あの日、高級レストランの個室で、私の頬に響いたのは、平手打ちの音だった。ママ友たちの目の前で、ボスママが私を「パートの貧乏人は消えな」と罵りながら、手を挙げた。私は頬を押さえなかった。ただ静かに、彼女を見返した。誰も私の本当の顔を知らない。私は彼女に、こう告げた。「旦那に構想開始と伝えな」。その瞬間、彼女は笑った。パートの主婦が何を言っているんだと。でも、十分もしないうちに、個室の扉が開いた…
高級レストランの個室で、私の頬に鈍い痛みが走った。 シャンデリアの柔らかな光が、白いテーブルクロスを照らしている。パールのネックレスを揺らしながら、ボスママの美智子が私を見下ろしていた。その口元にはまだ笑みが残っている。 ママ友たちの目の前で、美智子は私を平手打ちにした。 「パートの貧乏人は消えな」 母親たちが息を飲み、口元を押さえて凍りついた。それでも私は頬を押さえなかった。顔をそらしもせず、まっすぐにその女へ視線を返す。 この人は、自分が今誰に手を出したのか、何も分かっていない。 表向きの私は、スーパーで働くしがないパートの母親。同級生の親として招かれた、ただの月例ランチのはずだった。 私は静かに口を開いた。 「旦那に伝えなさい。構想開始だと」 私はひかり。スーパーの青果売り場で朝から働くパートの主婦だ。小学五年生の娘の桜と、狭いアパートで二人静かに暮らしている。 毎朝値引きシールを探しながら買い物をして帰る。夜は娘と小さな食卓を囲み、その日にあった出来事を聞かせてもらう。贅沢な暮らしではないが、この何でもない時間こそが私にとっては何よりのものだった。 月に一度、娘の同級生の母親たちと集まるママ友会のランチがある。会場はいつも、私には少し背伸びした高級レストランの個室。その輪の中心にいるのが、ボスママの美智子だった。 彼女の夫は組長だ。それを笠に着て、母親たちを従わせる女。 「うちの人を任されてるからさ」 彼女がそう口にすると、母親たちは引きつった笑顔で頷くしかない。ブランドのバッグを見せびらかし、人の服装を品定めしながら、声の大きさで場を支配する。 私はいつも隅の席で静かに相槌を打つだけ。波風を立てたくなかった。娘のためにも、目立たずにいたかった。誰も私の本当の顔を知らない。 私はこの穏やかな暮らしの中で、その顔を決して出さないと決めていた。 その日の月例ランチも、高級レストランの個室で始まった。照明が落ち着き、ウェイターが水の入ったグラスを席の前に音もなく並べていく。 入口で席を割り振るのも、メニューを仕切るのも、全て美智子だった。母親たちは笑顔を張り付けて従い、異を唱える者はいない。笑顔の形をしているが、誰一人として目を合わせようとしなかった。 「ここはコースが一番よ。私が選んどくから、みんな同じので注文して」 返事をするより先に美智子はウェイターへ声をかけていた。 「うちの人ね、組長として名前が通ってるからさ、こういう店には部下連れてしょっちゅう来てるのよ。いいコースが当たり前みたいな感じになってくるの」 高かい笑い声が個室に広がる。鳥飼が「そうですよね」と頷いた。他の母親たちも愛想笑いを張り付けたまま、目だけを伏せていた。 「ところで先週ね、うちの人が新しいバッグを買ってくれたの。ほら、これ」 テーブルにブランドのバッグを置き、美智子は母親たちを見回す。 「素敵ですね」 「でしょ? センスがないと選べないから、自分じゃ無理なのよ。こういうのが分かる人間かどうか、一目見れば分かるって言うじゃない」 鳥飼がバッグを覗き込み、羨ましそうに声をあげた。 「うちの人にこういうセンスがあったらいいんですけど」 「旦那の格が出るのよ、持ち物って。奥さんがどう見られるかは、旦那次第でしょ」 笑い声が変わる。誰かが私の方を横目で見て、すっと視線を外した。 やがて美智子の目が、室の隅に座る私へ向いた。 「え、ひかりさん、毎回思うんだけど、一番後ろの席に黙って座ってるじゃない。来た意味あるの?」 意地の悪い声が室に広がる。母親たちの視線が一斉に私に集まった。横目で確認してから、口元を押さえ、視線をそらす者もいた。 「楽しんでいます」 「楽しんでいるのね。まあ、それは良かったわ」 視線が私の服装を上から下まで一度だけ流れていく。 「その格好、品がないわよ。こういう店って、それなりの格があるの。正直、背伸びしすぎよ」 美智子が口元を押さえて笑う。 「すみません」 私は静かに頭を下げた。周囲の母親たちは俯き、誰も口を開かない。それでも美智子の言葉は止まらなかった。 「ねえ、パートさん、あなたいつも同じカーディガンよね。今日もそれ着てきたの? 一枚しかないの?」 薄笑いを浮かべたまま、美智子はテーブル越しに私を見ている。 「気に入っているので」 「気に入ってるね」 美智子は鳥飼と目を合わせ、笑いをこらえていた。 「あのさ、こういう場の空気って、パートの立場だときついでしょ。正直、無理してまで来なくてもいいのよ。みんなも遠慮しながら気を使ってるんだから」 声に、気遣いの形をした棘が混じっている。 「皆さんにご迷惑はかけていないと思いますが」 言ってから、余計だったと口元を結ぶ。 「迷惑の話じゃないの。立場が合わないと、場の空気が変わるのよ。分かる? パートの人がここに来ると、それだけでみんなが気を使わないといけなくなるの」 「すみません」 … Read more