるもんな」
神崎さんは意味ありげに俺と水沢さんを交互に睨みつけ、そこでわざと会話を切った。まるで俺たちの間にやましい関係があるかのように示唆してくる。水沢さんは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにきっと神崎さんに顔を向ける。
「バカなこと言わないでよ。私が言ってるのは、あくまでプロとしての意見よ。吉川さんの野菜なしに、今のレストラン神崎の看板料理は成立しないの?それくらい分かってるでしょ?」
「随分と偉そうだな。お前の意見なんてどうでもいい。店をどうするか決めるのは俺なんだからな」
その言葉に、水沢さんは瞳を見開いたまま息を飲む。それでも、俺は自分の野菜に見合った価格を提示しているつもりです。もし相場より高く映るなら、それは野菜の品質に対する自信の現れというか、実際食べてもらえれば価値があるって分かってもらえると思うんです。俺はそう言いながら神崎さんの視線を正面から受け止めるけれど、彼はあざけるように口角を歪めるだけだった。
「へえ。随分と偉そうに言ってくれるな。相場より高い金額を吹っかけて、いい気になってるのはお前の方だろう。こっちはどんだけ利益を残せるかに一生懸命なんだ。偉そうな農家に付き合ってる暇はないんだよ」
まるで俺たちの長年の努力を踏みにじるかのような物言いに、怒りと悔しさが込み上げてくる。その横で水沢さんも食い下がろうとするが、それを見た神崎さんが再び威圧的に声を張り上げた。
「言っとくが、これ以上ごちゃごちゃ言うなら、あずさには店をやめてもらうからな。シェフがオーナーの方針に逆らうなんて聞いたことがないんだよ」
水沢さんは唇を噛みしめ、今にも何か言い返しそうだったが、ぐっとこらえて黙り込んだ。その肩が小さく震えているのを見ていると、俺の胸は苦しくなる。彼女は決して自分のためだけに声をあげているんじゃない。純粋にお客様に最高の料理を出したいという思いで、俺の野菜の価値を一生懸命に訴えてくれているのに。
その時、店の正面玄関の方が急に騒がしくなった。見ると、外国人客が数人一緒にやってきている。いかにも高そうなスーツに身を包み、周囲のスタッフが慌てて出迎えている姿から、おそらくVIPクラスの来客なのだろう。すると、さっきまで威圧的だった神崎さんの態度が一変した。俺や水沢さんを完全に無視して、そそくさとスーツの裾を直しながら玄関へ駆け寄っていく。
「ようこそ、レストラン神崎へ。私がオーナーの神崎です。お待ちしておりましたよ」
あれほど傲慢だった表情はどこへやら。神崎さんは外国人たちに媚びへつらうような笑みを浮かべている。この中でも特に貫禄のある背の高いアメリカ人男性が「ハロー」と軽く手を振りながら店に入ってくると、神崎さんは平身低頭と言わんばかりの態度だ。
「どうぞこちらへ。今夜のスペシャルディナーを存分に楽しんでいただきますので」
神崎さんはまるで別人のような調子の良さで店員に指示を出していた。そんな様子を遠巻きに見ていた俺は、正直どうすることもできないまま立ち尽くしていた。
だが、その時だった。テーブルに案内されようとしていたアメリカ人男性が、ふとこちらを振り返り、俺に視線を据えると、驚いたように目を見開いた。すると、それまでこのVIPにへり下っていた神崎さんが、俺をじろりと見て慌てた様子で遮るように声をあげた。
「ベネットさん、こちらはただの農家です。もう用事も終わったので、さっさと帰ってもらうつもりで。ほら、お前は泥まみれで見苦しいんだよ。店に泥を持ち込まないでくれ」
まるで俺を貶めるかのようなその言葉に、思わず胸が痛んだ。泥臭い作業着のままレストランに来ているから、確かに品は欠けるかもしれないが、だからと言ってここまで言われる筋合いはない。
俺が唇を噛みながら何か返そうとすると、アメリカ人男性、そのVIPがさらに近づいてきた。
「ちょっと待って。もしかして、蒼太・吉川か?」
神崎さんはポカンと口を開き、そのVIP、アレクサンダー・ベネットと俺を交互に見比べると、焦ったように声を張り上げた。
「ちょ、ちょっとベネットさん、この男を知っているんですか?だって彼はただの農家ですよ。たった今、取引を停止してやったところなんですよ」
面白おかしく神崎はまくし立てるが、アレクサンダーは神崎さんの言葉を無視するかのように俺の元へ足を進める。その瞳には驚きと懐かしさが入り混じり、そして何より喜びの色が浮かんでいた。
「やっぱりそうだ。間違いない。ハーバードで一緒だったよ。吉川は蒼太だろ。すごい。こんなところで再会できるなんて」
にわかには信じられないという表情で、アレクサンダーは声を弾ませている。その様子を見た神崎さんは、さらに青ざめたように口を開閉するばかり。さっきまでの「早く帰れ」だの「泥まみれで汚い」だのと言っていた態度はどこへやら。言葉にならない動揺が顔ににじみ出ている。
俺はそんな神崎さんの様子を横目で見やりながら、アレクサンダーに向けて苦笑した。
「ベネット?いや、アレクサンダー。俺もびっくりしてるよ。日本に来てるなんて聞かなかったから」
「僕は今、アメリカでレストランチェーンを経営していて、日本進出の準備中なんだ。まさかこの店で蒼太に会えるとは思わなかったよ。元気にしてた?」
アレクサンダーが俺の名を呼んで歓声をあげる様子を見て、さっきまで横柄だった神崎さんが露骨に焦り始めた。顔色を変え、ぎこちなく頬を引きつらせて笑おうとする。
「え、えっと、ベネットさん、彼とお知り合いなんですか?」
まるで俺との間柄を知られたくないような、あるいは信じたくないような口調だ。アレクサンダーはそんな神崎さんに対して、わざと大きく頷いてみせる。
「もちろんそうだ。吉川とはハーバード時代の同級生なんだ。大学では同じプロジェクトを組んだこともあって、よく研究室で議論し合ってたよ」
その言葉を聞いた神崎さんの表情は、まさに「予想外」という一言に尽きる。さっきまでは「泥まみれで汚い」だの「ただの農家」だのと俺を見下すように言い放っていたくせに、今や顔が真っ青に変わっている。
「は、ハーバード大学?」
呆然とつぶやく神崎さんの隣で、水沢さんはふっとわずかに笑みをこぼしている。俺も何とも言えない気まずさを感じながら、神崎さんに向けて頭を下げる。
「はい。大げさに言うつもりはないんですけど、アレクサンダーとは学生時代からの友人で、今でもお互いの研究成果を共有したりしてます」
俺はここ数年、日本で農業に専念していただけで、そう説明すると、アレクサンダーは俺の肩を軽く叩きながら笑みを深める。
「蒼太はハーバードで主席卒業したと聞いている。卒業後に日本に戻って、最先端のAI技術を農業に応用しているって噂を聞いたんだよな。実際、こうして再会できて本当に嬉しいよ」
その一言で、さらに神崎さんの顔色が変わる。けれど、今更どんな言い訳をしようともう遅い。さっきまで「ただの農家」扱いしていた相手が、海外VIPアレクサンダー・ベネットとハーバードで同級生だったという事実に、完全に言葉を失っていた。
「え、えっと、なんだ?ベネットさんと知り合いなら、そう言ってくれよ。さっきはちょっとした行き違いがあっただけで、彼の野菜をバカにしたわけじゃないんですよ。ベネットさん、それはもう」
あからさまな手のひら返しだった。先ほどまでの傲慢な態度とは打って変わり、愛想笑いを浮かべて必死に弁明している。だが、アレクサンダーは眉をひそめてすぐに切り返した。
「行き違い?実際にはどうなんだい。さっきから『契約を解除する』とか『泥まみれで汚い』だとか、不穏な言葉ばかりが耳に入ってきたんだけど」
アレクサンダーの問いかけに、神崎さんはさらに焦り、うまく言葉が出ずに詰まっている。すると、その横から水沢さんが意を決したように進み出た。
「ベネットさん、実は彼は理不尽に吉川さんとの契約を切ると言い出したんです。私は止めようとしたんですが」
水沢さんが恨めしそうに神崎さんを見やると、神崎さんははっとして目をそらす。アレクサンダーはその説明を聞いて、静かにかぶりを振った。
「なるほど。そういうわけか。どうやら俺が思っていた以上に問題がありそうだね」
そう言いながら、アレクサンダーは俺が持ってきた野菜のコンテナに視線を向ける。そして、そっと手に取ったトマトを興味深げに眺めた。
「ところで、そうだ。このトマトをちょっと食べさせてもらっていいかな?あまりにもピカピカ光ってるから、興味が湧いてね」
「もちろん」
俺がそう申し出ると、彼はトマトを一つ取ると、服で軽く拭いて一かじりした。
「美味しい。なんて瑞々しくて、甘みも程よいんだ。酸味もバランスがいい。そう。これはどうやって育てたんだい?」
アレクサンダーは続けざまにオクラやキュウリにも手を伸ばしては感嘆の声をあげる。俺は少し照れくさそうに笑いながら言葉を選ぶ。
「えっと、実はハーバードで研究していたAI技術を農業に生かしているんだ。畑の温度管理、水分量、日照条件なんかをセンサーでデータ化して、最適なタイミングで水をやったり、土の栄養バランスを調整したり。これを使えば、誰でも安定して美味しい野菜を作れるシステムを目指してて」
「すごいな、それは」
アレクサンダーは感嘆の声をあげ、真剣な表情で俺の説明に聞き入る。その様子を見ていた神崎さんは、いら立たしいような面持ちで視線を彷徨わせていた。
アレクサンダーがにっと笑みを浮かべる。
「いやあ、蒼太の研究がここまで成果を出しているなんて。もしよければ、君の農場で育てた野菜、全部俺が買い取ってもいいかい?」
その言葉を聞いた瞬間、まるで頭上の雲が晴れたような気がした。たった今、1000万円分の野菜はもういらないと宣告され、先行きが見えなくなっていた俺にとって、これ以上ない救いの手だ。
「全部買い取るって?」
思わず俺は聞き返す。アレクサンダーは満面の笑みで首を縦に振った。
「そうだ。量がどれくらいあっても構わない。俺としては、世界に通用する最高の食材を探していたし、昔から蒼太の研究には興味があったんだ。これを機に、本格的に契約を交わしたいと思ってる」
喜びを噛みしめる俺を横目に、神崎さんが慌てたように横やりを入れる。
「そ、それならベネットさん、うちのレストラン神崎も是非買い取りに参加させてくださいよ。海外進出には、我がグループのブランド力も役立つと思いますし」
さっきとは打って変わって、愛想笑いを浮かべる神崎さんの姿に、アレクサンダーはちらりと目をあげる。
「神崎さん、さっきも言ったけど、俺は生産者を見下すようなところとは仕事はできない。彼の野菜を『泥まみれで汚い』なんて言い方をする人には、正直魅力を感じないよ。ビジネスは人とやるものだからね」
毅然としたアレクサンダーの言葉に、神崎さんは一瞬ぐっと息を飲む。それでも何か言い返そうとしたが、その口は震えるばかりで閉じられ、一生懸命に作り笑いを取り繕うだけだった。
そして、俺の隣でこの成り行きを見守っていた水沢さんは、胸を撫で下ろしたようにほっと息をつく。やがて俺と視線が交わると、「よかったね」と優しく微笑んでくれた。
この瞬間、ほんの数分前まで絶望的だった状況は一転して、大きなチャンスへと変わった。やはり、人との縁はどこでどう繋がっているか分からない。まさか大学時代の友人が、今こんな形で俺を助けてくれるとは。
アレクサンダーの申し出に、俺は二つ返事で頷いた。
「俺でよければ、是非やらせてくれ。これからもっと美味しい野菜を作れるよう努力するよ。今までの研究もどんどんブラッシュアップしていきたいんだ」
「そう来なくちゃな」
ガシッと力強く手を握り合う俺たちを前に、神崎さんは唇を噛み、苦々しげに俯いている。だが、もはやどうしようもない。彼が理不尽に契約を解除した事実は覆らないし、その見下す態度をアレクサンダーが見ていた以上、これ以上の取りつく島は通用しないだろう。
その後、アレクサンダーと場所を変え、落ち着いたカフェに移った。そして、改めて農業の話をすることになった。彼は目を輝かせながら、「まさか君がAIの導入に成功しているとは」と感心しきりだった。
俺の農場では、土壌の温度や水分量、気温、日照といったデータをセンサーで集めてAIに解析させ、最適なタイミングで水やりや肥料の配分を変えている。いわば、ベテラン農家の勘をシステムに落とし込んだようなイメージだ。それをやるだけで、同じ畑から取れる野菜の味が明らかに変わることを証明してきた。
「頼むよ、蒼太。君のところの野菜なら、アメリカでも必ずヒットするはずだ」
アレクサンダーはそう言うとにこやかに手を差し出してくる。そして、「そうそう。ついでに、腕のいい日本人シェフがいたら是非紹介して欲しい」と付け加えた。彼は日本進出にあたって、本物の和のエッセンスを取り込みたいらしく、その肝となるシェフの存在を探しているらしい。
思わず脳裏に浮かんだのは、水沢さんの顔。ただ、彼女は今や「レストラン神崎」のメインシェフだ。そう簡単にはいかないかもしれないが、きちんと話してみる必要がありそうだ。
それからは、目まぐるしい毎日を送った。農場の管理やデータの整理、アメリカへの出荷プランのすり合わせなど、やらなきゃいけないことが山のようにある。ようやく一段落ついた夜、俺は街外れの農場から市街地へ戻るため、珍しく電車ではなく歩きで帰っていた。長時間座りっぱなしでパソコンに向かっていたから、体を動かしたくなったのだ。
日もすっかり落ち、街灯だけが暗い道を照らす。人の少ない道をぶらぶらと歩いていると、道端でうずくまっている人影が見えた。その横顔には見覚えがある。水沢さんだ。不安になって早足で近づき、声をかけようとした瞬間、彼女が顔を上げて俺を見た。その目にはわずかに涙の跡が残っていて、普段の朗らかな雰囲気からは想像もつかないほど弱々しい表情をしていた。
「ああ、吉川さん。ごめんね、びっくりさせちゃって」
そう言いつつも、その表情は明らかに暗い。気になってさらに声をかける。
「顔色が悪い。何かあったんですか?」
すると、水沢さんは苦しそうに唇を結び、視線を落としたままぽつりと話し始めた。
「店を首になったの。神崎君に、今回の件を逃したのはお前のせいだって。私が吉川さんの味方をしたせいで、VIPが怒ったんだろうって攻められて」
あまりに衝撃的な告白に、言葉が出ない。確かにあの時、彼女は自分の身を顧みず、俺の野菜の価値を一生懸命に訴えてくれた。それが気に入らなかったんだろうか。拳を握りしめる俺を見て、水沢さんは今にも泣き出しそうな顔で笑う。
「ごめんね、こんな話。結局、私が軽率だったのかも。幼馴染みだからって甘えたのがいけなかったのかな」
俺は深呼吸して、なるべく落ち着いた声で話しかける。
「もしよかったら、俺と一緒にやりませんか?アレクサンダーも言ってたんです。腕のいいシェフを探してるって。あなただったら、その期待に答えられると思います」
「え、私が?でも、私なんか」
彼女は弱々しくかぶりを振る。でも、俺ははっきりと首を横に振った。
「私なんかじゃありません。あなたの料理があったから、俺の野菜は生かされてきたんです。世界に挑戦できるなら、なおさら一緒にやってほしい。ちょっとでも興味があるなら、アレクサンダーに会ってみませんか?」
水沢さんは戸惑いつつも、俺の真っすぐな言葉にわずかに表情を緩めた。
「ありがとう。私でよければ、是非」
それから数日後、俺と水沢さんは、新しくオープンするレストラン向けにメニューを考えるため、アレクサンダーの手配してくれたキッチン付きのスタジオにこもっていた。広めの料理スペースには、俺の畑から取れたばかりの新鮮な野菜が所狭しと並んでいる。ピーマン、トマト、ナス、オクラ。どれも瑞々しい緑や赤の艶が眩しいほどだ。
「やっぱり、どの食材を見ても鮮度が段違いね」
野菜を一つ手に取った水沢さんが、しみじみとした声で言う。彼女は丁寧にその表面を観察し、指先でほんの少し触れて確かめるように頷いた。
「こういうトマトは、カットして塩を振るだけでも絶品だし、ピーマンなんかも苦みと甘味のバランスが絶妙。あと、ナスはその皮の張りと果肉の柔らかさが命よね。炒めても焼いても、どんな調理法にも応えてくれるわ」
「すごいですね、水沢さん。ここまで違いが分かるもんなんですか?」
俺が感心して尋ねると、水沢さんは照れくさそうに笑う。
「まあね。子供の頃、祖父母の家が農家やってたから、こういう野菜がどれだけ手間暇かけられてるかなんとなく想像がつくの。吉川さんの野菜は、それが実によく現れてるんだろうね」
そう言いながら、彼女は俺の畑から届いたピーマンを軽く揉む。その仕草に、彼女が本当に料理に向き合っているんだなと感じて、俺の胸はじわりと温かくなる。
「私、実は料理に何度もやめたいと思ったことがあるんだ」
「え、水沢さんがですか?」
少し驚いて聞き返すと、水沢さんは苦笑いを浮かべた。
「そう。偉そうなことを言ってても、やっぱりどこかで失敗したり、周りの期待に答えられなかったりっていう悔しい思いが続くと、もうやめようかなって思っちゃうのよ。でもね、吉川さんの野菜を見るといつも、やっぱり続けたいって気持ちを思い出すの。こんなに真剣に作られた野菜を、私の料理で生かさなきゃって。その一心で頑張れたんだよね」
彼女の言葉に胸が熱くなる。どんな状況でも野菜の持つ力を信じてくれていた水沢さん。それがなければ、俺だってとっくに諦めていたかもしれない。
「ありがとうございます。俺の野菜がそんな風に思ってもらえてたなんて。でも、多分野菜を育てる側も一緒ですよ。もし水沢さんがいなかったら、これをどう料理してもらえるんだろうっていうワクワク感を持てなかったと思います」
俺が素直にそう伝えると、水沢さんは少しばかり頬を染め、はにかむように笑った。包丁の加減を調整する手が一瞬止まり、俺と視線が重なる。
「ありがとう。さ、じゃあ研究の続きしましょうか。まずはトマトを使った冷製オクラや、ナスを生かした温かいメニューを作ってみたいんだけど、どうかな?」
「いいですね。冷製はこのトマトの酸味が生きそうだし。オクラの粘りも夏らしくて面白いかも。あ、実はオクラと長芋を合わせるレシピなんかも考えてまして」
そんな風に新しいメニューのアイデアを交わしていると、あっという間に時間が過ぎていく。俺たちの周囲には切った野菜の鮮やかな彩りが広がっていて、2人の会話も自然とはずむ。
そして数十分後、出来上がった試作の料理をテーブルに並べてみると、その光景はまるで小さなコース料理のようだ。冷製の赤、焼きナスの深い紫、オクラの鮮やかな緑。どれも食欲をそそる香りを放っている。
「うん。すっごく美味しい。野菜の甘味がダイレクトに伝わってくるし、何より口当たりが全然違う。水沢さん、最高です」
試食しながら素直な感想を伝えると、水沢さんは満面の笑みを浮かべてくれる。
「よかった。これなら絶対お客さんも喜んでくれると思う。吉川さんが丹精込めて育てた野菜だからこそ、成り立つメニューよね。よし、もうちょっと調味料を調整して仕上げましょうか」
気合いを入れる彼女の横顔に、俺はいつの間にか見とれてしまっていた。きりっとした表情の中に見え隠れする優しい眼差し。野菜を扱う手つきがとても丁寧で、料理への情熱が手に取るように伝わってくる。いつもは仕事の話ばかりしてしまう俺だけれど、今はそれすらも心地よく感じるんだ。
無意識にじっと見つめている俺に気づいたのか、水沢さんがふと視線をこちらに戻す。
「ん?ど、どうかした?」
「あ、いえ、ただ頑張ろうと思って」
「何それ?」
彼女は少し照れくさそうに笑って、その笑顔はどこか安心感を与えてくれる。まだ正式に店がオープンするまでは試練が山積みだ。それでも、この人となら乗り越えていけるんじゃないかなんて思える。
「今度のメニュー、みんなに喜んでもらえるといいですね」
そうつぶやいた俺に、水沢さんは穏やかに頷いてくれた。
「ええ、こんな風に頑張って作った料理なら、きっと大丈夫。一緒に頑張りましょうね」
彼女のその言葉に、不思議と胸がどきりとする。レストランの成功を掴むための二人三脚なのは間違いない。だけど、ほんの一瞬だけ料理を超えた何かを感じたのは、きっと俺だけじゃないはずだ。鼻先をくすぐるトマトとハーブの香りが、微妙に高鳴る心拍とシンクロしている気がして、俺は少し恥ずかしくなりながらも彼女から目をそらせずにいた。
それから約1ヶ月後、アレクサンダー出資のレストランがオープンした。店の名は「ベルデ」。イタリア語で「緑」を意味するその言葉には、いくつもの思いが込められている。新鮮な野菜の瑞々しさ、これから始まる新たな挑戦の息吹、そしてこの店に集う人々が育む希望の色。その全てを象徴するかのように、鮮やかな緑が店のコンセプトを彩っていた。
オープンからしばらくの間は、まさに順風満帆だった。ロコミサイトにも「野菜の味が濃い」「野菜が主役の料理なんて初めて」というポジティブな感想が並び、食通の人たちが連日足を運んでくれた。中にはアメリカからの観光客もいて、アレクサンダーの系列店なら間違いないと言わんばかりに期待を寄せてくれる。
俺自身、毎朝早起きして畑に出るのは変わらないが、夜にはこの店に顔を出す機会が増えた。体力的にはしんどい部分もあるけれど、嬉しさと充実感の方がずっと大きい。
ところが、回転してからちょうど1ヶ月が経とうという頃、店の空気が微妙に変わり始めた。以前ならディナータイムの予約は2週間先まで埋まっていたはずが、ある日を境に「まだ空きがありますよ」という日がちらほら出てきたんだ。最初は新しい店にはありがちな波だろう。夏の終わりに向かう時期だから客足が落ちるのかもしれないと気楽に考えていたが、どうもそれだけではなかった。
ある朝、俺が畑で作業をしていると、ちょうど野菜の状態を確認しに来てくれた水沢さんが、いつになく焦った面持ちで声をかけてきた。
「吉川さん、今ちょっと大丈夫?」
と顔を曇らせながら言う。いつもはどんな状況でも冷静な彼女が、こうも慌てた様子を見せるなんて珍しい。
「最近、客足が落ちてきたの知ってるわよね。どうやら『レストラン神崎』が大幅に値下げしてるらしいの。うちのメニューに似たものを、とにかく安い値段で出してるんだって」
「値下げ?」
「そう。しかも、仕入れ先を安いところに切り替えてるらしい。客寄せといえば聞こえはいいけど、あっちの関係者からは『ここで食べるより、レストランに行った方が同じ料理を安く食べられる』なんて宣伝までされてるそうよ」
元々、神崎さんとはあまりいい縁がない。彼は仙台の意思を継ぐと言いながら、実際は強引なコストカットで経営をするタイプ。実際、彼は安い農家から買い叩くという手法で仕入れコストを激減させ、低価格路線を打ち出しているらしい。おかげで、客層の中には「安いならそっちに行くか」と流れてしまう人も少なくはない。
俺としては「野菜はどこも同じじゃない」と言いたいところだが、確かに価格重視のお客さんも多いのも事実だ。特に大人数のファミリーや学生、あるいはとりあえずお腹を満たせればいいっていう層にとっては、安いに越したことはない。そのせいか、このところ神崎さんのレストランは再び賑わい、こちらの店の客数は右肩下がりになっているという。
「吉川さん、どうしよう。ああいう値下げ競争に付き合うのは無理があるよね。こちらも値下げに走ったら、素材のコストを落とさざるを得ないし。それって本末転倒じゃない?」
「そうですね。せっかく美味しい野菜を作って、それを最大限に生かす料理を提供してるのに、価格で勝負するのは違うと思う」
俺は拳を握りしめる。
「一度でも『安物でいい』なんて妥協したら、長い目で見たらこの店の価値が損なわれるのは明らかだ。俺たちなら、味の分かるお客さんがきっと支えてくれるはずです。うちはこのままやっていきましょう」
しかし、理想と現実の差は残酷なくらいに大きかった。回転当初は物珍しさや宣伝効果でお客さんが来てくれたけれど、値段重視の客層は次々に「レストラン神崎」へ流れていく。いつの間にか、週末でもガラガラになってしまったうちの店を見渡すと、スタッフたちも肩を落とすことが増えた。
そんな閑散とした店内で、1日に数組しか入らなくなったお客さんを一生懸命にもてなした後、俺は裏口でまかないをつつきながら水沢さんと顔を突き合わせていた。
「どうしよう。もう少し安いメニューを出すべきかな?それとも、新メニューを投入して打開を図る?」
水沢さんが悩ましげに眉をひそめる。彼女はシェフとして、野菜本来の味を生かすために徹底的に素材と調味のバランスを突き詰めてきた。でも、理屈では分かっていても、客足が落ちていく現実を目の当たりにすると不安は募る一方だ。
「だけど、下手に値段を下げると、結局は神崎さんの真似をすることになるし、そんな真似をしても『この店でしか味わえない料理』っていう魅力は伝わらなくなる」
俺がそう言うと、水沢さんはかすかに頷きながらも、俯きながらまかないを箸でつつく。会話が止まり、お互い次の言葉が出せない沈黙の中、「どうしよう」という小さな吐息だけが聞こえた。
として、追い打ちをかけるように、まるで俺たちの不安を確かめたかのように、入り口のドアがガチャリと大きな音を立てて開いた。店の外のわずかな明かりを背に、鋭い視線をこちらに投げる男。神崎さんだ。俺たちを見つけるなり、にやりと薄笑いを浮かべて店内に踏み込んでくる。
「へえ。噂には聞いてたが、随分と閑古鳥が鳴いてるじゃないか」
その挑発的な声に、水沢さんがとっさに身をこわばらせる。彼女は立ち上がりかけたが、俺が腕で軽く静止した。どうせ口論になったところで、状況が好転するわけじゃない。
神崎さんは、まるでこちらの苦境を楽しむようにゆっくりと辺りを見回した。
「おや、客の姿が1人も見えないとはね。やっぱり、食材の質が大事なんて綺麗事を言っても、客は安い方に行くってことだろ。悪いが、これが経営ってもんだ」
含みのあるその口調に、俺はぐっと奥歯を噛みしめる。反論したい気持ちをこらえながらも、口からはうまく言葉が出てこない。
「そもそも、こんな高い野菜に金をかけて、客が納得すると思うか。まあ、勝手に頑張ればいいさ。もっと痛い目を見れば分かるだろう。結果が全てってことだ」
耳障りな高笑いを残し、神崎さんは踵を返した。海老茶のスーツの背中が、妙に店の静寂を強調しているようで、俺と水沢さんは言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
「私たち、まだ負けてないよね」
不意に水沢さんがかすれた声でつぶやく。その瞳は潤んでいるが、真剣な強さも見え隠れしていた。
「負ける気はない。どれだけ客が落ちても、俺たちの野菜や料理を理解してくれる人はきっといるはずだから」
そういう俺の声は、どこか震えていたかもしれない。でも、諦めたくはなかった。ここで安易に値下げをしてしまえば、せっかく磨き上げてきた本物の味が遠ざかってしまう。俺たちは何とか持ちこたえながら、もう一度立ち上がる方法を探さなきゃならない。そして、理不尽な煽りをしてきた神崎さんを、いつか必ず見返してやるんだ。そんな決意だけが、今の俺たちを支える唯一の支えだった。
そんな意気込んだ俺たちの元に現れたのは、アレクサンダーだった。彼はいつもの陽気な調子で、「まだ諦めるには早いだろう」と言いながら、タブレットに映し出された海外のレストランの事例をいくつも見せてくれた。
「顧客体験だよ。安いとか高いとかじゃなくて、ここでしか味わえない体験を提供するんだ。例えば、料理が出てくる合間にお客様に蒼太の畑の映像を見せるとか、野菜の育成データをリアルタイムで紹介するとかね。美味しいのその先に、なるほど。こんな風に育てられた野菜なんだって納得感を持ってもらうのさ」
俺も水沢さんも、思わず目を見張った。そこまで踏み込んで育てる過程を共有するなんて、考えもしなかったからだ。すると、アレクサンダーは驚いたように肩をすくめる。
「びっくりした?あ、でも実はこのアイデアのヒントは、そうだな。お前から教わったんだぜ。ハーバード時代に、農業とITを掛け合わせて、消費者も参加できるような仕組みを作りたいって言ってただろう。その発想が、こういう顧客体験につながってるんだよ」
当時、アレクサンダーは実家のレストラン経営を継ぎたくないと悩んでいた。地元が自然災害に見舞われ、彼の一家が仕方なく多くの農家の契約を切ったことがトラウマになっていたんだ。「農家を切り捨てるビジネスなんて、人を不幸にしかねない」と。そんな彼に、俺は「本当に人を幸せにするレストランだって作れるはずだ。農家や地域を大切にする仕組みを作ればいい」と言った。さらに、「将来はAIで農業を可視化して、食べる人と作る人が一緒に楽しめる場を作りたいんだ」と語ったのを、今でもはっきり覚えている。
あれから数年後、アレクサンダーは自ら学んで得た経営ノウハウと、俺がハーバード時代に語っていたアイデアを組み合わせ、「ここでしか味わえない体験」を提供しようと提案してくれた。俺自身、まさか自分の夢の種が彼の手によってこんな風に育てられて、実際のレストランで形になるなんて思いもしなかった。だけど、そうやって互いの過去や思いが繋がって今の俺たちがあることを思うと、何とも言えない感動で胸が熱くなる。
それから俺たちは、アレクサンダーの提案通り、店に顧客体験の仕掛けを組み込むことにした。具体的には、食事の合間にタブレットで畑の映像を見せたり、俺が収集している育成データを短いドキュメンタリー風に編集して大画面で流したり。要するに、どうやってこの野菜が育ったのかをお客さんに楽しみながら知ってもらうようにしたんだ。
最初は戸惑う人もいたけど、いざ映像を眺めながら口に運んでみると、「なるほど。この野菜にはこれだけ手間がかかっているのか。水の量や温度管理が徹底されてるんだな」と感心してくれる。結局、人は目で見て耳で聞いて実際に味わうという複数の体験を重ねると、単なる食材が特別な存在に感じられるみたいなんだ。
そんな話題がSNSやロコミサイトで徐々に広がり始めると、「一度行ってみたい」という人が増えたのだろう。閑古鳥が鳴いていた店の客足が、火が付くように回復していくのがはっきりと分かった。あれだけ閑散としていたホールに、また笑顔が溢れ出す。水沢さんの新メニューも加わり、俺たちはさらに気合いを入れて「ここにしかない料理」を作る努力を続けることになった。
もちろん、値段が安いわけじゃないから、一気に大盛況とはいかない。それでも、少しずつ着実にお客さんが増えている実感がある。アレクサンダーはそんな変化を頼もしく見守りながら、「やっぱり蒼太が昔、農業とITを融合したいって言ってたのが正しかったんだな」としみじみ言ってくれた。
こうして、安易な値下げとは真逆のアプローチだったが、農業を可視化する顧客体験が功を奏して、俺たちの店は緩やかに復活の道をたどり始めたのだった。
そんなある日の夜、俺がカウンター越しにお客さんたちの表情を確認していると、店の入り口が突然ガチャリと乱暴に開き、聞き覚えのある怒声が飛び込んできた。
「おい、吉川いるんだろう。出てこい」
ぞっとするほど荒々しい声だ。店内にいたスタッフはみんな一斉に入り口の方を振り返る。そこに立っていたのは、やはり神崎さん。いつもの高級スーツを着こなしてはいるが、その表情には余裕のかけらもなく、怒りで顔が赤くなっているのが分かった。
とっさに水沢さんが「お客様がいらっしゃるので、お静かに」と声をかけようとするが、彼は全く聞く耳を持たない。
「妨害行為はやめろって言ってんだよ。お前ら、一体何をした?」
「神崎さん、どういうことですか?お店には他のお客様もいます。落ち着いて話しましょう」
俺はなるべく冷静に対応しようとするが、彼は「話せるか、こんな状況で」と吐き捨てるように言い、拳を握りしめたまま店内を睨みつける。
「店に悪い評価がたくさんついてるんだよ。最近になって、『レストラン神崎は味が落ちた』『雑な味付け』『コスパ最悪』なんて口コミが急増してるんだ。おかしいだろうが。どう考えても、どうせお前らが裏で手を回して」
「そんなこと、俺たちがするわけないじゃないですか。客足が戻ったとはいえ、まだ店の運営で忙しくて、そんな陰湿な妨害をしてる暇なんてありませんよ」
そう言い切ると、神崎さんは一層不機嫌な表情を浮かべる。まるで信じられないという風にかぶりを振るが、俺たちは全く身に覚えがない。この店にいる誰一人として、そんな卑劣な行為に手を染める理由がない。
そこへ、調理場から水沢さんが進み出て、冷静な口調で言葉をつないだ。
「神崎君、さっきの悪い評価って、本当に私たちの仕業だと思ってるの?そんなことしなくても、今の『レストラン神崎』には問題があるはずよ。なんと言っても、安いところから買い叩いた野菜ばかり使ってるんでしょ」
「はあ?野菜なんてどれも同じだって言ってるじゃないか。何が違うってんだ?」
「違うわよ。吉川さんの野菜を使っていた頃は、調味料は最低限で済んだでしょう。私も『レストラン神崎』にいたから分かるけど、野菜の旨味そのものが強いから、塩とオリーブオイルだけでも美味しい料理が作れたわ。でも、今のあなたの店は、安いけど鮮度の低い野菜を大量に仕入れてるから、どうしても旨味が足りない。その穴を埋めるために、強めの味付けにしてるのよ」
「それが何だって言うんだよ。味なんて好みだろ」
「好みね。確かに好みもあるけど、そのやたら濃い味付けって、1度や2度なら喜ばれるかもしれない。でも、何度も通おうというリピーターにとっては、いずれ飽きが来る。バリエーションが作れないから。しかも、野菜の持ち味がなくなってしまうから、最終的になんだか単調で美味しくないと感じる人が多い。だから、悪評が増えてるんじゃないの?」
彼女の分析は的確だった。俺の野菜を使えば、野菜そのものの味が軸になる。だからこそ、調味料を最小限に抑えられるし、素材の持つ個性で様々なアプローチができる。しかし、安い野菜しか使えない場合、旨味や香りを補うために強い味付けや油を使わざるを得ない。そのせいで客が飽きてしまい、口コミが悪化しているのだろう。
「俺たちは逆に、いい野菜を生かして調味料を最小限に抑えた料理を提供してきました。シンプルだけど、一口食べれば素材のクオリティが分かるって、食通の客層には結構受けてるみたいですよ。最近、食通のインフルエンサーが取り上げてくれたり、海外からのグルメツアーで紹介されたりしていて、うちはおかげ様で繁盛し始めました」
そう言うと、神崎さんは悔しそうに眉をひそめた。
「くそ」
そうつぶやいて、神崎さんは苦々しげに眉をひそめた。かつては高圧的な態度で「お前のところの野菜なんていらない」と言い放っていたのに、今の彼にはまるで余裕がない。どこか焦りに駆られたようなその眼差しは、痛々しいほど切実だった。
ふと、彼は罰が悪そうに視線をそらし、そして決心したように口を開く。
「そうだ。頼むよ。もう一度、お前のところの野菜を下ろしてくれないか。そしたら、また客が戻ってきてくれるかもしれない。うちの店も本来の評判を取り戻せる。頼む。ほんの少しだけでもいいんだ。試作品としてメニューに取り入れたい。お前の野菜なら、客が美味しいっていうのは分かってるんだよ。頼むよ。もう一度、うちに野菜を下ろしてくれないか?このままじゃ、店が立ち直れない。お前だって、元はうちのレストランと付き合いがあったんじゃないか」
あまりに突然の懇願に、俺は少し目を見開く。かつては「お前の野菜なんか高すぎる」と散々言われてきたのに。まさか、再び取引を持ちかけてくるなんて。
「すみません、神崎さん。実はもう『レストランベルデ』と契約を結んでしまっていて、現時点では他の店に下ろすのは難しいんです」
そう言った時、神崎さんの顔には何とも言えない苦渋の色が浮かんだ。彼は一度大きく息を吐き、まるで奥底に隠していた本音を吐き出すように口を開く。
「俺は、父を超えたかったんだ。仙台が築いた店は確かに高級路線で有名になったけど、正直、限られた客しか来ないことがずっと悔しくてさ。もっと多くの人に美味しい料理を味わってもらいたかったし、海外に出店して世界にうちの料理を広めたかったんだよ。なのに、結局は焦ってコストを切り詰めることばかり考えて、お客さんのことを二の次にしてしまった」
苦しそうに言葉を継ぐ彼の声は、かつて俺が知っていた傲慢な二代目オーナーのそれとは、まるで違っていた。今の神崎さんは、自分の過ちを素直に認め、悔いているように見える。
「大事なお客様の満足が最優先なのに、俺はいつの間にかそれを忘れてたんだ。安い野菜を買い叩いて価格を下げれば、確かに客が増えると思ったけど、満足してもらえる料理が作れなきゃ意味がない。結局、自分の夢が先走りすぎて、店の本質を見失ってたんだな」
その言葉を聞きながら、俺は水沢さんと目を合わせる。色々あったけれど、彼が今本音をさらけ出しているのは分かるし、その悔しさも痛いほど伝わってきた。
「神崎さん、俺たちがずっと大事にしてきたのは、素材の価値や食べる人の幸せなんです。いい野菜を生かすために、決して安易な手段には走らないようにしてきました。確かに、もっと多くの人に料理を届けたいという夢は素晴らしいと思います。でも、お客さんを思わない経営をしてしまったら、その夢自体が台無しになってしまうんですよ」
彼は俯き、唇を噛みしめたまま頷く。次にどんな言葉を返せばいいのか分からないのだろう。その姿はどこかもろく、同時にかつての傲慢さが嘘のように消え去っていた。
神崎さんは暗い表情で俯いたまま、ふと水沢さんの方へ視線を移した。
「あずさ、お前には辛い思いをさせたよな。昔、お前がまだ子供だった頃、いずれは外国で料理を学びたいって言ってたの、覚えてるか?俺はあれをずっと叶えてやりたかったんだよ。世界にうちの店を広げれば、お前も海外で自由に料理ができる。そのためには、どうしても金が必要で」
神崎さんが語るその理由に、水沢さんは息を飲む。昔から神崎さんとは幼馴染みだと聞いていたけれど、そんな経緯まで絡んでいたなんて、俺は初耳だ。どうやら彼が海外進出にやたらと執着していたのは、自分の野心だけじゃなく、彼女のためでもあったらしい。
「お前は、ここで新しい夢を見つけたんだな」
その問いかけに、水沢さんは小さく頷く。
「うん。私、海外に行く夢だけが全てだと思ってたけど、ここで吉川さんの野菜を使って料理してたら、なんだかもっと大きな可能性があるって感じたの。自分の料理が世界だって変えられるんじゃないかって。だから、私はこの店で新しいスタートを切ろうと思う」
神崎さんはその言葉を聞くと、苦しそうに目を伏せる。
「そうか。なら、こいつを頼むよ。こいつ、あずさは昔から料理にかける情熱が半端なくて、俺もいつも振り回されてたんだ。でも、その分だけ無茶もするからな。困ったら助けてやってくれ」
俺は思わず胸が苦しくなったが、それでも静かな決意を込めて頷く。
「わかりました。彼女と一緒に、これからも一緒に店を盛り上げていきます」
水沢さんが唇を震わせながら、こぼれ落ちそうな涙をなんとかこらえる。神崎さんはその姿を眺めていたが、やがて何も言わず、ふらりと背を向けて立ち去っていった。かつて見下された相手の元へ頭を下げに来るなんて、どれほどの屈辱だったかは測り知れない。だが、彼にしかわからない思いが、確かにそこにはあったのだろう。
神崎さんの足音が遠ざかっていき、扉が閉まる音がかすかに聞こえると、店内の静寂が一層際立つ。しばらくの間、水沢さんはその場に立ち尽くしていたが、やがてこらえきれなくなったように膝を折り、床に手をついて俯いてしまった。
「あいつ、バカよ。本当に、こんな形で過去を引きずり出して。私が子供の頃に何気なく言った一言なんて、覚えてなくていいのに」
声は震え、瞳からは涙がぽろぽろと落ちている。彼女の思いが痛いほどに伝わってきて、俺はどう声をかければいいのか分からなかった。だけど、黙っておくことなんてできない。そっと彼女の肩に手を触れ、少し身をかがめる。
「水沢さん、大丈夫ですよ。きっと神崎さんは、あなたの言葉を本当に大事に思ってたんです。たとえ歪んだやり方だったとしても、あなたの夢を叶えたかったんだと思います」
そうささやくと、彼女は顔を上げ、涙で濡れた瞳をこちらに向ける。
「でも、私、結局何もしてあげられなかった。やり方は絶対ダメだって分かってたのに、もっと早く止められたら」
もう一度こぼれる涙。俺は迷わず、彼女の肩を支えるように引き寄せ、ぎこちなく抱き寄せる。なんと言葉をかければいいのか分からないから、せめてこのぬくもりだけでも感じてもらいたくて。
「あなたが止められないくらい、あの人は一生懸命だったんだと思います。幼馴染みとして、海外進出を夢見るあなたを見て、いつの間にか使命感まで背負ってしまったんでしょう。でも、もう大丈夫です。水沢さんには、ちゃんと守れる場所がある」
「吉川さん」
彼女は俺の腕の中で小さく震えていたが、徐々に呼吸を整え、体の力が抜けていくのを感じる。やがて、俺の胸元に顔をうずめたまま、小さくつぶやいた。
「ありがとう」
彼女をそっと抱きしめながら、俺は自分の昔話を口にした。
「実は俺も、あなたに道を切り開いてもらったんです」
水沢さんが驚いたように顔を上げる。さっきまで涙ぐんでいた瞳が、今度は違う好奇心で揺れている。
「ほら、俺って農家の出身でしょ。でも昔は、農業なんて嫌で嫌で仕方なくて。両親が畑仕事に忙しくしてるのを見ても、なんでこんなに大変な思いをしなきゃならないんだって思ってたんです。だから、がむしゃらに勉強して、農業からは逃げ出したかったんですよ。ハーバードに行けたのも、その反発心が大きかったんだと思います」
そう言いながら、俺はふと遠い記憶を思い出す。子供の頃の夏の終わりの田舎道。両親が仕事で出払っていて、一時的に祖父母の家に預けられていたあの数日間が、人生を大きく変えるきっかけになった。
「ある日、祖父母の田舎に行ってた時、退屈しのぎに外をぶらぶら歩いてたら、畑の端っこで1人の女の子に声をかけられたんですよ。『これ、食べてみる?』って、何かの野菜を手渡してくれて」
水沢さんが興味深そうにまばたきをする。俺はそのまま言葉を続ける。
「正直、最初は『え、こんなのそのまま食べるの?』って戸惑ったけど、一口かじったらすごく甘くて美味しかったんです。今でも覚えてます。まるでトマトでも、フルーツトマトみたいに濃厚な味わいで。こんなに美味しい野菜があるんだって。あの瞬間、それまで嫌っていた農業が突如として輝いて見えた。農業ってすごいって思えたんですよ」
話しながら、俺はその時の光景がありありと蘇ってくる。田舎道に降り注ぐ夕日のオレンジ色、まだ小さな手に握られたその野菜。そして、少し恥ずかしそうにしながらも「どう、美味しい?」と聞いてきた女の子の笑顔。
「そのことは、それきり会話も少ししかしなかったんです。でも、俺の中では『農業も面白いかもしれない』っていう気持ちが生まれて。そのまま、一旦は『農業を目指すなんてありえない』って気持ちと葛藤しながらも、結局はハーバードでAIを生かした農業を研究するまでに至りました。だから、あの時生のまま野菜を食べさせてくれた女の子に、俺はずっと感謝してるんです」
そこでようやく、俺は水沢さんの瞳をじっと見つめる。彼女も目を見開きながら、信じられないという表情を浮かべている。
「私、祖父母の家で畑仕事を手伝っていた頃、近所に来てた男の子に『食べてみる?』って生野菜をあげたことがあるの。ちょっと年は上の子だったけど、すごく驚いた顔をしてて。まさか、あれがあなただったなんて」
ぽろりと涙を流しながらも、彼女は穏やかな笑顔を浮かべる。まるでずっと忘れていた記憶が、音を立てて繋がるように。俺の胸も熱くなる。
小さく息を整えながら、どちらともなくそっと唇が近づいて。もしかしたら、この一瞬が過ぎてしまえば、いつもの俺たちに戻るのかもしれない。それでも、今はただお互いの存在を確かめ合いたかった。長い沈黙の中で、彼女の手が俺の背にそっと添えられる。店の中の空気が、少しだけ温かく変わった気がして、俺は思わず目を閉じた。切なくて、けれどどうしようもなく甘い。この瞬間こそが、今の俺たちの全てだった。
それからしばらくして、俺たちのレストラン「ベルデ」はますます繁盛するようになった。AIで管理した農場と、あずさが生み出す新作メニューは多くの人に支持され、新しいコースの予約は常に埋まる勢いだ。アレクサンダーも「こんなに順調なら、次の店舗展開も考えられる」と嬉しそうに笑っている。
そんなある日、俺が畑で野菜の収穫を終えて店に戻ると、あずさが穏やかな笑みを浮かべて待っていた。いよいよ、赤ちゃんがお腹の中で大きく動き始めているという。まだ数ヶ月先だけれど、新しい家族を迎える準備は着々と進んでいる。
「ほら、ここ、動いてるの分かる?」
あずさがそう言って、俺の手を引き寄せ、お腹に当ててくれる。くすぐったいような幸せが胸に広がる。2人が出会ったのは、あの不思議な縁があったからだと思うと、この小さな命にも運命を感じずにはいられない。
その翌週、思いもよらない人物が店を尋ねてきた。神崎さんだ。以前のような傲慢な雰囲気はすっかり消え、どこか柔らかな目つきをしている。俺は少し身構えたが、彼は以前のように怒鳴り込むこともなく、静かに頭を下げた。
「元気そうだな、2人とも。店も繁盛してるようで、何よりだ。俺もようやく、父の店を1から立て直す方法を見つけたよ。地元の農家と改めて連携して、上質な食材と手頃な価格の両立を探すつもりだ。そりゃ簡単じゃないだろうが、客に喜ばれる店作りを真面目にやってみようと思ってる」
その表情に、嘘は感じられない。前は安さだけを追いかけて失敗したが、今度は客を大事にしながら、多くの人に届ける形を模索しているらしい。海外進出の夢は諦めていないというが、闇雲に突き進むのではなく、一歩ずつ努力する道を選んだようだ。
「お前たちを見て、学んだんだよ。結局、誰かを踏みにじってまで手に入れた成功は、長続きしないってな。本当に、すまなかった」
彼はもう一度頭を下げて、店を出ていった。その背中は、昔の存在感とは違い、どこか清々しい気配さえ漂っている。うちの店を追い出されるように去った過去からは想像もつかないが、きっと本当に学び、悔い改めたのだろう。
何もかもが丸く収まったわけじゃないが、少なくとも彼は自分なりの道をもう一度歩み始めている。俺たちもまた、新しい命を迎える準備と、これからの店作りに追われる日々だけれど、AI農法も料理の研究も、新しい家族の誕生も、全てが希望に満ちている。
大切なのは、お互いを高め合い、そして何のために頑張るのかを見失わないこと。農業もレストランも子育ても、そこにいる人や食べる人の幸せを願ってこそ意味がある。俺も、あずさも、神崎さんさえも、その学びを胸に、さらに先へ進んでいこうと決めているのだ。



