「前島さん、この商談は私が担当します。高卒のあなたには任せられません」――新しい部長の三島は、30年の実績をすべて無視して、そう言い放った。200億円のドイツ企業との契約目前、資料をゴミ箱に捨てられ、「昭和の英語教育じゃABCもわからんだろ」と侮辱された。だが当日、英語しか話せない三島は技術的な質問に答えられず、商談は破綻寸前。焦った三島が突然、俺を指さして言った。「前島、お前から説明しろ」…

会議室の空気が凍りついた。 ドイツの世界的自動車メーカー、ミュラー氏が椅子から立ち上がり、冷たく言い放った。 「もう結構。これ以上、商談を続けても意味がありません」 200億円規模の契約が、目の前で消えようとしている。 原因は明白だった。新しく部長になった三島が、技術的な質問に一切答えられず、ドイツ語すら話せなかったのだ。 しかも三島は、その責任をすべて私に押し付けようとしている。 「前島、お前から説明しろ」 高卒の俺に説明させて失敗させ、すべての責任を俺に負わせるつもりだ。 俺は57歳になる。自動車製造向け産業ロボットメーカーの海外事業部で働いている。高校卒業直後、父の海外赴任が決まり、家族揃ってドイツのミュンヘンに移り住んだ。現地の語学学校に通いながら3年間を過ごし、ドイツ語と英語を習得した。つまり、最終学歴は高卒だ。 21歳で帰国し、今の会社に入社した。当時は学歴よりも能力を重視する方針で、語学に堪能なことから3年目で海外事業部に配属された。以来、何度も海外企業との商談を成功させてきた。 つい2ヶ月前、我が社に朗報が舞い込んだ。ドイツの世界的自動車メーカーから、電気自動車の生産ライン向けに総額200億円もの産業ロボットを導入するという大型商談の打診があったのだ。 前任の部長はすぐに俺を呼んだ。 「前島、この商談はお前に任せたい。ドイツ語ができるのはうちの会社じゃお前だけだからな」 俺はすぐに準備に取りかかった。ドイツ語と英語の技術資料を作り、電気自動車特有の要求仕様を徹底的に調べ上げた。 しかし商談の1週間前、状況が一変する。前任の部長が海外転勤のため急遽交代することになったのだ。 新しい部長として赴任してきたのは三島という男。名門大学卒の33歳で、俺より20歳以上年下だ。引き継ぎも不十分なまま、三島が案件を握ることになった。 着任初日、三島は俺を個別に呼び出した。 「前島さん、あなたは今、ドイツ企業との大型商談を担当しているそうですね」 「はい。2ヶ月前から準備を進めております」 俺がそう答えると、三島は人事ファイルを開き、眉をひそめた。 「最終学歴は高卒ですか? 」 三島は静かな口調で続ける。 「これほど重要な商談を、高卒の社員に担当させるつもりはありません。この商談は私が担当します」 俺は思わず反論した。 「しかし私はドイツ語が話せますし、過去に何度も海外企業との商談を成功させています」 三島は鼻で笑った。 「実績よりも学歴です。それが現代のビジネスの常識ですよ。前島さんがこれまでに作成した資料を、すべて私に渡しなさい」 俺が2ヶ月かけて準備してきた商談資料。長年この会社で積み重ねてきた実績までもが、たった一言「高卒」で奪われた。 30年かけて築いてきた信頼が、学歴の一言で否定されたのだ。 悔しさで拳を握りしめたが、俺にできるのは黙って頭を下げることだけだった。 商談の3日前、三島が俺のデスクにやってきた。手には俺が作成した資料の束がある。 「前島さん、この資料は使えません。ドイツ語で書かれた部分が多すぎる」 俺は驚いて反論する。 「しかし相手はドイツの企業です。専門的な内容はドイツ語の方が正確に伝わります」 三島は鼻で笑い、俺の資料をゴミ箱に投げ捨てた。 「時代遅れですね。国際ビジネスでは英語が標準です。大卒の部下に英語の資料を作らせますから。高卒の前島さんは、商談当日の雑用をお願いします。あなたは所詮、高校時代の英語の知識しかないでしょ。昭和の英語教育程度では、国際ビジネスでは通用しませんから」 三島は勝ち誇ったような表情を浮かべて去っていった。 だが俺は、三島に提出する前に、万一に備えて資料のコピーを取っていた。30年の経験が教えてくれたのだ。準備を怠るなと。 そして当日の朝、俺は三島に命じられた通り会議室の準備を進めていた。三島が用意した英語のパワーポイント資料を受け取り、コピー機に向かう。ふと資料に目を通すと、俺は違和感を覚えた。 電気自動車のバッテリー溶接の精度について、英語では「高精度溶接」とだけ書かれている。しかしドイツの技術者は、こうした曖昧な表現を嫌う。必ず具体的な数値での確認を求めてくるはずだ。この資料では、商談で必ず齟齬が生じる。 俺は急いで三島の元へ向かった。 「三島部長。この資料ですが、精度の記述が曖昧すぎます。ドイツ側は必ず具体的な数値を求めてきます」 三島は苛立った様子で答える。 「細かいことはどうでもいい。プレゼンの見栄えが重要なんです」 午後2時、相手であるドイツ企業のミュラー氏が到着した。年齢は40代後半の男性で、厳しい表情をしている。お互いに挨拶と自己紹介を交わすと、早速三島はプロジェクターを使い英語でプレゼンを始めた。 しかしミュラー氏は何度も首をかしげ、困惑した顔を浮かべている。三島の英語は文法的には間違っていないようだが、発音が極めて悪いのだ。 「すみません。もう一度言ってください。あなたの発音が聞き取りにくい」 ミュラー氏は何度も聞き返す。三島は焦りながらも強引にプレゼンを続ける。 10分ほど経過したところで、ミュラー氏が手を上げた。 「質問があります。あなた方のロボットの溶接精度について、資料には『高精度』とだけ書かれていますが、具体的な数値を教えていただきたい」 三島は資料を見返すが、数値は書かれていない。 「高精度ですから、その分、十分な性能です」 ミュラー氏の表情が一気に険しくなる。 「それでは答えになっていません。我々が求めているのは0. … Read more

28 August 2026

「会社の外になるやつはいらない。さっさと出ていけ」——居酒屋のアルバイトとして働いていた六十歳の私は、専務の佐藤にそう言い放たれた。若い店長を毎日のように怒鳴り散らし、私が口を挟めば「老い」だと嘲笑う。その専務が、私の解雇を提案したのだ。 だが、彼は知らなかった。私がこの会社の大株主であり、社長の影山が古くからの友人だということを。…

「会社の外になるやつはいらない。さっさと出ていけ」 専務の言葉に、私は静かに頷いた。六十歳の私が、居酒屋でアルバイトとして働き始めて数ヶ月。まさか、こんな形でこの店を去ることになるとは思っていなかった。 「分かりました。会社の外になるやつはいらない——その意見、私も賛成です」 私はそう言って、事務所を後にした。 かつて私は、全国に名を知られた大手IT企業で働いていた。定年は六十歳。先日、その定年を迎えて退職した。仕事一筋だった私には趣味らしい趣味もなく、それでも働き足りないと思っていた。そんな折、前々から興味のあった居酒屋でのアルバイトを始めたのだ。会社員時代、飲み会やプロジェクトの打ち上げ、部下の相談——節目節目で居酒屋に助けられてきた。だから、今度は自分が働く側になりたかった。 居酒屋での仕事は、まさに天職だった。確かに大学生のアルバイトが多いが、私のような中年層も数人いる。店長の清水さんは三十五歳と若いが、明るくて気が利く。何かあれば時間を作って話を聞いてくれる、いい店長だった。職場の雰囲気も良く、私は毎日楽しく働いていた。ただ一点を除いては——。 私の勤める居酒屋は全国チェーンの店舗で、売上は中央本部が管理している。だが私の店は売上が伸び悩み、何度も専務の佐藤が手入れに来ていた。佐藤は清水店長を目の敵にしており、来るたびに怒鳴り散らしていた。 ある日、また専務の怒鳴り声が事務所から聞こえてきた。ドアが開いていたため、中の様子が見える。 「他の店はこの時期売上が伸びてるのに、なんでここだけこんなに伸びが悪いんだろうな」 清水店長は頭を下げながら、何度も謝罪を繰り返していた。 「お前みたいなのが店長やってるから店員に舐められてるんじゃないの? しっかりしてくれよ。お前、店長やる器じゃないんだよ」 頭が膝につきそうなほど深く謝っている店長に対し、佐藤は店長の頭を押さえて罵倒し続けた。 「謝ったからって売上伸びんの? そんな暇あるなら、どうやったら売上が上がるか考えなよ。そんなんで給料もらってんじゃねえよ」 さすがにこれはやりすぎだ。いてもたってもいられず、私は口を挟んでしまった。 「失礼します。お言葉ですが、さすがにやりすぎではないでしょうか」 驚いたように、佐藤の視線が私に向く。 「誰だ、お前は?」 「アルバイトの山本と申します。先ほどから拝見しておりましたが、あなたの店長に対する態度は行きすぎているように見えます。我々は店長のことを馬鹿にしているなど、全く考えておりません。店長は店の雰囲気をよくしようと努めてくれています。店長が給料泥棒という発言、撤回していただけますか?」 そこまで言って、私は専務の言葉を待った。一介のアルバイトが出すぎた真似をしただろうか。だが、これ以上店長が馬鹿にされているのを見ていられなかった。 「なんだお前は。急にでしゃばってきて文句ばかり言いやがって。何もわからないくせに口出ししてくるな」 周りの店員の視線もあり、居心地が悪くなったのか、佐藤は「また来るからな」と言い残して店を去っていった。 「山本さん、助けてくれてありがとうございました」 清水店長は放心状態だった。あんなに罵倒されては、成人男性といえど堪えるだろう。 「いえいえ、いつも店長には助けてもらってますから。こんなことしかできず申し訳ありません。その代わり、今日もバリバリ働きますからね」 右腕で力こぶを作って見せると、店長の顔も少しだけ綻んだように見えた。 「ありがとうございます。今日もよろしくお願いしますね」 その後も佐藤の手入れは続いた。店長への暴言も続き、その度に私が口を挟むのが鬱陶しかったのだろう。佐藤が来た日に私が出勤していると、露骨に嫌そうな顔をするようになった。そして、次第に佐藤の標的は私に向くようになった。 「なんでこんなじいさんがここで働いてるんだよ。じじいなんてどん臭いし、目に入るだけでも邪魔だろ。あんたみたいな人のこと、何て言うか知ってる? 老いって言うんだよ。じじいなんて使えないやつ雇ってるほど余裕ないんだよね。どうせ新しい機械とか入っても使いこなせないじゃん。そんでミスしたら会社の損害になるっておかしくない? ねえ、いつまでここにいるつもりなの?」 よくもまあ、これほど人に対する文句が出てくるものだ。しかも、こんなに人を馬鹿にするような人間が専務を務めているのか。この会社は大丈夫なのかと心配になってくる。専務としてだけでなく、人として尊敬できるところが何一つ見つからない。ただ、店長への当たりが少しだけ軽くなったのは、良かったと言えるだろう。 私も多少は堪えたが、店長よりも年を食っている分、打たれ強くなっているはずだ。少しでも店長の気が楽になっているなら、それでいいと思った。もちろん、清水店長が店長という立場ゆえに佐藤と話している姿を、その後も何度も目にした。 ある日、佐藤が店にやってきた。「店長に話がある」と言う。なぜだか、私もその場にいるように呼び出された。何事だろうか。また私に対する文句であれば、受けてやろうではないか。 事務所に入ると、佐藤は一瞥をくれた後、清水店長の肩に手を回しながら話し始めた。以前の様子とはまるで違い、少し馴れ馴れしい様子にさえ見える。 「清水君、最近頑張ってくれてるようだけど、まだいまいち利益が伸びないね」 気持ち悪い笑みを浮かべながらそう話す佐藤に、清水店長もどう反応したらいいのか分からないようだった。 「ええ……そうですね。すみません」 「いや、今日はそんなに硬くならないでくれ。一つ提案があるんだよ。利益が出ないんだったら、経費を削減すればいいだろう」 佐藤は清水店長の耳元に顔を近づけて、何事か囁いた。その口元が醜く歪む。 「使えないアルバイトなんて、何人か首にしてしまえばいいだろう。何人か減らしたとしても店は回る。それに、使えない年寄りなんて置いてても金と場所の無駄だ。それこそ給料泥棒だよな。会社にとって外になる人間。やめてもらったらどうだ?」 佐藤が私の方に視線をやった。なるほど。私がこの場に同席するように言われたのは、そういうことか。 清水店長は何と言っていいのか困り、私と佐藤の顔を交互に見ている。なぜここまで言われなければならないのだろうか。自分が批判されたことが、そんなに気に食わないのか。ここまで言われては、仕方がない。 「分かりました。そこまで言われるのであれば、もうここにいようとも思いません。店長、申し訳ありませんが、今日でやめさせていただきます。今までお世話になりました」 「さっさと出ていけ」 私は少ない荷物をまとめると、佐藤へ向かって言った。 「会社にとって外になるようなお荷物はやめてもらうという意見。私も賛成です」 「そうだろ。身のほどをわきまえられるようになったんだな」 佐藤は笑いながら、出ていく私の背中に声をかけてきた。清水店長は必死に引き止めてくれたが、もう後には引けなかった。 それから数日後。佐藤のところに、社長の影山から連絡が入った。近いうちに臨時株主総会が開かれるという。その時に資料も渡された。この時期に株主総会なんて珍しいなと思いながら資料をめくり、議題を確認した佐藤は、目を丸くした。 ——佐藤務の解任が、提案されていたのだ。 佐藤はなぜ自分が解任されるのかと焦ったが、考えても考えても理由など思い当たらない。それは株主総会当日まで、考え抜いても分からなかった。 株主総会当日。私は会場で佐藤の到着を待っていた。私を見つけた佐藤は驚いた様子で、こちらへ寄ってきた。 「なんでお前がいるんだ。まさか、また文句を言いに来たのか?」 … Read more

28 August 2026

Mio figlio ha sbattuto il pugno sul tavolo e ha gridato: «Chiedi scusa a mia moglie o domani esci da questa casa». Aveva l’anello di lei in mano, quello che diceva le avessi rubato io, la suocera…

Mio figlio sbatté il pugno sul tavolo e gridò: «Chiedi scusa a mia moglie o esci da questa casa». E io sapevo già esattamente cosa avrei fatto. Quello che non sapevo era che la frase che mi era rimasta in gola per tre giorni avrebbe distrutto il suo matrimonio prima ancora che il dolce si … Read more

28 August 2026

「シ太君のテントで一緒に寝てもいい?」 初めて会ったその日、彼女はそう言った。俺は26歳で、彼女は36歳。人気のない山奥のキャンプ場で出会った、たった一度きりの関係のはずだった。 翌朝、彼女は何でもなかったかのように帰っていき、俺は連絡先すら聞けずに終わった。あの日のことが忘れられず、毎週キャンプ場に通ったのに、彼女は二度と現れなかった。…

俺はこの先もう二度と彼女に会えないかもしれないと思った瞬間、胸が締め付けられるように痛んだ。 あの日、俺は新しい穴場のキャンプ場を探していた。人気のない、大自然に囲まれた場所でソロキャンプをするのが、俺の何よりの楽しみだった。平日は保険会社の営業マンとして働き、休日になると車を走らせて誰もいないスポットを探す。この日も山奥を走り回って、ようやく見つけたのは管理人のいない小さなキャンプ場だった。 「これ、めちゃくちゃいいかも。しかも人もいなさそうだし」 看板の近くの小屋には、キャンプ場のルールが書かれた説明書があったが、管理人の姿はなかった。よく見ると「当キャンプ場は管理人がおりません」と書かれている。俺は最高の場所を見つけたと喜び、早速テントを張って周辺の散策に出かけた。 すると、俺のテントから少し離れた場所に、もう一つテントがあることに気づいた。 「あれ? ひょっとして、俺以外にもキャンプしてる人がいるのか?」 近づいてみると、確かに人のテントだった。サイズから察するに相手もソロキャンパーらしい。せっかく貸し切りだと思ったのに、と少し残念に思っていると、目の前のテントがガサガサと動き始めた。中の人が出てくるらしい。俺は物陰に身を潜めて、どんな人物なのかを見てみることにした。 テントから出てきたのは、一人の女性だった。しかも、服を一枚も着ていない。俺は驚きのあまり、声を漏らしてしまった。 「えっ」 その声に気づいた女性がビクッと反応し、俺の方を見た。ばっちり目が合ってしまった。俺は動けず、その場に立ち尽くすしかなかった。 すると、その女性はこちらに近づいてくる。見た感じ30代前半くらいだろうか。年齢を感じさせないほどスタイルが抜群で、俺よりずっと大人の雰囲気があった。そして、目の前までやってくると、こう言った。 「ここで何をしているの? 覗き?」 「ち、違います! 僕はここから少し先でキャンプしてたんです。それで周辺を散策してたらテントを見つけたので、誰かいるのかなって見てただけなんです。本当に偶然なんです。信じてください」 「へえ、偶然ね。まあ、言い訳なんていくらでもできるわよね」 「いやいや、言い訳じゃなくて本当なんですって。っていうか、どうしてそんな格好をしているんですか?」 「え、どうしてって? これだけ自然の中でキャンプするなら、こっちも自然体でいるのが一番かなって」 「それはそうかもしれませんけど、もしかしたら自分以外にも人がいるかもとか思わないんですか?」 「私は何度かここに来てるけど、このキャンプ場って穴場でね、人がいるのを見たことがないの」 「だとしても、毎回そうとは限らないでしょう。僕みたいに穴場を探してくる利用者もいるんですから」 「まあ、確かにそうかもね。それでもこんな深山の中に人がいるなんて思わないでしょ。それにここはすぐそこに川があるから、水浴びするのにも最適なの。だからこの場所は私のお気に入りなのよ」 「確かに、ここはすごくいい場所だとは思いますけど」 「でしょ。自然体になるともっと最高よ。マイナスイオンも直に吸収できるしね」 「ああ、だからそんなにスタイル抜群なんですね」 俺はついつい本音をこぼしてしまった。知らない男性に突然そんなことを言われて、変態だと思われるかもしれない。慌てて謝ると、彼女はなぜか嬉しそうに笑った。 「あら、スタイル抜群? 若い子にそう言ってもらえるとなんか嬉しいわね。ありがとう」 「あ、いえ、正直にそう思ってました」 「私、あなたのこと気に入っちゃったわ。あなたはどこにテントを立てたの?」 「え、僕ですか? すぐそこですけど」 俺が自分のテントを指さすと、彼女は「ああ、あれね」と納得した顔をした。それから、俺のキャンプギアを見たいと言い出した。 「じゃあギアとか見せてくれない? 私もソロキャンプが趣味なんだけど、他のキャンパーのギアとかを見るのも好きなの」 「ああ、それ僕も分かります。僕のでよければ見に来てください。ああ、でも、その前に服は着てもらえますか?」 「ああ、ごめん、ごめん。私、キャンプする時はいつもこの恰好だからすっかり忘れてた。服着てくるから待ってて」 彼女はテントに戻って服を着ると、俺のテントまで一緒に来た。そこで初めてお互いの名前を交換した。 「私はまゆかっていうの。あなたは?」 「僕はシ太って言います」 「シ太君ね。お仕事は何してるの?」 「普通のサラリーマンです。保険会社で営業をしていて」 「営業マンか。なんかそんな感じがしたわ。私は美容関係の仕事をしているの」 「美容関係ですか? 通りで肌とかもすごく綺麗ですもんね。僕より年上で大人っぽい感じがしますけど、同世代と変わらないくらい肌が綺麗です」 「え、シ太君っていくつなの?」 「僕は今年で26歳です」 「26歳?」 「そうですけど、どうしてそんなに驚くんですか? まゆかさんもそんなに変わらないでしょう」 「ちょっと、あなた本気で言ってる?」 「ええ、本気ですけど」 「私は今年で36歳よ」 … Read more

28 August 2026

深夜の電話で義母から「お父さんが倒れた」と聞かされ、慌てて病院へ向かう車の中で、夫は酒臭い息を吐きながら笑っていた。「これで俺がすぐに社長になれるな」と。その言葉に血の気が引いた。夫が義父に何かを飲ませたのでは?…

家に帰ると、玄関に見知らぬ女物の靴が置いてあった。数十時間、一人で苦しんで産んだ赤ちゃんを連れて、やっと家に帰ってきたというのに。産後数日の娘は、私の腕の中で気持ちよさそうに寝息を立てている。でも、私の鼓動は娘の穏やかな息とは裏腹に、ドクドクと速く高鳴っていく。足音を立てないように静かに奥へ進む。娘が寝ていてくれたのが、唯一の救いだったかもしれない。寝室の前まで来ると、楽しそうに話す夫の声と、聞き覚えのある女の声が聞こえてきた。ショックで息が詰まった。何も考えられない。そんな中、腕の中にいる小さな命の存在が、なんとか私の正気を保たせてくれた。辛い現場に立ち会わせてごめんね。心の中で娘に謝った。私はそっとドアを開ける。隙間から中を覗くと、そこにいたのは――自分がダイエットサークルで知り合った友人のあけみだった。なぜ、彼女がここに? 思い返せば、あの日々があった。あけみに誘われてついていった先で、夫の大輔と出会ったのだ。大輔は明るく、私たちにも気さくに話しかけてくれた。コミュニケーション能力が高いだけでなく、ボランティア活動にも非常に積極的だった。きついとか忙しいと言われる場所に、進んで赴いていた。そんな彼は後輩からとても慕われていて、もちろん私もその一人だった。サークルでの活動のおかげか、就職活動にも困らなかったようだ。私も大輔を見習って、ボランティアも学業も全力でやった。その結果、私は内定をもらえることになり、あけみと居酒屋でお祝いをしている時に、卒業式ぶりに大輔と再会した。憧れの先輩に久しぶりに会えた私は舞い上がって、その場で大輔を映画に誘った。大輔も了承してくれて、デートに行った日に私たちは付き合うことになった。一年後、私たちは結婚した。あけみもそのスピード感に驚いていたけれど、私には大輔という確信のようなものがあった。男性経験はほとんどないけれど、大輔には不思議な安心感があったから。 「うん、おいしい。大輔、さすがだよ」 「SNSで見たレシピなんだけど、いけるだろ?」 「本当、大輔が料理してくれて助かるよ」 「いいって。なお子の勉強、大変だろ?」 大輔が作ってくれた鶏の照り焼きに箸をつけながら、私は頷く。そう、私は今、税理士試験の勉強の真っ最中なのだ。元々、共働きだから料理は大好き。でも、掃除などの家事は、いつの間にかほとんど大輔に任せきりになっていた。試験が終わったら元に戻すつもりだけれど、働きながら家のことをやるのは大変だ。けれど、大輔は嫌な顔を一つせずに家事を引き受けてくれる。素敵な人と結婚してよかった。そう心から思っていた。その後、試験には一発合格。大輔も私も、それで稼ぎが上がった。しかし、夫婦の関係は思わぬ方向へ進んでいく。 ある日、私は妙に体調が悪く、会社を早退して病院へ向かった。そこで医者から、とんでもないことを言われたのだ。 「ただいま」 「お帰りなさい」 大輔の声を聞くなり、私はすぐに玄関へ向かった。大輔は靴を脱ぎながら首をかしげる。 「どうした? 機嫌いいね」 「それがね、妊娠したの」 そう、体調不良は妊娠が理由だったのだ。医者から告げられた時、当然驚いたものの、それを上回るくらい嬉しかった。元々、子供は欲しいと思っていたし、稼ぎが上がった今ならお金の心配もしなくていい。きっと大輔も喜んでくれるだろう。そう思っていたのに、大輔の表情は曇った。 「そう。おめでとう」 そう言うと、リビングへと入っていってしまった。それだけ? 内心、肩を落とす。私は少し寂しさを感じながらも、男性はそういうものなのかもしれないと言い聞かせた。でも、その違和感は時間が経つにつれてどんどん濃くなっていく。体調不良に苦しみながらも、私はギリギリまで働いた。会社の人からは無理しなくていいと言われたけれど、仕事が大好きだから、なるべく頑張りたかった。しかし、その頃、大輔も繁忙期に入ってしまい、お互いになかなか家事の時間が取れなくなった。私はもう限界だと判断し、家事代行を頼もうと大輔に提案した。すると、大輔は怖い顔で私に言ったのだ。 「無駄な金を使うなよ。それならなお子が仕事やめて家事すればいいだろう」 思わぬ言葉に耳を疑った。そして、その日から大輔は当てつけのように、家事を一切しなくなってしまった。話し合う余裕も体力もなかった。余計なことを言って事を大きくしたくもなかった。それなら私が頑張ればいいや。そう思って、仕事と並行して家のこともやるようになった。きっと子供が生まれたら、大輔も元の優しい夫に戻るだろうと信じて。休日、くたくたの体で掃除機をかけていると、ソファーに何か挟まっているのが見えた。それは、大輔のスマホだった。拾い上げて置こうとしたら、背後から大輔の「おい」という怒鳴り声が飛んできた。慌てて振り向くと、大輔は私を力の限り睨みつけている。 「勝手に見るなよ。気持ち悪い」 「ごめんなさい。わざとじゃないの」 「そういうのいいから、返せ。早く」 大輔にスマホを奪われた勢いで、私はその場にへたり込んでしまう。その様子を見た大輔は、私に手を差し伸べるでもなく、不満そうにため息をついた。 「妊娠してるからって、甘えるなよな。うちのお袋は俺を産んでる時も、立派に働いてたって言ってた。つまり、なお子が余裕ぶってるからいけないんだよ」 横っ面を張り飛ばすような言葉に、頭が真っ白になった。ここまで言われなくちゃいけないの? 「子供がかわいそうだよ。こんな情けない母親で」 「ごめんなさい」 子供のことを出され、反射的に謝罪の言葉を口にする。そうだ。私はこれから、一人の人間を生み育てるんだ。こんなことでくじけたり、傷ついたりしている場合じゃない。 「スマホを見たことは謝るから、そんな風に言わないで。俺を責めるのは違うだろう」 「はあ。昔はお前も可愛かったのに、変わっちゃったよな」 そんな態度を崩さない大輔の声を聞きながら、私は俯いた。その翌日、私は職場で貧血になり倒れてしまった。もっともっと頑張りたいけど、ここが私の限界なのかもしれない。私はその日のうちに上司に相談し、退職の手続きを決めた。数週間後、私はまた病院を訪れていた。 「半田さんは、冷え性なので低体重児になる可能性が高いですね」 「そうなんですか」 「はい。それと、少し気味なのもあまり良くない。少しでいいので運動したり、食事量をセーブするようにしましょう」 言われていることへの心当たりは、数えきれないほどあった。大輔の料理は美味しいが、いわゆる男性が喜ぶようながっつりしたものが多く、脂質も糖質も高かった。私も仕事が忙しいからという理由で、ペロリと平らげてしまうことがほとんどだった。妊娠し、自分で料理するようになってからは、随分控えめな量にしていたつもりだったけれど、まだまだ足りないらしい。大輔は私の全身を見ては、蔑むような目を向けるようになった気がする。態度が変わったのも、私が太ったからなのだろうか。今や、ほとんど会話もかわさず、夫婦関係は冷えきっていた。状況を改善したい気持ちは当然あるものの、どうしたらいいのか、見当もつかなかった。 数日後、私が起きると大輔はソファーの上で眠っていた。うっすらお酒の匂いもするし、朝帰りしたのだろう。飲み会だったのかなと思い、毛布を持ってきてかけてあげようとしたら、大輔のポケットから何かが滑り落ちた。拾い上げると、それはカップル向けの宿泊施設のカードだった。無駄に洗練された雰囲気を醸し出している黒いカードを見て、私は瞬間的に頭に血が上るのが分かった。 「大輔、起きて」 「なんだよ。うるさいなあ」 「うるさいじゃないわよ。これは何?」 カードを目の前に突き出すと、大輔の目が泳いだ。それが何よりの証拠だった。私は堰を切ったように、大輔の今までの不満を口にした。言い出したら止まらなくて、言葉が泉のように溢れてくる。そのうちに涙も出てきて、自分が情けなくなって、思わず「お兄ちゃん」と口走ってしまった。私と兄は仲が良く、兄は私が困っている時にいつでも駆けつけてくれた。子供の頃の名残りで、感情が限界まで高ぶると、未だに兄のことを呼んでしまうのだ。いい加減直さないと思いながらも、頭がパニックになっていると、頭より先に口が動いてしまう。大輔にも馬鹿にされるかと思ったものの、予想に反して、大輔の顔は青ざめていた。 「お、俺が悪かったよ。ごめん」 「え?」 「今までのことは謝るし、家事も俺がやる。だから、離婚はやめてくれないか。お兄さんにも迷惑がかかるし。この通りだから」 大輔はその場で私に向かって土下座をした。いきなりの展開に私は面食らったものの、大輔の情けない姿を見ているうちに、また怒りが湧き上がってきた。その後、離婚届にはきっちりサインをもらい、その日はそこで終わった。 数ヶ月後、私はタクシーで病院に向かっていた。午前中に陣痛が来たので、用事だけ済ませて、その足で病院に向かうことにしたのだ。医者に注意されてから、食事改善に気を遣っていたものの、結局入院になりそうだった。大好きな家のことをお願いね、とメッセージだけ送り、背もたれに体を預ける。あの日から、大輔は言葉の通り家事を懸命に行い、私は随分快適な生活をさせてもらった。でも、それは私のことが大事だからではない。それは痛いほど分かっていたから、病院にも呼ばない。一人で産んで、一人で育てる。私はそう決意して、お腹を撫でた。 無事に出産と退院を終え、私は家へと帰ってきた。腕に抱かれた娘は、気持ち良さそうに寝息を立てている。ドアを開けると、予想通り、女の靴があった。辛い現場に立ち合わせてごめんね。心の中で娘に謝り、まっすぐ寝室へと向かう。ベッドに裸で寝転んでいたのは、大輔とあけみだった。二人は一瞬固まった後、どんどん焦ったような表情になっていく。 「ち、違うの? これは……聞いてくれ」 べらべらと何かを言っているけれど、私にはもう関係のない話だ。 「慰謝料と養育費のことは、後で弁護士を通して連絡するから。とりあえず、他人の二人は出ていってくれる? ここ、私の家なの」 「他人?」 「そう。他人。ほら、早く」 「お前、何言ってんだよ。ここは俺の家でもあるんだから、絶対に出ていかないぞ。そうだ。そもそも、お前が先に不倫したんだろ。俺の子じゃないなら、養育費を払う理由なんてない」 … Read more

28 August 2026

「おじいちゃん、今日は50名分も仕込んだのに、たった100円玉ひとつで全部パーになっちゃったよ。」そんな朝の会話から始まった、たった一晩の出来事。東京の下町にある小さな寿司屋で、高級スーツを着た銀行員が、私たちを「貧乏臭い」と笑い、祖父の店の150万円の予約を一方的にキャンセルしたのです。悔しくて、悔しくて、涙をこらえることしかできなかった。でも、祖父はただ静かに一礼しただけ。そして翌朝、祖…

「どうして50名分も仕込んだのに、たった100円で全部台無しになっちゃうの?」 高級スーツを着た銀行員が、東京下町の裏路地にある小さな寿司屋「寿司栗原」に足を踏み入れた。店内には、すり切れたエプロン姿の19歳の双子、楓と小春が立っていた。 誰もが姉妹が泣き崩れるのを待っていた。しかし、彼女たちも、祖父で大将の栗原も、怒鳴ることも泣き叫ぶこともなかった。老職人はただ静かに一礼をしただけだった。 「おい、奢ってやるよ。100円のかっぱ巻きで十分だろ。このボロ店にはな。」 50名分、150万円の予約が、100円玉一枚で笑い飛ばされた。普通なら店ごと潰れてもおかしくない。それなのに大将の背筋は、わずかにも揺れなかった。 「予約の確認は受けました。そんな話より、お前たちの格好をどうにかしろよ。」 笑う銀行員だけが知らない。この路地裏のボロ寿司屋の裏側に、何が隠されているかを。 これは、理不尽な仕打ちで傷つけられた姉妹と、その祖父に最後に訪れる、ある因果応報の物語である。 — 時はその日の朝に遡る。 寿司栗原は、東京下町の裏路地にある小さな寿司屋だ。外壁のモルタルはひび割れ、暖簾の色もすっかり褪せていた。それでも毎日、その引き戸をくぐる常連客は絶えなかった。 毎朝6時、楓と小春は祖父より先に目を覚ます。 「姉ちゃん、今日はいい天気だよ。早く仕込みしよう。」 2人でエプロン姿になり、勝手口から仕込みに入るのが日課だった。姉の楓は真剣な目で仕事をこなし、妹の小春は笑顔で常連客の名前を覚えていた。 楓と小春が両親を亡くしたのは7歳の時だった。父は運転中の事故で即死し、母は数日後に後を追うようにこの世を去った。その知らせを受けた祖父の栗原は、翌日には2人を引き取った。 「ねえ、姉ちゃん、お父さんってどんな人だった?」 ただ毎朝、姉妹の前に朝食を並べ、こう言うだけだった。 「食え。」 不器用な愛情だった。しかし2人にはそれで十分だった。 「優しい人だったよ。おじいちゃんに似てた。」 「ねえ、姉ちゃん、私たち、おじいちゃんに似てるかな?」 小学生の頃、2人はおじいちゃんの店を継ぐと決めていた。 「小春、修行が終わったら、私たちで壽司屋やろうね。」 「うん。絶対やる。2人で。」 高校を卒業した4月、2人は同時に店での修行を始めた。77歳の祖父の手は節くれだったが、包丁の切れ味は衰えていなかった。 「魚の目を見ろ。鮮度はそこに出る。」 「はい、おじいちゃん。」 昼過ぎの休憩時間、小春は姉に話しかけた。 「ねえ、おじいちゃんって昔、どんな仕事してたの? あまり話してくれないけど、すごい人なんだとは思う。」 実際、祖父の過去を知る者は、この界隈にはほとんどいなかった。しかし、栗原は国内外に500店舗以上を展開する、栗原フードグループの創業者であり、グループ総資産3兆円を超える飲食業界の重鎮だった。引退後、彼は全ての肩書きを捨てて、この小さな店に戻ってきたのだ。 夕食後、栗原が珍しく姉妹を隣に座らせて、お茶を出した。 「寿司は嘘をつかない。握る人間が正直なら、寿司も正直だ。」 「おじいちゃん、それってどういう意味?」 「自分で分かるようになれ。それが修行だ。」 この言葉の意味が分かるようになりたい。それが2人の心からの願いだった。 一方、その日の午前中。第一糸和銀行の常務店では、法人営業課長の笑神が、部下と今日の予定を確認していた。 「今夜の件寿司、50名分、150万円、確認済みだな。」 「はい、確認済みです、課長。」 「まあ、ボロい店だけどな。先輩の進めだから仕方ない。」 34歳の笑神は、名門大学を卒業したエリートだった。彼にとって、外見や学歴が劣る相手は、最初から眼中になかった。その傲慢さが、今夜、取り返しのつかない結果をもたらすとは、この時は誰も知らなかった。 — 物語は、同じ日の夕方5時に戻る。 楓は店の引き戸の前に立っていた。 「今日もよろしくね、姉ちゃん。」 「うん、よろしく。」 2人は顔を見合わせて、小さく笑った。今日は50名のお客さんも来る。頑張ろう。 「こんな路地に店があるのか。田舎臭いな。」 引き戸が開いた瞬間、笑神の目に飛び込んできたのは、「いらっしゃいませ」と挨拶をする、古びたエプロンを身につけた2人の若い娘だった。 「はあ? 本当にこんな店でいいのかよ。」 部下が「課長、お客様の前で」と言いかけたが、笑神はそれを無視してカウンター席にどかっと座った。 「お前ら、ここの娘か。バイトじゃないよな。」 「はい。こちらは祖父の店です。修行中です。」 「修行だと? … Read more

28 August 2026

私は60歳の契約社員です。再雇用の身ですが、会社では一番のベテランで、若い社員たちの指導も任されていました。ところが、ある日突然、後任の課長が私を「シニアスタッフなんで帰っていいですよ」と、会議から追い出したのです。その課長は大事な取引先の情報を無視して、私が長年かけて築いてきた信頼を一瞬で壊す提案をしました。翌朝、会社から数十件の着信。取引先は取引中止を一方的に告げてきたのです。「なんでこ…

会議室のドアを開けた瞬間、手代木部長が俺を見て首をかしげた。 「水希さん、なんでここにいるんですか?会議は社員だけで十分なんですけどね。シニアスタッフなんで帰っていいですよ」 飯野課長がにやにやしながら言った。俺は伝えなければならない大事なことがあったが、飯野の経験でなんとかカバーしてくれるだろうと思い、その場を去ることにした。 「では帰りますね。お先に失礼します」 俺は水希孝太、60歳になるじいさんだ。令和の今では「定年」と呼ぶにはまだ早いとされる世代。俺の親の時代なら60歳といえば、一生遊んで暮らせるだけの金を稼ぎ、年金をもらいながら悠々自適の老後ライフの第一歩となる年齢だった。 健康寿命も伸びつつあるこの世の中、60歳はまだまだ働ける働き手の一人となるようだ。 妻には「あなたは健康だけが取り柄なんだから、もう少し働いてちょうだい」と言われた。妻からは俺が家にいること自体がストレスになると、はっきり言われている。 息子からは「孫がもう一人増える予定だから、もう少し蓄えをお願いしたい」と言われた。 「そこはお前の稼ぎじゃないのか」と呆れた口調で返答したが、「教育費とかではなく、おもちゃなどを買い与えるための費用だ」と切り返された。 ということで、俺はシニアスタッフとして勤務先と5年満期の再雇用契約を結んだ。 俺の勤務先は旅行業で、主に法人相手の旅行の企画などを行っている。俺は元々この会社で働いていたため、旅行業に関する資格を持っている。そのため、勤務先から「大人や人の届け出が面倒だから、もう少し職場に残ってくれないか」と言われたのだった。 ただし、「給与はこれまでの8割程度しか出せませんが」と言われたが、家族からあんなことを言われている立場からすれば渡りに船だ。5年も働けば家族としても納得するだろう。 幸いにして、俺はこの会社では頼れる上司の一人としてカウントしてもらっており、資格取得のための勉強を見てやったり、旅程を組むための知識なども伝授したりしていた。 「水希さんが残ってくれるならすごく助かります。まだまだ教わりたいこといっぱいあるんですよ」 「いやいや、お前さんは3年目でもう一人立ちできないといけないだろ。添乗とかも任せなきゃならんからな。頼むぞ。っていうか、会社が欲しいのはあんたのスキルじゃない。資格だ。早くお前らも資格を取って、定年を払い箱にしろ」 唯一、飯野課長は俺を目の上のたんこぶのように扱う。飯野課長よりも保有する資格が多いし、英語の他に中国語と韓国語が話せるし、それに課長より長く会社にいるのが癪に触るらしい。 俺は癪に触るのなら、資格や語学習に力を入れればいいだけだと思っているので放っておいている。それを除けば部署内は和やかなムードなので、俺としても過ごしやすい。 隣にある個人向け旅行商品を企画する部署は、旅行商品の企画倒れが続き、「もう後がない」と上層部に言われたらしい。上司と部下たちの間で温度感が異なり、転職を検討している社員もいるのだとか。 旅行業界は社会情勢に左右されやすい業界だから、こういう状況に陥るのも仕方がない。俺がいる法人営業部は研修旅行や慰安旅行など、会社の福利厚生のための旅行商品の企画をしている。不況のまっただ中にいれば「もう後がない」と言われるのはうちの部署だったであろう。 そんな中、人事移動で法人営業部の部長が変わった。 「海外事業部から転勤してきました手代木です。法人営業部がさらにいい部署になるよう尽力しますので、よろしくお願いいたします」 若手の女性部長がやってきた。手代木部長は、弊社の商品を利用して渡航した海外旅行客のアシストをするために海外に駐在していたという。 「水希さん、なかなか不慣れな点が多いので色々教えてくださいね」 「いやいやいや。こいつは使い物にならんので、何か分からないことがあればこの飯野にお任せください」 手代木部長と俺の間に割って入ってくる。こいつは自分の上司に小判鮫のようにくっついて取り入ろうとする。少しでも早く出世したい一心で媚びを売っているのだが、一度もそれが叶ったことがない。 俺も管理職への登用チャンスがいくつかあった。しかし管理職となればデスクワークオンリーとなる。俺は自分が企画した旅行の添乗員としてお客様を案内することに生きがいを感じていたので、管理職の道を断り、平社員のままでいることにしたのだ。 もちろん、チャンスを棒に振るのはそれこそ勿体ないと家族からは愚痴られた。最終的に「夫が出張でいない方が平和である」と家族は賛成した。 「こいつは社員じゃないんで。え、でもさあ、社員を紹介しますんで、どうぞこちらへ」 俺を無視して、飯野は手代木部長を連れて行ってしまった。まあ、それでいいと思っていたし、自分の仕事をこなせればそれで構わなかった。 ある意味、子飼いの飯野は、手代木部長が困った表情をしているにも関わらず、かなり余計なことまでレクチャーをしている。手代木部長だっていい大人だ。救急室やトイレの場所まで教える必要はないだろう。 そんな時に電話が鳴った。 「手代木部長が電話だからと立ち上がった。おい、電話番のシニアスタッフ」 俺は飯野が言い終わる前に受話器を取っていた。 「はい。法人営業部の水希でございます」 飯野はそれで満足したかのように、また手代木部長にあれこれ話を始めていた。 電話の相手は、常得意先の池田産業の部長さんだ。池田産業からは、社内の慰安旅行から顧客の接待旅行など様々なご依頼を受けている。この電話も毎年恒例の社内の慰安旅行。2泊3日で30名分のご依頼だった。 飯野がべったり張り付いている手代木部長に声をかけるのは憚られたので、社内メールで電話の内容を伝えた。 「ちょっと飯野課長は席に戻ってくれますか?」 手代木部長がパソコンの画面に視線を落としながら、少し厳しい口調で伝える。飯野がその口調に驚き、慌てて自席へ戻る。 そのやり取りが俺には小気味よく思えたが、手代木部長は慌て始める。そりゃそうだ。彼女はこれまで現地で顧客サポートをしていただけだ。営業はもちろん、旅程の企画立案なんて初めてのことだろう。 「あの、水希さん。お客様は今年は関東県への旅行をお望みです。去年は富山県で解散物や山の自然をご堪能いただきました」 「なるほど。それなら水希さんを中心に」 「いいえ。水希はシニアスタッフですので任せることはできません。さあ、お前ら、この旅行を成功させるために1人3つのプランを考えてこい」 手代木部長が目で「ごめんなさい」と俺に訴えている。俺は「いえいえ」とにっこりした顔を見せて答えた。 その2日後、先方である池田産業さんへプレゼンをするための企画会議をする日だ。飯野が座長となり、営業部のメンバーがそれぞれプレゼンする。メンバーがプレゼンするたびに飯野がつまらなそうに相槌を打つ。 次は俺の番だなと立ち上がろうとした時だった。 「もう、もうこれで発表は終わりだな。なかなかいい案が出ないままだな。つまらない案ばかりだよ。旅行会社らしからぬ提案ばかりしやがって」 「待ってください。水希さんのプレゼンがまだです」 「水希さん?なんでここにいるんですか?会議は社員だけで十分なんですけどね。シニアスタッフなんで帰っていいですよ」 「ちょっと飯野課長」 手代木部長が飯野課長を窘めたが、周りに部下がいる中で彼が引くことはなかった。 「今回の案は、俺が提示した魔法の国ツアーと横浜ナイトクルーズで決めちゃいます。以上」 俺は飯野に大事なことを伝えなければいけなかったが、まあそれは飯野の経験でなんとかカバーしてくれるだろうと思った。 「では帰りますね。お先に失礼します」 俺は3つの企画書をファイルにしまい込み、その場を後にした。 … Read more

28 August 2026

「お前はもういい。3日以内に出ていけ。俺たちは終わりだ。」 夫がそう言い放った時、彼は私がこの日をどれだけ待っていたかを知らなかった。義両親の前で、彼は私の浮気の“証拠写真”を得意げに並べ立てた。でも、その写真に映っていた男性は、私が依頼した探偵だった。私は笑みを浮かべ、こう切り返した。 「3日いらないわ。それより、今からあなたの愛人に会いに行くけど、一緒に来る?」…

「浮気してたのはお前じゃなくて、俺の方なんだよ。でも、俺はどうしても許せないことがあってな…昨日、離婚届を出してきたんだ。」 その言葉が飛び出した瞬間、祝いの席の空気が凍りついた。夫の両親は、何が何だか分からないといった様子で、私と夫を交互に見つめている。 私は、夫の一言で始まったこの茶番を、ただ静かに見つめていた。彼は封筒から数枚の写真を取り出し、両親の前に並べた。 「俺に隠れて、こそこそと浮気を繰り返していたんだ。証拠の写真もある。マナ、3日だけ時間をやる。その間に家から出ていく準備をしろ。それで俺たちは終わりだ。」 写真には、確かに私と男性が会話している姿が映っていた。何も知らなければ、浮気の現場に見えなくもない。 「3日もいらないわ。1分あれば十分よ。実は入院する前から新居を探していたの。だから、今からそこに行くわね。」 「は?新居? 何を言ってるんだ?」 私は内心でため息をついた。何も知らずに得意げな夫を見ていると、滑稽ですらあった。しかし、ここで感情を出すのは得策ではない。私はこの日のために、ずっと準備をしてきたのだ。 「冗談なんかじゃないわよ。ちなみに、私に無断で離婚届を出したことも、最初から全部知ってたわ。」 「はあ? そんな狂った話を信じると思ってるのか?」 夫は一瞬動揺したようだったが、すぐに取り繕うように鼻で笑った。私は、彼のその薄っぺらい自信を眺めながら、長年抑え込んできた怒りをさらに奥へと押し込んだ。そして、ポケットからスマホを取り出すと、画面を彼に向けて見せた。 「これを見て。」 夫は最初、興味なさそうにしていた。しかし、画面に映った瞬間、その顔色は一変した。そこには、夫が実家の机で離婚届に記入している姿が映っていたのだ。音声も鮮明で、紙をめくる音やペンを走らせる音まではっきりと拾われていた。 「実は、入院する前から家の中に監視カメラを設置していたのよ。」 「正気か? よくもこんなことを…。頭がおかしいんじゃないのか?」 「監視カメラを設置したのは、あなたが何をしているのかを知るためよ。理由もなく、こんなことはしないわ。」 「そんなのプライバシーの侵害だ! 犯罪だぞ!」 「弘樹、落ち着け。まずは話を聞こうじゃないか。」 夫が声を荒げる中、義父が低い声でそれを制した。義母も、戸惑いながら私を見つめる。 「マナさん…一体、どうしてそんなことをしたの? 理由があるなら、聞かせてほしい。」 私は軽く頷き、視線を夫から義両親へと移した。 「理由は簡単です。弘樹が私を、まるで召使のように扱い、いびってきたからです。」 「なっ…弘樹、それは本当なの?」 「そんなわけないだろ! こいつの勘違いだ! 俺がいつ、そんなことをしたっていうんだ!」 夫は焦りながら言い訳を始めた。私は深呼吸を一つして、冷静に話を続けた。 「私が入院した理由を、お父さんたちは聞いていませんでしたよね。実は、過労とストレスによるものだったんです。弘樹が私に過剰な家事を押し付けたことが原因です。」 「弘樹がそんなことをするなんて、私には信じられないわ…。」 義母は顔を曇らせながら首を横に振った。義父も腕を組み、険しい顔で私を見つめる。 「マナさん、我々には弘樹がそんな風には見えたことはないんだが…。少なくとも、我々が知っている弘樹は、家族を大事にする息子だ。」 「お父さんとお母さんがそうおっしゃるのは分かります。弘樹はいつも、お二人の前ではいい夫を演じていますからね。でも、それが本当の姿ではありません。私はずっと、弘樹の本性を見てきました。」 「父さん、母さん、この女の話を信じちゃいけない! 全部、こいつの妄想なんだ!」 夫は義両親に向き直り、慌てて否定を始めた。義母はまだ半信半疑の様子で、「でも、マナさんの話にも筋は通っているわよ…」と呟いた。 すると、夫はさらに声を荒げて私を非難し始めた。 「こいつは、自分の浮気を隠すためにこんな嘘をついてるんだ! 俺を悪者にして、自分を守ろうとしてるんだよ!」 「水樹、証拠があるかどうかはともかく、マナさんがここまで言うには、それなりの理由があるはずだ。我々が信じられないというだけで、終わらせていい問題じゃない。」 「もういい! どうせ新居があるんだろう? だったら今すぐ出ていけばいいだろう!」 追い詰められた夫は、急に話題をそらすように私に向き直り、声を荒げた。 「弘樹、何を言ってるの? そんな乱暴なことを…。」 「母さん、もうこいつを家に置いておく理由なんてないんだよ! 居場所があるっていうなら、さっさと出て行けばいいんだ!」 「今日は、新居には行かないわ。他に用事があるから。」 私は冷静に言い放った。夫は苛立ちを隠そうともせず、不満げに睨みつけてくる。 「はあ? … Read more

28 August 2026

診察室に、松葉杖をついた中学生が入ってきたのは、その日の午後だった。だが、それよりも衝撃的だったのは、その次の患者だった。地方の高校のエース、鈴木蓮。彼は甲子園予選を一週間後に控え、母親と監督に連れられてやってきた。診察の結果、彼の肩は生涯の限界を超えていた。私が「投げさせられません」と告げると、監督は叫んだ。「夏だけでもいいんです!コイツが甲子園に行く最後の希望なんです!」彼の前で涙を流す…

診察室の扉が開くと、松葉杖をついた少年が母親に支えられて入ってきた。中学生だろうか。細い体に大きなユニフォームがまだ馴染んでいない。 「どうぞ、そこの椅子にゆっくりでいいよ。」 少年は緊張した顔で腰を下ろした。俺は椅子を彼の目線まで下げ、膝を付き合わせるようにして向き合った。レントゲン写真を一枚ずつ確認しながら、少年の話を丁寧に聞いていく。 俺の名前は相馬浩司。スポーツ整形外科医だ。この病院にはテレビで名前を聞くようなプロ野球選手やオリンピック代表もやってくる。一方で、今日のような地方の中学生や高校生も紹介状を握りしめて訪ねてくる。待合室では有名選手も無名の学生も、同じ椅子に並んで座っている。 診察を終えると、少年の母親が深々と頭を下げた。 「先生、こんな田舎の子にまで時間を使っていただいて、本当にすみません。」 「謝ることじゃないですよ。この子の肘はこの子だけのものです。同じ時間をかけて診るのが当たり前です。」 俺はカルテに次の予約を書き込みながら、廊下を歩いていく親子の背中を見送った。隣で書類を整えていた水沢里が口元を緩めた。 「先生、今日も予約詰めてますよ。午後はオリンピックの候補選手がお二人ですから。」 「分かってる。だが、あの子の肘はあの選手たちの肘と何も変わらない。」 「ええ、先生の口癖ですね。患者に肩書きは関係ないって。」 水沢は俺の病院で十年近く働いている理学療法士だ。リハビリ室では選手たちから慕われている。俺の考え方を、多分誰よりも理解してくれている女性でもあった。 窓の外では初夏の日差しが白く光っていた。テレビでは地方大会の予選が始まっていて、廊下のモニターにも高校球児の姿が映し出されている。 午後の予約表に見慣れない名前があった。鈴木蓮、十七歳。紹介状には地方の公立高校のエースと書かれている。甲子園予選の準決勝を来週に控えているらしい。 診察室に入ってきたのは、背の高い少年とその母親。そして日焼けした顔の中年男性だった。男は名刺を差し出し、深く頭を下げた。 「鈴木高校で野球部の監督をしております、大葉と申します。今日はどうしても先生に見ていただきたく、無理を言って予約を取らせていただきました。」 「分かりました。痛みの出方を教えてください。」 蓮は表情を変えず椅子に座った。目の奥に疲れが沈んでいる。肩の可動域を確認し、いくつかの動きを試してもらう。腕を上げるたびに蓮の眉が一瞬だけ動いた。本人は痛みを認めないが、体が正直に語っていた。MRI画像を映し出したモニターに、俺は静かに視線を向けた。 腱板の損傷は写真を見ただけでひどいことが分かった。関節にも炎症が広がっている。これで投げてきたのかと、驚いてしまった。 「監督さん、お母さん、率直にお話しします。この方はもう限界をとっくに超えています。」 「先生、なんとかなりませんか?夏だけでいいんです。予選から甲子園まであと一ヶ月半。その間だけ投げさせてやりたいんです。」 大葉監督は握った拳を膝の上に置いた。 「この子はうちの高校が甲子園に行くための最後の希望なんです。ブロック注射でもテーピングでも何でも構いません。夏が終われば、蓮は先生のおっしゃる通りに従います。」 母親は下を向いたまま、ハンカチを握りしめていた。蓮はまっすぐ俺の目を見ている。その視線が痛いほど熱かった。 俺はしばらくモニターを見つめた。一ヶ月半投げさせる方法がないわけじゃない。痛みを消すだけなら、できることはある。だが、その先に何が待っているか、俺は知っていた。 「監督さん、この夏を投げ切らせることはできません。この子が二十歳、三十歳、四十歳になった時に、自分の子供を抱き上げられる肩を残すのが私の仕事です。」 「先生、それは……」 「今無理に投げさせれば、蓮君の肩は一生上がらなくなる可能性があります。日常生活にも支障が出るレベルです。私は甲子園と引き換えにそれを差し出すことを、進められません。」 診察室が静かになった。蓮が初めて口を開いた。 「先生、俺、投げなきゃいけないんです。みんなが俺の球を待っているんです。監督もキャッチャーも母さんも、この日のためにずっと……」 「蓮君の気持ちは分かる。だが、俺が今ここで嘘をついて投げていいと言ったら、俺は医者じゃなくなる。君の夏を守るために君の人生を捨てさせる医者に、俺はなりたくないんだ。」 蓮の目から涙がこぼれ落ちた。大葉監督は天井を見上げ、大きく息を吐いた。母親は声を殺して泣いていた。 診察室を出ていく三人の背中は、来た時とは別人のようだった。俺は思わず立ち上がり、廊下に出た。 「鈴木君、ちょっといいかな?」 蓮は振り返った。母親と監督は少し離れた場所で待っている。俺は机の上にあったメモ用紙を破り、そこに一行だけ書いた。 「これ、渡しておく。今読まなくていい。捨ててもらっても構わない。」 蓮は差し出された紙を両手で受け取った。折らずに、じっと見つめている。そこにはこう書かれていた。 『夢は終わることがある。でも、人は終わらない。』 蓮は何も言わなかった。唇を強く結んだまま、その紙を財布に丁寧にしまった。そして深く頭を下げ、母親と監督の元へ歩いていった。 俺はその姿が見えなくなるまで見送った。背後で足音がして、水沢が隣に来る気配がした。 「先生、大丈夫ですか?」 「分からん。私は今、正しいことをしたつもりだ。だが、あの子の顔を見ていると、私のしたことが正しかったのか自信がなくなってくる。」 「先生、あの子は今日たくさんのものを失いました。でも、たった一人だけ本当のことを言ってくれた大人がいたことは、いつか気づくと思います。」 窓の外では雲一つない空が広がっている。どこかの球場では、この時間もボールを追いかけている高校生がいるはずだ。 蓮の夏が終わったことを知ったのは、地方紙の小さな記事だった。『甲子園予選 エース登板せず敗退』。そう書かれた見出しの下に、蓮の名前が並んでいる。俺はその紙面をしばらく黙って見つめていた。 夏が過ぎ、秋が来て冬になった。蓮のカルテはあの日を最後に更新されないまま、棚の奥に眠っている。最新の予約は一度も入らなかった。 そのうち、噂だけが遠くから届くようになった。蓮は野球部を引退したらしい。大葉監督は責任を感じて指導を退いたという話も聞こえてきた。甲子園の常連校で監督交代は珍しくない。だが、あの日の大葉監督の目を思い出すと、俺は簡単に流せなかった。 もっと応えたのは、業界の中で流れ始めた別の噂の方だった。同業の集まりで若い医師が声を潜めていった。 「相馬先生、噂知ってます?地方の高校のエースを無理に潰したって話。未来ある高校生を潰したって。予選前に投げるなって言い渡したらしいですね。」 俺はその場では笑って受け流した。だが、家に帰る車の中で、ハンドルを握る手に力が入っているのが分かった。潰したのは俺じゃない。そう言い切れるはずなのに、言葉にすると自分でも嘘臭く聞こえた。 一年、二年と時が流れる。病院の待合室には相変わらず有名選手も無名の学生も並んでいた。俺は同じ椅子に座り、同じ時間をかけて診察を続けている。だが、蓮くらいの年頃の少年が入ってくるたびに、あの日の背中がよぎった。 ある夜、リハビリ室の片付けを終えた水沢が診察室のドアを開けた。 「先生、まだ残ってたんですね。もう十時ですよ。」 「ああ、少し考え事をしていた。」 … Read more

28 August 2026

Eu estava na bancada da cozinha, a passar as t-shirts deles, quando a minha própria neta me disse, distraidamente: “A mama diz que tu tens sorte por te sentires útil novamente.” Na mesma noite,…

Margot rodou o vinho tinto no copo, como se fosse brindar. “Tu tomas conta das crianças e nós vivemos a nossa vida. ” “É assim que é”, disse ela, num tom leve e frio ao mesmo tempo. Konrad soltou aquele risinho autossatisfeito que fazia sempre que se achava o mais esperto da sala. Eu fiquei … Read more

28 August 2026