Vzduch v kanceláři byl tak tichý, že jsem slyšela jen vlastní srdce. Šest měsíců jsem předstírala, že jsem hluchá, jen abych tu přežila. Jenže pak mi u nohou spadl jeho manžetový knoflíček a můj…

Vůně citronového leštidla a čpavku byla jediným jazykem, kterému měla rozumět. Byl to ostrý, čistý pach, který prořezával ticho 58. patra. Jade pohybovala mopem v pomalých, pečlivých obloucích, mokrá vlákna líbala italský mramor. Osmička, obrat, znovu. Její pohyby byly tichou modlitbou, meditací v neviditelnosti. Tmavě modrá uniforma byla stínem, bílá zástěra kapitulací. Byla duch, který … Read more

28 August 2026

「お前は部害者だ。俺たちの仕事の邪魔をするな」…

お前は部害者だ。俺たちの仕事の邪魔をするな。ここから去れ。二度と社長に近づくな。 元相棒・大地の冷たい声が、高級ホテルの廊下に響いた。俺は立ち尽くすしかなかった。あの女性社長を騙そうとしている奴らの正体を暴こうとしたのに、誰も俺の言葉を信じてくれない。 三年前の事件以来、俺は清掃員として身を隠すように生きてきた。濡れ衣を着せられ、相棒からも見捨てられた男。今では誰も俺を信用しない。 しかし、あの契約相手の外国人の声に、聞き覚えがある。微妙な訛り。独特の発音。それは三年前、俺たちを罠に落とした真犯人の声と同じだった。 若い女性社長は、自分が騙されていることに気づいていない。父親の残した大切な技術が、悪徳な産業スパイに奪われようとしているのに。 「それでは、契約書にサインをお願いいたします」 契約相手の外国人の声に、俺は血の気が引いた。 「お待ちください」 意を決した俺は、会議に乱入した。もう一度だけ、正義のために立ち上がるために。たとえ誰も信じてくれなくても、たとえ再び裏切り者の烙印を押されても。 午前六時。俺、茨城は今日も誰よりも早く、ホテルプリンスタワーに足を向けた。ここは都内でも指折りの高級ホテル。政財界の重要人物や海外からのVIPが数多く宿泊する場所だ。 まだ薄暗い廊下に響く俺の靴音だけが、静寂を破る。清掃カートを押しながら、エレベーターで最上階へ向かう。 「茨城さん、おはようございます。今日も早いですね」 出勤してきたらしい同僚が笑顔で声をかけてきたが、俺は口元をぴくりとも動かさない。 「おはようございます」 短く返事をして、俺は自分の担当フロアへ向かった。背後から同僚のため息が聞こえてきたが、気にしてはいけないと自分に言い聞かせる。俺はただの清掃員でしかない。誰とも関わらず、黙々と仕事をこなす。それでいい。それが一番いい。そうすれば、誰にも迷惑をかけないのだから。 そんな日々を送っていた、ある日の午前九時を過ぎた頃。突然、ロビーが慌ただしくなった。フロントデスクの向こうで、スタッフたちが忙しそうに動き回っている。どうやら重要な宿泊客が到着するらしい。俺は床を磨きながら、その様子を横目で見ていた。つい周囲の状況を観察してしまう癖が抜けない。 「説通ミク様のお到着です」 フロントマネージャーの声が響いたその時、ホテルの正面入り口から一人の女性が現れた。年の頃は二十代後半だろうか。落ち着いた紺色のスーツに身を包み、長くて豊かな黒髪をきちんとまとめている。顔立ちは整っているが、どこか疲れたような影が見える。重い責任を背負っているような、そんな雰囲気を醸し出していた。 彼女は確か、中堅製薬会社・桜宗薬品の若き社長だ。つい半年前に前社長だった父親を亡くし、その後を継いだという話だった。 そんな彼女の後ろから、二人の男性が続いて入ってきた。一人は五十代半ばの恰幅のいい男性。高級そうなスーツを着込み、金縁の眼鏡をかけている。歩き方に威厳があるが、同時に何かを企んでいるような計算高い目をしていた。 そして、もう一人を見て、俺の手が止まった。モップを握る指に、思わず力が入る。背の高い三十代前半の男性。整った顔立ちに知的な雰囲気を漂わせている。左手にはノートパソコンの入ったケースを持っている。俺の視線は、彼の右手に釘付けになった。 指が、わずかに不自然に曲がっている。 「真獣事務。こちらが例の通訳の方ですね」 禿げた男が、眼鏡の男性に向かっていった。 「ええ、説社長。こちらが土田大地さん。フリーランスでは最高の通訳者です。今回のような重要な国際契約には、彼のような優秀な人材が不可欠ですからね」 真獣さんの声には、妙な得意げな響きがあった。まるで自分の手柄であるかのように。 「土田と申します。今回はよろしくお願いいたします」 通訳の彼が説さんに向かって頭を下げる。その瞬間、俺は慌ててモップに目を落とした。心臓が早鐘を打っている。 「それでは、お部屋までご案内いたします」 フロントスタッフの声が聞こえる。三人がエレベーターに向かって歩き出した。俺は床を磨くふりをしながら、彼らの後ろ姿を見つめていた。通訳の彼の右手の指の形が、俺の胸に深く突き刺さる。だが、俺はその記憶を振り払うように首を振った。関係ない。俺には、もう関係のないことだ。エレベーターの扉が閉まり、三人の姿が見えなくなる。俺は再びモップを動かし始めた。いつものように誰とも関わらず、黙々と床を磨く日常に戻ろうとした。しかし、胸の奥がざわついていた。 翌日の午後。俺はロビーの床を磨いていた。この時間帯は宿泊客の出入りが多く、床はすぐに汚れてしまう。俺は膝をついて、一枚一枚のタイルを丁寧に拭き上げていく。この作業に集中していると、余計なことを考えずに済む。 そんな時だった。 「やはり、お前か」 聞き覚えのある声が、俺の頭上から降ってきた。はっとしたが、俺は立ち上がろうとしなかった。立ち上がれば、彼と目を合わせることになる。それだけは避けたかった。 「おい、茨城。顔あげろよ。まさか、昔の相棒の顔も見られないのか」 大地の声に苛立ちが混じる。俺は仕方なく、ゆっくりと立ち上がった。そこには、三年ぶりに見る相棒の顔があった。以前よりも少し痩せたように見えるが、鋭い目つきは変わらない。ただ、その瞳の奥に宿る感情が以前とは全く違っていた。軽蔑、怒り、そして深い失望が込められている。 「やっぱり、お前だったか。落ちぶれたな、茨城。まあ、お前みたいな裏切り者は、そこで箒と雑巾を相棒にしているのがお似合いだ」 大地は口の端を歪めて、嘲笑を浮かべた。その言葉が俺の胸に鋭く突き刺さる。だが、俺は表情を変えることなく口を結んでいた。 その時、エレベーターから説さんと真獣さんが現れた。 「土田さん、探したんですよ。こんなところで何をしているんですか?」 説さんが心配そうに尋ねる。 「ああ、すみません。ちょっと昔の知り合いに会いまして」 大地は振り返ると、説さんに向かって笑顔を見せた。しかし、その笑顔には作り物めいた冷たさがあった。 真獣さんが興味深そうに俺を見る。 「知り合い? この清掃員の方と?」 「ええ。こいつは昔、国際警察にいたんですよ」 大地は俺を見下ろしながら言った。説さんの目が見開かれた。 「国際警察……」 「そうです。しかも、ただの警察官じゃない。“伝説の捜査官”なんて呼ばれていました。七か国語を操り、どんな嘘でも見抜くプロファイリングの天才。国際犯罪捜査の第一人者として、各国の警察から一目置かれていた男です」 大地の声には、明らかな皮肉が込められていた。説さんは驚いたような表情で俺を見つめている。真獣さんも同様だった。 大地は続けた。 「そして、俺はそんな彼の相棒でした。元国際警察の天才ハッカーとして、彼と一緒に数々の事件を解決してきました。でも、それは三年までの話です」 大地は右手を上げてみせた。わずかに曲がった指が蛍光灯の下で影を作る。 「三年、俺たちは国際的な産業スパイ組織を追っていました。長い捜査の末にようやく核心に迫ろうとしていた時、こいつが致命的なミスを犯したんです。俺が制止したにも関わらず、独断で突入を決行した。結果、俺たちは敵の罠にはまり、俺は重症を負った。爆発に巻き込まれて、指の神経を損傷したんです」 … Read more

28 August 2026

義妹のナナが、私の結婚相手を奪おうとしている。彼女が壊した高級骨董品の代わりに、姉である私を押し付けたんだ。私たちは、もう帰る場所もお金もない状態で、麓元に放置されて。すると、夫が財布から1万円札を10枚も出して、こう言ったんだ。「これで好きなものを食べて」と。その瞬間、私は悟った。この家に嫁いだ時点で、復讐は完了している。でも、もっと残酷な復讐の方法を思い付いてしまった。「新一、この隙に、…

「帰ります。新婚さんを邪魔したくないので」 残念だな、せっかく来てくれたのに。新一が寂しそうにする。私は気を遣って声をかけた。「ナナのことはいいから、ご飯にしましょう。今日の夕飯は鹿肉よ」 「鹿肉とか、受けるんだけど」と笑うナナをよそに、新一の答えを待つ。 「いや、これで好きなもの食べて。麓元まで妹さんを送っていったついでに」 そう言った新一は、財布から1万円札を10枚ほど出していた。 彼と結婚した時点で、私の復讐はほとんど完了している。家に縛りつけようとした家族から逃げ出せたのだから。けれど、たった今、別の復讐方法を思いついてしまった。新一に協力してもらえれば、私を苦しめたナナをどん底に突き落とせる。さらには、父や祖父にも仕返しができる可能性もあった。長年の恨みを晴らすチャンスだ。この機会は絶対に逃さないと、私は新一が出した1万円札を1枚だけ受け取った。 私は藤倉洋子、25歳。1週間ほど前に婚姻届を提出したばかりだ。夫の新一は30歳の漁師だが、私が知っているのはそれだけ。理由は、妹のナナの代わりに彼と結婚したからだ。ただ、私には新一との結婚に大きなメリットがあった。 何も知らないナナは、こんな風に笑う。「田舎の漁師と結婚とか最低。私だったらごめんだわ。でも、地味で不細工なお姉ちゃんは相手を選べないから仕方ないわよね」 結婚話の発端が自分の失態だったことを忘れたようだ。自分に都合がいいように考え、人を馬鹿にするナナが、私は昔から嫌いだった。しかし、彼女の性格については家族にも責任がある。特に父と祖父は、ナナを幼い頃から甘やかしていた。何をするにもナナが一番。誕生日もクリスマスも、テーブルの上には彼女が好きなものばかり並ぶ。旅行の行き先を聞かれるのも、彼女の役目だった。そんなナナと対象的に、私の意見はそっちのけ。おねだりをしてみたけれど、最後は「お姉ちゃんだから我慢しなさい」と父に言われた。 「ナナの方が可愛いからだよね」 幼い私が気づいた結論がこれだ。それ以来、私は家族に期待するのをやめた。長女というだけで家事を手伝うように言われ、自由な時間はほとんどない。休日に出かけるナナを横目に、私は家の手伝いをしていた。 二つ下のナナが中学を卒業した日のことだ。私の高校では進路調査表が配られた。「話を聞いてくれそうなのは、お母さんだけよね」とつぶやきながら家に帰る。リビングではナナが得意気に話していた。「見て、卒業式の後、お父さんと正門の前で写真を撮ったのよ」 「そう、よかったわね。ごめんなさいね、行けなくて」と母が申し訳なさそうに言う。季節の変わり目で、母は風邪を引いていた。「いいえ、具合悪かったんでしょ?」「ええ、でも、一度きりのことだから。平気だって。この写真もプリントアウトして、卒業アルバムに挟んでおくね」 私のアルバムに、家族との写真は1つもない。自分と友達だけの写真が、私の大切な思い出だった。 高校を卒業したら、家を出てやる。当然の結論だと思っている。やがて高校卒業が迫り、私はこっそりと家を出る準備を始めた。まずは担任教師に相談し、就職先を探す。見つけたのは、実家からかなり遠い場所だった。次に、一人暮らしができるアパートを借りる。これだけは、親の力を借りるしかなかった。 「ねえ、お母さん、ちょっと相談があるんだけど」 母が一人の時に相談してみる。意外にも、すんなりと一人暮らしを受け入れてくれた。「じゃあ、手続きはお母さんがするわね。就職面接は自分で頑張るのよ」「うん、分かってる」。面接は根性で乗り切る。結果、私は地方の会社に就職が決まったけれど、そんな中で父が異変に気づいてしまう。 卒業式の一ヶ月前になり、父は家に祖父を呼んだ。私がリビングへ行くと、父と祖父がこちらを睨みつけている。「どこへ行きたいのか、分かってるな」「何のこと?」私は顔を背けた。その途端、祖父が声を荒らげる。「とぼけるな。どうして勝手に就職先を決めたんだ?」「勝手じゃないわよ。学校で相談したわ。お母さんにも」「そういうことじゃない」。ドンと祖父がテーブルを叩いた。思わずビクッとしてしまう。視線を戻すと、私を睨む父と目があった。 「お前の将来のことは、私たちがちゃんと考えていたんだぞ」「何?お金持ちと結婚させるとか?」自分で言っておきながら、悲しくなる言葉だ。しかし、それさえも父に一笑されてしまう。「バカ。器量が悪いお前が、お金持ちと結婚できるわけがないだろう。就職先のことだ」「就職先?」「秀明の会社と取引がある工場だ。本条社長には、私からも頼んでおいたのに」 秀明というのは父の名前だ。父が勤務する会社には、以前祖父も在籍していた。今の社長とも面識があり、互いに骨董品が趣味ということもあって、仲がいいそうだ。「余計なお世話よ。就職先くらい自分で探せるわ」「そうじゃない。親父は、育ててやった恩を返せと言ってるんだ」 父が声を張り上げる。私は呆然とした。母はまだしも、父や祖父に恩を感じたことは一度もない。いつもナナばかり可愛がり、私はほったらかしだったからだ。腹が立った私は、思わず反論した。「恩を返せって、恩義を感じたことはないけど。具体的に何をしてほしいの?」「それが親に対する口の聞き方か」横から祖父が怒鳴る。けれど、もう何も怖いものはなかった。「聞いてるだけでしょ。すぐに怒鳴るけど、今時は通じないわよ。何かあったら警察沙汰になるんだから」 私の言葉に、祖父も父もひるむ。思い当たることがあるようだ。「近所で恥をかきたくなかったら、落ち着いて話してくれる?」少し煽るように言ってみる。父は悔しそうに唇を噛みしめた。「もういい。勝手に出ていけ。その代わり、家には金を入れてもらうからな」「悪いけど、前提が矛盾してるわよ」。正論をぶつけると、父は視線を横へ動かし、隣の祖父に助けを求めた。 「お前の就職先の会社に、断りの連絡を入れてもいいんだぞ」「脅すつもり?それが家族のすること?」「どうなんだ?」。こちらの質問は無視して、祖父は答えを迫ってくる。少し考えた私は、「仕送りをすればいいんでしょ」と答えていた。妥協したわけではない。そう答えておけば、丸く収まると思っただけだ。問題は家を出るまで。何とでもなると考えていた。 やがて高校を卒業した私は、家を出る。引っ越し先は誰にも言わなかった。ただ、手続きをした母は知っている。「絶対に言わないでよね」「大丈夫よ。手続きの時の書類は処分しちゃったから。その代わり、あなたが連絡してこない限り、助けることもできないわよ。いいのね。逆に念を押されたけど」「もちろんよ」「じゃあ、初めは何度か家にお金を入れなさい。油断させておいて。貯金ができたら、別のところへ引っ越すのよ」 思いもよらないアドバイスに、涙が溢れる。最後に「ありがとう」と母に告げ、私は家を出た。 就職後、最初の半年ほどは素直に仕送りをする。貯金ができた後は、別のアパートへ引っ越した。新居の住所は、母にも告げていない。引っ越してからは実家との連絡を絶ち、携帯電話の番号も変更した。こうして、母のおかげで私は実家から逃げることができたのだった。祖父や父が怒る姿が目に浮かぶけれど、下手に確認もできない。当然、地元の友達と連絡を取るのも難しい。何かすれば、こちらの居場所がバレるかもしれないからだ。「当分は我慢よね。我慢」。自分に言い聞かせながら、懸命に働いた。 そして、3年ほどが経った時のことだ。職場に電話がかかってきた。「もしもし。ご要件は」仕事の電話だと思ったのだが、通話口の向こうから聞こえたのは、ナナの声。「あ、お姉ちゃん、私だよ。ナナ」「え?ナナ?」「そう、やっと見つけた」。背筋が寒くなる。返答に困っていると、ナナが私にこう言った。「なんで居場所がバレたのか、って思ってるんでしょ。あ、えっと、教えてあげようか。ヒントはSNSよ」 SNSと言われて、色々と考えを巡らせる。アップロードした写真から居場所がバレるという話は聞いたことがあった。だから、私はSNSを活用していない。「自分が写真をアップロードしなくても、周囲の人がやったら同じだよね」。ナナの言葉に納得した。同僚の中には、SNSに写真を載せている人が多い。車内で撮影した写真に、私が映り込んでいた可能性はあった。「誰かのSNSから特定したの?」恐る恐る聞いてみると、ナナは笑いながら答えた。「残念でした。正解は、お姉ちゃんの友達に聞いたのよ」「え?」「お母さんが病気だから連絡したいって言ったら、簡単に教えてくれたわ」 あけらかんと話すナナ。何を考えているのよ。「親が病気とか、嘘にもほどがあるわ」「あ、知らないわよ。そんなこと」。平然と答える様子に腹が立つ。ただ、会社の電話を使っている以上、下手なことは言えなかった。怒鳴りたい欲望をこらえて、静かにナナに告げる。「とにかく、用事は何なの?」「あ、そうだった。お姉ちゃん、帰ってきて」「え?帰る?どこに?」反射的に聞いてしまった。ナナは大声で笑う。「うちに決まってるじゃん。断ってもいいけど、どうなるか分かるわよね」「脅すつもり?」「別に。ただ、会社に迷惑がかかっちゃうかもって話よ」 どう考えても、私だった。就職して3年。周りにいるのは、お世話になった人ばかりだ。会社に何かすれば、咎められるのはナナだろう。だが、多少なりとも会社の業務に影響を及ぼすのは明らかだった。「家に帰ればいいのね」確認すると、ナナは軽く答えた。「会社はやめてね」「どうして」。思わず大きな声が出る。周囲の視線が私に集中した。引きつった顔で、声のトーンを落とす。「会社をやめる必要はないでしょ」「あるわよ。だって、こっちの工場で働いてもらわないと都合が悪いから。なんでずっと仕送りしなかったでしょ?だから、うちに働きに出させて、家にお金を入れてもらおうって話になったのよ」 目の前が真っ暗になった。せっかく逃げ出したのに、これでは元の木阿弥だ。「なら、会社に迷惑がかかるかも。分かったわよ。とにかく今は仕事中だから、夜になったら電話するわ」「待ってるね。でも、逃げたら本当に会社に迷惑をかけるから、覚悟してて」。ナナが強い口調で言ってくる。もう逃げられないと、私は観念するしかなかった。 結局、ナナの脅しに屈し、私は会社に退職願いを提出する。上司は納得のいく理由を聞いてきた。私が家を出た理由を知っていたからだ。「すみません。母が体調を崩して、そばにいたいと思いまして」。とっさに嘘を並べ立てた。上司は私の嘘に気づいていたかもしれないけれど、最後は無言で送り出してくれた。自ら会社と交渉して、少し多めの退職金を勝ち取ってくれたくらいだ。本当に感謝しかない。「お世話になりました。ありがとうございます」。丁寧に上司や同僚にお礼を言い、私は思い出のある会社を後にした。 実家に戻ったのは、それから2週間後のことだ。最初の1週間は旅行をした。実家に戻れば、もう自由はない。そんな覚悟から、最後の思い出作りをしたのだ。残りの1週間は、家の片付けと引っ越し作業だ。辛い日々がまた始まる。毎日ため息ばかりついていた。 引っ越し業者に荷物を預け、私は一足先に電車に飛び乗る。暗く淀んだ空を眺めているうちに、地元の駅に到着していた。そこからタクシーで約20分。二度と帰らないと決めていた実家が見えてきた。家の前でタクシーを降りた私は、気合を入れ直す。「よし、頑張ろう」。玄関のチャイムを押すと、すぐにナナが飛び出してきた。「お帰り、お姉ちゃん」。普通の姉妹なら、感動的なシーンだろう。しかし、私は表情を曇らせていた。「ただいま」「どうしたの?元気ないけど」。当然のことを聞かれ、思わずむっとしてしまう。「当然でしょ。帰りたくなかったんだから」嫌味を言うように告げる。ナナは不思議そうに首をかしげていた。彼女も理由は分かっているはずだ。それなのに、知らないふりをしているなら、本当に腹が立つ。私は彼女に背を向け、家の中へ入った。 まっすぐに自分の部屋に向かう。扉を開けると、部屋の中はガランとしていた。ただ、汚れている感じはしない。「掃除はしておいたわよ。荷物はいつ届くの?」背後から、懐かしい母の声がする。私は背を向けたままで答えた。「明日」「そう、じゃあ明日は片付けを手伝うわね」「ありがとう」。母の顔を見ずに部屋に入り、扉を閉める。部屋の隅に鞄を置き、小さくため息をついた。 「頑張るから。もう一度」。部屋は狭いけれど、一人になれる。悔しさや寂しさから逃げてきた、私だけの空間だ。私にとっては、掛け替えのない相棒と言えばいいのだろうか。そういう場所だと考えていると、部屋の前で父の声がした。「おい、洋子。帰ったら挨拶くらいしなさい」「はいはい」。干渉的になる暇もない。私はため息をつきながら部屋を出た。扉の前で父と鉢合わせになる。「何か言うことはないのか?」「ただいま」「他には?」「別に。話があるのはそっちでしょ」。父は不愉快そうに顔をしかめると、声を荒らげた。「なんだ、その言い方は?」「当然でしょ。帰りたくなかったのに、強引に帰るように仕向けられたんだから」。睨み返す。父は深いため息をついた。「本当にお前は」「何?私が嘘をついているっていうの?」図星ばかりに反論する。何も言い返せない父は、沈黙していた。「とりあえず、どいてくれる?」「なんだと?」「どうせ家事も私の仕事なんでしょ。邪魔しないで」。冷たく言い放った私は、父の横をすり抜ける。背後で何か言おうとしていたようだが、無視した。 そのままキッチンへ行く。母が夕食の準備を始めたところだった。「手伝うわ」「いいのよ。今日くらいは平気。どうせ座っていたら、お父さんが文句を言うから」。キッチンに父が来ることはほとんどない。家の中でも、数少ない心が休まる場所だ。「じゃあ、始めましょう」。一声かけてから料理を始める。しばらくすると、玄関のチャイムが鳴った。「おい、洋子は帰ってきたか?」祖父の声がする。先ほどのチャイムは、彼が鳴らしたものだったようだ。「おお、来たのか」「当然だ。あのバカな孫を叱ってやらんと」。グダグダと文句が聞こえてきて、思わずため息が漏れる。「洋子、大丈夫?」「え?平気。私だって、この数年で少しは成長したから」。ただの強がりではない。社会人を経験して、非常識なクレームに対処する術も身につけている。 食事の用意を終えた私は、堂々とリビングへ行った。「洋子か。お前、どうして仕送りをしなかったんだ?」真っ先に祖父が聞いてくる。私は平然と答えた。「送りをする義務がないからですけど」「なんだと?お前は、育ててもらった恩を返すつもりがないのか?」「恩を返すとか、そんなことは仕送りとは関係ないと思いますよ」。真正面から言い返す。祖父は少し悔しそうに顔をしかめた。「生意気になりよって」「ありがとう。褒め言葉と受け取っておきますね」。ニコリと笑う。祖父はますます顔をしかめる。「まあ、親父、その辺にしておけよ。これからは、どうせ逆らえないんだから」。悪い笑みを漏らす父。やはり、私のことは実の娘とは思っていないのだろう。そう考えると、少し寂しさを覚えた。 「ところで、仕事のことは分かってるか?」「ナナから少し聞いただけよ」「そうか。じゃあ、俺が詳しく話してやる。お前が働くのは、工場だ」。父は食品包装資材を販売する会社で働いている。食品トレーとか、そういうものを取り扱っているところだ。取引先は食品関係の会社で、私が働くのはその中の一つ、地元の食品加工工場だという。「本条社長に頼み込んで、融通してもらったんだからな。ありがたく思いなさい」。高校卒業時も同じような話をしていたことを思い出す。話を聞きながら、私はため息をついた。「それで、工場で働けばいいのね」 「ああ、そうだ。工場で働き、給料は全て家に入れろ」祖父がこちらを見る。私は笑顔で応じた。「お断りします。給料は、私が働いて得たお金ですから」「断るなら、強引にもらうだけだ」「どうぞご勝手に。そしたら私は強盗で訴えますから」。祖父の顔色が変わる。「他にも、恐喝や脅迫で訴えることもできます。覚悟はいいですか?」。反対に、脅すような言い方をした。父と祖父が顔を見合わせる。その後、父が私に言った。「そんなことができると思っているのか。お前も、まだまだ子供だな」「親族例を知らないとは」「知ってるわよ。家族間で勝手にお金を使ったり取ったりしても、罪にはならないという話でしょ」「知っているなら」。口元が緩む父。私は視線をそらしたままで続けた。「強引に奪えば、話は別よ。脅迫や暴力が伴えば、親族の対象外になるわ」 父は言葉を失う。「ここに住む以上、多少のお金は家に入れるけど、それだけ。必要以上のお金は一切渡さないから、ちゃんと覚えておいて」「お前、それが親に対する」「親だったら、子供のお金を奪うようなことをしないでくれる?私は本気だからね」。強い口調で言い返した。ここで負けたら、搾取されるだけの人生に逆戻りだ。絶対に勝たなければならない。「ふざけたことを言いやがって」祖父が拳を握る。高ぶっている私は、彼の手を指差した。「暴力に訴える?いいわよ。すぐに警察に通報するから」。くっ、と祖父は手を引っ込める。一つ深呼吸をした私は、毅然と言い放った。「言われた通りの仕事はするけど、それだけだから。勘違いしないでね」「はいはい。そこまで。お父さんたちの負けよ」 そこで急に、ナナが割り込んでくる。彼女は私を見ながら、こう聞いてきた。「お姉ちゃんも、家にはお金を入れるのよね」「一応ね。家賃分くらいは」「じゃあ、私と同じ額でいい?」「同じ額?」首をかしげる。そういえば、ナナは今何をしているのだろうか。年齢的には大学生という可能性も十分にあったが、高卒で働いていれば、もう社会人のはずだ。疑問に思った私は、ナナに聞いてみた。「ナナ、あなたは何をしているの?」「え?私、社会人よ。お父さんと同じ会社で働いてるの」。間違いなく。だけれど、そんなことはどうでもよかった。働いているなら、ナナも家にお金を入れているのね。「ええ、月5万。多くはないけど、家賃って感じかな」。得意げに語るナナ。私にも同じ額を家に入れろと。「いいわよね。別に、それくらいは」。断るのは簡単だ。しかし、一円も家に入れないのは気が引ける。「分かったわ。5万でいいのね。お父さんもおじいちゃんも、文句ないわよね」。ナナが祖父と父を振り返る。二人は静かに頷いた。こういう時はナナに甘くて助かる。私は安堵していた。 翌日、私が向かったのは就職先の工場だ。父からは地図をもらっただけ。「一緒に行く」とは言っていたが、余計な話をされるのは面倒だから、置いていった。「よろしくお願いします」。上司に挨拶をして、早速仕事の説明を受ける。工場勤務ということもあり、業務内容は単純作業だった。以前と比べると覚えることは多いけれど、かなり簡単だ。危惧していた給料も、悲観するほどではなかった。様々な手当てもあり、以前の水準と同程度はもらえる。私はすぐに新しい生活に慣れていった。 そんな時、同僚との立ち話から妙案を思いつく。「そっか。そういう手があったわね」。早速、アイディアを実行に移した。結果が出たのは、一ヶ月後だ。ある書類を受け取った私は、嬉々として家に帰った。「ただいま」。明るい声で告げる。家にいたのは、ナナと母。真っ先に反応したのは、ナナだった。「どうしたの、お姉ちゃん?なんか嬉しそうだけど」「ああ、うん。ちょっとね」ごまかすように話す。怪しんだナナは、深く追求してきた。「何よ、その言い方。気になるでしょ?」「そう?じゃあ、教えてあげるわね。実はね、寮に入ることになったの」。ナナが首をかしげる。「そうよ。会社の寮。職場に近いし、家にいるよりもずっといいわ」「は?どういうこと?」私に掴みかかってくるナナ。何をされても平気だ。もう、家を出ることは決まったのだから。「断ってよ、そんな話」「無理よ。今後は夜勤や残業で遅くなるって理由で、会社に命じられたんだから」。会社が私の安全に配慮してくれたのは事実だ。けれど、「命令された」というのは少し大げさだった。「じゃあ、家にお金は入れないの?」「当たり前でしょ?一緒に住んでいないもの」。私としては満足だ。ただ、父や祖父はまだしも、ナナが不満に思う理由は分からなかった。そこへ父が帰宅する。騒ぎを聞きつけた彼は、一目散に私たちが話しているリビングへ来た。「どうしたんだ?」大声で。「お父さん、聞いてよ」「お姉ちゃんが」「なんだ、また妹をいじめたのか」。こちらを睨みつける父。私はふんと鼻で笑った。「そんなわけないでしょ」「じゃあなんだ?」「家を出るって話していただけ」。堂々と答える。次の瞬間、父の顔色が変わった。「なんだと?お前、また逃げるのか?」「違うわよ。会社の命令で、寮で暮らせって」。さすがの父も予想外だったようで、もごもごと口ごもっていた。「今後は夜勤とかが増えるから、会社の寮で暮らせって。安全のために」「断れ。そんなもの」「どうして会社の指示を、理由をなんて説明するのよ」「そ、それは」。視線を泳がせる父。適当な理由が思いつかないようだ。そういえば、どうして私を家に縛りつけていたがるのだろうか。同居して手に入るのは、わずかばかりのお金だ。何か理由があるのだろうかと考えていると、父が大声をあげた。「とにかく、私は許さんからな」「じゃあ、今の会社もやめさせる」。「さすがに最終職は難しいわよね」「いや、仕事は俺が」「見つけてくれるんだ?じゃあ、夜の仕事でも何でも構わないわよ。それこそ、家を出る口実になるだけだから」。当然、そういう仕事をするつもりはない。売り言葉に買い言葉だった。じっと父を見る。彼は何も言わず、こちらを睨んでいた。「じゃあ、来週には寮へ引越すから」「ちょっと」「何か文句でもある?」父を睨み返しつつ、訪ねてみる。最後まで返事はなかった。 嫌々ながら、寮へ引っ越す日が訪れる。引っ越し業者が出入りする中、祖父が姿を表した。「秀明から話を聞いた。どういうことだ、洋子。相談もなく、勝手に決めて」。祖父の家があるのは、実家から車で10分ほどの場所だ。外を見ると、家の前に彼の車が止まっていた。「会社の命令なので、相談するも何もないと思いますけど」丁寧な口調で答える。祖父はカッとなった。「それでも、相談するべきだろう」「部外者が口を出すことはできないと思いますが」「私が部外者だと」。こちらを睨んでくる祖父に、私は大きく頷いた。「へらず口を叩きよって」。祖父は悔しそうにする。だが、部外者というのは事実だ。「そういうことですから、ここで失礼しますね」「絶対に後悔するからな。覚悟しておけ」。祖父がこちらを指差す。私は視線をそらすことで答えた。その後、引っ越し業者の車に同行して、会社の寮へ向かう。 引っ越し先の寮は、見た目は普通のマンションだ。単身者向けのマンションを、一括で借り上げているようだ。私の部屋は、マンションの3階の一番奥。前の住人が結婚したため、空いた部屋だった。やがて引っ越しが終わり、一人になる。「やった。やっと逃げられた」。ようやく実感できた。ほっとした私は、窓際のソファーに座った。「さすがに、これ以上は手出しできないわよね」。会社の寮だけに、部外者は立ち入り禁止。親しい人でも、中に入るには許可が必要になる。要するに、私の生活を邪魔する人はもういないということだ。思いきり叫びたい気分だった。 寮に引っ越してからは、穏やかな日々を過ごす。父や祖父から電話がかかってきても、無視すればいい。会社に連絡してきても、私が出るのは難しかった。簡単に席を外せるような仕事ではないからだ。私は本当に平穏に過ごしていた。そんなある日のことだ。仕事終わりに、ある人が私を尋ねてきた。「君が洋子さんだね。あなたは、お父さんの会社の本条です。確か、社長の名前だ」。私は丁寧に頭を下げた。「父がお世話になっております」「いや、そんなにかしこまらなくていい。今日はちょっと話があって、きただけだから」「話ですか?」反射的に眉をひそめてしまう。本条は表情を崩して、話を続けた。「今度、君たちの家族をうちに招きたいと思っていて。どうだろうか?」「どう、と言われましても」。答えに困る。端的に言って、私自身は本条とは無関係だ。断っても差し支えないと思った。ただ、私が務めている会社は、彼のところと取引がある。ここは波風を立てない方がいいと感じた。「本来は、社員のお父さんや、君だけを誘うべきだが。君の就職の件でも、色々とあったから」。遠回しに、「就職を世話したから、顔を出せ」と言われているようだ。仕方ないと、私は覚悟を決めた。「分かりました。お招きありがとうございます」「よかった。君には、色々と、あ、いや、なんでもない」。途中まで言いかけていたが、何の話だったのだろうか。首をかしげる私の前で、本条はゆっくりと頭を下げた。「では、次の日曜日。時間は午前10時。都合はいいかな?」「はい、お休みですので、お伺いします」再度丁寧に頭を下げる。「ああ、楽しみにしているよ」。本条は笑いながら帰っていった。 色々と気にかかることがある。中でも、わざわざ私を呼ぶ理由が分からなかった。「本当はお断りしたいんだけど、今更断るのは無理だ」。私は諦めのため息をついた。そして日曜日。寮を出た途端、目に入ったのは祖父の車だった。運転席から、私の方を見ている。「どうしてここに」「本条社長に呼ばれたからな」「おじいちゃんも」眉をひそめる。祖父は嬉しそうに頷いた。「さっさと乗れ。行くぞ」「はい」。しぶしぶ祖父の車に乗る。助手席には父、後部座席にはナナが座っていた。「なんでお姉ちゃんも呼ばれているのよ」「本当よね」とっさに呟いてしまう。不機嫌そうにするナナに気づき、私は目をそらした。走行するうちに、車は住宅街から山手の方へ走っていく。「社長の家、どこにあるの?」「この先だ。高台にあるから、見晴らしがいいぞ」。定年退職後も、祖父は本条と交流があるらしい。骨董品という同じ趣味があるのが理由だそうだ。「私は骨董品とか分からないし、話題を探すのが難しい」。そんなことを呟いていると、助手席から父が突っ込んできた。「お前みたいな子供が、話に入る必要はない。黙っていろ」「はい、分かりました」。適当に返事をする。父はむっとしていた。やがて、車が止まる。窓の外を見ると、大きな家の壁が見えていた。周辺の家はどれも似たような感じだ。高級住宅街と言えばいいのか。そういう雰囲気を醸し出していた。私たちが降りたところで、祖父は少し先へ車を走らせる。そこには、来客用の駐車場と思われる場所があった。「こっちだ。ぼんやりするな。洋子」。父に声をかけられて、はっとする。急いで父とナナの後を追いかけた。門をくぐると、広い庭が見える。 大きなウッドデッキがあり、そこに本条の姿があった。「よう、待っていたよ、田君」。父の本名は田秀明。当時は私の名前も田洋子だった。「本条所長、本日はお招きいただき、ありがとうございます」「そんなにかしこまるなよ。さあ、こっちへ来てくれ。バーベキューを楽しもうじゃないか」。ふと見ると、庭にバーベキューの準備がしてある。近くには、使用人と思われる女性が数名いた。「私が『お金持ちの家は違うな』と実感した瞬間だ」。初めこそ緊張していたが、気づいた時には私もバーベキューを楽しんでいた。飲み物を片手に、本条の話に耳を傾ける。内容は、大半が骨董品のことだった。「この間、実に見事な小鉢りを手に入れて」「本当ですか?是非、拝見させていただけますか?」「いいと思う。この後、向こうで飲みながら」。祖父は楽しそうだが、父は適当に作り笑いをこぼすだけ。私と一緒で、何一つ理解していないと思われた。「あ、すみません。ちょっと手洗いを」。ナナが席を立つ。本条は笑いながら家の中を指さした。「そこから家に入れるよ。扉を出て、左の突き当たりだから」「ありがとうございます、社長」。媚を売るような笑顔を見せるナナに、私は思わず顔をしかめてしまった。「じゃあ、ちょっと失礼します」。子供のような言い方をして、ナナが席を外す。ウッドデッキに繋がっている部屋に入り、中へ姿を消した。 その数分後のことだ。部屋の中から、ガチャンと何かが割れる音が響いてきた。「お、何の音だ?」真っ先に本条が立ち上がる。彼は音がした方へ視線を向けた。釣られて、私もそちらを見る。すると、部屋の中からナナが顔を覗かせた。「す、すみません。社長、あの、割れちゃいました」。彼女が手にしていたのは、鮮やかな色の焼き物の破片だ。ギョッとしたのは、本条だった。すぐにナナにかけ寄り、大きな声をあげる。「な、なんてことをしてくれたんだ」。本条はナナから破片を奪い取り、小刻みに震える。急いで家の中に駆け込み、再び悲鳴のような声をあげた。「うわあ。ああ、私の大事な小鉢りが」。ようやく私は納得した。何かハプニングがあり、ナナが本条の自慢にしていた骨董品を壊したのだと。「だ、大丈夫ですか?本条社長」。祖父が家の中に飛び込む。続け様に、彼の悲鳴も聞こえてきた。ナナが壊したのは、随分と高価な白物だったのだろう。骨董品に詳しい祖父でさえ、悲鳴をあげるくらいだ。「そんなに高いんですか?それ」そっと近づいた父が声をかけるけれど、全く話にならなかった。本条が落ち着いたのは、一時間後のことだ。憔悴しきった彼は、ソファーにもたれかかったまま、こちらが何を言っても返事もできないようだった。 「なんでこんなことになったのよ、ナナ」小さな声で訪ねる。ナナはごまかすように笑っていた。「床に散らばった破片は、使用人の手で既に片付けられているけれど。私は現場を見て、すぐに妙なことに気づいた。それは、小鉢りの破片が落ちていたのが、部屋を抜けてトイレに行くだけなら通るはずがない場所だったことだ」「すみません。通った時に、服に引っかかったみたいで」。ナナはそう答えている。しかし、私は嘘だと思った。おそらく、ナナは本条の骨董品を盗もうとしたのだろう。手に取った直後、彼女が持ち損ねた骨董品が床に落ちた。結果的に、盗むつもりの小鉢りが割れてしまう。慌てたナナは、「服が引っかかった」と言い訳をした。これが事実だと、私は思っている。本条たちの話を聞いていれば、骨董品の知識がない私でも、高価なものだと分かる。お金に汚い人間なら、盗もうと考えるのも当然の白物だ。ナナがそんなに強欲かどうかは知らない。だが、そう考えれば辻褄が合う。 「本条社長、本当に孫が申し訳ないことを。謝っても済む話ではありませんが、何か責任を取らせていただかないと、私の気が済みません」祖父が懸命に話す。本条が何か思い出したように言う。「そうか。それなら、彼女に責任を取ってもらおうか」。ナナに視線を向ける本条。彼女は自分を指さしながら呟いた。「私が責任を?」「ああ、そうだ。実は、知り合いの息子さんが、結婚相手を探していてね」。本条が語り始めた内容は、こうだった。本条の知り合いに、藤倉という人がいる。その人の息子が、今年30歳になった。漁師で、年齢的にも親御さんが結婚させようとしているらしい。ただ、仕事のせいか、なかなか結婚相手に恵まれないとのこと。「彼と結婚してくれないか?ナナ君」「は?結婚?」露骨に嫌そうな顔をするナナ。引きつる顔を隠しつつ、彼女は本条にこう聞いた。「そのお相手のご職業は?」「確か、漁師だと聞いている。最近は熊の被害も多いし、大切な仕事だ」。ナナが視線をそらす。「無理に結婚しろとは言わない。相手がいれば、という話だから」「そ、そうですよね」。大げさにため息をついているナナ。安心したのが見え見えだ。「じゃあ、こちらを弁償してもらおうか」「え?弁償?」。途端にナナの顔が引きつる。本条は笑顔で答えた。「状態が良かったから、50万の値がついていた。給料から引こうか」「50万も。それは」「じゃあ、結婚するかね。なかなか相手が見つからず、困っていたから助かるよ」。ニンマリとする本条。困ったナナは俯いていたが、すぐにはっとして顔をあげる。私の方を見ながら、彼女は本条にこう提案した。「うちの姉はどうですか?お相手が30歳なら、姉の方が年齢も近いですし」 「は?なんで私が」。反射的にナナを睨みつける。彼女は平然と続けた。「釣り合いも取れますし。姉はモテないので、恋人もいないはずです」「なんですって」「それに、私は彼氏がいるので、心苦しいと言いますか」。うすら笑みを浮かべるナナ。本条は納得したように頷いた。「そうか。恋人がいるなら、仕方ないな」「ですから、うちの姉をどうぞ」。ナナが自分の手のひらを私の方へ向ける。とっさに私は、その手を払いのけていた。「勝手なことを言わないで」「何よ。可愛い妹を助けようと思わないの?」「思うわけがない。むしろ、憎たらしいだけだ」。言い合っていると、本条が私に聞いてきた。「それで、どうかな?」「いえ、でも、私は結婚とか。お見合いならまだしも、結婚というのは、さすがに無理だ」。しかも、話を聞く限り、一度でも会えば断るのが難しい気がした。「いいじゃないか。洋子、お前が結婚しなさい」「そうだぞ。いい話じゃないか。社長の知り合いの方の息子さんなんだから」。祖父も父も、勝手に進めてくる。やがて、祖父が本条にこう言った。「そのお話、是非ともお願いします。孫の洋子と結婚させてください」 「は、待ってよ」「うるさい。お前は黙っていればいいんだ」。怒鳴りつけてくる祖父。言い争う間に、本条との間で合意が結ばれていた。「では、そういうことで。分かった。話を進めておこう。助かるよ、洋子さん」。本条が笑顔で言う。その瞬間、あることをひらめいた。結婚すれば、合法的に家から逃げ出せる。仕事が漁師なら、家は田舎に違いない。祖父や父、ナナが押しかけてくる心配もないし、都合がいいのではないか。一瞬で、そんな思いが脳内を駆け巡った。「大丈夫かな?洋子さん」「承知しました」。嫌々ながら承諾するという雰囲気で答える。ナナは満面の笑みで喜んでいた。 そこからは、話が早かった。早々に新一の方から連絡があり、数日後、食事会をする。こちらは両親が同席し、その場で婚約が成立。翌日には婚姻届を書くはめになった。「本当にいいんですか?こんなに早くて」「あ、はい。家族も。新一さんがこちらにいる間にと。弁償するのが嫌だった祖父が、結婚を進めていたのは言うまでもない」。結局、私は新一と数日で結婚したのだった。そのまま新一は家に戻り、私は引っ越しの準備をする。荷物を先に送って、私は荷物を出した一週間後に、彼の元へ行った。 … Read more

28 August 2026

«Aiutami.» Era una donna delle pulizie, inginocchiata nel mio stesso giardino, con le mani strette nell’erba e la voce rotta. Non mi chiedeva di salvare il suo posto di lavoro, ma mio figlio….

«Aiutami. » La voce arrivò bassa, quasi strozzata, dal fondo del giardino. Paolo si fermò sul sentiero di pietra e vide Marzia, la donna delle pulizie, inginocchiata sull’erba con le mani strette e il viso abbattuto. Non era una richiesta legata al lavoro. Era qualcosa di molto più profondo, qualcosa che si portava dentro da … Read more

28 August 2026

「家族の食卓に座らないでよ」――お盆の座敷で、義母が箸を持ったまま笑った。二十七年、私はこの家で名前すら呼ばれなかった。それでも毎月二十万円、二十年で四千八百万円を送り続けてきた。完成した料理を運び終えた私は、自分の席がないことに気づいた。私の分の箸だけが、どこにもなかった。「他人は今すぐ出ていけ」。私は畳に手をついて、頭を下げた。「わかりました。では、帰りますね」。夫は寿司をつまんだまま、…

「家族の食卓に座らないでよ。」 義母のよしえが、箸を持ったまま笑った。お盆の座敷に、私が台所で並べた寿司と刺身と天ぷらが並んでいる。その中に、私の箸だけがない。皿も箸も湯のみもない。あの、私の席だけが。 「あんた、他人なんだから」 義姉のマリ子が、大トロをつまみながら言う。 「運び終わったなら、他人は帰れば?」 私は夫を見た。浩司は寿司をつまんだまま、目を上げない。 二十年だ。この家に、毎月二十万円を送り続けてきた。その間ずっと、台所で食べてきた。だが、前後と私の分がないのは、初めてだ。 「他人は、今すぐ出ていけ」 よしえが畳を叩いた。 私は座布団を外し、畳に手をついた。 「わかりました。では、帰りますね」 「え、本当に帰るの?」 浩司がようやくこちらを見る。 私は頭を下げた。 「他人がいたら、邪魔でしょ」 玄関の引き戸を閉めた。締め切った後で、座敷の笑い声がまた大きくなった。 — 私は北原えみ、五十四歳。食品メーカーの経理課長をしている。夫の浩司は五十六歳で、住宅メーカーの営業課長だ。結婚して二十七年になる。子供は授からなかった。 話は、二十年前の夏から始まる。 義父の浩三が亡くなった。六十四歳だった。金属加工の町工場を五十八歳で畳んだ人だ。厚生年金には一度も入らず、国民年金しか掛けてこなかった。年金が出るのは六十五歳からだから、畳んだ時に手元に残った金を崩しながらの六年だった。亡くなった時には、それも尽きていた。義母のよしえは、自分の年金がまだ出るまでに、あと六年あった。 四十九日が済んだ夜。浩司が畳に手をついた。 「えみ、頼みがある。母さんを助けたいんだ。毎月二十万送らせてほしい」 私たちのマンションは、まだローンが十年残っていた。頭金の三百万円は、独身時代に私が貯めた金から出した。それなのに、名義は浩司になった。その時も、私は何も言わなかった。浩司の給料は、ローンと管理費と車と付き合いで消えていた。 「じゃあ、私の給料から出すわ」 そう言ったのは、私だ。誰にも強いられていない。 当時の私は三十四歳で、係長になったばかりだった。手取りは月三十四万円。そこから二十万円を送れば、残りは十四万円になる。その十四万円と賞与で、二人の日々の暮らしと、私の実家の急な出費を賄うことになった。 浩司は顔を上げて、目の縁を赤くした。 「恩に着る。この金は、えみの金だ。それだけは忘れない」 私は便箋を一枚出した。経理の人間の癖だ。口約束は、言った本人が一番先に忘れる。 「じゃあ、書いておいて」 浩司は嫌な顔をしなかった。筆箱から万年筆を取り出し、座卓の上で整った字を並べた。 「母への毎月二十万円は、えみの給与から支出する。開始、変更、終了は、えみが決める」 日付と名前を書いて、判を押した。私はそれを、仕送り用のファイルの一番上に閉じた。 翌週、二人で信用金庫の窓口へ行き、毎月二十五日に二十万円がよしえの口座へ渡る手続きをした。振込日は、私の給料日と同じ二十五日にした。残高が足りずに送金が止まることのないよう、私は前の月のうちに残しておくようになった。用紙を書いていると、浩司が受付の女性に向かって言った。 「振り込みの名義、俺の名義にできますか? 母が気にするので」 私はその時も、深く考えなかった。夫の実家に、夫の名前で届く。それだけのことだと思った。 以来、二十年。二百四十回。一度も欠かしたことはない。 途中で止めなかった理由は、三つある。一つ目は、浩司が畳に手をついてまで頼んできた約束だったこと。二つ目は、私が止めれば悪者になると分かっていたこと。そして三つ目は、一度訪ねて、二度と尋ねられなくなったことだ。 十八年前、私は一度だけ、何に使われているのかを聞いた。 「母さんを疑うのか?」 浩司は、それだけで顔色を変えた。 よしえに電話で聞いた時は、もっと早かった。 「他人行儀なこと言わないでちょうだい」 そう言って、切られた。 それからは、聞けなくなった。 — 北原の家で私が受けてきたことは、三つに集約できる。 名前を呼ばれないこと。行事の写真の輪に入れられないこと。料理を並べ終えたら、台所に立たされること。 写真のことは、いつも同じだった。法事でも正月でも、座敷にカメラを構えると、よしえが手を振る。 「あんたは、撮る側でいいから」 そう言って、私にシャッターを押させる。北原の家のアルバムに、私が映っている一枚はない。二十七年で一枚もない、というのは偶然ではあり得ない。 正月のことも覚えている。座敷にいたのは身内だけだった。よしえとマリ子と浩司。私が煮物の鉢を運び終えると、よしえが台所を指した。 「あんた、あそこで食べてちょうだい」 私は流しの前に立ったまま、里芋を一つつまんだ。座敷から、マリ子の声が飛んでくる。 … Read more

28 August 2026

母の通帳を窓口に差し出した瞬間、若い女性行員の顔色が変わった。私の名前を確認すると、彼女は何も言わずに奥へ走っていった。数分後、支店長らしき男性が現れ、私の前で深く頭を下げた。そして、こう言った。「あなたのお母さんには、返しても返しきれないほどの恩があるのです」。十九歳で母を亡くし、九歳の妹を一人で抱えていた私には、その言葉の意味が全く分からなかった。母はただの貧乏で疲れた母親だと思っていた…

窓口に座った若い女性行員の声が、途中でわずかに揺れた。俺が差し出した古い通帳の色あせた表紙を見つめたまま、彼女は顔を上げようとしない。何かまずいことでもあったのだろうか。俺は、亡くなった母が残した通帳から金を下ろせないかと思って来ただけだった。 「佐野です。佐野美和子。先日亡くなった母の名義で」 そう答えた瞬間だった。女性行員は小さく息を飲むと、椅子から立ち上がった。そして「少々お待ちください」とだけ言い残し、奥へ走っていった。 残された俺は、わけも分からず通帳を握りしめたまま立ち尽くすしかなかった。この日、この古びた一冊の通帳が、俺の知らなかった母の人生を少しずつ照らしていくことになる。 俺の名前は佐野渡。十九歳。半年前までは大学に行くつもりで机に向かっていた、どこにでもいる受験生だった。それが今はコンビニの夜勤と町場の日雇いをかけ持ちして、九歳の妹・咲と二人きりで暮らしている。父は七年前に病気で亡くなった。そして先月、母が亡くなった。 女手一つで俺と妹を育ててくれた母は、四十四歳の若さであっけなく逝ってしまった。大きなものは何も残らなかった。家賃の払えない古いアパートと、心細そうな顔をした幼い妹と、数えるほどの古い荷物だけだった。それでも、俺がやるべきことは一つだけはっきりしていた。この妹を何としても守り抜くこと。ただそれだけだった。 母が倒れたのはいつもの朝だった。その日も母はまだ暗いうちに家を出ようとして、玄関で急に頭を押さえてうずくまった。俺が気づいた時にはもう返事をしなかった。くも膜下出血というものだったらしい。病院に運ばれて二日後、母は静かに息を引き取った。最後まで、俺にも妹にも何ひとつ言い残すことはなかった。いつも通りの朝、いつも通りに家を出ようとして、そのまま帰ってこなかった。それが母の最後だった。 葬儀は質素なものだった。父の兄にあたる合造おじさんをはじめ、親戚は何人か来てくれたけれど、通夜の席で浴びせられたのは慰めの言葉ではなかった。 「全く、今頃になって急なことだな。お前、これからどうするつもりなんだ? 妹の面倒くらいお前が見るしかないだろう。うちだって余裕があるわけじゃないんだ。まあ、母親が残したものなんて、どうせ何もないだろうしな」 俺は膝の上で拳を握ったまま、何も言い返せなかった。言い返したところで、この人たちが妹を引き取ってくれるわけでもない。頼れる大人はどこにもいなかった。 母のわずかな貯金の中から葬儀代を払うと、手元にはほとんど何も残らなかった。親戚たちは葬儀が終わるのを待たずに、一人また一人と帰っていった。家に戻ると、咲が母の使っていた古いエプロンを膝に抱えて、ぽつんと座っていた。 「お兄ちゃん。お母さん、本当にもう帰ってこないの?」 「ああ」 「私、いい子にしてたら帰ってくるかな?」 「咲はずっといい子だよ。だから、そういうことじゃないんだ」 そう言うのが精一杯だった。九歳の妹に死というものをどう説明すればいいのか、十九歳の俺には分からなかった。 生活はその日から目に見えて苦しくなった。母のわずかな稼ぎで何とか回っていた暮らしは、その稼ぎが消えた瞬間に崩れ落ちた。家賃は先月分から滞っていた。俺は夜勤を増やし、休みの日は工場へ行った。それでも月末になると財布の中は心細くなった。妹には「大丈夫だ」と言った。だが、本当のところ、明日の飯をどうするかさえ俺には見えていなかった。 思えば母はいつも疲れていた。昼はスーパーの総菜売り場で働き、その前は駅の近くの小さな定食屋で長く働いていたと聞いている。母は自分のためにはほとんど何も買わなかった。夕飯の時、母がよく「母さんはお腹空いてないから」と言って、自分のおかずを俺と咲の茶わんに移していたことを、今になって思い出す。 正直に言えば、俺は母のことをどこか少し恥ずかしく思っていた時期があった。友達の親が綺麗な服を着て新しい車に乗っているのを見るたびに、いつも疲れた顔をして安売りの総菜を袋に詰めて帰ってくる母が、惨めに見えて仕方がなかった。中学の頃には「学校に来ないでほしい」とひどいことを言ったこともある。母はその時も怒らなかった。ただ「そうだね。ごめんね」と寂しそうに笑っただけだった。 母の手のこともよく覚えている。母の手はいつも荒れていた。指の関節はごつごつして、あかぎれがいくつもできていた。若い母の手とはとても思えなかった。台所に立つと、母はよくいつも多めにおにぎりを握っていた。俺が「こんなに食べないよ」と言うと、母は「いいの。誰かにあげるかもしれないから」とはぐらかすように言った。誰にあげるのか、俺は一度も聞かなかった。 思えば母には、俺の知らない時間がたくさんあった。休みの日でさえ、母は朝早くに家を出て行くことがあった。どこへ行くのかと聞いても「ちょっと人に会いに」とだけ言って、いつもの古いコートを羽織って出かけていく。帰ってくるのは大抵昼過ぎだった。手には空になった弁当の包みや小さな折り箱を持っていることもあった。 母が働いていたスーパーから電話がかかってきたのは、そんな日々の中でだった。母のロッカーに私物が残っているので、最後の給料と一緒に取りに来てほしいという。俺は学校が休みの咲を連れて、その店へ向かった。咲が毎日頭を下げて働いていた場所を、俺は一度も見たことがなかった。 店に着くと、総菜売り場は夕方の買い物客で賑わっていた。コロッケや煮物や揚げ物が湯気を立てて並んでいる。このひとつひとつを母が作っていたのだと思うと、不思議な気持ちになった。売り場の隅には小さな張り紙があった。手書きで「佐野さん ありがとうございました」と書かれ、その周りにたくさんの寄せ書きが添えられていた。「美和子さんの煮物、また食べたかったです」「いつも助けてくれてありがとう」。そのひとつひとつを読むうちに、俺の目はじわりと熱くなった。ここにも、俺の知らない母がいた。 総菜売り場の裏の狭い事務所に通された。出てきたのはチーフの本田さんという中年の男の人と、母と同じ売り場で働いていた吉江さんというパートのおばさんだった。吉江さんは俺と咲の顔を見るなり、目をうるませた。 「あなたたちが美和子さんの…まあ、こんなに大きくなって。咲ちゃんは写真で何度も見せてもらってたのよ」 「母がお世話になりました」 俺が頭を下げると、吉江さんは慌てたように首を振った。 「お世話だなんてとんでもない。お世話になってたのはこっちの方よ。美和子さんはね、この売場のみんなのお母さんみたいな人だったの」 吉江さんは母の思い出をぽつぽつと話してくれた。新しく入ってきたパートさんが仕事を覚えられずに落ち込んでいると、母はそっと横について根気よく教えていたこと。誰かが体調を崩して休むと、母が黙ってその人の分まで働いていたこと。 「私ね、去年主人が入院して家計が本当に苦しかった時期があったの。そしたら美和子さん、何も言わずに総菜のあまりを『これ、捨てるだけだから持って帰って』って、毎日持たせてくれてね。あれでどれだけ助かったか」 俺はうつむいたまま聞いていた。俺の知らない母がそこにいた。 「みわ子さんは朝も早かったなあ」 チーフの本田さんが口を開いた。 「うちの開店より随分早く来てね。でも、その前にもどこかに寄ってるみたいだったよ。いつもおにぎりをいくつも持ってね。『誰かに届けてるんですか?』って言ったら、笑ってごまかしてたけど」 おにぎりという言葉に、俺は顔を上げた。家で母がいつも多めに握っていた、あのおにぎりだ。母は誰にあげるとも言わずに、毎朝それをどこかへ届けていたのか。その誰かが誰なのか、俺には検討もつかなかった。 俺は思い切って吉江さんに聞いてみた。 「あの、母は台用金庫っていう信用金庫に口座を持っていたんです。かなり遠いのに…何か知りませんか?」 吉江さんは少し考えてから答えてくれた。 「詳しくは知らないけどね。美和子さん、昔から桜台の辺りでずっと働いてたのよ。あなたが生まれるよりもっと前から。あの信用金庫の人たちとも、その頃からの長い付き合いみたいだったわ。あの人にとっては、大事な場所だったんじゃないかしら。行けば、あなたの知らないお母さんのことも少しは分かるかもしれないわね」 その言葉が、なぜか俺の胸に引っかかって離れなかった。母が俺の生まれる前から働いていた町。母の大事な人たちがいる場所。知りたいと思った。同時に、少し怖くもあった。俺の知らない母を知ることは、俺がどれだけ母を見ていなかったかを思い知ることでもあるからだ。それでも俺は決めていた。あの通帳を持って、桜台へ行こう。 家に帰ると、咲は母のエプロンをつけた自分の絵を一枚描いた。拙い絵だったけれど、そのエプロン姿はどこか母によく似ていた。 「お兄ちゃん、この絵、母さんの仏壇に飾ってもいい?」 「ああ、母さん喜ぶよ」 帰り道、咲は母のエプロンを大事そうに抱えていた。 「お母さん、すごい人だったんだね」 「ああ、そうだな」 「私、大きくなったらお母さんみたいになれるかな?」 「なれるさ。咲は母さんに似てるから」 思い出に浸っていられる時間は長くは続かなかった。月末が来た。家賃の催促は、とうとう「これ以上お支払いがない場合は」というきつい文に変わっていた。電気料金の紙も赤い字で印刷されていた。俺のわずかな稼ぎでは、二つを同時に払うことはできなかった。結局俺は電気代を先に払い、大家さんに家賃をもう少し待ってほしいと頭を下げた。大家のおばあさんは何も言わずに、ただ「無理しなさんな」とうなずいてくれた。 ある夜のことだった。俺が台所でうつむいていると、寝ていたはずの咲が起きてきて隣に立った。 「お兄ちゃん、大丈夫?」 「ああ、大丈夫だよ」 「お兄ちゃんも『大丈夫』っていう。お母さんと同じ」 … Read more

28 August 2026

「私は物乞いの娘です。それでも、よろしいのでしょうか?」…

かごが一丁、市場の真ん中で止まった。物乞いの娘の前で、上下姿の役人たちが道を開ける。その中央では、この土地を預かる若い大官が、小さな娘に深々と頭を下げていた。 三日ほど前まで、その娘を物乞いと笑っていた人々は、その場に凍りついたまま動けなかった。 なぜ大官ともあろう者が、名家も持たぬ娘に頭を下げているのか。ただ一つ確かなことは、崩れかけた秋屋で過ごしたわずか三日間が、娘の運命を変えたということだけだった。 物語は、その三日前から始まる。 春の終わりの、風の冷たい朝だった。大州海道沿いの宿町は、大所が救い米を放出するという噂を聞きつけた人々でごった返していた。空の袋を手にした者たちが、通りの端まで長い列をなしている。その一番後ろに、十九になる娘が立っていた。服という名だった。着物の裾はすり切れ、草履から覗く足先には泥がこびりついている。 前に並ぶ行商人が振り返り、「乞食が何を救い米だ。匂いから離れていろ」と鼻先で笑った。服は言い返すこともなく、半歩だけ後ろに下がった。それでも列を離れることはなかった。 服が物乞いになったのは、三年前、母をなくしてからだった。それからというもの、「腹が減っているか」「寒くないか」、そういう問いを服に向けるものはいなくなった。服自身も、それを寂しいと思うことすらやめていた。物乞いという暮らしは、誰にも頼らず、誰にも期待しない代わりに、誰からも顧みられない暮らしでもあった。 その頃、街道の少し先では、一丁のかごが難儀していた。乗っているのは、これより一日ほど北の豪邸に嫁いだ老女だった。「若い頃に育った村へ、一目だけ里帰りをしたい」と今日の者にも強く言いはって出てきたのだという。年を取ると、忘れていたはずの故郷の景色が急に恋しくなるものらしい。 道中、かき手の一人が石につまずいて足を痛め、その拍子に担ぎ棒まで大きく罅割れてしまった。紐も切れかけていた。今日の者たちは、かごかきを宿へ運ぶものと、代わりの担ぎ棒を探すものとに分かれた。慌ただしいその様子を、老女は少し離れた場所から眺めていた。 老女は、その騒ぎの向こうに、若い頃に歩いた旧道の痕跡を見つけた。「ほんの少し確かめるだけだ」と、女中が荷を整えている隙に、一人で旧道へ入ってしまったのである。 若い頃に何度も歩いた道のはずだったが、記憶というものは当てにならない。道は昔とは形を変え、目印にしていた大木も見当たらなかった。気づけば、今日の者の姿はどこにも見えなくなっていた。 元より胸に古い病を抱えていた老女だった。歩き疲れと、夕暮れの冷気がその病を呼び覚ました。目の前が暗くなり、老女はふらつきながら、崩れかけた一軒の秋屋に転がり込むように身を寄せた。 その日の夕暮れ、店仕舞いの市場を服は一巡りした。日が傾くと、行商人たちは店を畳み始める。服が手に入れたのは、大根の切れ端と、飯屋の裏口で洗い物を手伝った礼にもらった、冷たい握り飯半分だけだった。 「貧乏飯一つでもありがたく思え。さっさとお行き」女将は器を片付けながら手を振った。服は頭を下げて背を向けた。その握り飯をすぐには食べず、懐にしまった。今日食べる分と明日食べる分を分けておかなければ、明日は腹をすかせたまま一日を過ごすことになる。母をなくしてから三年。そういう算段が体に染みついていた。 眠る場所を探して市場の外れへ足を向けた時だった。古い古い、秋屋だと思っていた家から、かすれた息の音が漏れてきた。服は足を止めた。屋根は崩れ、戸は傷み、長らく人が住んでいないはずの家だった。 戸の隙間から覗き込むと、暗がりの中で何かがかすかに動いた。 「どなたかいらっしゃいますか?」 返事の代わりに、苦しげなうめき声が返ってきた。服は戸を開けた。見知らぬ老婆が土間に横たわり、震えていた。掛けるものが一枚もない。服は自分の肩に羽織っていたむろを脱ぎ、老婆の体にかけた。 額に手を当ててみると、冷えているのに汗ばんでいるのが分かった。息が浅く、早い。服にも、ただの疲れではないことだけは分かった。 老婆の目が薄ら開いた。焦点の定まらない瞳が、しばらく服の顔の上を彷徨った。それから、乾いた指が服の手首をとっさに握った。 「嫁か。うちの嫁がやっと来たか」 服が違うと答える間もなかった。老婆の目尻から涙がずっと流れ、白髪混じりの頬を濡らした。 「…はい。はい。ここにおります。どこにも参りません」 服の口から、思わずそんな答えが出ていた。老婆の手からようやく力が抜けた。 ところが、うめきの中でも老婆はもう一つ、どうしても尋ねずにはいられないことがあった。 「遊気は、済ませたか」 服は胸のうちが痛み、すぐには答えられなかった。寝込んでいる人が、真っ先に他人の食事のことを尋ねてきたのだ。 「済ませました。たくさんいただきました」 言い終わらぬうちに、すきっ腹がぐうと鳴った。服は思わずお腹を押さえた。 服は井戸へ駆け出し、冷たい水を汲んできた。着物の裾を一枚、びりと裂いて水に浸し、老婆の額、頬に乗せた。懐にしまっていた握り飯を思い出したのは、その時だった。明日の分として取っておいた、その半分だった。 服はためらわなかった。井戸水で握り飯をふやかしておかゆのようにし、匙で少しずつ老婆の口に運んだ。 「飲み込めますか?そう。もう一口」 なぜ自分がここまでするのか、服自身にも分からなかった。この老婆に何かを期待していたわけではない。ただ、誰かのために手を動かしている間だけ、三年間ずっと胸の底に沈んでいた何かが、少しだけ軽くなる気がした。母を見送ってからというもの、服を必要とするものはどこにもいなかった。 「看病」というものが、こんなにも人を満たすとは服は知らなかった。誰かの口に匙を運ぶ。ただそれだけの動きが、これほど胸を温めるとは。 夜が更けても、老婆の息はなかなか落ち着かなかった。服は布を変えては絞り、絞っては変えた。そのうち、老婆の手を握ったまま壁に寄りかかり、うとうとと眠ってしまった。夜明け近くになって、ようやく老婆の息が少し落ち着いてきた。 空が白み始めた頃、老婆は目を開けた。今度は瞳の焦点がはっきりしていた。老婆は、自分の体にかけられたむろと、額に乗せられた濡れた布と、自分の手を握ったまま眠っている、見知らぬ娘の姿を、一つ一つ目に焼きつけた。その視線に服は目を覚ました。 「お気づきになりましたか」 老婆はしばらく黙って服を見つめていた。 「娘は、この辺りのものか」 「家はございません。市場が我が家のようなものです」 老婆の目が、服の荒れてひび割れた手の甲にしばらく留まった。 「何という名だ」 「服と申します。服という、一文字だけの名でございます。母がつけてくれました」 「服…」 老婆はその名を、しわがれた口の中で転がした。それから、もう一言だけ聞いてくれぬかと切り出した。乾いた唇がいく度か動きかけては、また閉じられた。服はせかさず待った。物乞いをして数年。身についたことがあるとすれば、言いにくい言葉ほどせかさずに待たねばならないということだった。 「私には、息子が一人おる」 「はい」 「幼くして父をなくしてから、母の身ばかりを案じ、持ち込まれる縁談を断り続けてきた。年もすっかり満ちたというのに、嫁を迎えぬまま今日まで来てしまった。この宵越せるかもわからぬ病みでは、それが心残りでな」 老婆の息が荒くなった。服が背中をそっとさすってやると、老婆は息を整えて言葉を続けた。 「嫁が作ってくれる膳を、一度も受けられぬまま行くのが悲しくてならぬ。娘。一度だけでいい。嫁のふりをしておくれ」 弱った心が思わずこぼした、老女の願いだった。死を覚悟した心が、見ず知らずの物乞いの娘の前で初めて本音をこぼしたのだった。 老婆は震える手で懐を探った。くしゃくしゃに折りたたまれた布切れが出てきた。布を開くと、銭が何枚か、からりと音を立てた。 「礼にするには恥ずかしいが、これしかなくてすまぬ」 服は銭を見下ろした。三日は食いつなげるほどの額だった。市場でその銭を断る者などいない。ところが、服の手が動いた。銭を手に取ると、それを老婆の手のひらに戻し、その上から老婆の指を一本一本、折り曲げてやったのだ。 「礼は入りません。おばあさん。私は三年前に母をなくしました」 … Read more

28 August 2026

Včera večer mi Carter Vance nasadil na prst diamant za miliony s úsměvem na tváři a zašeptal: „Líbí se ti můj rozchodový dárek?” O pět let dřív jsem seděla u univerzitní brány s prázdnou kapsou a…

Dostala jsem od své matky dva pohlavky jen za to, že jsem použila jednu vložku navíc. Ten den jsem přísahala Bohu, že už nikdy nebudu chudá. Takže když se mi podařilo získat Cartera Vance, mého miliardářského mecenáše, použila jsem všechny triky, abych odehnala každou další hezkou věc kolem něj. Celá naše společnost si myslela, že … Read more

28 August 2026

Bratr mě zavřel do opuštěné garáže, aby mě nechal zmrznout. Řekl mi přes zabouchnuté dveře: „Můžeš křičet, jak chceš. Nikdo nepřijde.“ Můj vlastní bratr, se kterým jsem jedla z jednoho stolu,…

Ve chvíli, kdy se za mnou zabouchly kovové dveře opuštěné garáže, jsem konečně pochopila, že někteří lidé vás hlasitě nezradí. Nejdřív se usmějí, poprosí vás, abyste přišli na poslední rozhovor, a pak vás nechají zmrznout. Můj bratr Logan mluvil do telefonu klidně, skoro laskavě. Řekl, že našel otcovy staré spisy, papírové kopie původních teplotních protokolů, … Read more

28 August 2026

Na Štědré ráno jsem našla na kuchyňském stole jen účtenku za čtyři letenky do Paříže. Ani jedna nebyla moje. Moje rodina odletěla slavit Vánoce beze mě – záměrně, ne omylem. Když jsem jim volala,…

Na Štědré ráno jsem našla na kuchyňském stole jen jedinou věc. Účtenku za čtyři letenky do Paříže. A ani jedna z nich nebyla moje. Seděla jsem tam, v babiččině domě v Ostravě, a v ruce držela papír, který mi říkal pravdu. Nezapomněli na mě. Neudělali chybu. Nechali mě doma úmyslně. Je mi třicet, pracuju jako … Read more

28 August 2026