「お前、下っぱ真がナだろ。」…
「お前、下っぱ真がナだろ。」 そう言ってきたのは、高校時代の同級生、は田政治だった。場所は、俺が新しく部長として赴任した職場の親睦会の場。あの日、天先で開かれたその飲み会で、俺はまさか政治と再会するとは思ってもいなかった。 俺の名前は金本荒野。今は都内のIT企業で働いている。生活に困ることはもう何もない。だが、ここに至るまでには人一倍の努力を重ねてきたつもりだ。 俺は元々、外回りの仕事をしていた父とパートで働く母の一人息子だった。近所には母方の祖父が一人で暮らしていて、祖父は祖母を亡くしてからも、上気職人として職を全うしていた。祖父も俺たち家族も、狭い長屋で暮らしていた。父は海外出張が多く、広い家は必要なかったからだ。 俺はごく普通の元気な少年だった。近所の連中と公園で遊び、放課後は外を駆け回っていた。成績も特別悪いわけではなかった。 小学三年生の時、父がまたアメリカへの長期出張を命じられた。今度は三年間だと言う。母は少し寂しそうだったけれど、海外に興味があった俺は、父に連れられてアメリカへ渡った。飛行機が雲を突き抜けた時、眼下に広がる雲の海に、俺は一人で興奮して窓に張り付いていた。 しかし、実際に暮らし始めてみると、アメリカでの生活は驚きの連続だった。何よりも言葉が通じない。幼い俺は何も考えずに父についてきたけれど、父は家で英語で電話をするときが多く、少しは教わってはいたものの、学校で話す俺の発音はまったく通じなかった。 クラスに一人だけ日系の男子がいて、俺はその存在に救われた。彼は母が日本人で、父がアメリカ人だった。顔立ちは母に似ているのか黒い髪をしていたが、目は鮮やかな青色をしていた。幼い頃に日本に住んでいたことがあるらしく、その彼が教科書を一緒に読んだり、英語を教えてくれたりした。 そんな三年間を経て、俺と父は帰国した。しかし、その直後、父が交通事故でこの世を去ってしまった。母は声を上げて泣き崩れた。明るくて俺の自慢の父だった。だが、母があまりにも落ち込んでいたせいで、俺は泣くこともできなかった。葬式をまともに執り行える状態ではなかった母の姿に、俺は息が詰まり、ただ呼吸をするだけで精一杯だった。 俺はしばらく学校に行けなくなった。明るかった性格も、その頃から陰鬱なものになっていった。それからは祖父と三人での暮らしになった。母はこれまでしていたジムの仕事をフルタイムに切り替えた。俺は何にもやる気が出なかったが、英語だけは好きだったので、祖父に甘えて英会話教室に通い始めた。中学生になってもそれは続いた。 高校進学は母の強い勧めで、何とか合格することができた。高校に通いながら、週三日、ファミレスのキッチンでバイトもしていた。高校生活でも、同じクラスになった政治という男子にパシリにされたり、「長屋の貧乏人」と馬鹿にされたりした。 政治のフルネームはは田政治。家が金持ちのお坊っちゃまで、取り巻きたちと一緒に俺のことをからかっていた。 ある時、バイト帰りに商店街で、鳥巻きたちと遊んでいた政治とばったり出会ってしまった。 「おい、こうやじゃねえか。貧乏人はかわいそうに、バイトの帰りか。しかし、お前、油臭いぞ」 バイトで扱うのは揚げ物やハンバーグが多く、油の匂いはどうしても体に染みつく。俺は何も言わずに政治たちを無視して、自転車で家へと向かった。 その頃、バイトで貯めたお金で中古のパソコンを買った。これが全ての始まりだった。俺はプログラミングに興味を持ち、独学で学び始めた。そして、もともと学校が好きではなかったこともあり、祖父や母と話し合った結果、大学へは進学しないことに決めた。 その時、祖父が仕事の得意先でもあるIT企業を紹介してくれた。パソコンが好きだった俺は、そこで即採用となった。しかし、会社は都会の方にあったので、会社の近くでワンルームを借りて通うことにした。最初は掃除や雑用ばかりだったが、夜はひたすらプログラミングに没頭した。二十歳の頃にはスマートフォン向けの小さなアプリを開発し、その後もチャットで海外の友人とゲームを作ったりしながら、特許を取得して社長に頼んで宣伝してもらった。 会社は少しずつ大きくなり、俺は入社して十年で課長として働くようになった。しかし、その二年後、祖父が病に倒れた。俺はすぐに実家へ帰り、社長にリモートワークを認めてもらった。祖父の最後に立ち会えなかった。その寂しさを抱えながら、駅近くの居酒屋に一人でふらっと立ち寄った。 カウンターで飲んでいると、後ろから誰かに背中を叩かれた。振り返ると、そこには懐かしい顔の政治が立っていた。 「こうやだろ。何しみじみ飲んでんだ。どうせ高卒だろ、大した仕事についてないんだろ。町の方へ行ったと聞いたが、ママにでも捨てられて帰ってきたのか」 そんな風に、俺のことを覚えていたらしい。政治は続ける。 「俺なんてこの歳でもう課長だぜ。今日は部下たちと飲みに来たんだ。おい、お前ら。こいつは俺の高校時代のパシリだよ」 俺はそう言われても、政治の部下にぺこりと頭を下げて、黙って酒を飲み続けた。こんなところで一番会いたくない奴に会ってしまった。すると政治は、何を思ったのか、俺に名刺を差し出してきた。 「俺が課長だって証拠を見せてやるよ」 俺はその名刺を見て、驚きを隠せなかった。そこには、俺が働いている会社の名前があったからだ。しかも、政治の名刺には「課長」と書いてある。同じ会社の課長だった。 その後も政治は、部下たちに俺のことを話し始めた。 「こいつの家は貧乏でさ、高校の時も暗くて、誰とも話さない不愛想なやつだったんだよ。家も長屋で母子家庭で、お世辞にもいい暮らしとは言えなかったな。おい、こうや、お前もこっちへ来いよ。みんなで相手してやるからさ。俺の部下は楽しいやつばかりだから」 「ああ、いいよ。遠慮しておく」 「ちっ、つまんないやつだな。今何してるんだ? フリーターでもしてるのか?」 「ああ、まあな」 俺はそう答えておいた。お互い三十歳になっても、政治はちっとも変わっていなかった。 それからというもの、政治とは時々顔を合わせることになった。リモートワークで実家にいる間、フルタイムで働く母のために家事を手伝うようにしていた。昼間にスーパーへ買い物に行くと、そこでまた政治に出くわした。政治はスーパーの総菜イベントで売っている弁当を買っていた。 「おい、どうやじゃん。何だお前、こんな時間に。さては無職で家事手伝いか」 「ああ、そんなところだよ」 俺は無言でその場を去った。すると、しばらくした頃、会社の社長から電話がかかってきた。話によると、俺の所属する支社の部長が病に伏せ、退職することになったらしい。社長は俺に、新しい部長として支社の社員をまとめてほしいと言ってきた。 「俺が部長? ということは…」 嫌な予感がした。俺はまたあの男と会わないといけなくなる。まずは親睦会が開かれるらしく、それまではリモートワーク、来週の夜六時に支社の全員が居酒屋に集まるという話だった。 親睦会の日、俺はパソコンを閉じてスーツに着替え、支社長から聞かされた居酒屋へ向かった。支社長は体調があまり良くないらしく、来るのは夜七時頃になるそうだ。俺は五時半頃に居酒屋の大広間へ到着した。 しばらくすると、支社の社員たちがぞろぞろと入ってきた。俺は前の方に座り、先日居酒屋で見かけた政治の部下たちに挨拶をした。彼らはあの日、かなり飲んでいたらしく、俺のことをまったく覚えていない様子だった。 そこに、政治が現れた。ここが、俺の政治への反撃の幕開けの場所となる。 政治は俺の姿を見て、目を丸くした。 「よぉ。何でお前がこんなところにいるんだ? さては俺の名刺を見て羨ましくなって、中途入社か。よく高卒の分際で入社できたもんだな。俺は世間のエリートだぞ。また俺のパシリをしに来たのか」 「政治、もう学生じゃないんだよ。いい加減、落ち着いたらどうだ?」 「はあ? 何を偉そうに。フリーターか無職だったお前が。みんながいるからって、恥ずかしがらなくてもいいぞ。ずっと貧乏で、今も長屋暮らしなんだろう」 「長屋暮らしのどこが悪いんだ? 俺がどこに住もうが、俺の自由だろ。もういい大人なんだからさ」 「はあ。今もママに助けてもらってる分際で、何がいい大人だよ。おい、みんな聞いたか? 長屋暮らしの貧乏人が、俺に逆らってきたぞ」 すると、政治の部下らしき二十代の社員が一人、口を挟んだ。 「課長、今日は部長を迎える大切な日なんです。知り合いかもしれませんが、少し落ち着いてください」 「んだと? … Read more