「化け物は消えなさいよ。その顔を見ていると気分が悪くなるの」——井口部長は江野本さんの顔の痣を嘲笑し、会社中が聞こえる声でそう吐き捨てた。俺が抗議すると、彼女は笑いながら言った。「あなたが彼女の代わりに首になってあげたら?」その瞬間、俺は決めた。翌日、俺は退職届を出し、ある人物に電話をかけた。誰も知らない。俺の父が、今日の商談の相手の会社の社長だってことを。井口部長が満足げに笑っている顔を、…
「化け物は消えなさいよ。なんだかその顔を見ていると気分が悪くなるの。分かるかしら?」 営業部のフロアに、井口部長の鋭い声が響いた。いい年をしたお嬢様育ちの部長が、若い女性の部下を罵倒している。最初は仕事のミスについて叱っていたのだが、それはすぐに悪口へと変わり、そして彼女がコンプレックスにしている顔のことまで言い出した。 あんまりな言葉を浴びせられ続けて、俺は我慢の限界を超えた。 「待ってください。井口部長。それは間違っていますよ!」 「高田さん。これはあなたには関係ないことよ。口を挟まないで」 「関係あります。江野本さんは同じ営業部の仲間ですから」 そう言うと、井口部長は俺を馬鹿にしたように笑った。 「いつもあなたはそうやって江野本さんをちやほやして、随分気に入っているのね。だったら、あなたが彼女の代わりにこのミスの責任を取って、首になってあげたらどうかしら?」 俺はその言葉に、逆にかっとなった。 「分かりました。じゃあ、そうしましょうか。私が首になる筋合いはありませんが、私はもうこの会社をやめますよ」 俺はそう言い放ち、その日に退職届を出して会社を後にした。 俺の名前は高田。5年前に機械メーカーへ転職し、営業部に配属された。今日も営業部には、井口部長の高い声が響いている。部下に対するこういう高飛車な態度はいつものことで、俺たちはもう慣れっこだ。 井口部長は嫌みばかり言うから苦手だが、仕事自体にはやりがいがあり、俺の一生懸命働く姿勢を先輩や同僚たちは高く評価してくれるので、転職して良かったと思っている。 「江野本さん、あなたは仕事ができないのに男の人には媚を売って、本当に困った人ね。仕事はもっとテキパキとやってもらわないと」 井口部長が営業事務の江野本さんに目を釣り上げて、まだ文句を言っている。彼女を目の敵にしている井口部長は、日頃から江野本さんに特に当たりが強い。 井口部長は40代で、20代の江野本さんよりはずっと年上だが、資産家で名家出身というのが自慢で、何かと言うと実家の話をしている。いい年をしてお嬢様気質が抜けず、常に上から目線で物を言ってくるので、社員たちには人気がない。 「井口部長はどうして江野本さんに小事ばかり言うんだろうな。彼女が営業補佐についてくれると、仕事がしやすいのに」 「江野本さんは仕事ができるのに、いつも叱られてばかりで気の毒だよ」 「井口部長は、江野本さんが若くて美人だから気に入らないだけだろう」 井口部長が席を外すと、社員たちはこぞって影で愚痴っている。うちの会社は産業機器やその部品の開発、製造、販売まで手掛けていて、仕事は地味で正確さが要求される。江野本さんの仕事はいつも迅速で丁寧で、営業社員たちの間でも評判が良く、俺も彼女の仕事にはいつも助けられている。 お嬢様で負けず嫌いの井口部長は、そんな江野本さんのことを余計に腹立たしく思っているのだろう。普段は江野本さんに仕事を頼んでおけば完璧にやってくれると分かっていながら、それでも辛く当たっている。 「すみません。井口部長。報告書ならもうすぐできますので」 今日も急に報告書の作成を頼んだのは井口部長の方なのに、江野本さんは素直に謝っている。江野本さんはいつもこうして言われるままで、傍から見ていて歯がゆいほどだ。 社員たちの江野本さんに対する高評価は本人にも伝わっているはずだが、彼女は自己肯定感がかなり低い。実は江野本さんは顔立ちが整った美人なのだが、左の頬に大きな黒子があり、いつも髪を垂らして隠すようにしている。そのせいか、普段から俯いて仕事をしていることが多く、表情が暗く見えてしまう。 江野本さんの顔の痣は生まれつきだと聞いている。仕事もできるのだし、もっと堂々としていればいいと思うが、若い女性なら顔のことは気になるのは仕方がないのかもしれない。 ある日の夕方のことだ。俺が営業先から戻ると、部屋には江野本さんだけが残って仕事をしていた。 「今戻りました。江野本さん、残業ですか? もしかして、また井口部長に?」 「あ、ええ、まあ……」 江野本さんは頷きながら答えてくれた。 「江野本さん、これは大変だ。私も手伝います。1人では無理ですよ」 見ると、デスクには大量のファイルがうず高く積み上げられている。どうせまた井口部長が急に指示した仕事だろうが、この量ではいつ終わるのか分からない。しかもファイルの中身を見てみると、これは井口部長がやるはずの仕事だ。 最近よく見る光景だった。井口部長は夕方になると自分の仕事を江野本さんに押し付けて帰ってしまい、急ぎでもないのにせかして仕事をさせている。 後輩の営業社員が戻ってきたので、みんなで仕事を手伝い、何とか片付けた。 「ありがとうございました。助かりました」 江野本さんは丁寧に頭を下げてくれたが、俺たちもいつも彼女にはお世話になっているのでお相子だ。気がつけば時計は9時を過ぎていて、みんなで最寄りの駅まで歩いた。 俺たちがいなかったら、江野本さんはいつ帰れたか分からない。井口部長も分かってやっているのだろうから、これはかなり悪質な嫌がらせだ。いつもポーカーフェイスの江野本さんも、今日はさすがに疲労感が伺えた。 それから1ヶ月ほど経ったある朝のこと。 「本当に申し訳ありません。こちらのミスでご迷惑をおかけいたします。すぐに伺わせていただきます」 新人の営業社員がペコペコとお辞儀しながら電話で謝っている。電話を切った新人は、井口部長に近づくと自分の発注ミスを報告した。数量を1桁間違えて発注し、取引先に大量に部品を送り付けてしまったらしい。 「あら、こういうことは気をつけないとね」 「はい、分かりました」 「そうよ。こういうところは間違いやすいものなの。まあ、仕方がないわね」 「ええ、私もついうっかりして」 井口部長は新人に言い聞かせるように話している。大きなミスがあったという感じではなく、2人でのらりくらりと話し続けている。実はこの新人は井口部長のお気に入りで、入社して半年だというのにすでに大きな案件を多く任されていた。どう考えても、彼にできる量ではない。今回のミスもキャパオーバーが原因のように思えた。 「ちょっと、江野本さん」 しかし井口部長は突然立ち上がると、厳しい表情で江野本さんの背後に立ち、声をかけた。 「私はあなたに新人の発注を補佐するように言ったはずよ。それなのに、こんな大きなミスを起こして、これはあなたの責任ね。大量に余ってしまう部品を、一体どうしてくれるのよ」 井口部長は今まで新人とぬるく話していたのに、突然高い声で江野本さんを怒鳴りつけた。この豹変ぶりには営業部員たちもみんな啞然とした。江野本さんはみんなの面前で叱責され、小声で謝罪するだけだった。 江野本さんは新人の補佐役ではあったが、他の社員の営業補佐もしており、さらに井口部長に様々な雑用まで押し付けられていて、最近は飲み物や食事の買い出しまでさせられている。これだけ忙しいのだから、新人の仕事を全部補佐するのは不可能だということは、営業部のみんなもよく分かっている。 「江野本さん、そんな小さな声で謝って、あなたは本当に悪いと思っているの? 謝罪するなら、きちんと私の目を見てはっきり謝ったらどうなの?」 井口部長は江野本さんにさらに近づき、耳元で大声をあげた。周りを見れば、営業部だけでなく他の部署の人たちまでも何事かと二人を見つめている。新人社員はもう取引先に出かけてしまったが、あまりにも彼への態度とは違いすぎる。そもそもこれは新人のミスであり、入社半年の新人に大きい案件を任せたのは井口部長自身で、ミスが起きたのはそれをフォローしきれていなかった井口部長の責任だろう。 「申し訳ありません」 「あら、よく聞こえないわよ。だから声が小さいって言っているの。もう一度、私を見て大きい声で言ってくれる?」 … Read more