6年前の春、姉は縁談を「貧乏な男」と笑って蹴った。そして、その相手を私に押し付けた。「あんたにはお似合いよ」と言って。私はあの日、「嫌なら断ってください」と言ってくれた、その貧乏な男と結婚した。今日、その姉がいたロビーで、夫がこう言った。「ここ、先月うちが買収したけど」と。姉は笑った。この高級ホテルの、一番いい角部屋で「支配人夫人」を演じてきた姉が。でも、その部屋は、3年間、無理やり空けさせ…
ロビーの真ん中で、姉が私たちを見つけた。高い天井の下で、その声だけがよく通った。姉は私の靴からコートの襟元まで順番に目で撫でると、隣に立つ私の夫を見て口の端を上げた。 「まだこの人と一緒だったんだ。」 6年前、この人を「いらない」と言ったのは姉の方だ。貧乏な男に嫁ぐのはあんたがお似合いよ、と笑ったのも姉だった。 「こんな高級ホテルに来る余裕あったの?」 私は答えなかった。返す言葉を持っていなかったわけではない。ここで使う言葉ではないと思っただけだ。姉は左手の指輪を光らせ、胸を張った。 「私の夫はこのホテルの総支配人よ。」 隣で夫が天井を見上げた。それから、いつもの声で言った。 「ここ、先月うちが買収したけど。」 姉が笑った。声を上げて、体を折って笑った。 笑っていられたのは、そこまでだった。 6年前、姉が突き返した縁談を押し付けられたのが、妹の私だった。話はその春から始まる。 私は三倉沢。32歳。痩せたのは結婚してからのせいだ。東京の郊外で生まれ育った。父と母と、2歳上の姉がいる。姉の名前はみずほという。うちの食卓には決まった順番があった。焼き魚の大きい方は姉の皿に乗る。私の皿には小さい方が乗る。誰も理由を言わないし、私も聞かない。物心ついた時には、もうそうだった。 母は近所の人に姉を紹介する時、必ず同じ言い方をした。 「上の子はね、顔で得をするタイプなの。」 そして私を指して、こう続ける。 「下はまあ、丈夫なのが取り柄でね。」 私はその度に笑った。笑うのが1番早く終わる方法だと、小学生のうちに覚えた。 高校を選ぶ時も、姉が学費の高い私立の推薦をもらったので、私は公立にした。父にそう言われたわけではない。母が電卓を叩きながら「2人分は無理よね」と零すのを、私が先に受け取っただけだ。 父の口癖は「姉の邪魔だけはするな」だった。私が何かで邪魔をしたことは一度もない。それでも父はその言葉を言い続けた。言い続けることで、順番を確かめていたのだと思う。 短大を出て、私は事務機器のメーカーに入った。営業事務で、伝票と見積書と、客からの電話を受ける仕事だ。地味が好きだった。誰かが「あの件、どうなってる?」と聞いてきた時、すぐに答えられる自分が好きだった。 姉は都心の商業施設で受付をしていた。「制服が可愛い」という理由で選んだ職場だ。休みの日は写真を撮って、撮った写真を並べて選んで、選んだ一枚を上げる。それに何百と反応がつく。両親はそれを自分の手柄のように話した。 入社5年目に、私は社内の表彰をもらった。受注の入力ミスを1年でゼロにした部署に贈られるもので、伝票を全部見直したのは私だった。嬉しくて実家に持って帰った。母は賞状を裏返した。 「これ、お金は出るの?」 「出ないよ。」 「じゃあ、何なの?」 そこへ姉が入ってきて、爪を見せた。 「ねえ、見てこれ。銀座で行ってきたの。」 母の目がそちらへ移り、賞状は電話台の上に置かれた。翌週実家に行った時、それはまだ同じ場所にあった。そういう家だ。 私が買ったものも、姉の手に渡ることがよくあった。給料3ヶ月分を貯めて買ったコートを、姉が黙って着て出かけ、帰ってきた時、袖口に化粧の色がついていた。 「クリーニング代、出そうか。」 姉はそう言ったが、財布は出さなかった。母は洗面所から覗いていった。 「みずほが着ると、そのコートも生きるわね。」 私はその日、そのコートを畳んで箱に戻した。以来、一度も出していない。 母には昔から一つの決まり文句があった。 「みずほは美人だから、いい家に嫁ぐわよ。」 それを言う時の母の声は、予言というより予定に近かった。 姉が27を過ぎた頃から、その予定は薄っすら焦りの色を帯び始めた。 6年前の春だった。休みの日の昼過ぎ、実家に呼ばれた。座敷に厚い封筒が置いてあり、母はそれを両手で撫でていた。 「みずほに、お見合いの話が来たのよ。」 父の元同僚に、樋口雄夫さんという人がいる。定年まで同じ職場にいて、退職してからも年賀状のやり取りが続いている人だ。その樋口さんが持ってきた縁談だった。 母が中身の紙を広げた。 「三倉和馬さん、32歳。会社経営してらっしゃるって。」 「社長?」 その言葉に母の背筋が伸びた。姉が身を乗り出した。 「社長、どんな会社?」 母が紙を目で追った。 「ホテルとか旅館の立て直し。」 「立て直しって何よ?」 「潰れそうなところを預かって、よくする仕事らしいわ。」 姉の顔から興味が消えていくのが、隣にいても分かった。父が咳払いをして、紙の下の方を指した。 「社員が4人だそうだ。」 「4人?」 姉が笑った。 「それ、会社って言わなくない?」 母は写真を手に取ると、蛍光灯にかざした。作業着に近い格好の男の人が、旅館らしい建物の前に立っている写真だった。髪は短く、笑い方が控えめで、右手に何かを持っている。 … Read more